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2009年8月の記事

2009年8月30日 (日)

化石土建政治屋ばーさす民主の皮をかむった社会党左派

さて本日は衆議院総選挙です。
皆様投票はお済でしょうか? 私は先ほど行って参りました。
ぶっちゃけて書くと、選挙区は共産党、比例は自民党に一票を投じました。
私のところの選挙区は、何しろ自民民主両方ともアレな候補なので、共産党しか入れるところがないんですよね、白票は嫌だし・・・。

自民候補は声のでっかい、昔懐かしい「土建政治屋」さんで、中小企業の超ワンマン社長という印象。
何かというと中央とのパイプを強調される方です。
中央とのパイプで公共事業を引っ張ってくるという、すっかり手垢のついた手法です。
前回選挙ではゴリゴリの守旧派のはずだったのに「機を見るに敏」。
郵政民営化賛成派多数が覆らないとみるや、一蓮托生のはずの派閥のオヤビンをあっさり見放して、例によってでっかい声で
「私は郵政民営化賛成です!!!」
とぶち上げた御仁。
そんな見え見えのパフォーマンスなど有権者は見透かしていますから、あえなく落選。
比例で復活当選しましたが、まぁ、なんつーか・・・。

片や民主の候補は、筋金入りの「主体思想研究者」を師と仰ぐ方。
主体思想の研究者といえばどのような思想の持ち主なのか、見当はつかれると存じます。
そういう師匠にしてこの弟子ありというか・・・。
わかりやすく言えば、
「民主党の皮をかむった社会党左派」。
前回選挙では、
「拉致問題は選挙の争点じゃないので関係ありません!」
と、準全国紙のインタビューで堂々とのたまった方です。
この方、横田めぐみさんの拉致現場の視察に行かれた事があるのでしょうか?
まぁそのぐらいは地元選出議員として当然だと思いますけど・・・。
ちなみに外国人参政権付与も賛成だそうです。
そんな方でも当選挙区では連続当選。
前回の民主に逆風吹き荒れた選挙でも当選ですから、今回は圧勝でしょう。
自民候補がアレなので仕方無く入れる方も多いのでしょうけれど。
あの方のバックを知ればあんなに支持を得られるとは思えないのですけれど、まぁ拉致よりパチョンコ、北制裁の為のパチョンコ規制反対!オレたちから娯楽を奪うな!というのが少なくとも私の周囲の有権者の方々の趣味志向ですからね、
親北でも全然問題無いんでしょう。
話を脱線させると、我が県の民放は寝ても覚めてもパチョンコCMだらけです。
これでも「規制している」のだそうで、全くもって驚く他無し。
四局ある民放はパチョンコマネー無しでは最早成り立たないのではと危惧する次第。
まともな地元企業は不況で疲弊してしまってますからねぇ。

閑話休題
んなワケで、自民の声のでっかいおぢさんはなんだかな~ですし、民主のおなご先生は背景の思想が気持悪すぎて最初から問題外。
結局消去法で共産党しか入れるところがないんですよね・・・。
勿論共産党の支持者では無いですし候補への思い入れも一切ないんですけど。
全く困ったモンだ・・・。

2009年8月29日 (土)

青海駅(えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン)

本日の駅紹介は、北陸本線・青海駅

親不知駅はこちらへ← →糸魚川駅はこちらへ

青海駅の駅名標

新潟県糸魚川市に所在する有人駅で、駅開業は1912年(大正元年)10月15日。
2015年3月の北陸新幹線開業によって、第三セクターのえちごトキめき鉄道・日本海ひすいラインに移管されています。
開業当時は西頸城郡青海村の玄関駅で、その後同村は1927年に町制を施行、2005年(平成17年)3月に糸魚川市と合併して今日に至ります。

