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カテゴリー「鉄道」の記事

2020年3月29日 (日)

新潟日報縮刷版で見た国鉄の昭和41年10月ダイヤ改正

これまで三回に渡って述べた「新潟日報で読む昔の新潟県内鉄道関連記事」に関連して備忘録的に。

昭和41年の新潟日報の9月4日朝刊には、国鉄の10月ダイヤ改正における新潟県内時刻表が掲載されています。
縮刷版なので数字が小さすぎて潰れており、ダイヤを細かく読み取るのは断念しましたが基本的なデータはせっせと書き取りました。
書き留めるのに三時間近くかかったなぁ、我ながら暇な話ですw

まず優等列車の停車駅抜粋は下記の通りです。
羽越本線・白新線
「鳥海」(上野-秋田間)と「しらゆき」(金沢-青森間)、「あさひ」(新潟-仙台間2往復)は気動車急行、「日本海」(大阪-青森間)は羽越本線内昼行客車急行、「羽黒」(上野-秋田間)は夜行客車急行です。

府屋駅:2本:急行「鳥海」上下
村上駅:8本:急行「鳥海」「しらゆき」「日本海」「羽黒」上下
坂町駅:12本:急行「鳥海」「しらゆき」「日本海」「羽黒」「あさひ(2往復)」上下
中条駅:8本:急行「羽黒」「日本海」「あさひ(2往復)」上下
新発田駅:12本:急行「鳥海」「しらゆき」「日本海」「羽黒」「あさひ(2往復)」上下
葛塚(現・豊栄)駅:4本:急行「あさひ(2往復)上下

街の人口規模としては荒川町(坂町駅)よりも中条町(中条駅)が多く、至近に大手企業の工場群が立地していてそちらへの出張も多そうなのですけれど、
優等列車の停車駅としては亜幹線の米坂線が分岐する坂町駅に軍配ありです。
しかし九年後には特急「いなほ」が中条駅に停車するようになり、坂町駅との差が付き始めていくのです。

なお米坂線については未確認です。

越後線
「かくた」(新潟-柏崎間)は1往復の気動車準急列車で、白山吉田、地蔵堂(現・分水)、大河津(現・寺泊)、出雲崎西山の各駅に上下共停車です。
越後線の優等列車(急行)停車駅はこの後、内野、岩室、東柏崎の各駅が加わります。

磐越西線
「いいで」(上野-新潟間)と「あがの(2往復)」(新潟-福島・仙台間)は気動車急行で、五泉津川鹿瀬の各駅に全列車停車です。
この停車駅は昭和60年春の急行廃止まで変化無しでした。

飯山線
「野沢」(長岡-長野間)は1往復の気動車急行で、越後岩沢十日町越後田沢、越後外丸(現・津南)の各駅に上下共停車です。
また気動車急行「うおの」(新潟-越後川口間急行)は飯山線内を普通列車として十日町まで乗り入れており、新潟-長岡間は急行「よねやま」と併結運転です。
この停車駅も昭和61年秋の急行廃止まで変化無しです。

信越本線
「とき(3往復)」(上野-新潟間)は電車特急、「白鳥」(大阪-青森間)と「はくたか」(上野-金沢間長野経由)は各1往復の気動車特急、「佐渡(4往復)」「越後(夜行)」(共に上野-新潟間)と「ゆざわ」(新潟-越後湯沢間)、「妙高(2往復)」(上野-直江津間)は電車急行、「赤倉」(名古屋-新潟間)と「きたぐに」(大阪-新潟間)、「くびき」(新潟-直江津間、直江津-妙高高原間普通列車)、「よねやま」(新潟-長野間)、「ひめかわ」(新潟-糸魚川間❈上りの直江津-糸魚川間は普通列車、新潟-直江津間は「よねやま」と併結運転)は各1往復の気動車急行、「白山」(上野-金沢間、長野経由)は昼行客車急行、「天の川」(上野-新潟間)は寝台客車急行、「北陸」(上野-金沢間長岡経由)と「黒部」(上野-金沢間長野経由)、「越前」(上野-福井間長野経由)は夜行客車急行です。

新潟駅:48本:特急「とき」3往復、「白鳥」、急行「佐渡」4往復、「越後」、「ゆざわ」、「赤倉」、「きたぐに」、「くびき」、「よねやま・うおの・ひめかわ」、「いいで」、
「あがの」2往復、「あさひ」2往復、「天の川」、「日本海」、「鳥海」、「しらゆき」、準急「かくた」

新津駅:44本:特急「とき」3往復、「白鳥」、急行「佐渡」4往復、「越後」、「ゆざわ」、「赤倉」、「きたぐに」、「くびき」、「よねやま・うおの・ひめかわ」、「いいで」、
「あがの」2往復、「天の川」、「日本海」、「鳥海」、「しらゆき」、「羽黒」

加茂駅:16本:急行「佐渡」2往復、「越後」、「きたぐに」、「鳥海」、「ゆざわ」、「よねやま・うおの・ひめかわ」、「天の川」

東三条駅:36本:特急「とき」2往復、「白鳥」、急行「佐渡」4往復、「越後」、「ゆざわ」、「赤倉」、「きたぐに」、「くびき」、「よねやま・うおの・ひめかわ」、「天の川」、「日本海」、「鳥海」、「しらゆき」、「羽黒」

見附駅:16本:急行「佐渡」2往復、「越後」、「くびき」、「鳥海」、「ゆざわ」、「よねやま・うおの・ひめかわ」、「天の川」

長岡駅:42本:特急「とき」3往復、「白鳥」、急行「佐渡」4往復、「越後」、「ゆざわ」、「赤倉」、「きたぐに」、「くびき」、「よねやま・うおの・ひめかわ」、「野沢」、「天の川」、「日本海」、「鳥海」、「しらゆき」、「羽黒」、「北陸」

宮内駅:2本:上り「野沢」、上り「うおの」

柏崎駅:14本:急行「きたぐに」、「赤倉」、「くびき」、「しらゆき」、「よねやま・ひめかわ」、「日本海」、「北陸」

柿崎駅:4本:急行「赤倉」、「よねやま・ひめかわ」

直江津駅:28本:特急「白鳥」、「はくたか」、急行「きたぐに」、「赤倉」、「くびき」、「しらゆき」、「よねやま・ひめかわ」、「妙高」2往復、「日本海」、「北陸」、「白山」、「越前」、「黒部」

高田駅:14本:急行「赤倉」、「よねやま」、「妙高」2往復、「白山」、「越前」、「黒部」

新井駅:14本:急行「赤倉」、「よねやま」、「妙高」2往復、「白山」、「越前」、「黒部」

田口駅(現・妙高高原駅):14本:急行「赤倉」、「よねやま」、「妙高」2往復、「白山」、「越前」、「黒部」

宮内駅に上りの急行2本(いずれも元準急)が停車していたのには正直驚きました。
信越本線の優等列車停車駅はこの後、国鉄時代には来迎寺駅と潟町駅及び関山駅、直江津以南が第三セクターに移管されてからは春日山駅と上越妙高駅が加わります。

北陸本線
気動車急行の上り「ひめかわ」の糸魚川-直江津間は普通列車です。

名立駅:1本:下り「ひめかわ」

能生駅:1本:下り「ひめかわ」

糸魚川駅:17本:特急「はくたか」、急行「きたぐに」、「しらゆき」、下り「ひめかわ」、「日本海」、「白山」、「北陸」、「越前」、黒部」

北陸本線の優等列車停車駅はこの後に青海駅が加わります。

上越線

小千谷駅:18本:急行「佐渡」4往復、「ゆざわ」、「うおの」、「野沢」、「天の川」、「羽黒」

越後川口駅:15本:急行「佐渡」3往復、「ゆざわ」、「うおの」、「野沢」、「天の川」、上り「羽黒」

小出駅:14本:急行「佐渡」4往復、「ゆざわ」、「鳥海」、上り「天の川」、上り「羽黒」

浦佐駅:2本:「ゆざわ」

六日町駅:13本:急行「佐渡」4往復、「越後」、「ゆざわ」、上り「羽黒」

塩沢駅:2本:「ゆざわ」

越後湯沢駅:20本:特急「とき」2往復、急行「佐渡」4往復、下り「越後」、「ゆざわ」、「鳥海」、「天の川」、上り「羽黒」

気動車の「鳥海」の停車駅が電車の「佐渡」よりも少ないのは、やはりキハ58系気動車と165系電車の加減速性能の差ゆえでしょうか。
あるいは上越国境越えにパワー不足の気動車では時間がかかるので、越後湯沢以北の停車駅を絞ることでトータルの所要時間を電車と同一にするダイヤ構成だったのか?
前述したようにソースは新潟日報縮刷版の付録で、数字が小さく潰れてしまっていてダイヤが判読困難だったのが残念。
数字を読み取れればこの推測が正しいのかわかるのですが・・・。
また、塩沢駅に定期急行列車の停車実績があったのも驚くべきところ。
塩沢駅に停車していた急行「ゆざわ」は昭和43年10月改正で小出-越後湯沢間が普通列車に格下げされてしまうので、急行停車の栄えある期間もわずかなものでした。
この後、上越線の優等列車停車駅は塩沢駅が抜けた後に石打駅が加わります。

さて、もう少しわかりやすく列車別に停車駅を書き出すとこんな感じです

特急「とき」3往復:新潟(全)-新津(全)-東三条(2)-長岡(全)-越後湯沢(2)
特急「白鳥」:新潟-新津-東三条-長岡-直江津
特急「はくたか」:糸魚川-直江津
急行「佐渡」4往復:新潟(全)-新津(全)-加茂(2)-東三条(全)-見附(2)-長岡(全)-小千谷(全)-越後川口(3)-小出(全)-六日町(全)-越後湯沢(全)
急行「越後」:新潟-新津-加茂-東三条-見附-長岡-六日町-越後湯沢(下りのみ)
急行「ゆざわ」:新潟-新津-加茂-東三条-見附-長岡-小千谷-越後川口-小出-浦佐-六日町-塩沢-越後湯沢
急行「鳥海」:府屋-村上-坂町-新発田-新潟-新津-加茂-東三条-長岡-小出-越後湯沢
急行「天の川」:新潟-新津-加茂-東三条-見附-長岡-小千谷-越後川口-小出(上りのみ)-越後湯沢
急行「羽黒」:村上-坂町-中条-新発田-新津-東三条-長岡-小千谷-越後川口(上りのみ)-小出(上りのみ)-六日町(上りのみ)-越後湯沢(上りのみ)
急行「しらゆき」:村上-坂町-新発田-新潟-新津-東三条-長岡-柏崎-直江津-糸魚川
急行「日本海」:村上-坂町-中条-新発田-新潟-新津-東三条-長岡-柏崎-直江津-糸魚川
急行「赤倉」:新潟-新津-東三条-長岡-柏崎-柿崎-直江津-高田-新井-田口
急行「よねやま」:新潟-新津-加茂-東三条-見附-長岡-柏崎-柿崎-直江津-高田-新井-田口
急行「きたぐに」:新潟-新津-加茂-東三条-長岡-柏崎-直江津-糸魚川
急行「くびき」:新潟-新津-東三条-見附-長岡-柏崎-直江津
急行「ひめかわ」(新潟-直江津間「よねやま」と併結):名立(下りのみ)-能生(下りのみ)-糸魚川(下りのみ)
急行「妙高」2往復:直江津-高田-新井-田口
急行「うおの」(新潟-長岡間「よねやま」と併結):宮内(上りのみ)-小千谷-越後川口
急行「野沢」:長岡-宮内(上り)-小千谷-越後川口-越後岩沢-十日町-越後田沢-越後外丸
急行「いいで」及び「あがの」2往復:新潟-新津-五泉-津川-鹿瀬
急行「あさひ」2往復:新潟-葛塚-新発田-中条-坂町-(米坂線内は未調査)
急行「北陸」:長岡-柏崎-直江津-糸魚川
急行「白山」「越前」「黒部」:糸魚川-直江津-高田-新井-田口
準急「かくた」:新潟-白山-巻-吉田-地蔵堂-大河津-出雲崎-西山

後には特急列車が停車して当たり前になった信越本線の柏崎駅と高田駅に、この時点では停車していないのも要注目。
この両駅よりも利用が少ないと思われる糸魚川駅、観光需要での停車で以前なら特急列車停車要件には当たらなかったであろう上越線の越後湯沢駅にはしっかり停まっているのに比べると、少々冷たい扱われ方だなぁと感じるのです。
まぁ高田駅は近隣の直江津駅に特急が停車していますから仕方のない話なのでありますけれど。

次に線区別の普通・快速列車の運転本数について。

白新線:上下28本
(昭和57年6月時点では上下27本、平成31年3月改正では新潟-豊栄間上下97本、豊栄-新発田間上下61本、快速「らくらくトレイン」は除く)

当時の白新線の普通・快速列車は全て気動車で、新潟-新発田間を通して運転しており、今日のような豊栄止まりの区間列車は存在しません。
快速列車は上下2本の運転で、線内停車駅は新崎駅-葛塚駅-佐々木駅です。
また普通列車上下26本のうち新潟操車場前(現・東新潟駅)停車は24本、西新発田駅停車は10本です。

羽越本線
新津-新発田間上下24本(昭和57年6月時点では上下23本、平成31年3月改正では上下23本)
気動車は5本、客車は19本です。
新発田-村上間上下24本(昭和57年6月時点では上下25本、平成31年3月改正では上下39本、快速「らくらくトレイン」と「べにばな」は除く)
気動車は6本、客車は18本です
村上-府屋間上下16本(昭和57年6月時点では上下14本、平成31年3月改正では上下16本)
気動車は僅か2本、客車は14本でおそらく全列車が蒸気機関車牽引、無煙化などまだまだ先の話なのでした。

米坂線
坂町-越後下関間上下13本(昭和57年6月時点も同一本数、平成31年3月改正では12本)
越後下関-越後金丸間上下12本(昭和57年6月、平成31年3月改正時点でも同一本数)
全列車が蒸気機関車9600形牽引の普通列車です。

赤谷線
全列車が気動車です。
新発田-米倉間上下16本(昭和57年6月時点では上下12本)
米倉-東赤谷間上下13本(昭和57年6月時点では上下10本)

