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2020年3月 7日 (土)

新潟日報で読む昔の新潟県内鉄道関連記事その一

私は一昨年夏から当ブログの「新潟県民放における子供向け番組放送の推移」を書くために、図書館で昭和41年4月以降の「新潟日報」縮刷版及び製本版を閲覧調査していました。
その際、せっかくの昔の新聞を閲覧する機会なのだからと、目に付いた鉄道関係の記事も適宜メモしていたのです。
今回は備忘録的に、それらメモを書き連ねていきたく存じます。

昭和41年
4月:
信越本線・安田駅に跨線橋を設置、これはそれまで直江津駅で使用していたものの移設だそうです。

5月:
ナローゲージの頚城鉄道の蒸気機関車が引退運転。この機関車は明治44年製造のドイツ製で、頚城鉄道には大正4年に入ってきました。

白新線「石山操車場」駅(原文ママ、現・東新潟駅)のホームを、新潟市の工事費負担(約140万円)で延長。
何m延長するのかは明記されていなかったのですが、当時のホーム長は僅か50mだったそうです。
この時はまだ乗降場扱いで正式な駅ではなかったのですけれど、1日の平均利用客は約2,000人でした。
この数字でも駅への昇格を渋る国鉄当局の感覚はやはりおかしいのです、まぁ利用の多少とは別に操車場に隣接している立地ゆえの運転上の問題があったのかもしれませんが。

越後線・小針駅の上手に地下道新設。工事費約530万円で年内に完成予定。

6月:
新潟交通電車線の白山駅乗り入れを国鉄当局に陳情。
当時既に議論になっていた県庁前-東関屋間の軌道線存廃問題に関連して県議らが行いましたが、乗り入れの必要経費は約一億一千万円。
誰が費用負担するのか結論が全く出ておらず、国鉄当局は「越後線の複線化を検討中なので電車線の乗り入れは困難」とつれない回答。
この時期に当局が越後線の複線化を検討していたなんて初耳で驚愕した記事でした。
もしこの時に新潟市が乗り入れの費用負担をすると英断を下していたら、電車線の運命も大きく変わっていたでしょうにねぇ。

この年の7月に運行を開始する越後線初の準急「かくた」の停車駅に比角駅(現・東柏崎駅)の追加を求める地元期成同盟会発足。
最終的には目出度く停車実現になる話です。

信越本線・新井駅のホームが県内初の「ケタ式」に改造中。
これはホームの線路に面した部分が"コの字"にへこんでいて、機械除雪をしやすくするというものです。

島式ホームから見た駅舎
2004年当時の新井駅一番ホーム。
多分、「コの字」とはホーム表面とその下の段差の事を指しているのでしょう。

7月:
新井-飯山新線期成同盟会を東京で開催。
この新線については当ブログの「新井駅」記事で触れていますが、信越本線・新井駅と飯山線・飯山駅を短絡直結する国鉄新線を建設しようという話です。
この新線はこの年の8月に建設予定線に昇格しましたけれど、それ以降の具体的な動きはなく、ペーパープランに終わりました。

越後線・小針駅に総工費一億円で列車交換設備新設、10月完成をメドに工事進む。
海側に全長220mのホームを新設し、これまた新設の跨線橋で連絡する形になります。
当時の越後線・新潟吉田間で列車交換が可能な駅は越後赤塚駅のみ!との事で、この記事も初耳で驚愕しました。
昭和41年度中に寺尾駅巻駅も列車交換可能にするとの事で、この時期に越後線の輸送力増強が意欲的に進められていたのです。

柏崎駅の跨線橋新築移転を柏崎市が国鉄に陳情。
これは跨線橋を駅南側からも利用できるようにしてほしいというものでしたが、この件は半世紀後の現在においても依然として実現していない話です。

8月:
糸魚川市が特急「はくたか」の糸魚川駅停車を陳情。
この件はこの年の10月ダイヤ改正で実現しました。
二ヶ月前の陳情でハイそうですかと即決するはずもないので、もしかしたら市が陳情する前に国鉄当局は「はくたか」糸魚川駅停車を内定していたのかもしれませんな。

