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2020年5月 2日 (土)

1950年代前半のイギリス空軍(RAF)・その2(原子爆弾「ブルーダニューブ」登場)

「1950年代前半のイギリス空軍」第二回は、前回の"1951年末時点のイギリス空軍の戦力概況"に引き続き、1952年から55年までのイギリス空軍関係の特記事項を備忘録的に述べておきたく存じます。
英語版ウィキペディアを色々見て回って自分なりの解釈も交えてなんとか形にしました。
核兵器開発関係の話は迂闊にも知らないことばかりでまさに再勉強でございました。
イギリスの核開発の話って、日本語文献やサイトでは寡聞にして耳にしないもんなぁ。

さて、1952年夏にはデ・ハビランド・ヴァンパイアの発展型であるデ・ハビランド・ヴェノムが実戦配備を開始しています。
No11飛行隊がヴァンパイアFB.5からヴェノムの戦闘爆撃型FB.1に機種改編したのを皮切りに、戦闘爆撃機型のヴェノムはヴァンパイアの後継機として大量配備が続きます。
ちなみにヴェノムに関してはアメリカが自国のリパプリックF-84シリーズと並ぶNATO標準型の戦闘爆撃機にしようとイギリスに持ちかけたそうですが、イギリスは「生産能力の不足」を理由に断ったとのことです。
いくらアメリカの金銭的支援があるとはいえ、生産ラインを大きく増やしたらその後の維持は大変でしょう。
イギリスの判断はそうした背景があったのではと邪推するところです。
1953年秋からはヴェノムの複座夜間迎撃型NF.2が、No233飛行隊のヴァンパイアNF.10からの機種改編で実戦配備を開始。
ただしヴェノムNF.2搭載の迎撃レーダーは、第二次大戦後半に実用化したMk Xなのでその性能の旧式化は否めず、55年からアメリカ由来の新型迎撃レーダーMk21に換装したヴェノムNF.3の配備が開始されています。
なおこのMk21はヴェノムNF.3に先行して、1954年から配備を開始したグロスター・ミーティアNF.12に装備されて迎撃任務に就いています。
Mk21迎撃レーダーは最大探知距離が約40kmで、旧式のMk Xレーダーと比べて四倍近い探知距離向上を果たしており、Mk21を搭載したミーティアNF.12とヴェノムNF.3の配備が進んだ1950年代中盤において、イギリス空軍戦闘機のレーダー迎撃能力もようやくポストWWⅡの時代に入ったのでした。

昼間戦闘機では、後述するホーカー・ハンター戦闘機配備までの中継ぎとして、アメリカ製の遷音速戦闘機ノースアメリカンF-86セイバーをセイバーF.4の名称で供与を受け、1953年春のNo3とNo93飛行隊から配備を開始、54年春までに計12個飛行隊がセイバーF.4装備になっています。
セイバーが航空自衛隊の初代主力戦闘機でもあったのは皆様ご存知の通りです。
なお、セイバーF.4装備の12個飛行隊のうち10個が西ドイツ駐留の第2戦術空軍指揮下のヴァンパイアFB.5飛行隊からの機種転換です。
セイバーF.4は1955年夏からハンターF.4と交代を開始し、56年春までに12個飛行隊全てがハンターF.4に機種転換してイギリス空軍から退いています。
ハンターF.4は初期のF.1よりも機体の熟成に加えて航続性能が向上したゆえの第2戦術空軍への配備だったのですが、航続性能はセイバーが明らかに上回っていてその他の飛行性能は互角といって良いので、ハンターF.4の実用化後も西ドイツ駐留部隊にセイバーを残す選択肢もあったのではと思うところなのですけれど、そうはならずにアッという間にRAFから消えてしまったのはやはり国産機重視のイギリスの姿勢ゆえでしょうか。
ジェット爆撃機のキャンベラと共に開発最優先機に指定されていたイギリス国産の遷音速戦闘機のホーカー・ハンターは、1954年夏にNo43飛行隊がミーティアF.8からハンターF.1に機種改編したのを皮切りに実戦配備を開始。
ただし最初の量産型ハンターF.1とF.2はまだ試作機の延長のような状態でトラブルも相次ぎ、イギリス本土の昼間防空任務に留め置かれて東西冷戦の最前線西ドイツ駐留のRAF第2戦術空軍への配備は見送られます。
ハンターが第2戦術空軍に配備を開始したのは、前述したように完全な実用戦闘機型のハンターF.4からになります。

そのハンターの保険として開発されたのが遷音速戦闘機のスーパーマリン・スイフトで、ハンターに先んじてスイフトF.1が1954年2月にNo56飛行隊に配備されています。
しかしスイフトはハンターを凌ぐ高速性能を誇る一方、ピッチアップの悪癖とエンジンが高高度でリヒート(アフターバーナー)使用不能という戦闘機としては明らかな欠陥を抱えていて、No56飛行隊でも墜落事故を二件起こすなどトラブルが続き、55年春には暫定的に機種改編以前に運用していたミーティアF.8に使用機を戻してしまっています(間もなくハンターに再転換)。