信越本線
新潟-新津間上下68本(昭和57年6月時点では上下61本、平成31年3月改正では上下116本、快速「おはよう信越」と「らくらくトレイン信越」は除く)
電車28本、気動車9本、客車31本です。
越後石山駅に停車するのは68本中20本に過ぎず、近隣の新潟操車場前同様に何故継子扱いされるのか解せないところです。
新津-長岡間上下43本(昭和57年6月時点では上下37本、平成31年3月改正では上下54本、他に新津-羽生田間に上下2本)
電車25本、気動車2本、客車16本です。
長岡-宮内間上下49本(昭和57年6月時点では上下44本、平成31年3月改正では上下64本、快速「おはよう信越」と「らくらくトレイン信越」は除く)
電車10本、気動車5本、客車34本です。
宮内-柏崎間上下26本(昭和57年6月時点では上下24本、平成31年3月改正では上下30本、快速「おはよう信越」と「らくらくトレイン信越」は除く)
気動車5本、客車21本です。
前川駅には26本中13本、茨目駅には10本の停車に留まっています。
柏崎-直江津間上下24本(昭和57年6月時点では上下22本、平成31年3月改正では上下27本、快速「おはよう信越」と「らくらくトレイン信越」は除く。他に柿崎-直江津間に上り1本、犀潟-直江津間に上下27本、犀潟通過の快速は除く)
気動車5本、客車19本です。
土底浜駅には24本中僅か4本の停車・・・。
隣の潟町駅とは2kmも離れておらず、客車列車の加減速性能では停めるのが面倒だったのかもしれませんけれど不遇ですなぁ。
直江津-高田間上下36本(昭和57年6月時点では上下30本、平成31年3月改正では上下54本)
気動車9本、客車27本です。
高田-新井間上下34本(昭和57年6月時点では上下30本、平成31年3月改正では上下54本)
気動車9本、客車25本です。
南高田駅には34本中7本、北新井駅には18本の停車です。
新井-二本木間上下23本(昭和57年6月時点では上下27本、平成31年3月改正では上下40本)
二本木-田口間上下20本(昭和57年6月時点も同一本数、平成31年3月改正では上下36本)
新井-田口間の普通列車は全列車が客車です。
新潟長野県境区間は急勾配区間なので、まだ普通列車に電車が充てられていなかった当時は非力な気動車ではこの区間は少々荷が重いということでしょうか。
ダブルエンジンのキハ52は数が少ないですし、準急形のキハ55は普通列車への転用がどれほど進んでいたのかですな。

越後線
全列車が気動車です。

新潟-内野間上下41本(昭和57年6月時点では上下31本、平成31年3月改正では上下104本)
内野-吉田間上下40本(昭和57年6月時点では上下31本、平成31年3月改正では上下49本、他に内野-越後曽根間に上下4本、越後曽根-巻間に上下3本)
吉田-大河津間上下36本(昭和57年6月時点では上下26本、平成31年3月改正では上下22本)
南吉田駅には36本中19本の停車です。
大河津-出雲崎間上下27本(昭和57年6月時点では上下23本、平成31年3月改正では上下20本)
出雲崎-柏崎間上下24本(昭和57年6月時点では上下22本、平成31年3月改正では上下18本)

半世紀前よりも38年前の方が列車本数が減っていることに注目。
特に新潟市西部は年を追うごとに人口が増えているはずなのに、国鉄ダイヤは逆に不便になっています。
気動車の配置数から来る問題なのか、はたまた地方交通線程度はこれで良いという判断だったのかどうか。

弥彦線
全列車が気動車です。
弥彦-吉田間上下36本(昭和57年6月時点では上下26本、平成31年3月改正では上下21本)
吉田-東三条間上下43本(昭和57年6月時点では上下30本、平成31年3月改正では上下27本)
東三条-越後長沢間上下22本(昭和57年6月時点では上下10本)

磐越西線
新津-五泉間上下32本(昭和57年6月時点では上下27本、平成31年3月改正では上下40本)
気動車15本、客車17本です。
東新津駅北五泉駅には32本中12本が停車しています。
五泉-馬下間上下28本(昭和57年6月時点では上下25本、平成31年3月改正では上下30本)
気動車11本、客車17本です。
馬下-日出谷間上下20本(昭和57年6月時点では上下18本、平成31年3月改正では馬下-津川間上下22本、津川-日出谷間上下16本)
気動車4本、客車16本です。
日出谷-豊実間は未調査です。

上越線
宮内-小出間上下24本(昭和57年6月時点では上下20本、平成31年3月改正では宮内-越後川口間上下34本、越後川口-小出間は上下30本)
電車9本、客車15本です。
小出-六日町間上下19本(昭和57年6月時点では上下20本、平成31年3月改正では上下30本)
電車6本、客車13本です。
八色駅には19本中9本の停車です。
この駅は昭和57年時点でも普通列車が何本か通過していました。
六日町-越後湯沢間上下20本(昭和57年6月時点では上下19本)、平成31年3月改正では上下48本、六日町通過の快速は除く、他に石打-六日町間上下2本、石打-越後湯沢間上り1本)
電車6本、客車14本です。
越後湯沢-土樽間上下18本(昭和57年6月時点では上下16本、平成31年3月改正では越後湯沢-越後中里間上下18本、越後中里以南は上下12本)
電車4本、客車14本です。
おそらくはEF58形電気機関車牽引の旧型客車の程好い揺れに身を任せるもよし、旧型電車の釣掛式モーターの唸りと振動を体感するもよし、上越国境を普通列車で越えるのに、今となっては実に贅沢な選択が出来たのです。
今では窓も開かないE129系電車でスーッと行っちゃいますからね、快適なのは間違いないのですが旅の情緒は無いですな、日常の延長みたいで。

魚沼線
全列車が気動車です。
来迎寺-片貝間上下18本(昭和57年6月時点では上下10本)
片貝-西小千谷間上下10本(昭和57年6月時点では上下8本)

飯山線
越後川口-十日町間上下24本(昭和57年6月時点では上下22本、平成31年3月改正では上下20本)
気動車16本、客車8本です。
十日町-足滝間上下13本(昭和57年6月時点では上下14本、平成31年3月改正では上下16本)
気動車5本、客車8本です。

只見線
この当時の只見線はまだ新潟福島県境の大白川駅止まりで、全列車が客車です。
小出-大白川間上下10本(昭和57年6月時点では上下12本、平成31年3月改正では上下8本)
この頃はまだC11形蒸気機関車牽引ですが、只見への延長工事が本格化すると冬季以外はDD13形ディーゼル機関車牽引に変わっていました。
蒸気機関車よりはディーゼル機関車の方が好きな私としては、そっちの方に激しく興味をそそられるところです。

北陸本線
直江津-糸魚川間上下18本(昭和57年6月時点では上下20本、平成31年3月改正では上下38本)
気動車2本、客車16本でした。
糸魚川-市振間上下16本(昭和57年6月時点では上下26本、平成31年3月改正では上下38本)
全て客車です。

北陸本線の直江津-富山間は客車全盛時代が長く続き、電車が本格的に入ったのは国鉄末期の昭和60年からです。

なお大糸線は掲載されていませんでした、金沢鉄道管理局管内だからなのか新潟日報からとかく邪険な扱いの大糸線なのです。

2020年3月22日 (日)

新潟日報で読む昔の鉄道関連記事その三

前回前々回から引き続き、新潟日報縮刷版及び製本版閲覧調査に基づく「新潟県民放子供向け番組放送の推移」のついでにメモしていた県内鉄道関係記事の備忘録第三回です。

昭和55年
6月
10月ダイヤ改正で上越線・浦佐駅に特急「とき」1往復が停車。
上越新幹線の停車駅に相応しい駅の格だと主張するアリバイ作りのような浦佐駅への「とき」停車であります。
改正前は急行「佐渡」が1往復停まるだけだったのに。
改正後は「とき」と「佐渡」が各1往復停車ですが、「佐渡」が全便停まらない駅に「とき」停車ってなんじゃらほいと、当時の私は時刻表を見て思ったものです。
またこの10月改正では寝台特急「日本海2-3号」のA寝台と磐越西線の急行「あがの2-3号」のグリーン車連結が終了との事です。
「あがの」は昭和59年の初冬に郡山から新潟まで指定席に乗ったことがありますが、見事なまでにガーラガラでしたっけ。
指定席であれでは、グリーン車はフルムーンパスのお客以外は誰も乗らんでしょうな。

昭和57年
8月
「高波シャットアウト」
北陸本線(現・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)・市振駅構内の防波柵が完成という話です。
これは昭和55年12月に構内の待合室が傾くなどの高波被害に遭遇したのを受けての防護措置で、アルミ製の高さ6m、1㎡あたり2~3トンの波に耐えられる設計だそうです。

市振駅の島式ホームその1
市振駅の島式ホームその2
2013年10月撮影、上は糸魚川方面、下は富山方面を望んだ画です。
上の画の左側、下の絵の右側が防波柵です。
現在はホームに待合室はありませんけれど、高波被害で撤去したのかどうかが市振駅に関する新たな疑問ですね。

9月
181系電車の解体開始。
9/21から特急「とき」で最後の活躍をした181系電車の解体が新潟鉄工所の大山工場で開始という話です。
ちなみに最初に解体されたのは「クハ180-4」。
上越新幹線開業の二ヶ月前の話です。

12月
「新幹線開業一ヶ月」
上越新幹線の大宮暫定開業から一ヶ月間の、新幹線停車駅から外れた主要駅の収入の話です。
東三条駅・・・53%減、小千谷駅・・・21%減、小出駅・・・43%減、六日町駅・・・47%減。
在来線特急「とき」全廃の痛手の大きさが如実に現れている数字です。
ちなみに新幹線開業直前は東三条駅に11往復、小千谷駅に4往復、小出駅に5往復、六日町駅に6往復の「とき」が停車していたのです。

昭和58年
1月
弥彦線・東三条-越後長沢間、来年3月に廃止
実際には昭和60年3月の廃止でした。
弥彦線・弥彦-東三条間の電化と引き換えの形で国鉄から提示されていた末端区間の廃止がついに決定という話。
この区間の1日平均輸送人員は約500人で、これは赤谷線と同レベルだったそうです。
当時の東三条-越後長沢間は平日1日上下10本の運行なので、単純計算では一列車あたり50人。
朝の通学時間帯でもせいぜい100人というところでしょうか。

2月
浦佐駅の収入激増。
前年12月の記事とは対照的な、新幹線景気に湧き立つ浦佐駅の話です。
駅の収入は前年の1,134万円から7,492万円と実に661%の大幅アップなのです。
六日町駅と小出駅の特急利用客の落すおカネを全部吸い取っちゃった形ですなこれは。
現在の最繁忙期以外はガランとした駅の数字がどれ程のものなのか興味あるところです。

3月
東亜国内航空(TDA)の新潟-羽田便を5/15から廃止へ。
上越新幹線の利便性に圧倒されたこの空路の搭乗率は20~30%で、採算ラインの70%には遠く及ばない状態です。
この5月廃止は実際には無かったのですが、空路廃止はいよいよ現実の日程になってきたのです。
ちなみに上越新幹線開業直前の昭和57年6月時点の新潟-羽田便のダイヤはダグラスDC-9(乗客定員128~163名)使用で、
羽田発 08:10  11:20  14:45  16:30
新潟発 09:40  11:55  16:15  18:00
所要時間は55分で、運賃は片道13,600円、往復24,660円です。
一方、新幹線開業直前の東京-新潟間鉄道利用の場合は下記の通りです。
在来線特急「とき」利用の場合は、所要約4時間15分でグリーン車利用10,100円、指定席利用6,800円、自由席利用6,300円。
急行「佐渡」利用の場合は所要約5時間でグリーン車利用9,200円、指定席利用5,900円、自由席利用5,400円。
寝台急行「天の川」利用の場合は開放型A寝台利用上段14,400円、下段15,400円、三段式B寝台利用9,900円。

4月
TDAの新潟-羽田便、10月末休止で県と合意へ
実際には8月末で休止になりました。

国鉄貨物合理化、県内の荷物取扱駅は112駅から42駅へ
この時期は貨物の各駅取扱を止めて拠点間輸送に切り替わっていますが、より一般の生活に密着した荷物扱いにも合理化で大ナタが振るわれるという話です。
昭和58年末以降の荷物取扱駅は下記の通りです。
信越本線:新潟、上沼垂、亀田新津加茂、東三条、三条見附長岡宮内柏崎柿崎潟町犀潟直江津春日山高田脇野田新井関山妙高高原
上越線:小千谷、越後堀之内、小出、六日町、越後湯沢
北陸本線:名立能生糸魚川青海
羽越本線:水原新発田中条坂町村上越後寒川府屋
磐越西線:五泉津川
弥彦線:北三条吉田
米坂、白新、赤谷、越後、魚沼、飯山、大糸の各線は線区単位で荷物取扱廃止です。
当時の荷物取扱量を勘案して決めたのでしょうけれど、うーむ、今日の目で見ると何故この駅が?という疑問が湧くラインナップなのであります。
越後寒川なんてどれほどの需要があったのでしょうかね。
あの駅は比較的近年まで委託で人がいましたし、中線のある運転業務上重要な駅とはいえ営業面で何故近隣の駅と比べて優遇されているのか謎です・・・。

5月
上越新幹線開業から半年。
新幹線が開業後半年を経ても依然として好調という話で、平均乗車率は速達便の「あさひ」が約80%、各駅停車の「とき」が約60%。
グリーン車は約40%、指定席は約55%、自由席は約100%という盛況ぶり。
単に在来線の特急「とき」「いなほ」「はくたか」と空路の顧客を吸収しただけではなく、さらに需要を誘発した形です。

昭和59年
1月
信越本線・押切駅構内で除雪ロータリー車の排雪ミス
押切駅の中線で除雪作業中の除雪車が排出した雪が、下り線を通過中の十日町発新潟行快速列車(つまりかつての急行「うおの」)を直撃して、3両編成の気動車の窓ガラス45枚が割れて乗客12人がケガを負いました。
傍目で見ると綺麗な雪のシャワーも、実際には相当の威力があり危険だという事ですね。
ちなみに当時の乗客は3両で60人。
乗車率は二割強というところで、閑散期1月の平日とはいえ快速列車のこの数字は低過ぎです。
この快速列車が後に廃止されたのも無理はない話。

3月
越後線に「新県庁前駅」構想
現在に至っても実現できず、構想が暗礁に乗り上げている新潟-白山間新駅に関する最初の記事です。
当時の新潟鉄道管理局は「話があれば相談に乗る」とやや前向きなお返事。
ただし当時から駅建設費用は地元負担になっています。
記事のニュアンスを考えるに、国鉄時代に話を纏めていれば、案外早く新駅開業が実現していたかもしれません。
現在はJRが「赤字になる」と消極的ですから、駅建設費用は無論のこと、駅の営業赤字をも市で負担補償する形にしないと実現は困難でしょう。
・・・しかし「新県庁前」と名乗ってはいても、新駅予定地から新潟県庁まで2kmあるのよね。
越後線で県庁へ行くのなら、関屋駅の方が近いのです。

5月
「新県庁前駅」信濃川左岸案も浮上
前述の新駅構想に国鉄側が新提案をしてきたという話です。
前述案が信濃川の右岸(信濃川鉄橋の手前)なのに対して、国鉄側の案は左岸。
千歳大橋寄りの地点という事なので、最早新潟-白山間新駅ではなくて白山-関屋間新駅という話になってしまいます。
国鉄側としては「新県庁前」に拘りがあったのかも。