新潟・福島の磐越西線沿線7市町村代表が国鉄本社に「磐越西線の電化複線化」を陳情。
市町村の数から考えて新津-喜多方間の話なのでしょうけれど、電化はトンネルの改修が必要ですし複線化はあの線形では厳し過ぎますな・・・。
そんな現実味の無い話よりは、新潟-福島若しくは仙台間に特急列車を運行しろと陳情した方がまだ実現性が高かったのではと思うところです。

9月:
上越線・六日町-五日町間に新駅「左の又」設置、来春着工を目指す。
新駅設置については国鉄当局との話し合いがついているとの事で、あとは工事費の地元負担分約1,600万円の調達をするのみで、極めて実現に近い話だったのです。
・・・しかしその地元負担のあり方について、地元では全く結論が出ていないのでした。
この「左の又」駅は六日町駅から下り2.2km地点に設置予定でしたが、六日町-五日町間は6.6kmなので新駅は位置的に六日町方に偏っているのが、負担を廻ってモメた原因だったようです。
そしてその後、この新駅の件は全く出てこずに終了です。
ちなみに六日町駅から2.2kmというと、国道17号線の「庄之又」交差点近くになり、六日町自動車学校の最寄駅になっていたことでしょう。
当時、六日町-五日町間は既に複線化していたので電化複線上に上下のホームが並び、建設におカネのかかる跨線橋は設置されなかったかも。
現在の八色駅みたいな感じの駅になっていたのかもしれません、ああ駅フェチとしては妄想が尽きない・・・w
またこの駅、西に約1.5km行けばほくほく線・魚沼丘陵駅があって、隠れた乗り継ぎ駅として私のような駅巡り者にとってはなかなか重宝な存在ですな。

10月
「特急停車にわく」
この月のダイヤ改正で、東三条駅に特急「白鳥」、糸魚川駅に特急「はくたか」の停車が実現したのです。
この時点での新潟県内特急停車駅は、新潟、新津、東三条、長岡直江津、糸魚川、越後湯沢の7駅でした。

12月
特急「とき」「白鳥」「はくたか」の立席特急券を発売(12/24-1/10)
当時の特急列車は全席指定(一部の列車には自由席の一等車がありましたが)なので、私が鉄オタ趣味にはまり込んだ頃には寝台特急の座席利用ぐらいしか耳にしなくなっていた立席特急券が、半世紀前の繁忙期にはこのように発売されていたのです。
でも都会の方でやっている「スワロー」特急券って立席特急券のリバイバルって感じだよなぁ。
あの制度はイヤだなぁ、「いなほ」や「しらゆき」には導入してほしくないとです。

昭和42年
2月
「新白線の実現を」
赤谷線・赤谷駅と磐越西線・白崎駅(現・三川駅)を結ぶ「新白線」実現に向けて、期成同盟会(新発田市、三川村、津川町、鹿瀬村で構成)が当局に陳情しました。
この路線については当ブログの三川駅の記事で触れておりますが、当時飛ぶ鳥を落す勢いだった田中角栄氏ですら「難しい」と言わしめた計画です。
実現には相当の政治的配慮か必要とこの時点ではっきり書かれているほどで、前述の新井-飯山新線以上に実現性の乏しいものです。
総延長約20kmの建設費推定は25億から40億円との事で、これは高いのかはたまたあの地勢ではお値打ち価格なのか判断に苦しむところ。

特急「はくたか」の田口駅停車と急行「第一佐渡」の加茂駅停車を来る3月下旬のダイヤ改正から実施。
当時は妙高観光の一大拠点駅であった田口駅(現・妙高高原駅)への特急停車が実現です。
これで新潟県内の特急停車駅は八駅になります。