隣の親不知駅周辺同様、当地も日本有数の石灰石の産地で、天保年間から早くも農業に石灰を利用していたそうです。
1892年(明治15年)には青海石灰組合が設立。この頃から産業としての石灰利用が行われ始めたのでしょう。
青海駅設置に当たっても、石灰石を鉄道輸送する利便性の見地からその位置は石灰石業者の山元に近いところとする意見が強く反映され、結果村の中心部を南北に分断する形で駅が造られました。
町の市街地分断というデメリットは生じたものの、1921年(大正10年)に電気化学工業(株)(通称デンカ)が当地に進出すると、青海村は急速に発展してついには町制への移行も成し遂げます。
当駅の貨物輸送も石灰石の恩恵を大きく受けて、国鉄金沢鉄道管理局のドル箱となり、一時当駅に並び隆盛を誇ったものの短期間で沈んでしまった親不知駅に対し、青海駅の石灰石輸送はその後も堅調で1979年度(昭和59年)の当駅貨物輸送量は220万トンで全国第8位の規模。
金額ベースで39億円強、その大半は石灰石と、それを原料としたセメントです。
この頃、当駅の一日当たり乗客は900人台でその収入は30万円台との事。
それに対し貨物収入の一日平均は一千万円以上、いかに貨物(石灰関連)に特化した駅であったかがよくご理解いただけるかと思います。
その後、1984年(昭和59年)ダイヤ改正ではデンカ専用線発着以外の貨物取り扱いを廃止(これは他の大多数のローカル有人駅と同様)。
その後はトラック輸送に押され、ついに2008年(平成20年)3月15日、定期貨物列車の設定を廃止して「青海オフレールステーション」を開設し、貨物輸送を全面的にトラックへ切り換えました。
デンカ青海工場と当駅を結ぶ専用線も、この2日前に運行を終了しています。


青海駅に到着したEF510形電気機関車牽引の貨物列車
EF510形電気機関車牽引の貨物列車が貨物線に到着、2006年10月撮影

青海駅構内で入れ替え作業中のEF510形電気機関車
JR貨物青海駅構内で入れ替え作業中のEF510形電気機関車、2006年10月撮影。

青海駅橋上駅舎
さて青海駅は新潟県内初の橋上駅で、その竣工は1968年8月です。
2005年6月撮影。

前述のように駅設置により町中心部が南北に分断されてしまい、永らく不便をかこっていた為、駅舎改築に当たっては地域住民の意見を反映して自由通路付きの橋上駅舎としました。
駅舎内は0720~1820営業の窓口と自動券売機が一台。
2006年当時、窓口営業時間内は券売機は使用停止で、窓口できっぷを買うようになっていました。

青海駅橋上駅舎内部その1
青海駅橋上駅舎内部その2
青海駅橋上駅舎内部その3
橋上駅舎内部の様子、上二枚は2009年6月、下は2004年3月撮影。

通路は広く数台ある改札口が印象的。
その分、土日日中の人気の無さが一層強調されています・・・。
この改札群、駅改築当時の朝夕にデンカ関連への通勤客で賑わった証なのでしょうか。
窓口の反対側にある待合室は横長で、JR西日本定番のこげ茶の一人掛けベンチが壁際にズラリと並んでおります。
こちらも現在の当駅推定利用客に対して明らかに過大です。
また飲料自販機とトイレは駅正面(北口)にあります。

青海駅北口駅前通り
駅北口通りの様子、2006年10月撮影。
駅北口から駅前通りを五分も歩けばそこは日本海の大海原。
しかし海岸からの見通しはいたって地味です・・・。
海岸手前には国道8号が通っておりますが、信号がそこここにあるせいか、浦本駅梶屋敷駅、親不知駅周辺のように信号が無い為に切れ目無く車が行き交う光景はありません。
駅前周辺は官公庁と銀行以外目立つものはなく、旅館の看板を二軒確認、また営業中の菓子店が一軒という程度。
街中をぐるりと歩いた2006年10月時点では、少なくとも駅北口至近にスーパーやコンビニは無く、土曜の夕方なのに人気が全くありませんでした・・・。
南口は線路に沿ってさらりと歩いただけなので、デンカ工場のある南方へは行きませんでしたがそちらには何かしらあるのでしょうか。