6月
上越線・長岡-越後中里間「機織り列車」実現へ
これは上越線の20分ないし30分毎の頻発運転実現に向けて、沿線市町村で作る「国鉄列車増強対策協議会」が約9万5千人分の署名を新鉄局に手渡したという話です。
機を織るように列車をこの区間に往復させろという構想ですが、今日まで実現することはなく上越線は毎時約一時間の過疎運転に留まっています。

11月
北陸、大糸線合理化
両線を管理する金沢鉄道管理局の発表で、北陸本線の名立駅を委託化、北陸本線の市振駅と親不知駅、大糸線の根知駅小滝駅を無人化するというものです。
ただ「無人化」といっても国鉄職員が配置されないという意味での「無人化」と我々の理解する意味での「無人化」を混同しているきらいがありますので、「無人化」と記事に載っていてもそのまま鵜呑みにはできないのが面倒なところなのです。

最後に時代はぐっと下がって平成7年10月の記事を。
国鉄末期からは私の気を惹く鉄道関係の記事が無くて(知っている話が大半)、古新聞をめくっていても驚愕することも無かったのですけれどこれだけは別格。
「都市高速公共輸送システム"METS"構想」なるものです。
新潟市内を貫く軌道型輸送機関という大変に壮大な夢の話なのでございます。
新潟駅を起点として、西新潟地区は万代-礎町-古町-関屋田町-関屋-青山-松美台-小針-小新-流通センター-ふるさと村-西曽野木-東曽野木-運動公園-長潟-市民病院そして新潟駅という循環ラインです。
驚くべきは、この路線と競合するJR越後線・新潟-小針間は廃止!して、新潟中心部は小断面の地下鉄化するということです。
また新潟交通電車線は白山、そして新潟駅まで乗り入れを謳っているので、廃止する越後線の白山-新潟間を買収するつもりなのかもしれません。
東新潟地区へは新潟駅出発後、万代で分岐して万代島-山の下-秋葉-河渡-船江町-新潟空港で将来は新潟競馬場方面に延伸するというもの。
パークアンドライド施策として、市民病院、運動公園、流通センター、ふるさと村、新潟空港の各所に大駐車場を設置します。
実現できたらどんなに素晴らしいことか!
朝晩の交通渋滞も大幅緩和でしょう。
でもこんな事はとても出来ません、資金がありません。
新潟県が新潟州になったら単独でAIIBに加入して、新潟西港と東港と空港その他インフラを担保にしておカネを借りて中国の業者に発注して造りましょうね。

2020年3月15日 (日)

新潟日報で読む昔の鉄道関連記事その二

前回から引き続き、新潟日報縮刷版及び製本版による「新潟県民放子供向け番組放送の推移」調査のついでにメモしていた県内鉄道関係記事の備忘録第二回です。

昭和44年
2月
7/1から高田駅に特急「あさま」が停車、当初は季節停車扱いで、秋のダイヤ改正から正式な停車駅になりました。
前回で述べた「あさま」直江津延長の陳情が見事花開いた形で、高田駅もこれで目出度く特急停車駅の仲間入りです。
これで新潟県内特急停車駅は、新潟新津東三条長岡直江津越後湯沢糸魚川、田口(現・妙高高原)、そして高田の九駅になりました。

3月
「信越本線・羽生田駅の渡線橋完成」
現用の跨線橋はこの時以来のもののようです、築半世紀か・・・。
それまで下り利用の客は線路を横断していたそうで、勿論構内踏切なのでしょうが列車密度がそれなりに高く優等列車が通過するロケーションでそういう状態なのは、安全保安上いただけない話なので、まずは目出度い話です。

7月
特急「あさま」高田駅停車開始から10日間の実績は乗車521人、降車481人。
当時の特急停車駅の合格ラインは1日平均乗降客30人台だったそうで、約50人の高田駅は合格ラインを楽々クリアしています。
市を挙げての陳情の成果でもあり、しばらくはご祝儀相場で利用も多いのでしょうけれど、利用してその利便性をひとたび体験すれば特急料金が多少高くとも冷房のよく効いたロマンスシートは快適で、指定席も冷房無し四人掛けの当時の急行列車からの本格的な利用移転はかなりのものがあったのではと推測するところです。

10月
「両駅とも利用好調、10日を経た特急いなほ」
昭和44年10月ダイヤ改正で運行を開始した上野-秋田間の気動車特急「いなほ」の停車駅に選ばれた羽越本線の新発田村上両駅の話題であります。
ただ前述の高田駅のように具体的な数字が述べられていないのが残念、まぁこの記事は「下越版」の小さな記事なのでそれもやむを得ないか。
ちなみに新潟日報で記事を見つけることは出来なかったのですが、「新鉄局五十年史」によるとこの10月改正で特急「はくたか」の柏崎駅停車も実施されています。
「はくたか」はそれまで長野経由の気動車特急でしたけれど、この改正で電車化され長岡経由に代わっています。
これでこの時点での新潟県内特急列車停車駅は、村上、新発田、新潟、新津、東三条、長岡、柏崎、直江津、高田、妙高高原、糸魚川、越後湯沢の12駅になりました。

11月
12/5から新潟、新津、長岡の各駅で自動券売機を導入。
この券売機は50キロ以内、250円までの区間用です。
という事は50キロで250円、現在は幹線で50キロ860円ですから約半世紀で約三倍半の値上げなのです。
他の物価や給与水準と考えてこの数字は安いと言えるのかどうか。

昭和45年
6月
6/15から急行「佐渡」「赤倉」「越後」の普通車指定席の冷房化を開始。
ちなみに「越後」はかつての「きたぐに」が愛称変更したもので、昭和43年10月改正で新潟県内初の寝台特急「日本海」が設定され、従来「日本海」を名乗っていた急行は「きたぐに」と改称し、従来「きたぐに」と名乗っていた大阪-新潟間の気動車急行が「越後」にトコロテン改称したのです。
「鉄道ピクトリアル」2018年1月号の特集「ディーゼル急行」に急行「越後」の編成表が載っていて、気動車急行の全車冷房化に欠かせないキハ65が連結されているのに驚愕したのは私事として記憶に新しいところですが、この時にキハ65の連結が実施されたのかどうかが新たな疑問なのです。

昭和46年
1月
3/1ダイヤ改正で羽越本線・中条駅に急行「しらゆき」停車、4/20ダイヤ改正で上越線・六日町駅に特急「とき」1往復が停車。
六日町駅と小千谷駅への特急「とき」停車開始時期は今回の調査で確定できたのですが、問題は小出駅です。
昭和46年から48年の間だろうとアタリを付けて、その間の新潟日報縮刷版を注意して見たのですが小出駅停車記事を見つけることは出来ませんでした。
停車開始時期を特定するには当時の時刻表を毎月調べる必要がありますね。

昭和47年
1月
1/14から小千谷駅発着のスキー特急「新雪」運行開始。
これは臨時列車とはいえ小千谷駅に特急が停車する初のケースで、記事は3月改正で特急「とき」1往復が小千谷駅に停車と続けています。

10月
10/2国鉄ダイヤ改正で信越本線・加茂駅に特急「とき」1往復と寝台特急「つるぎ」、見附駅に特急「とき」1往復、羽越本線・村上駅に特急「白鳥」停車。
加茂駅と見附駅への特急列車定期停車はこれが嚆矢になります。
この改正で電車化された「白鳥」の村上駅停車がついに実現、ライバルの新発田駅は「いなほ」のみの停車なので県北地域における村上駅の威勢は更に高まったと言えましょう

定期券で乗れる急行列車発表
この月から新潟県内急行列車の定期券乗車が解禁になりました。
とは言え該当区間はまだほんの一部です。
下り「羽越1号」の新潟-村上間
上り「あさひ1号」の新潟-小国間と上り「あさひ2号」の坂町-今泉間、下り「あさひ2号」の小国-坂町間
上下「あがの2号」の津川-喜多方間
上り「うおの」の新潟-長岡間
上下「とがくし2号」の新潟-長岡間
上り「ひめかわ」の吉田-柏崎間と下り「ひめかわ」の直江津-吉田間

昭和48年
8月
10月ダイヤ改正で信越本線・新井駅に特急「あさま」1往復が停車。
近隣の高田、妙高高原駅に常に遅れを取っていた新井駅にようやく初の特急停車です。
これで新潟県内特急列車停車駅のほとんどの停車開始時期を特定できたのですが、今もって不明なのが前述した小出駅です。

10月
12月実施を目標に駅無人化。
弥彦線・矢作駅、磐越西線・東下条駅、米坂線・越後大島駅越後片貝駅、越後線・西中通駅荒浜駅妙法寺駅桐原駅
他に委託化が磐越西線・猿和田駅、越後線・礼拝駅粟生津駅岩室駅
この頃からローカル駅の合理化が深度化していくのです。

昭和49年
1月
長岡-新潟間の特定特急券売れ行き好調。
1日平均202枚だそうです。
これは特急「とき」「北越」に限って(つまり「白鳥」は乗っちゃダメということ)、通常の特急料金の二割引の400円で普通車に乗車できるというもの。
下り限定のようなので、空席対策と増収の一石二鳥を兼ねたものなのでしょう。
私は幼少の頃に南魚沼に住んでいて、特急「とき」の六日町-新潟間に年数回乗っていましたけれど長岡から必ず座れましたからね。
「とき」の乗客が長岡駅でゴソッと降りるので、新潟駅よりも長岡駅の方が「とき」利用客は多いんじゃないかと思っていたほどです。

昭和50年
3月
3/10から越後線・岩室駅に急行「ひめかわ」停車。
岩室駅は前述のように昭和48年12月に委託化されていますが、委託駅に定期急行列車が停車するのは当時全国的に見ても稀なケースとの事。
急行が停まるほどの駅が何故委託化されるんだい!?という疑問に対する答えは残念ながら載っておりませんでしたが。
岩室温泉からの強い働きかけが当局にあったのではと推測するところです。

7月
急行「羽越1号・2号」が桑川駅に臨時停車(7/20-8/10)。
夏季に定期急行列車が海水浴場最寄駅に停車する最初のケースのようです。
この頃は「かっぱ」「くじら」と名乗る海水浴客向けの臨時列車が多数設定されていましたっけ。
私は一度も乗車の機会が無かったのですが。
海水浴といったら、せいぜい祖父母の家に遊びにいって瀬波海岸に行く程度だったもんなぁ。
何の縁もない土地の海水浴場に遊びに行く機会は一度もありませんでした。

8月
10月ダイヤ改正から中条駅に特急「いなほ」1往復が停車。
私は今まで中条駅への「いなほ」停車は昭和53年10月改正からと思い込んでおったので、この記事も驚愕しました。
思い込みはいけませんなホント、きちんと調べて事実を認識しないといけませんわ。

昭和53年
4月
上越線・土樽駅構内で貨物列車脱線転覆事故
4/5午前2時25分頃、土樽駅2番線を通過中の上り貨物列車の8両目と9両目が横転し、この事故で信号がダウンしたために上下線共に運転不能になりました。
正確には脱線は越後中里駅を出てまもなく起こっていたそうで、ブレーキ異常に気づいた車掌が列車を停めて点検後出発して間もなく脱線と、その後土樽駅構内まで約7kmを二両脱線のまま走っていたとの事。
事故の15分後の上り線には新潟発上野行の夜行電車急行「佐渡4号」が続行していましたが、土樽駅手前で停車して事無きを得ました。
乗客は285人で、土樽駅下り線で抑止中の下り急行「佐渡4号」に移って三時間後に長岡駅に戻った後、信越本線経由で目的地に向かったとの事
当時の「佐渡」が12両編成だとすると座席定員は1000人弱というところで、上り「佐渡4号」の乗車率は3割弱。
学生の春休み中のこの時期の夜行急行の乗車率がこの程度というのは、なかなか考えさせられる話であります。
この夜行「佐渡」は上越新幹線大宮暫定開業の昭和57年11月改正で廃止されています。
なお不通区間(越後湯沢-水上間)は6日朝から単線で運転再開、ダイヤが正常化したのは9日でその間はバスで代行輸送をしたとの事。
バス代行ということは国道17号線経由になりますけれど、あの区間をバスで行くとなると半端なく時間がかかりそうです。
上越線に比べて超迂回ルートになりますからね。

9月
越後線にキハ40系投入
10月から越後線に当時最新鋭のキハ40系気動車10両を越後線に投入という話です。
新潟県内におけるキハ40系の活躍はここから始まり、そして本年(令和2年)3月改正で実質的に終了なのでございます。
42年間に渡る活躍、お疲れ様でした。

11月
「とき」増発したのに乗客減る
昭和53年10月ダイヤ改正で特急「とき」が早朝に1往復増発されたのですが、それにも関わらず利用客合計は前年10月とほぼ同様(1日平均約7,200人)のために平均乗車率は前年10月の95%から77%に落ちてしまったのです。
記事では一例として新潟駅を朝六時台に出発する便の比較がされていて、ダイヤ改正前の「とき1号」(新潟発06:50)の平均乗車率が実に119%だったのに対して、改正後は「とき2号」(新潟発06:18発)の平均乗車率が74%、「とき4号」(新潟発06:50)のそれは67%になっています。
利用客から見れば朝の混雑が分散されて結構な話だと思うのですが、記事のニュアンスはなんとなく否定的なのがよくわからないところ。
一方、この改正で急行「越後」が格上げされて誕生した大阪行特急「雷鳥16号」の平均乗車率は92%、新潟行「雷鳥13号」のそれは76%で、急行「越後」時代と比べても好調との事。
そりゃあねぇ、遠出するのに揺れるわ汚いわでボックスシートの気動車急行と小奇麗でロマンスシートの特急電車を比べれば、急行大好きな鉄オタでもない限り料金が倍上げ以上でも特急に乗りたいのが人情でしょう。
またこの改正で新たに特急が停車した駅の利用状況も紹介されておりまして、こちらも中々興味深い。
村上駅:寝台特急「日本海2号・3号」・・・1日平均一人。
実はきっぷを求めにくる人は1日平均10人いるそうですが、寝台券が売り切れのために需要に対応できないそうです。
当時の「日本海」は寝台特急の中でもトップクラスの乗車率と鉄道ジャーナル誌で語られている人気列車だったのですから無理もない話です。
定員制の列車は需要に対する弾力性に欠けるその弱点が如実に現れてしまった形ですな。
新発田駅:特急「白鳥」・・・上り13人、下り24人とまずまずの数字との事。
昭和44年に特急「あさま」が高田駅に停車するようになった頃の特急利用合格ラインは片道1日平均30人、上下で約60人だったので、それから9年後の合格ラインは半分ほどに下がったということなのでしょう。
加茂駅:特急「雷鳥16号・13号」、見附駅:特急「雷鳥12号・21号」・・・両駅共に利用は15人程度でいまひとつとか、合格ラインの半分というところでしょうな。
高田駅:特急「白山2号・5号」・・・上り2号の乗車が34人、下り5号の降車が52人とかなり良い数字だそうです。