7月
北陸本線の谷浜駅構内の渡線橋の供用を開始(2日から)
それまでは山側の集落から海岸沿いの国道に出るには構内の仮設踏切を利用していたそうで、渡線橋の設置についてはかねてから地元の強い要望があったとの由。
谷浜駅近くの踏切は駅からかなり離れていて、あの渡線橋が無いと歩行者にはかなり不便です。
構内の仮設踏切が警報機無しだと、歩行者の安全上問題ですからまずは大変目出度い話なのです。

跨線橋上から見た構内その2
2010年5月時点の谷浜駅渡線橋。
これがこの記事の渡線橋なのかはたまたその後改築されたものなのかどうか。

8月
特急「白鳥」の柏崎駅停車を柏崎市長らが当局に陳情
糸魚川駅への「はくたか」停車が実現したので、ならばウチもと思ったのは想像に難くないところです。
しかし柏崎駅に特急が停車するようになるのはもう少し先の話なのです。

越後線・越後曽根駅のホーム拡張進む
これは上下ホームの長さをそれまでの120mから倍の240mに延長するというものです。
上下ホームと言っているのでこの駅での列車交換は可能になっていたのかどうか。
昭和41年7月の報道では当時新潟-吉田間で列車交換が可能なのは越後赤塚駅のみで小針駅が工事中、寺尾駅と巻駅が工事予定という話だったのです。
この工事では安全側線を敷設することで、従来は不可能だった上下列車の構内同時進入が可能になるとあるので、工事着手以前から当駅での列車交換は可能であったと読み取れるのですよ。
当駅がいつ列車交換可能になったのか、前述の「越後赤塚駅のみ」という記事がそもそも事実誤認だったのか疑問が残る話なのです。

10/1ダイヤ改正
下り急行「第五佐渡」の加茂駅、急行「日本海」の見附駅、下り急行「越後」の小出駅、準急「かくた」の内野駅と比角駅(現・東柏崎駅)への新規停車が決定。
下り急行「第五佐渡」の石打駅、上り急行「第五佐渡」の越後中里駅への冬季季節停車(12/25-3/20)が決定。


昭和43年
2月
特急「雷鳥」、急行「立山」「金星」の10月改正での富山-糸魚川間延長運転を糸魚川商工会議所が当局に働きかけ。
しかし糸魚川市役所は「雷鳥」他の糸魚川延長よりも特急「白鳥」の糸魚川駅停車実現に熱心で、商工会議所と市役所で相当の温度差があったようです。
急行「立山」は後に富山-糸魚川間を快速列車として延長運転が行われていますが、この動きに影響されたものであったのかどうか。

3月
新潟-長岡間に急行の回数乗車券(急行券と乗車券のセット販売)を設定。
この種の回数券は全国広しと言えど、東京-軽井沢間と東海道新幹線の「こだま」限定のみだったそうで県民としては何か誇らしい気分w
この回数乗車券は11枚を一冊として販売する形式で、お値段は3,300円也。
11回普通に急行券・乗車券を買うよりも330円おトクとの事です。
急行の新潟-長岡間区間利用は1日平均900人近い数で、県内二大都市間の往来は昔から盛んだったのです。
北陸自動車道が開通していち早く高速バス路線が設定されたのも頷ける話ですな。

4月
信越本線・見附-帯織間の新駅設置を沿線住民が見附市長に陳情。
前述した幻の「左の又」駅に続く新駅設置の動きですが、実現寸前までこぎつけながら地元の費用負担でモメて頓挫した左の又駅とは違い、こたらは単に「市長に陳情しただけ」のレベルです。
市長は「地域発展に有意義なので考える」という玉虫色のコメント。
まぁ市としては本気で取り組む意思は無かったのでしょうね。

秋ダイヤ改正での特急「白鳥」の村上駅停車を村上市長が国鉄本社に陳情。
新鉄局ではなく本社に斬り込むというあたり、村上市の本気を感じさせます。
当時の「白鳥」は新潟-鶴岡間をノンストップで走っていたので、糸魚川駅に「はくたか」が停車するまでに特急停車駅のグレードが下がっていた当時のご時勢、村上駅に特急停車をという声はけして無茶な話ではないと思うのです。
市長が熱望する「白鳥」の村上駅停車は昭和47年秋の改正までお預けでしたが、特急停車実現自体は翌年に運転を開始した「いなほ」によって現実のものとなっています。