1950年代前半はイギリスがアメリカの反対を押し切って独力での核兵器開発に邁進した時期でもあり、1952年10月に最初の原爆実験「ハリケーン作戦」を成功させています。
イギリスは第二次大戦中にアメリカの原爆開発プロジェクトのマンハッタン計画に科学者や技術者を派遣して支援し、戦勝の暁にはアメリカから原爆開発技術の提供を受けるつもりでいたのですが、核の独占を図るアメリカは1946年に制定された「原子力法」(俗にマクマホン法と呼称されています)で、たとえ最重要同盟国のイギリスであっても核技術は渡さない方針を定めてしまいます。
イギリスはこれに驚愕狼狽、そしてアメリカのこの新方針に大きな危惧の念を抱くのです。
「もしかして、アメリカはかつてのような中立主義に回帰してしまったのではないのか?」と。
まだNATOが結成される前の話です。
アメリカが中立主義に回帰して、欧州での西欧対ソ連の戦争に不介入を決め込んだ場合、衰亡したイギリスの国力や敗戦国同然のフランスの国力ではソ連の大軍勢に対抗できる軍事力の保有は不可能です。
それならば、万難を排してでもイギリスは原爆を開発して西欧を守り、そして世界の大国たるイギリスの威信を世界に知らしめねばならない。
この巌のような信念の元、イギリスは乏しい国力を動員して原爆開発を実行したのです。
アメリカは原爆の独占を目論んでいたので、たとえ最重要同盟国のイギリスであってもその核保有には反対です。
しかし少々の圧力ではイギリス側の決意を覆すことは出来ない為、懐柔策として1949年にある秘密提案をイギリスに示しました。
それは、イギリスで作られる兵器級プルトニウムと核科学者のアメリカへの移送移住、その代わりにアメリカは自国で製造する原爆のいくつかをイギリスに提供するというものです。
これを呑んでしまうとイギリスは独自の原爆開発能力を失いかねませんし、原爆のイギリスへの提供にしてもアメリカの都合で反故にすることもあり得るわけです。
このような提案をイギリスは到底呑むことは出来ずに話し合いは終了、1950年から51年にかけて兵器級プルトニウムを製造する軍用のウィンズケール黒鉛型原子炉二基が稼動を開始し、1952年秋のイギリス独力での原爆実験成功に繋がっていきました。

「ハリケーン作戦」の成功後、イギリスは1953年秋から最初の実用型核爆弾「ブルーダニューブ」のRAFボマー・コマンドへの引渡しを開始。
「ブルーダニューブ」は重量約5トン、核出力最大12キロトンというお世辞にも効率的とは言えない原子爆弾で、同じプルトニウム型原爆の「ファットマン」(長崎に投下された原爆)の重量が「ブルーダニューブ」よりやや軽量(約4.7トン)で核出力22キロトンだったのに比べると、「ファットマン」の八年後に実用化された原爆がこの程度の性能であることに当時のイギリスの国力技術力の衰亡ぶりが如実に表れているのです。
「ファットマン」の核出力/重量比は4.71なのに対し、「ブルーダニューブ」は約3に過ぎません(この数字が大きくなるほど効率的な爆弾ということです)。
「ファットマン」のピットはプルトニウム239が91パーセントで重量は約6.2kg、これで核爆発エネルギー寄与率は16%でした。
「ブルーダニューブ」の重量が「ファットマン」よりも重くて核出力が小さいということは、ピットのプルトニウム239の比率がより小さい、「質の悪い核物質」ではなかったのかと、理屈として最初に思い浮かぶところなのです。
質の悪い核物質を超臨界にもっていくには、爆縮レンズその他の構成品も大きくせざるを得ず、結果として重さ5トンで低威力の原子爆弾になってしまったのではないかと。

また万難を排してようやく配備を開始した「ブルーダニューブ」でしたけれど、肝心の輸送手段が配備開始当初は皆無でした。
改造すればなんとかこの巨大な爆弾を搭載可能かもしれないボーイング・ワシントンB.1(アメリカ製B-29)爆撃機の配備は54年春をもって終了。
アブロ・リンカーン爆撃機も改造すればこの原爆の搭載が可能かもしれませんけれど、如何せん飛行性能が旧式に過ぎます。
最新鋭双発ジェット爆撃機のキャンベラには、「ブルーダニューブ」搭載は機体のキャパシティ的に不可能です。

巨大な「ブルーダニューブ」の搭載を前提として開発に着手されたイギリス初のジェット戦略爆撃機のビッカース・ヴァリアントはまだテスト中。
ヴァリアント爆撃機は1954年春から訓練試験部隊のNo1321フライトに配備を開始しますが、この部隊は実戦部隊ではないのでヴァリアント自体は「ブルーダニューブ」の搭載は可能であっても、原爆の実戦運用はソ連との大戦争が勃発した時にぶっつけ本番で行うより他なかったことでしょう。
ヴァリアント装備の最初の実戦飛行隊No138が再編成されたのは1955年春で、この時点で原爆の実戦運用にようやく目処が立ったことになります。
しかし「ブルータニューブ」の生産ペースは上向かず、55年時点で保有するのはたったの10発だったそうです。
前述したウィンズケール原子炉で造られる兵器級プルトニウムの歩留まりがひどく悪いのがその要因のようで、「ブルーダニューブ」のピットも当初のプルトニウムのみからプルトニウムと高濃縮ウランの複合型に変えられているほどです。
兵器級の濃縮率90パーセント以上の高濃縮ウランを入手するには多数の遠心分離機を使うなどして相当の手間がかかるのですが、それでも兵器級プルトニウムの生産よりは歩留まりはまだマシだったようです。
最初の実用原爆がまだこのような状況なのに、イギリスは1955年2月に水素爆弾の開発計画を公表。
しかしイギリス最初の実用型水素爆弾「イエローサンMk.2」にたどり着くまでには紆余曲折があったのです。

1950年代後半のイギリス空軍については次回で、ではまた。

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