昭和54年
6月
「キハ17引退」
小さなベタ記事ですが、越後線で運用されていたキハ17系気動車がこの月をもって引退という話です。
私はキハ17系は乗った覚えがまるでないです。
キハ17どころかキハ55系もキロ25格下げ車に一度乗ったのを座席の豪華さでうっすら覚えているだけ。
この当時、私は新潟市在住でしたが日常的に乗るのは信越本線と白新線で、越後線は未知の世界だったのです。

それではまた次回。

2020年3月 7日 (土)

新潟日報で読む昔の新潟県内鉄道関連記事その一

私は一昨年夏から当ブログの「新潟県民放における子供向け番組放送の推移」を書くために、図書館で昭和41年4月以降の「新潟日報」縮刷版及び製本版を閲覧調査していました。
その際、せっかくの昔の新聞を閲覧する機会なのだからと、目に付いた鉄道関係の記事も適宜メモしていたのです。
今回は備忘録的に、それらメモを書き連ねていきたく存じます。

昭和41年
4月:
信越本線・安田駅に跨線橋を設置、これはそれまで直江津駅で使用していたものの移設だそうです。

5月:
ナローゲージの頚城鉄道の蒸気機関車が引退運転。この機関車は明治44年製造のドイツ製で、頚城鉄道には大正4年に入ってきました。

白新線「石山操車場」駅(原文ママ、現・東新潟駅)のホームを、新潟市の工事費負担(約140万円)で延長。
何m延長するのかは明記されていなかったのですが、当時のホーム長は僅か50mだったそうです。
この時はまだ乗降場扱いで正式な駅ではなかったのですけれど、1日の平均利用客は約2,000人でした。
この数字でも駅への昇格を渋る国鉄当局の感覚はやはりおかしいのです、まぁ利用の多少とは別に操車場に隣接している立地ゆえの運転上の問題があったのかもしれませんが。

越後線・小針駅の上手に地下道新設。工事費約530万円で年内に完成予定。

6月:
新潟交通電車線の白山駅乗り入れを国鉄当局に陳情。
当時既に議論になっていた県庁前-東関屋間の軌道線存廃問題に関連して県議らが行いましたが、乗り入れの必要経費は約一億一千万円。
誰が費用負担するのか結論が全く出ておらず、国鉄当局は「越後線の複線化を検討中なので電車線の乗り入れは困難」とつれない回答。
この時期に当局が越後線の複線化を検討していたなんて初耳で驚愕した記事でした。
もしこの時に新潟市が乗り入れの費用負担をすると英断を下していたら、電車線の運命も大きく変わっていたでしょうにねぇ。

この年の7月に運行を開始する越後線初の準急「かくた」の停車駅に比角駅(現・東柏崎駅)の追加を求める地元期成同盟会発足。
最終的には目出度く停車実現になる話です。

信越本線・新井駅のホームが県内初の「ケタ式」に改造中。
これはホームの線路に面した部分が"コの字"にへこんでいて、機械除雪をしやすくするというものです。

島式ホームから見た駅舎
2004年当時の新井駅一番ホーム。
多分、「コの字」とはホーム表面とその下の段差の事を指しているのでしょう。

7月:
新井-飯山新線期成同盟会を東京で開催。
この新線については当ブログの「新井駅」記事で触れていますが、信越本線・新井駅と飯山線・飯山駅を短絡直結する国鉄新線を建設しようという話です。
この新線はこの年の8月に建設予定線に昇格しましたけれど、それ以降の具体的な動きはなく、ペーパープランに終わりました。

越後線・小針駅に総工費一億円で列車交換設備新設、10月完成をメドに工事進む。
海側に全長220mのホームを新設し、これまた新設の跨線橋で連絡する形になります。
当時の越後線・新潟吉田間で列車交換が可能な駅は越後赤塚駅のみ!との事で、この記事も初耳で驚愕しました。
昭和41年度中に寺尾駅巻駅も列車交換可能にするとの事で、この時期に越後線の輸送力増強が意欲的に進められていたのです。

柏崎駅の跨線橋新築移転を柏崎市が国鉄に陳情。
これは跨線橋を駅南側からも利用できるようにしてほしいというものでしたが、この件は半世紀後の現在においても依然として実現していない話です。

8月:
糸魚川市が特急「はくたか」の糸魚川駅停車を陳情。
この件はこの年の10月ダイヤ改正で実現しました。
二ヶ月前の陳情でハイそうですかと即決するはずもないので、もしかしたら市が陳情する前に国鉄当局は「はくたか」糸魚川駅停車を内定していたのかもしれませんな。

新潟・福島の磐越西線沿線7市町村代表が国鉄本社に「磐越西線の電化複線化」を陳情。
市町村の数から考えて新津-喜多方間の話なのでしょうけれど、電化はトンネルの改修が必要ですし複線化はあの線形では厳し過ぎますな・・・。
そんな現実味の無い話よりは、新潟-福島若しくは仙台間に特急列車を運行しろと陳情した方がまだ実現性が高かったのではと思うところです。

9月:
上越線・六日町-五日町間に新駅「左の又」設置、来春着工を目指す。
新駅設置については国鉄当局との話し合いがついているとの事で、あとは工事費の地元負担分約1,600万円の調達をするのみで、極めて実現に近い話だったのです。
・・・しかしその地元負担のあり方について、地元では全く結論が出ていないのでした。
この「左の又」駅は六日町駅から下り2.2km地点に設置予定でしたが、六日町-五日町間は6.6kmなので新駅は位置的に六日町方に偏っているのが、負担を廻ってモメた原因だったようです。
そしてその後、この新駅の件は全く出てこずに終了です。
ちなみに六日町駅から2.2kmというと、国道17号線の「庄之又」交差点近くになり、六日町自動車学校の最寄駅になっていたことでしょう。
当時、六日町-五日町間は既に複線化していたので電化複線上に上下のホームが並び、建設におカネのかかる跨線橋は設置されなかったかも。
現在の八色駅みたいな感じの駅になっていたのかもしれません、ああ駅フェチとしては妄想が尽きない・・・w
またこの駅、西に約1.5km行けばほくほく線・魚沼丘陵駅があって、隠れた乗り継ぎ駅として私のような駅巡り者にとってはなかなか重宝な存在ですな。

10月
「特急停車にわく」
この月のダイヤ改正で、東三条駅に特急「白鳥」、糸魚川駅に特急「はくたか」の停車が実現したのです。
この時点での新潟県内特急停車駅は、新潟、新津、東三条、長岡直江津、糸魚川、越後湯沢の7駅でした。

12月
特急「とき」「白鳥」「はくたか」の立席特急券を発売(12/24-1/10)
当時の特急列車は全席指定(一部の列車には自由席の一等車がありましたが)なので、私が鉄オタ趣味にはまり込んだ頃には寝台特急の座席利用ぐらいしか耳にしなくなっていた立席特急券が、半世紀前の繁忙期にはこのように発売されていたのです。
でも都会の方でやっている「スワロー」特急券って立席特急券のリバイバルって感じだよなぁ。
あの制度はイヤだなぁ、「いなほ」や「しらゆき」には導入してほしくないとです。

昭和42年
2月
「新白線の実現を」
赤谷線・赤谷駅と磐越西線・白崎駅(現・三川駅)を結ぶ「新白線」実現に向けて、期成同盟会(新発田市、三川村、津川町、鹿瀬村で構成)が当局に陳情しました。
この路線については当ブログの三川駅の記事で触れておりますが、当時飛ぶ鳥を落す勢いだった田中角栄氏ですら「難しい」と言わしめた計画です。
実現には相当の政治的配慮か必要とこの時点ではっきり書かれているほどで、前述の新井-飯山新線以上に実現性の乏しいものです。
総延長約20kmの建設費推定は25億から40億円との事で、これは高いのかはたまたあの地勢ではお値打ち価格なのか判断に苦しむところ。

特急「はくたか」の田口駅停車と急行「第一佐渡」の加茂駅停車を来る3月下旬のダイヤ改正から実施。
当時は妙高観光の一大拠点駅であった田口駅(現・妙高高原駅)への特急停車が実現です。
これで新潟県内の特急停車駅は八駅になります。

7月
北陸本線の谷浜駅構内の渡線橋の供用を開始(2日から)
それまでは山側の集落から海岸沿いの国道に出るには構内の仮設踏切を利用していたそうで、渡線橋の設置についてはかねてから地元の強い要望があったとの由。
谷浜駅近くの踏切は駅からかなり離れていて、あの渡線橋が無いと歩行者にはかなり不便です。
構内の仮設踏切が警報機無しだと、歩行者の安全上問題ですからまずは大変目出度い話なのです。

跨線橋上から見た構内その2
2010年5月時点の谷浜駅渡線橋。
これがこの記事の渡線橋なのかはたまたその後改築されたものなのかどうか。

8月
特急「白鳥」の柏崎駅停車を柏崎市長らが当局に陳情
糸魚川駅への「はくたか」停車が実現したので、ならばウチもと思ったのは想像に難くないところです。
しかし柏崎駅に特急が停車するようになるのはもう少し先の話なのです。

越後線・越後曽根駅のホーム拡張進む
これは上下ホームの長さをそれまでの120mから倍の240mに延長するというものです。
上下ホームと言っているのでこの駅での列車交換は可能になっていたのかどうか。
昭和41年7月の報道では当時新潟-吉田間で列車交換が可能なのは越後赤塚駅のみで小針駅が工事中、寺尾駅と巻駅が工事予定という話だったのです。
この工事では安全側線を敷設することで、従来は不可能だった上下列車の構内同時進入が可能になるとあるので、工事着手以前から当駅での列車交換は可能であったと読み取れるのですよ。
当駅がいつ列車交換可能になったのか、前述の「越後赤塚駅のみ」という記事がそもそも事実誤認だったのか疑問が残る話なのです。

10/1ダイヤ改正
下り急行「第五佐渡」の加茂駅、急行「日本海」の見附駅、下り急行「越後」の小出駅、準急「かくた」の内野駅と比角駅(現・東柏崎駅)への新規停車が決定。
下り急行「第五佐渡」の石打駅、上り急行「第五佐渡」の越後中里駅への冬季季節停車(12/25-3/20)が決定。


昭和43年
2月
特急「雷鳥」、急行「立山」「金星」の10月改正での富山-糸魚川間延長運転を糸魚川商工会議所が当局に働きかけ。
しかし糸魚川市役所は「雷鳥」他の糸魚川延長よりも特急「白鳥」の糸魚川駅停車実現に熱心で、商工会議所と市役所で相当の温度差があったようです。
急行「立山」は後に富山-糸魚川間を快速列車として延長運転が行われていますが、この動きに影響されたものであったのかどうか。

3月
新潟-長岡間に急行の回数乗車券(急行券と乗車券のセット販売)を設定。
この種の回数券は全国広しと言えど、東京-軽井沢間と東海道新幹線の「こだま」限定のみだったそうで県民としては何か誇らしい気分w
この回数乗車券は11枚を一冊として販売する形式で、お値段は3,300円也。
11回普通に急行券・乗車券を買うよりも330円おトクとの事です。
急行の新潟-長岡間区間利用は1日平均900人近い数で、県内二大都市間の往来は昔から盛んだったのです。
北陸自動車道が開通していち早く高速バス路線が設定されたのも頷ける話ですな。

4月
信越本線・見附-帯織間の新駅設置を沿線住民が見附市長に陳情。
前述した幻の「左の又」駅に続く新駅設置の動きですが、実現寸前までこぎつけながら地元の費用負担でモメて頓挫した左の又駅とは違い、こたらは単に「市長に陳情しただけ」のレベルです。
市長は「地域発展に有意義なので考える」という玉虫色のコメント。
まぁ市としては本気で取り組む意思は無かったのでしょうね。

秋ダイヤ改正での特急「白鳥」の村上駅停車を村上市長が国鉄本社に陳情。
新鉄局ではなく本社に斬り込むというあたり、村上市の本気を感じさせます。
当時の「白鳥」は新潟-鶴岡間をノンストップで走っていたので、糸魚川駅に「はくたか」が停車するまでに特急停車駅のグレードが下がっていた当時のご時勢、村上駅に特急停車をという声はけして無茶な話ではないと思うのです。
市長が熱望する「白鳥」の村上駅停車は昭和47年秋の改正までお預けでしたが、特急停車実現自体は翌年に運転を開始した「いなほ」によって現実のものとなっています。

5月
長岡市及び周辺自治体の商工会議所が、長岡-上野間に急行列車の運行を当局に陳情。
これは長岡周辺から東京への用務の利便性を高めるために、長岡始発で上野に午前九時半に到着する急行列車を運行してほしいというものです。
当時のダイヤでは、朝イチの上野行急行「第2佐渡」の長岡発は8:20で、上野到着は12:20でした。
これでは日帰りができないので、ぜひ早朝長岡始発の急行を!というわけです。
この話は結局実現しませんでしたが、昭和50年代に入ってから新潟駅を朝六時過ぎに出発する特急「とき」が設定されて、長岡発は07:07、上野到着は午10:33です。
この陳情案にかなり近づいたダイヤ設定になっていました。

高田市と高田商工会議所が連名で、特急「あさま」と急行「信州」(いずれも上野-長野間の運転)の直江津延長と高田駅への停車を当局に陳情。
これも上述の「日帰り」の件で、早朝に直江津を立ち夜に戻ってくるパターンの「あさま」や「信州」運転で高田から東京への日帰り出張が出来るようにしてほしてというものです。
当時、高田と上野を直結する優等列車は急行「妙高」2往復と「白山」がありましたが、いずれも日帰りは不可能なダイヤだったようです。
特急「あさま」の直江津延長はこの後現実のものになり、朝七時台に高田を出て東京に五時間弱の滞在、夜九時に戻ってくるダイヤになっています。

6月
赤谷線の新発田-五十公野間に新駅設置を地元住民が当局に陳情。
この時期にこの地域で小中学校の統合があり、児童生徒の通学の便を図るためで、この件は後に現実のものとなりました。

「国鉄新潟支社管内の特急以外の冷房化率たったの7パーセント」
この頃、新潟支社管内の特急以外の列車冷房化は一等車と寝台車に限られていて、急行の二等座席車は自由席は勿論指定席でさえ冷房化率0パーセントという惨状なのでした。
苦言を呈された支社は「(二等座席車の冷房化は)いつ実現できるかわからない」という苦しすぎる回答。
クーラーを取り付けるのに一両当たり600万円かかるとの事で、気動車の場合は他に冷房用電源車の手当ても必要ですから更にハードルが高い話なのです。
電車急行の冷房化はその後急速に進みましたが、気動車急行については指定席車が冷房化されていれば御の字な状態が昭和50年代半ばまで続きました。