5月
長岡市及び周辺自治体の商工会議所が、長岡-上野間に急行列車の運行を当局に陳情。
これは長岡周辺から東京への用務の利便性を高めるために、長岡始発で上野に午前九時半に到着する急行列車を運行してほしいというものです。
当時のダイヤでは、朝イチの上野行急行「第2佐渡」の長岡発は8:20で、上野到着は12:20でした。
これでは日帰りができないので、ぜひ早朝長岡始発の急行を!というわけです。
この話は結局実現しませんでしたが、昭和50年代に入ってから新潟駅を朝六時過ぎに出発する特急「とき」が設定されて、長岡発は07:07、上野到着は午10:33です。
この陳情案にかなり近づいたダイヤ設定になっていました。

高田市と高田商工会議所が連名で、特急「あさま」と急行「信州」(いずれも上野-長野間の運転)の直江津延長と高田駅への停車を当局に陳情。
これも上述の「日帰り」の件で、早朝に直江津を立ち夜に戻ってくるパターンの「あさま」や「信州」運転で高田から東京への日帰り出張が出来るようにしてほしてというものです。
当時、高田と上野を直結する優等列車は急行「妙高」2往復と「白山」がありましたが、いずれも日帰りは不可能なダイヤだったようです。
特急「あさま」の直江津延長はこの後現実のものになり、朝七時台に高田を出て東京に五時間弱の滞在、夜九時に戻ってくるダイヤになっています。

6月
赤谷線の新発田-五十公野間に新駅設置を地元住民が当局に陳情。
この時期にこの地域で小中学校の統合があり、児童生徒の通学の便を図るためで、この件は後に現実のものとなりました。

「国鉄新潟支社管内の特急以外の冷房化率たったの7パーセント」
この頃、新潟支社管内の特急以外の列車冷房化は一等車と寝台車に限られていて、急行の二等座席車は自由席は勿論指定席でさえ冷房化率0パーセントという惨状なのでした。
苦言を呈された支社は「(二等座席車の冷房化は)いつ実現できるかわからない」という苦しすぎる回答。
クーラーを取り付けるのに一両当たり600万円かかるとの事で、気動車の場合は他に冷房用電源車の手当ても必要ですから更にハードルが高い話なのです。
電車急行の冷房化はその後急速に進みましたが、気動車急行については指定席車が冷房化されていれば御の字な状態が昭和50年代半ばまで続きました。

7月
「操車場前駅の移転に反対」
これは白新線・新潟操車場前仮乗降場(現・東新潟駅)の大形駅との合併移転話が出てきたことを受けて、近隣の石山団地住民が猛然と声を上げた話です。
当時は白新線の複線化を昭和45ないし46年に実現する計画(実際は昭和53年)で、併せて新潟操車場の機能を拡充するために操車場前仮乗降場を現在位置から800m東に移動して、隣の大形駅と統合する構想があったそうです。
現在位置のまま複線化すると上下のホームが数百mも離れてしまい、ホーム間を連絡する長大な地下道ないし跨線橋の建設に数億円かかるのでそれならいっそのこと移転しようという話ですが、新潟市は石山団地を建設した際に「駅から徒歩10分」をキャッチフレーズにしていたことから、団地住民が(駅移転は)話がまるで違うではないか騙された!と激怒されたそうです。
反対の声が多かったからなのどうかは定かではありませんが、当局は駅統合案を白紙に戻し、昭和53年の白新線部分複線化の際には新潟操車場前仮乗降場を正式な駅「東新潟駅」に格上げして、下りホームを操車場を挟んだ向かい側に設置して地下道や跨線橋は設置せず、下り列車利用の際のその不便さから「日本一不便な駅」と一部で囁かれたのです。

続きは次回、ではまた。

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