7月
「操車場前駅の移転に反対」
これは白新線・新潟操車場前仮乗降場(現・東新潟駅)の大形駅との合併移転話が出てきたことを受けて、近隣の石山団地住民が猛然と声を上げた話です。
当時は白新線の複線化を昭和45ないし46年に実現する計画(実際は昭和53年)で、併せて新潟操車場の機能を拡充するために操車場前仮乗降場を現在位置から800m東に移動して、隣の大形駅と統合する構想があったそうです。
現在位置のまま複線化すると上下のホームが数百mも離れてしまい、ホーム間を連絡する長大な地下道ないし跨線橋の建設に数億円かかるのでそれならいっそのこと移転しようという話ですが、新潟市は石山団地を建設した際に「駅から徒歩10分」をキャッチフレーズにしていたことから、団地住民が(駅移転は)話がまるで違うではないか騙された!と激怒されたそうです。
反対の声が多かったからなのどうかは定かではありませんが、当局は駅統合案を白紙に戻し、昭和53年の白新線部分複線化の際には新潟操車場前仮乗降場を正式な駅「東新潟駅」に格上げして、下りホームを操車場を挟んだ向かい側に設置して地下道や跨線橋は設置せず、下り列車利用の際のその不便さから「日本一不便な駅」と一部で囁かれたのです。

続きは次回、ではまた。

2017年9月10日 (日)

蒲原鉄道廃線跡と村松

磐越西線・五泉駅を紹介しておいて見逃してはおられないのが、かつて五泉駅から村松そして加茂駅まで延びていた蒲原鉄道の廃線跡です。
そこで今回は、五泉駅記事の補完という形で、蒲原鉄道の村松駅、そしてその界隈を点描してみます。

今泉駅跡近くの「今泉」バス停
五泉と村松を結ぶ県道新津村松線上の「今泉」バス停、2003年11月撮影。
この至近に蒲原鉄道・五泉-村松間唯一の中間駅である今泉駅がありました。

今泉駅付近の蒲原鉄道廃線跡
今泉からさらに村松に歩みを進める、2003年11月撮影。
この時点で蒲原鉄道廃止から約4年経過しています。
線路は外されて、路盤はこのように雑草に覆い尽くされています。
半年先行して廃止された新潟交通電車線では線路も架線柱も駅舎さえも残存して、現役時代さながらの姿を保っていたのとは対照的。

静態保存されていた蒲原鉄道の電車その1
村松の中心街に入る手前で静態保存されていた蒲原鉄道の電車、2003年11月撮影。
町や蒲原鉄道ではなく、有志の方が私費を投じて保管していたのです。
頭が下がります。
自分の器の小ささを恥じ入るばかり。

静態保存されていた蒲原鉄道の電車その2
斜めから見た蒲原鉄道の静態保存電車、2003年11月撮影。

静態保存されていた蒲原鉄道の電車その3
正面から見た蒲原鉄道の静態保存電車、2003年11月撮影。

蒲原鉄道の電車モハ71
電車の連結部、2003年11月撮影。
左側の電車は「モハ71」。
鉄道ジャーナル1983年8月号の蒲原鉄道の小特集によると、モハ71は昭和2年に製造された元西武鉄道の制御車で三扉車、昭和40年に電装化し蒲原鉄道に入ってきたようです。
画像左側には「蒲原鉄道 村松変電所」の看板が。
蒲原鉄道が最終的に鉄道線廃止を決めたのは、赤字の他に老朽化した電車や変電所の更新費用の問題でした。
鉄道線廃止の数年前に出版された川島令三氏の著作では、いっそのこと気動車化したら?という提言がなされていましたっけ。
鉄道線を存続させるにはその手しか無いよなぁと、当時私も同感したものです。
キハ110が磐越西線新津方から蒲原鉄道に直接乗り入れできれば、それなりのインパクトもあるはず。
しかし耳にした範囲では、そうした話が真面目に検討されたことはなかったよう。
外の人間がどうこう言っても、もうどうしようもない状態だったのでしょう。
まぁここで妄想を述べさせていただければ、JR東日本が買収して村松駅を棒線化の上で磐越西線馬下折り返しの列車を村松発着に変更するとか。
五泉-馬下間よりは五泉-村松間の方が利用が多いのは、周辺人口規模から言ってもまず間違いないところですし。
もちろんこのようなマニアの机上の空論が省みられることなぞ絶対にあり得ない事なのは、よくよくわかっておりますですよハイ。

蒲原鉄道の廃線跡
電車の見学を終えて、村松の街中に足を踏み出しつつ振り返って一枚、2003年11月撮影。

静態保存されている電車と凸形電気機関車
旧村松駅付近まで来ると、またまた車両を発見、2003年11月撮影。
今度は電車と凸形電気機関車のセットであります。

蒲原鉄道の電車モハ31その1
この電車は「モハ31」、2003年11月撮影。
大正12年製の非貫通型で、他社からの購入ではなく蒲原鉄道発注の純血種のようです。
ガソリン気動車に似た感じの正面二枚窓であります。

蒲原鉄道の電車モハ31その2
蒲原鉄道モハ31を斜めから見る、2003年11月撮影。

蒲原鉄道の電気機関車ED1形
蒲原鉄道唯一の電気機関車、ED1形、2003年11月撮影。
アメリカのウェスチングハウス社製電気機関車に範をとった無骨な凸形機で、昭和5年製。
往時は貨物列車の牽引や除雪、イレギュラーで故障した電車の牽引と、たった一両で縦横無尽な活躍を見せていた蒲原鉄道の陰の主役的存在でありました。
前述の鉄道ジャーナル1983年8月号には、七谷駅で故障電車を牽引するED1形のカラー写真が載っていますが、回りの雨に濡れた鄙びた情景、無骨な機関車、古典的電車の3本セットでもう辛抱たまらんモノがあります。
この号の特集は当時、飯田線で廃止目前となった戦前製の旧型国電の特集で、それに関連して地方電化ローカル私鉄の例として蒲原鉄道と栗原電鉄が取り上げられています。
古書店で見かける機会があったら、ぜひ入手していただきたいお薦めの一冊であります。

旧村松駅のバスターミナル
旧村松駅はバスターミナルに姿を変えています、2012年7月撮影。
村松を訪れるのは2003年11月以来でしたが、このバスターミナルは発着本数もすっかり減って、その機能もあまり果たされていない様子。
五泉-村松間はともかく、村松から加茂へは鉄道代替バスとは思えない過疎ダイヤ。
元々この区間の需要が少なかった証なのであります。
前述の鉄道ジャーナル誌の小特集は村松-加茂間廃止が具体化する以前の記事でしたが、鉄道線全体の約8割を占めるのに利用は約3割に過ぎないという、同区間の苦境が問題になっていたのです。
昭和50年代半ばの村松-加茂間の一日平均輸送人員は約850人だったそうです。

現在(2017年)の、村松-加茂間のバス事情をかいつまんでおくと、加茂-村松直通便は一日3往復で朝夕晩の運行。
この区間のバスは加茂市が運行していますが、加茂駅から旧七谷駅あたりまでは上下46本と充分な本数が確保されている一方、現在蒲原鉄道の電車が保存されていて先日公共放送BSのとうちゃこで火野正平氏が訪れていた冬鳥越へは上下18本と本数が激減。
その先、旧高松駅あたりになると上下8本になります。
加茂市と五泉市に跨る路線を加茂市が運行しているので、旧村松町内に入るバスが少なくなるのは仕方のないことなのですが、遠方からの来訪者が廃線跡を探訪するにはひどく不便なダイヤになってしまっているのです。

旧村松町中心街
人口二万人弱を擁した旧村松町中心街の様子、2012年7月撮影。
車の往来は多いものの、シャッターを閉めた店舗が目立ち、歩行者も少なくて正直活気はありません。
村松中心街の道は十字路が無いのですが、これは村松藩の防御策由来なんだとか。
十字路にすべきところでも道をわざとずらして、味方の兵を進撃する敵の死角に潜ませて迎え撃つつもりだったのでしょうね。

村松城跡公園入り口
村松城跡公園入り口、2012年7月撮影。
かつての越後村松藩三万石の城跡に作られた公園です。
村松藩は当初、旧安田町域(現在の阿賀野市)に拠点を持ち、藩の格は最下位の「無城」でした。
それが村松に移転して、城を持てる「城主格」になりました。

蒲原鉄道の電車モハ11その1
城跡公園内に保存されている蒲原鉄道の電車「モハ11」、2012年7月撮影。
昭和5年製の蒲原鉄道純血種の電車で、蒲鉄の他の電車の出自がバラバラの単品なのに対して、このモハ11は同型のモハ12が存在しているので形式として「形」と呼称して差し支えない存在なのです。

蒲原鉄道の電車モハ11その2
モハ11は全長12.432mで、相棒のモハ12と共に蒲原鉄道最小の電車でもありました、2012年7月撮影。

郷土資料館に展示されているタブレット閉塞機
城跡公園内には旧村松町の郷土資料館があり、館内には蒲原鉄道の展示コーナーが常設されています、2012年7月撮影。
これはタブレット閉塞機。
ジリリとベルが鳴ってタマが出てくるヤツですな。
先月の鉄道ピクトリアルの特集はまさにこれでした。

郷土資料館に展示されている電車のサボや駅名板
電車のサボや駅名板などもこうして見学できます、2012年7月撮影。

郷土資料館に展示されている蒲原鉄道の鉄道模型
蒲原鉄道の村松-五泉間を模した鉄道模型のレイアウト、2012年7月撮影。
手前が村松駅です。

2016年3月24日 (木)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四」の続きです。
今回は国鉄最末期からJR発足、そして終焉までの最後の話です。

昭和60年3月ダイヤ改正では、これまで乗り換えの不便さに対応して暫定措置で存置されていた上越急行「佐渡」「よねやま」が全廃。
寝台急行「天の川」は輸送体系の変化を理由に廃止されてしまいます。
大宮止まりとはいえ新幹線が開業していた当時、新潟-上野間の寝台需要がどれほどあったかはやや疑問ではあるものの、昭和20年代半ばから設定されていた対東京の定期夜行列車が全廃されたのは、衝撃的な話でした。
その結果、夜行需要は高速バスにシフトして、その需要の多さに慌てた当局が夜行快速「ムーンライト」を走らせるという展開になるのですが、それはもう少し後の話です。
「べにばな」は山形で分断され、新潟-山形間の気動車急行として存続。
「赤倉」は長野で分断されて、新潟-長野間の「南越後」として再出発。
「南越後」はグリーン車を連結しません。
これによって、新潟県内から165系電車のグリーン車が、いや急行型車両のグリーン車が姿を消したのです。
伝統ある幹線昼行急行の、事実上の終焉と言える出来事です。
後に残された昼行急行は、全席自由席のかつての準急的存在に過ぎないのです。
・・・しかし「南越後」って、センスのかけらもないネーミングだなぁ。
当時から呆れてました。
素直に「とがくし」に統一すればいいのにと。
一応、「とがくし」は長野から上田まで、「南越後」は長野から松本まで普通列車として運転するゆえの差別化らしいのです。
でも新潟県内から普通列車区間まで乗り通す人がそんなに多いとも思えないですから、失笑モノの愛称をあえて付けることも無かったのにと思うのですよ。
前身の急行「日本海」以来、客車で運行されてきた「きたぐに」は、14系客車から583系電車に衣替え。
まさか新潟駅で、毎日583系を見れる時代がこようとは。
特急「白鳥」や上野発着時代の「青森いなほ」が583系化されなかったことで、新潟の地でこの電車が定期運行されるなんて諦めていたのですよ。
この話を聞いた時は、「きたぐに」と特急「雷鳥」で昼夜兼行運用、もしくは「きたぐに」の間合いで「いなほ」の一部を583系化するんじゃないかとか、妄想を逞しくしたものです。
結果は全てハズレだったわけですけど。

「佐渡」「よねやま」「天の川」廃止による新潟県内急行列車と一日当たり延べ県内走行営業キロは下記の通りです。
「きたぐに」(新潟-大阪間夜行、583系電車)。
「能登」(上野-金沢間夜行長野経由、14系客車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、長野-上田間普通列車、165系電車)。
「南越後」(新潟-長野間、長野-松本間普通列車、165系電車)。
「べにばな」二往復(新潟-山形間、キハ58系)。
「野沢」(長野-長岡間、キハ58系)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)。
計9往復、約2,100km。
ちなみに特急は25往復、約7,600km。

昭和61年11月の、国鉄最後のダイヤ改正は約半年後のJR移行を踏まえたもので、急行史的には過疎路線のローカル急行群に最後の一撃が加えられたものでした。
新潟県内では、飯山線の「野沢」と只見線の「奥只見」が廃止。
「野沢」にはこの時期、長野-長岡間と十日町-長岡間に乗車した事があります。
前者は長野出発時で五割ほどの乗り具合で、十日町で大量下車。
後者はガラ空きの車中の人になりましたっけ。
共に夏休み中でしたけど、繁忙期にこれではなぁと、急行愛好の私でも廃止は致し方無しの印象を強く持ったものです。

昭和62年4月1日のJR発足にはこの陣容で望み、JR最初のダイヤ改正(昭和63年3月)wでは、「とがくし」と「南越後」が統合されて、「赤倉」三往復として再出発。
愛称的にはこれですっきりして、車両にも夜行快速「ムーンライト」用のグレードアップ車が間合いで入るようになります。

それから平成に入って三年間は、新潟県内急行列車は不動のまま過ごします。
そして平成3年3月ダイヤ改正では、「赤倉」三往復中一往復が、車両はそのままで越後線経由の快速「やひこ」に格下げ。
この「やひこ」には平成4年5月に全区間乗車したことがあります。
京都へ一人傷心旅行をした後、帰路は大阪から客車急行「ちくま」のB寝台で長野まで。
この時は、列車寝台で一晩過ごすこと、そして急行列車に乗るのがこれで最後だとは思いませんでしたねぇ・・・。
早朝に長野に到着して、「やひこ」に乗り継いで新潟まで。
「やひこ」はグレードアップ車で快適、直江津から乗客が増えて越後線に入る頃は満席でした。
越後線内は停車駅が少なく、柏崎-吉田間は確か無停車。
規格の良くない越後線内でトバしてみたところで、速達化はたかが知れてます。
揺れも激しかったし。
「やひこ」は短命で、平成5年12月に廃止されてしまうのですが、越後線内の停車駅を増やしたら、もう少しは潜在需要を掘り起こすきっかけになったんじゃないのかなぁと。
出雲崎や寺泊、分水と県都新潟の間は高速バスも無く、越後線も過疎ダイヤでクルマ以外では行き来に不便なのです。
閑話休題、
同輩の「あがの」が上越新幹線上野開業に伴って、あっさり快速に格下げされてしまったのに対し、山形止まりになりながらも急行として健在ぶりを示していた「べにばな」。
この列車は山形新幹線運行に伴う奥羽本線の改軌工事の影響で、平成3年8月に米沢止まりの上で快速に格下げされてしまいます。
「べにばな」の愛称は現在も残っているものの、一往復に減便されて肝心の快速運転も新潟-坂町間のみ。
「べにばな」には羽越、米坂界隈への駅取材で何度も乗っていますが、朝の新潟発は坂町までに多くが下車してしまい、米坂線内まで行く乗客は半分ぐらいの印象。
夜の新潟行はガラガラでした。
曜日や時期によって乗り具合は異なるのてしょうけれど、「あがの」の乗りが堅調な感じなのに比べて「べにばな」は、坂町で切ってしまっても構わないのではと思うのです。
朝の新潟発の場合は直前に「いなほ」が先発していますから、「べにばな」を米坂線内の普通列車に格下げしても、ダイヤは弄らなくて済むのです。

平成5年3月改正では、14系客車で運転されていた「能登」が489系電車に更新されて、寝台車の連結を終了。
これで新潟県内から毎日運転の客車列車が姿を消すことになりました。

平成9年10月の長野新幹線開業に伴うダイヤ改正では、昭和30年代後半の都市間準急をルーツに持つ新潟県内最後の昼行急行「赤倉」が特急「みのり」に格上げ。
県内昼行急行史の終了であり、また国鉄~JRの急行型電車優等列車史の終焉でもありました。
グリーン車の座席を装備したグレードアップ車に、「やひこ」廃止後は車両運用に余裕が出来たことで当たる率が高かった「赤倉」を、座席のレベルは落ちて料金は倍近く値上がりして、スピードアップも微々たるものの「みのり」へ格上げしたのは、単なる値上げと嫌われて低迷。
年を追うごとに削減が行われ、平成14年12月には快速「くびき野」に格下げされてしまいました。
「くびき野」は、特急型車両に料金無しで乗れてスピードも特急「北越」と大差は無く、運行時間帯の良さもあって盛況でした。
当初は四連だったのを、数年で「北越」と同じ六連に増強。
半室グリーン席や指定席車を連結して、自由席の座席カバーが無いのを除けば「北越」と大差無い、掛け値無しに乗り得な列車になったのです。
「くひき野」、特に夕方に新井を出発する5号は、上越方面の駅取材の帰りの足として私の愛用列車でした。
自由席のみの時代は直江津からだと座れるかどうかわからず、新井までわざわざ出て座席を確保したものです。
指定席車が付いてからはもっぱらこちらを愛用。
平成27年3月ダイヤ改正まで発売されていた新潟対上越地区の特急自由席往復割引きっぷ「えちご往復きっぷ」では「くびき野」の指定席には乗れないこともあってか、「くびき野」の指定席はいつも空いていました。
三連休の最終日に乗っても、自由席がすし詰めなのに対して指定席は50%程度のほど良い乗り具合。
500円ちょっと払えば余裕で座れるのにと、不思議でしたなぁ。
一般の人は「指定席」と聞くと、ちょっと構えてしまって小額でも心理的抵抗があるにしても、勿体ない話です。
18きっぷ期間外の通常の土日はガラガラで、乗客は新潟に着くまで私ひとりきりという事も何度かありましたっけ。
そんな「くびき野」も平成27年3月改正で廃止。
どうやら当局は、高速バスと張り合うのを止めて薄利多売も止めることにしたようです。
特急自由席割引きっぷも一気に五割アップで、それまでは乗れた上越新幹線・新潟-長岡間も乗車禁止、では「北越」の仕切り直しの「しらゆき」の本数を増やすのかと言えば、「北越」時代の五往復はそのまま維持。
いなかもんはこげんぐらいでちょうどよか、お上の言うこと黙って聞いとりゃエエンじゃとナメられているようで、実に不愉快な展開なのです。

またまた閑話休題、
「赤倉」廃止で、新潟県内に残る急行列車は「きたぐに」と、碓氷越え廃止に伴って長岡経由に変更された「能登」の二往復のみ。
とは言っても、この頃には全国で急行列車の廃止がいよいよ深度化していたので、夜行二往復が通るというのは最も恵まれていた方なのです。
以後、12年半に渡ってこの体制が続くことになります。
しかしこの間も急行列車の退潮は大きく進んで、平成20年3月には寝台急行「銀河」廃止で寝台急行史の終了、21年3月には気動車急行「つやま」廃止で国鉄~JRの定期昼行急行史の最後のページが閉じられました。

平成22年3月ダイヤ改正では「能登」が臨時列車に格下げ。
繁忙期を中心に暫く運行を続けましたが、平成24年2月をもって事実上の廃止。
そして平成24年3月、ついに「きたぐに」が臨時列車化。
新潟県内定期急行史はついに完結の日を迎えました。
臨時「きたぐに」は翌年1月の年始運行を最後に廃止されて、急行列車という種別そのものが新潟県内からは消滅しました。
「きたぐに」廃止後もしばらくは停車各駅では乗車位置表示板が残っていて、駅取材でそれらを見ては、感傷に浸ったものです。
JR東日本新潟支社では発券が面倒だからなのか臨時急行を設定する気が全く無いようで、特急型車両を使用する臨時列車は快速扱いです。
今後も県内で急行列車が走る事はおそらく無いでしょう。

幼い頃に目を輝かせて乗った懐かしい日々・・・、「佐渡」の冷房のよく効いた車中に驚いたあの日、「しらゆき」の混雑に閉口したあの日、お盆の真っ最中に「佐渡」に乗って、スシ詰めの大人たちの間に滑り込んで泣きたくなるほど辛かったあの日、「きたぐに」の快適な車内にご満悦だった亡き母の笑顔、冷房の無い真夏の「赤倉」で窓を全開にして日本海に目を見張ったあの日、「羽越」の車内の汚さに呆れたあの日。
さらばみなさらば。

2016年3月23日 (水)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三」の続きです。
今回は衰亡の一途を辿る、国鉄末期の新潟県内急行列車についての話です。

昭和51年9月ダイヤ改正では、それまで10系寝台車で運転されていた寝台急行「天の川」が待望の20系客車化を実施します。
20系客車の急行転用は、同年2月の「銀河」(東京-大阪間)に次ぐもので、「天の川」と同時に「新星」(上野-仙台間)も20系寝台急行に生まれ変わっています。
この改正後でも特急「あさかぜ」二往復、「瀬戸」、「安芸」、「北陸」、「北星」、「あけぼの」二往復が20系で運用されているので、「天の川」が急行のまま20系化されたのは画期的な事だったのです。
これまで運用されていた、コイルバネでよく揺れる、戦前の三等寝台車スハネ30以来の詰め込み式設計の10系寝台車に対して、一部の寝台特急でまだ運用されている、静粛で乗り心地もよく、天井も高くて心理的圧迫感の小さい20系とでは、それこそ月とスッポン。
同じ区間を並走する10系寝台車の「鳥海」とは大差があったでしょう。
鉄道ジャーナルの「鳥海」列車追跡記事には、揺れる、うるさいと最低な状態のA寝台車オロネ10の状態が書かれていましたっけ。
私は20系B寝台車には一度だけ乗車の機会があって、JRに移行後、20系もそろそろ引退という話が出てきた頃の臨時「ざおう」で上野から山形まで体験乗車しました。
既に24系25形の二段式B寝台には何度か乗っていたので、52cm幅の三段ベッドを見た時は、乗り合わせた私よりやや年上の青年氏と「狭いねぇ」と苦笑し合ったものです。
しかし相当の経年であるにも関わらず、揺れは思いの他小さくて驚いた記憶がありまなぁ。
その少し前に「銀河」に乗った時は、静岡浜松あたりで大揺れになって、すわ東海地震かと恐怖心を覚えたのが強烈な印象として残っていたので、臨時「ざおう」の乗り心地のよさは一層良く思えたのです。
狭いベッドも、横になれば特に問題無し。
私には閉所恐怖症の気は全然無いので、ああいうのは平気なのです。
閑話休題、
急行寝台車のテコ入れとしては当時最高のカードが20系への置き換えだったわけですけど、固定編成で寝台車オンリーの20系は、そのままでは「天の川」のような寝台専用列車に限定されてしまいます。
座席車が少なくてもよいのなら、「十和田」や「だいせん」のように余剰A寝台車を座席車化すれば良いのですけれど、座席車と混結で且つ座席車の比率が高い列車にはこの手も使えません。
そこで次善の策として期待されたのが、余剰20系を12系座席車と混結出来るように電気系統を改造する事でした。
ただこれはコストパフォーマンス的にあまり芳しくない結果だったようで、西日本地区の夜行急行に限定されています。
座席車を12系に更新していて、且つ東北・上越新幹線開業に直接の影響を受けない「きたぐに」「津軽」あたりは、この方式に変えてもよかった気もしますけど。
その後の特に関西対九州の寝台特急の低迷で近い将来の整理が必要になって、14系客車に余剰が出る見込みになったのも、20系の12系混結改造に影響しているのかもしれませんね。

昭和53年10月のダイヤ改正では、新潟-大阪間の昼行気動車急行「越後」が特急「雷鳥」に格上げされます。
新潟県内を走る長距離気動車急行には他に「しらゆき」「赤倉」がありますが、これらは列車の使命が二区間に大きく分かれています。
「しらゆき」なら金沢・富山-新潟、新潟-秋田・青森、「赤倉」なら新潟-長野、長野・松本-名古屋です。
一方「越後」は、新潟-大阪間に特急「北越」が設定されていることから見て、その需要のメインは新潟-関西間の直通旅客であったと思われます。
つまり「しらゆき」「赤倉」よりも長距離旅客の割合は高かったと推察され、時代遅れになりつつあった気動車急行はいかに安価な料金とはいえ、その任には最早耐えられないスピードと居住性だったと申せましょう。
特急に格上げされたのも、単に国鉄の増収策だけではない旅客側の事情もあったのではないかと。
ともあれ、「越後」が無くなったことで新潟県内通過定期急行列車は一往復減の28往復。
一日当たり延べ走行営業キロ数は約7,500kmに減じました。
特急は同改正でさらに増発が実施されて、32往復、約11,100kmになっています。

昭和55年10月ダイヤ改正では特急・急行共にこの状況に変化はありません。
ちなみにこの段階でグリーン車を2両連結していたのは「佐渡」「よねやま」「赤倉」「妙高」。
「赤倉」は全国唯一のグリーン車2両の気動車急行です。
全国広しと言えども他には「伊豆」「東海」「信州」「アルプス」だけ。
かつては「特ロ」と「並ロ」を一両ずつ連結しているのが当然だった幹線筋の急行列車の面影を、新潟県内ではまだ見出すことが出来たのです。

そしてついに迎えた運命の日。
昭和57年11月の東北・上越新幹線大宮暫定開業に伴うダイヤ大改正です。
急行列車は大幅に整理されて下記の如き状況に。
「佐渡」夜行一往復を廃止、昼行一往復を季節列車化。
「妙高」二往復を特急「あさま」に格上げ。
「うおの」を快速に格下げ。
「しらゆき」を特急に格上げして「白鳥」に編入。
「羽越」を特急「いなほ」に格上げ。
「ひめかわ」を快速に格下げし、柏崎-青海間は廃止。
「いいで」を廃止。
「白馬」を廃止。
「あがの」の新潟-五泉間を快速に格下げ。
「鳥海」を寝台特急「出羽」に格上げ。
「越前」と「能登」を統合して長野経由の「能登」として一本化。
「きたぐに」の新潟-青森間を特急「いなほ」に格上げ。

残存する急行列車は「赤倉」をキハ58系気動車から165系電車に、「きたぐに」を12系客車&10系寝台車から14系客車に、「能登」を旧型客車&10系寝台車から14系客車にそれぞれ更新しています。
「赤倉」については、381系特急化の話があったと耳にしています。
しかし新潟-長野間のインフラを振り子対応にするにはカネがかかり過ぎるので、急行のまま存置だったとか。
しかし新潟-長野間は振り子をオフにしていてもいいんじゃないのと思うのです。
勾配区間は気息奄々で、編成をダブルエンジン車主体にせざるを得ない為に普通車の冷房化もままならず、平坦区間でも電車急行と同じダイヤにする為に停車駅を減らさざるを得ないキハ58系に比べれば、振り子を使わない381系でも40分程度のスピードアップは充分可能だったはずです。
またまた閑話休題、
「赤倉」の電車化と「いいで」の廃止によって、気動車のグリーン車は新潟県内の定期列車から姿を消しました。
また「きたぐに」「鳥海」「能登」「越前」に加えて奥羽本線の「津軽」の10系寝台車も連結を終了して、10系寝台車および旧型客車の定期急行運用はこれで終焉を迎えたのです。
10系寝台車はその後も普通夜行列車「山陰」「はやたま」「ながさき」で細々と余命を過ごし、最終的に昭和60年3月改正で「山陰」廃止によって全廃されています。

さてこの大改正の結果、新潟県内定期急行列車は、
「佐渡」二往復(新潟-上野間、165系電車)。
「よねやま」(直江津-上野間、165系電車)。
「天の川」(上野-秋田間、夜行20系客車)。
「赤倉」(新潟-名古屋間、165系電車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、165系電車)。
「きたぐに」(新潟-大阪間、夜行14系客車)。
「能登」(上野-金沢間長野経由、夜行14系客車)。
「べにばな」二往復(新潟-仙台間、キハ58系気動車)。
「あがの」二往復(新潟-福島間、急行区間は五泉-郡山間、キハ58系気動車)。
「野沢」(長岡-長野間、キハ58系気動車)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)
合計15往復、一日当たり県内走行延べ営業キロは約3,700km。
改正前の半分になってしまったのです。
越後線と大糸線から急行が全廃されたことなどで、新潟県内定期急行停車駅は改正前の55駅から13駅減の42駅になりました。
一方、特急も「とき」「はくたか」が全廃されるなど大きな影響を受けたものの、急行の格上げ等でドラスティックなものにはなっていません。
改正後は26往復で約8,500kmです。

「佐渡」「よねやま」「天の川」が生き残ったのは、上越新幹線が上野発着になるまでの暫定措置であり、この時点で先が見えてしまっています。
私が「佐渡」に最後に乗ったのもこの時期で、昭和59年の夏休みに新潟-上野間を片道乗車しました。
「佐渡」は新潟県内区間で度々乗っていたものの、全区間乗車は昭和57年夏と合わせて二回きり。
まだお盆前の八月初めでしたが、夏休みの真っ最中だというのに自由席の乗車率50%といったところで、快適には過ごせたものの急行時代の終わりを実感したものです。
新幹線開業直前の昭和57年夏のお盆前に上野-新潟間を利用した際は、立錐の余地無く満員で指定席もグリーン車も全て売り切れだったのに。
しかも熊谷あたりで起きた踏切事故の影響で二時間抑止というオマケ付き。

続きは次回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五」にて、ではまた。

2016年3月21日 (月)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二」の続きです。
今回は昭和43年ダイヤ改正から昭和50年までの、新潟県内急行列車の絶頂期から黄昏を迎え始める時期の話です。

昭和43年10月の全国ダイヤ白紙大改正、通称ヨンサントオでは、新潟県内の急行列車体系がほぼ完成の域に達します。
日本海縦貫線関係では、
戦前から運行され、また新潟県内最古の愛称付き急行のひとつである「日本海」(大阪-青森間)は、新設される寝台特急(新潟県内初の寝台特急)に伝統ある愛称を譲って、「きたぐに」と改称されます。
一方、新潟-大阪間に運行されている同名の昼行キハ58系気動車急行は「越後」に改称。
信越本線関係では、
「くびき」が「よねやま」に統合されて、「よねやま」二往復体制になります。
(新潟-長野間、新潟-妙高高原間各一往復)
「よねやま」を初め、それまでキハ55系主体で運転されていたローカル気動車急行は、この頃には逐次キハ58系に更新されていったと思うのですけれど、明確な資料が無いのが残念です。
また新潟県内最後の準急「かくだ」が廃止され、「ひめかわ」はそれまで新潟-直江津間の「よねやま」との併結運転から単独運転に変更され、「かくだ」の代替として越後線経由になります(新潟-糸魚川間)。
上越線関係では、
夜行の「越路」が「佐渡」に編入されて、定期の「佐渡」は昼行五往復、夜行一往復になりました。
羽越本線関係では、
「羽越」が再度設定されて、新潟-秋田間に運行を開始しました。
また上野-秋田間の夜行急行「羽黒」は「鳥海」に編入されて、「鳥海」は昼行の気動車と夜行の客車の二往復体制になります。
その他では、新宿-糸魚川間の気動車急行「白馬」が「アルプス」に編入されて、「白馬」の愛称は一旦消滅しました。

この結果、新潟県内を走る定期急行列車と一日当たりの延べ県内走行営業キロ数は下記の通りになります。
営業キロ数は若干の計算間違いがあるかもしれないので、目安としてお考えください。
電車急行(165系)
「佐渡」六往復(新潟-上野間、昼行五往復、夜行一往復)、
「ゆざわ」一往復(新潟-小出間、小出-越後湯沢間普通列車)、
「妙高」二往復(直江津-上野間)。

気動車急行(キハ58系及びキハ55系)

「鳥海」一往復(上野-秋田間)、
「しらゆき」一往復(金沢-青森間)、
「越後」一往復(新潟-大阪間)、
「赤倉」一往復(新潟-名古屋間)、
「よねやま」二往復(新潟-妙高高原・長野間)、
「ひめかわ」一往復(新潟-糸魚川間、越後線経由)、
「いいで」一往復、(新潟-上野間、磐越西線経由)、
「あがの」二往復(新潟-福島間)、
「羽越」一往復(新潟-秋田間)、
「あさひ」二往復(新潟-仙台間)、
「うおの」一往復(新潟-越後川口間、越後川口-十日町間普通列車)、
「野沢」一往復(長岡-長野間)、
「アルプス」一往復(新宿-糸魚川間)。

客車急行
「きたぐに」一往復(大阪-青森間昼夜行)、
「鳥海」一往復(上野-秋田間夜行)、
「天の川」一往復(新潟-上野間夜行)、
「白山」一往復(金沢-上野間、昼行長野経由)、
「北陸」一往復(金沢-上野間夜行長岡経由)、
「越前」一往復(金沢-上野間夜行長野経由)。

新潟県内走行定期急行列車の一日当たり延べ走行営業キロ数合計約8,500km。

定期特急列車は「とき」三往復と「白鳥」「はくたか」「日本海」各一往復で、新潟県内一日当たり延べ走行営業キロ数は約2,200km。
急行列車が準急の格上げで本数、走行キロ共に増やしているのに対し、特急の増発はまだまだ微々たるものといえ、走行キロは急行列車の約25%に過ぎません。
この当時はローカル準急上がり以外の主要急行には冷房付きの一等車が連結されていて、主要幹線の急行には豪華に一等二両。
電車急行「佐渡」「妙高」には半室ビュッフェ、客車長距離急行「きたぐに」には、全国でも小数派になっている急行用食堂車が連結されて庶民の旅に彩りを添えていたのです。
私がハッキリと記憶している頃には、急行からこれらは消え去ってしまっていて、「とき」の181系食堂車も183系に編成を合わせる為に抜かれています。
「白鳥」「雷鳥」には食堂車が連結されていたものの、上越地方や北陸関西には親戚がいないので用事も無く乗る機会も無く、とうとう食堂車には足を踏み入れず仕舞いでしなぁ。

昭和44年
10月:
気動車特急「いなほ」(上野-秋田間)新設に伴い、昼行「鳥海」を季節列車に格下げ。
気動車急行「ひめかわ」の運転区間を延長して、新潟-青海間に変更。

昭和45年
10月:
信越本線全線電化完成に伴い、急行「よねやま」二往復を気動車から165系電車に変更し、運転区間を新潟-長野間に統一。

昭和46年
特記事項無し。

昭和47年
3月に山陽新幹線・新大阪-岡山間開業に伴うダイヤ改正が実施されました。
新潟県内急行列車の動きとしては、
新潟発着の寝台急行「天の川」を秋田まで延長して、上野-秋田間の運転に変更。
大阪-富山間に運行されていた寝台急行「つるぎ」を新潟まで延長して、大阪-新潟間の運転としました。
電車急行「よねやま」二往復を「とがくし」に改称。
電車急行「ゆざわ」を、特急「とき」増発と引き換えに廃止。
確か六日町、小出、小千谷の各駅に「とき」が停車を始めるのは、この頃だったと記憶しておりますけれど、アヤフヤなモノゆえ間違っていたらご容赦の程を。
前年から臨時列車として運行されていた金沢-松本間(大糸線経由・金沢-糸魚川間を「しらゆき」と併結)「白馬」一往復を定期列車に格上げ。
約三年半ぶりに「白馬」の愛称が、昔馴染みの大糸線に定期復活したのです。
客車昼行急行「白山」は電車特急に格上げ。
これによって、純然たる昼行客車急行は函館本線の「ニセコ」のみになりました。
ただし新潟県内では、「きたぐに」が新潟-青森間を座席車と食堂車の昼行編成で健在です。
そして迎えた10月、新潟県内では白新・羽越本線全線電化完成に伴うダイヤ改正で、急行と特急の勢力が逆転を始めるのです。
白新、羽越本線関連では、
特急「いなほ」の電車化と一往復増発に伴い、季節運転の昼行「鳥海」を廃止。
代替として「羽越」を一往復増発して二往復体制に。
しかし電化完成と掛け声は勇ましいものの、電車運転は特急「白鳥」「いなほ」のみ。
気動車列車は急行・普通共にそのまま存置で、客車列車と貨物列車の牽引機関車がD51形やDD51形からEF81形に代わっただけ。
交直流型急行電車が製造を終了し、他線区からの捻出転属も無いこと、非電化区間直通気動車急行との併結や車両運用の問題があるにせよ、気動車急行がそのままなのはこの線区によく乗った身としては、幼心にもガッカリでしたねぇ。
同じ急行料金を払っているのに、電車急行「佐渡」「よねやま」は乗り心地も良く普通車にも冷房が入っていました。
片や気動車の「しらゆき」「赤倉」「羽越」は煤けていて車内も乱雑としていて、乗り心地も悪く、グリーン車以外の冷房車は僅少。
気動車急行の普通車に冷房が無いのは、勾配線区が多くて編成をダブルエンジンのキハ58中心に組成せざるを得ず、冷房用電源を搭載できるシングルエンジンのキハ28をうまく組み込めない事、そして東京の本社のエラいさんが「北国に冷房はいらない」と北陸東北の冷房化に消極的だった事、普通車冷房化と編成出力向上を同時に賄えるキハ65が西日本限定にされた事などが挙げられます。
でも北陸だって東北だって、真夏は昔から蒸し暑いのですよ。
それなりにこの仕打ちですからね。
本社に権限が集中して、各管理局の要望に耳を傾けないんでしょうね。
もう30年以上昔の話ですけど、幼い頃に味わった不条理は生涯忘れないのですよ。
閑話休題、
上越線関連では、
一度は消滅した「よねやま」の愛称が、上野-直江津間(長岡経由)の電車急行一往復として復活。
ただしこれは純増ではなく、「佐渡」一往復を新潟発着から直江津発着に変更したものです。
この結果、定期「佐渡」は四往復になります。
ただ、資料では定期と季節運転を合わせて記されているので、定期運転については私の推定です。
ひょっとするとこの時点では定期五往復かもしれません。
日本海縦貫線関係では、
3月に新潟延長が成った「つるぎ」が寝台特急に格上げ。
そして新潟県内急行列車の最後の新設列車として、「奥只見」(小出-会津若松間、キハ58系)が運行を開始。

昭和47年10月改正時点では、急行30往復(電車9往復、気動車16往復、客車5往復)、一日当たり県内延べ走行営業キロ約7,900km。
これに対し特急は19往復、約6,200kmです。

昭和48年10月改正では特急は24往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは約7,800km。
定期急行は前年改正と変化が無いので、この時点で新潟県内では特急と急行の勢力がほぼ互角になりました。
この改正では「きたぐに」の普通座席車が、それまでの旧型客車から冷房付きで空気バネの12系客車に更新されているのが、個人的に感慨深いトピックです。
12系客車の定期急行列車運用は「きたぐに」が最初の例の一つで、当時まだ少なからず存在していたであろう長距離客には大いなる福音であったでしょう。

昭和50年3月改正では、上野-金沢間(長岡経由)に寝台特急「北陸」が運行を開始。
従来の寝台急行急行「北陸」は、座席車と寝台車混結の「能登」に改称して存続します。
「能登」に改めて連結された普通座席車は旧型客車で、当初はこの数年後に予定されていた上越新幹線開業後に手を入れる事を考えた、応急的措置だったのかもしれません。
当時の上野発着の東北方面夜行急行は概ねこんな感じで、この段階では「津軽」「十和田」「八甲田」「鳥海」「越前」そして「能登」の普通座席車は旧型客車で存置されていました。
東北・奥羽本線の夜行急行はその後20系や12系にグレードアップされていますけれど、「鳥海」「越前」「能登」は結局普通座席車に何のテコ入れもされないまま、開業が大幅に遅れた東北・上越新幹線開通まで、旧態依然とした姿で走り続けることになります。
鉄道ジャーナルの昔の列車追跡記事を読むと、「鳥海」では昭和55年になってもオハ35系が運用されていました。
そしてこれら全て新潟県内を通過しているのです。
「北国のいなかはこげんぐらいでちょうどよか」とナメられている気がして、とってもイヤな気分。
また新宿発着の「アルプス」が電車に統一された為に、非電化の大糸北線に乗り入れる気動車「アルプス」は廃止。
これで県内走行定期急行列車は一往復減の29往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは改正前の約7,900kmから微減に転じました。
一方、特急は「北陸」誕生で一日当たり県内延べ走行営業キロは約8,200kmになって、とうとう急行を逆転し、この後その差はどんどん開いていくことになるのです。
またこの時期には、「きたぐに」の食堂車が北陸トンネル火災事故の元凶と見なされて即刻連結中止、「佐渡」「よねやま」「妙高」のビュッフェ営業の中止と、急行列車の供食設備が相次いで失われていて、いよいよ古き良き急行時代の黄昏が始まったのでした。
続きは「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四」にて、ではまた。

2016年3月20日 (日)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一」からの続きです。
今回は昭和37年から昭和43年10月ダイヤ白紙大改正前夜までの話です。

昭和36年10月の全国ダイヤ白紙大改正以降、新潟県内の急行列車の整備も急速に進んで行きます。
キハ58系が落成していく度に、主要幹線の急行列車をキハ55系から置き換えて、捻出されたキハ55系と新造のキハ58系によって、後に急行格上げになるローカル準急の新設。
そして直流電化区間用の急行型電車の決定版である165系電車の投入によるものです。
その経過を、準急と合わせて年毎に追って行くと下記の通りになります。

昭和37年
3月:
準急「羽越」(新潟-秋田間、キハ55系気動車主体)運行開始。
これと同時に準急「あさひ」も一往復増発されます。
県都新潟と県北地方の速達アクセスが、これで実質的に構築されました。
また「あさひ」の運行開始により、県都新潟と隣接各県主要都市との間に、昼行優等列車二往復以上の体制が確立されました。
山形・仙台へは準急「あさひ」二往復、
郡山・福島へは準急「あがの」二往復、
長野へは準急「よねやま」「あさま」。
富山・金沢へは特急「白鳥」と急行「きたぐに」。
6月:
信越本線・新潟-長岡間の電化で上野-新潟間の電気運転が可能になったのを機に、長岡止まりの準急「ゆきぐに」一往復を新潟延長の上で急行に格上げして「弥彦」としました。
これで昼行上越急行は「佐渡」「越路」「弥彦」の三往復になりました。
しかし車両は80系電車、食堂車有りの客車、食堂車無しの客車とバラバラです。
電車は高速ではあっても乗り心地は疑問符が付くもので、洗面所も無く一等車はいわゆる「並ロ」。
当時、急行列車の一等車と言ったら「特ロ」が常識になっていましたから、高い一等急行料金を払って「並ロ」に座らされたのでは、たまったものじゃありません。
一方客車は重厚な乗り心地で一等車も「特ロ」、洗面所付きながら低速です。
同時に運行を開始した特急「とき」(新潟-上野間、161系電車)は、冷暖房完備で居住性抜群で乗り心地も素晴らしく、急行とのギャップは極めて大きかったでしょうね。
現代に当てはめれば、新鋭特急車両とキハ40系気動車や115系電車ぐらいの感覚的な差があるかも。
165系電車投入までの暫定措置とはいえ、新潟は田舎モンでおとなしいから、こげんぐらいでちょうどよかとナメられてる気がして、イヤな気分ですなまったく。
関西で同じ事をやったら、暴動モノですがな。
11月:
準急「うおの」(新潟-十日町間、キハ55系気動車)運行開始。
天下のNHKの当時のドキュメンタリーでも、「三級ローカル線」などと酷い事を言われていた飯山線にも、ようやく近代化の波が訪れたのです。
十日町地方の方には、県都新潟と直通出来る列車の誕生は画期的な出来事だったに違いありません。
なお、この「うおの」は準急「よねやま」と新潟-長岡間を併結運転していました。
12月:
急行「赤倉」(新潟-名古屋間、キハ58系気動車)運行開始。
この列車は純粋な意味での新設ではなく、準急「あさま」(新潟-長野間)と準急「きそ」(長野-名古屋間)を結合させて急行に格上げしたものです。
これで新潟と中部地方の中心・名古屋が直接結ばれましたけれど、新潟と名古屋の結び付きって正直薄いんですよね。
客車準急「妙高」(上野-直江津間)をキハ57系に車両変更して急行に格上げ。
これで上越地方と長野を結ぶ急行列車は、気動車の「赤倉」「妙高」と客車の「白山」の三往復になりました。
新宿から大糸線に乗り入れる気動車急行「白馬」の内一往復を糸魚川まで延長して、新宿-糸魚川間の運転としました。
大糸線の新潟県内区間初の優等列車です。

昭和38年
3月:
準急「野沢」(越後川口-長野間、キハ55系気動車?)運行開始。
午前中に飯山線沿線から県都長野へ行き、夕方帰るための用務を主とした列車で、当初の守備範囲は十日町まででした。
4月:
急行「しらゆき」(金沢-青森間、キハ58系気動車)運行開始。
日本海沿岸の直通旅客に加えて、金沢・富山-新潟と新潟-秋田・青森という地域間輸送も受け持つ、「白鳥」「きたぐに」を補完する性格の列車です。
急行「きたぐに」は大阪まで延長して、新潟-大阪間の運転としました。
これで新潟対関西の直通昼行(といっても一日潰れますけど)チャンネルは、特急「白鳥」と「きたぐに」の二往復体制になりました。
6月:
165系電車の新造投入によって、昼行上越急行列車を165系に更新。
編成も従来の7~8両編成から、半室ビュッフェ車と一等車各2両込みの12両編成に増強。
大型のヘッドマークが取り付けられて、東海道153系急行と並ぶ、日本最高クラスの堂々たる昼行急行列車になりました。
一年前の惨憺たる状態に比べて、夢でも見ているような変転でありましょう。
また夜行電車急行として「越後」を新設し、従来の夜行準急「越後」は寝台急行に格上げして、「天の川」に改称しました。
さらに前年の改正では80系電車準急のまま存置された「ゆきぐに」(長岡-上野間)を新潟延長・急行格上げします。
この結果、上越急行は昼行の165系電車「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」の四往復、夜行は寝台主体の「天の川」と165系「越後」で、特急「とき」を加えれば対東京のアクセスは大幅に改善向上したのです。
個人的には、「天の川」編成に一両だけ連結された座席指定車が、元特急用のスハフ43形だった話に目が釘付けですなぁ。
151系電車特急「こだま」がデビューする昭和33年11月までは、歴史と伝統に彩られた東海道客車特急の、庶民には手が出ない高嶺の花の特急専用三等車だったハコが、流れ流れて新潟に顔を出すようになったのです。
かつての花形スタァが地方公演ばかりの毎日を送っている、そんな印象でせつなくもありまた萌えるのです。
10月:
準急「くびき」(新潟-新井間、キハ55系気動車主体)と準急「ひめかわ」(新潟-糸魚川間、キハ55系主体)運行開始。
「くびき」については、新潟県内都市間需要の増大に加えて、「あさま」が急行「赤倉」に格上げされた為に、料金面で値上げという不満が出たからではないかなぁと思います。
「ひめかわ」については、糸魚川地域から県都新潟への用務利用を考えての設定と思われます。
長距離急行「きたぐに」「しらゆき」は、日帰り用務には使い難い時間帯なのです。
なおこれら気動車準急列車で一等車を連結していたのは「よねやま」のみのようです。
一等車と行ってもキハ55系の一等車キロ25、つまり「並ロ」です。
急行「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由、キハ58系)運行開始。
磐越西線経由で上野まで行くという、上越線開業前まで時間を遡ったような列車ですけれど、勿論新潟対東京ではなく、新潟対会津、中通り、中通り対東京の二つの使命を持つ列車であります。
準急「あがの」との違いは、純然たる急行用のキハ58系による運転であり、更に「特ロ」一等車キロ28が連結されていることです。

昭和39年
この年の10月に東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正がありましたけれど、新潟県内を走る急行・準急列車に大きな影響は無し。
この改正後の県内通過定期急行列車と一日の延べ県内走行営業キロ数は下記の通りです。
電車急行(165系電車)
「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」「越後」(新潟-上野間、「越後」のみ夜行)、
気動車急行(キハ57及び58系)
「赤倉」(新潟-名古屋間)、「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由)、「きたぐに」(新潟-大阪間)「しらゆき」(金沢-青森間)、「妙高」(直江津-上野間)、「白馬」(新宿-糸魚川間)。
客車急行
「天の川」(新潟-上野間夜行)、「北陸」(金沢-上野間、長岡経由夜行)、「羽黒」(上野-秋田間、新津経由夜行)、「日本海」(大阪-青森間、昼夜行)、白山(金沢-上野間、昼行)。
急行16往復。 一日の延べ県内走行営業キロ数約5,200km。
ちなみに特急列車は、電車「とき」(新潟-上野間)と気動車「白鳥」(大阪-青森・上野間)の二往復のみで、一日の延べ県内走行営業キロ数は約900kmに過ぎません。
新潟県内のみならず全国的にも、地方幹線の手堅い主役として颯爽と鉄路を駆け抜けていたのが、この時代の急行列車だったのです。

昭和40年
10月:
準急「羽越」を上野まで延長してキハ58系気動車急行に格上げして、秋田-上野間運転の「鳥海」に改称。
県北地域と東京を直接結ぶ昼行優等列車の誕生です。
準急「くびき」を妙高高原まで延長して、新潟-妙高高原間の運行とする。
妙高高原まで延長したのは、あるいは観光需要を見越しての事かもしれません。
165系電車準急「ゆざわ」(新潟-越後湯沢間)を新設。
慢性的に混雑する上越急行の補完役として設定されたであろう「ゆざわ」は、翌年3月に急行に格上げされるので、準急として走ったのは僅か半年でした。
客車夜行急行「越前」(上野-福井間長野経由)運行開始。

そして今からちょうど半世紀前の昭和41年。
3月に準急制度が見直されて、運転距離100km以上の準急は全て急行に統合されます。
新潟県内では「よねやま」「くびき」「ひめかわ」「あがの」「あさひ」「野沢」「うおの」「ゆざわ」が一斉に急行格上げとなって、新潟県内から一時的に準急列車が消滅。
10月:
新潟県内最後の新設準急として、「かくだ」(新潟-柏崎間)運行開始。
「かくだ」は越後線経由で、同線最初の優等列車誕生です。
対東京の上越線電車急行群の名称が整理されて、「佐渡」に統一。
同時に上野-石打間の電車準急「苗場」を新潟延長の上で急行に格上げして、「佐渡」に編入したので、「佐渡」はこれで定期五往復体制になります。
また夜行の「越後」は伝統ある愛称の「越路」に変更されました。
「妙高」は165系電車化した上で、上野-長野間の「信州」の内一往復を直江津まで延長して「妙高」に編入、これで直江津-上野間の「妙高」は二往復体制になりました。
新潟県上越地方と東京間の昼行直通速達列車は「妙高」二往復と「白山」、そして前年に「白鳥」から分離された気動車特急「はくたか」の合計四往復体制になりました。

昭和42年には新潟県内急行列車に変化は無く、翌年10月の全国白紙大改正を迎えるのですが、それは次回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三」にて、ではまた。

2016年3月19日 (土)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一

来る3月26日のJRダイヤ改正で、定期で唯一の急行列車「はまなす」が廃止されます。
これでJRからは定期急行列車が全廃されてしまいます。
幼い頃に急行列車に親しんだ中年鉄ヲタとしては、実にもって寂しい!の一言。
我が新潟県でも、急行列車が消滅して早三年になります。
我が県の場合は臨時急行の設定は無いので、文字通りの消滅であります。
そこで今回から備忘録的に、戦後の新潟県内国鉄~JR急行列車の興亡の軌跡を簡単に辿って行きたいと存じます。

戦後、新潟県内に毎日運転の定期急行列車が走り始めたのは昭和22年6月で、上野-新潟・金沢間(上越線経由)に夜行急行が運行開始、翌7月には戦時下の昭和18年に決戦ダイヤ移行で廃止された大阪-青森間の急行列車が復活しました。
両列車共に復活当初はまだ名無し・・・というよりも当時の国鉄で愛称を付けるのは特別急行列車に限定されていたので、これは当然の話です。
その後上野-新潟・金沢間の夜行急行は系統分離されて、金沢便は急行、新潟便は準急になります。
金沢便は昭和24年に大阪まで延長され、上野-大阪間の運転になります。
新潟便については格下げの印象を持ちますけれど、利用客からすれば、基本的に急行列車と変わらぬ客車に急行の半額の準急料金で乗れるのですから、かなりのお値打ちだったでしょう。

さて、その後まもなく、国鉄が急行列車にも愛称を付ける方針にしたのを受けて、昭和25年11月に上野-金沢間の夜行急行に「北陸」、大阪-青森間の長距離急行には「日本海」と命名されます。
その前月には、昭和24年9月に運行を開始した上野-新潟間の不定期昼行急行列車が定期化(愛称は付けられず名無しの701レ・702レ)されているので、新潟県内を走る定期急行列車は「北陸」「日本海」「701レ・702レ」の一日三往復になりました。
当時最新鋭にして特急の一等展望車を除けば最高水準の居住性を誇るリクライニンシート装備の座席車である特別二等車(通称「特ロ」)は、昭和25年秋から「北陸」と「701レ・702レ」に連結を開始していますが、当時「特ロ」を連結する急行列車は最重要な列車に限られていて、「北陸」と「701レ・702レ」にとっては面目躍如な話だったのです。
なお「北陸」には、戦前製の二等寝台車も連結されていました。
「日本海」については、需要が小さいという理由で「特ロ」連結は大阪-金沢・富山間のみとされています。

閑話休題、
昭和20年代は不定期急行こそ設定されるものの、定期列車についてはなかなか増えません。
昭和29年10月に、それまで上野-直江津間に運行されていた準急を金沢延長の上で急行に格上げした「白山」(上野-金沢間、長野経由)が加わったのみでした。
昭和20年代末の時点では、新潟県内を走る定期急行列車はこの四往復(701レ・702レは昭和27年に「越路」と命名されました)のみで、一日走行営業キロは延べ約1,500kmに過ぎません。
昭和31年11月ダイヤ改正では、上野-新潟間に二本目の昼行急行列車として「佐渡」がデビュー。
それまで上野-秋田間(羽越経由)夜行不定期急行として運行されていた「津軽」が、「羽黒」と改称されて目出度く定期化されます。
しかし定期急行列車の新設はこれで暫く打ち止め。
急行を補完すると共に、地方都市間速達輸送の主役であるはずの準急列車も、前述の上野-新潟間夜行準急に愛称が付いた「越後」のみ。
勿論、特別急行列車などというハイカラでハイソな列車は県内には影も形もありません。、
当時は復興期から高度経済成長期に脱却しつつあり、東海道では一等展望車と食堂車を連結した特別急行列車が鉄路の大スターとして君臨し、急行列車も続々増発、それらを補佐する準急も客車あり80系電車ありと咲き誇っている時代にですよ。
現代では死語となった「裏日本」という言葉が、まだ生きていたのを感じさせずにはおきませんな。

一方、その後の急行列車に繋がる準急列車は、昭和30年代も半ばに差し掛かってようやく整備が始まります。
年毎に簡単に追って行くと次の如し。
昭和34年
4月:「ゆきぐに」(長岡-上野間、80系電車)運行開始。この「ゆきぐに」は昭和36年10月ダイヤ改正で一往復増発されて、二往復中一往復は
国鉄急行型電車の元祖である153系電車で運転されます。
新潟県内の定期急行・準急列車で153系が充てられたのは「ゆきぐに」のみで、極めてレアな存在でした。
後に新潟対東京の上越急行が電気運転化された当初は、「佐渡」他の急行列車がつり革がぶらさがり、洗面所が無く、コイルバネで乗り心地の良くない80系電車や重厚な乗り心地ではあるものの速度の遅い客車で運行されていたのに対し、準急と
して一往復が残った「ゆきぐに」はそれらよりずっと新しくて設備も良く、空気バネで乗り心地も上々の153系電車で引き続き運転されていて、その差は極めて大きいものがありました。
客室の設備面で差があるとしたら、一等車(旧二等車)が準急相当のロマンスシートだった「ゆきぐに」に対して、客車急行のそれは「特ロ」だった事ぐらいでしょうね。
上越急行と準急の車両水準の逆転という不条理は、国鉄の車両運用の事情の産物です。
しかし乗客からすればたまったもんじゃないですよねw。
準急の倍の料金を払って、元々東京-沼津間の湘南電車として設計され、居住性も設備もそれに合わせている80系電車に長時間乗せられるなんて。
またまた閑話休題、
9月:「あがの」(新潟-仙台間磐越西線経由、キハ55系気動車。昭和36年に一往復増発)。
準急料金を取るに相応しい居住性を持つキハ55系を使用した待望の高速優等列車が、新潟県内にもようやく姿を見せました。
昭和35年
11月:「あさひ」(新潟-仙台間米坂線経由、キハ55系気動車)運行開始。
「あがの」「あさひ」の運行開始で、県都新潟と隣接東北各県の主要都市を直接結ぶラインが構築されたのです。
しかし新潟県内主要都市・地域を結ぶ優等列車は未整備のまま。
急行「日本海」や「越路」が使えないわけではないですけれど、これら急行は慢性的に混雑している上に、料金的に気軽に乗れる存在では無いので県内の用務・観光で簡単に使える存在ではありません。

昭和36年10月のダイヤ白紙大改正では、新潟県内もようやく速達優等列車の恩恵にあずかれるようになります。
この改正では県内初の特急列車「白鳥」(大阪-青森・上野間、キハ80系)が運行を開始。
新潟県内を走る定期急行列車の愛称がまだ両手で数えられる時代に、県内を東西に縦断する特急列車が誕生したのです。
一方、急行列車では「きたぐに」(新潟-大阪間)が運行を開始。
使用する車両は最新鋭のキハ58系です。
準急列車では「よねやま」「あさま」(新潟-長野間、キハ55系気動車)が運行を開始。
これでようやく、新潟・長岡・上越地区の新潟県内三大都市圏を結ぶ速達列車が実質的に実現されたのです。

この時点で新潟県内で運行される定期急行列車は、
「佐渡」「越路」(新潟-上野間、客車列車) 
「北陸」(上野-金沢間、長岡経由、客車夜行列車) 
「羽黒」(上野-秋田間、新津経由、夜行客車列車) 
「日本海」(大阪-青森間、昼夜行客車列車) 
「きたぐに」(新潟-金沢間、キハ58系気動車) 
計六往復、一日当たり県内走行延べ営業キロ数は合計約2400kmです。

続きは「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二」にて、ではまた。

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