青海駅南口
駅南口の様子、2009年6月撮影。
駅南口は民家が密集しており、細い路地が多いことからかなり昔からのものと思われます。

駅南側の街並み
駅南側の町並み、2006年10月撮影。
デンカのうすら高い煙突がランドマークと言えましょうか。

線路沿いを糸魚川方面に歩けば旧貨物線を至近に見、親不知方面に歩けばデンカ専用線の踏切を通れます。
構内から左カーブしてデンカ工場へ通じる、今や物言わぬ二条のレールを望見するのもまた一興かと。

デンカ専用線その1
南口至近の専用線踏切から青海駅側を望む、2009年6月撮影。

デンカ専用線その2
同じくデンカ工場側を望む。

陸橋上から見た青海駅構内
糸魚川方の陸橋上から広い駅構内方向を望む。

青海駅構内は旅客用の島式ホームと、その隣(南側)にある貨物用ホーム。
貨物用ホームは現在は使用されておらず、またホームへの出入りも禁止されているので仔細に検分する事は出来ません。

青海駅の島式ホームその1
島式ホームの糸魚川方から見た青海駅構内、2005年6月撮影。

青海駅の島式ホームその2
島式ホームの市振方から見た構内、2005年6月撮影。

自由通路から見た構内その1
橋上駅舎自由通路から構内の糸魚川方を望む、2008年5月撮影。

自由通路から見た構内その2
同じく構内の富山方を望む。
手前の貨物列車はデンカ専用線のものです、2004年3月撮影。

当駅の駅舎とホームは富山方終端で連絡されており、当駅利用客は必然的に富山方面行きの場合は電車先頭車両に、直江津行の場合は電車最後部に固まる事になります。
なお他の北陸本線の諸駅同様に、ホーム上に接近警告機が置かれております。

青海駅を出発する419系電車
419系電車富山行が上り線を出発、2004年3月撮影。


青海駅に停車中の475系電車
上りホームに停車中の475系電車富山行、2005年6月撮影。


青海駅を出発する475系電車
475系電車国鉄交直流急行色の富山行が夕刻の上りホームを出発、2009年6月撮影。

かつて、昭和57年11月ダイヤ改正までは当駅と新潟駅を越後線経由で結ぶ気動車急行「ひめかわ」が運行され(早朝当駅を立ち、夜戻ってくるパターン)、「ひめかわ」廃止後は県都新潟との出張往来を考えて、特急「北越」に能生駅共々、朝の新潟行と夜の金沢行を停車させていました。
しかし余程需要が無かったのか、あまり時を経ずして通過となってしまい、その後特急列車の停車は一切無いまま第三セクター化されて今日に至ります。

2015年11月3日追加

デンカ専用線跡その1
デンカ専用線跡その2
デンカ専用線運行終了から約五年半後の様子、2013年5月撮影。
ご覧のように、レールは完全に撤去されていました。

青海駅を通過する特急「はくたか」その1
青海駅を通過する特急「はくたか」その2
上り線を通過する金沢行特急「はくたか」、上は2013年10月、下は2014年5月撮影。

青海駅を通過する485系電車特急「北越」
糸魚川方の跨線橋上から撮影した、上り線を通過する金沢行特急「北越」、2014年5月撮影。
交流区間は電気設備が物々しくて、こういう画はあまり見栄えがしませんな。

青海駅を出発する413系電車その1
青海駅を出発する413系電車その2
JR時代末期になって、この界隈でもそれまでの朝晩のみから日中でも目にするようになった413系電車。
上は2013年10月、下は2014年5月撮影。

青海駅を出発する413系電車その3
やはり違和感バリバリの、青一色413系電車直江津行、2014年5月撮影。

青海駅を通過するEF510形電気機関車牽引の貨物列車
重量感たっぷりで上り線を通過するEF510形電気機関車牽引の貨物列車、2013年10月撮影。

2009年8月14日 (金)

市振駅(えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン)

本日の駅紹介は、北陸本線・市振駅

親不知駅はこちらへ

2017年4月15日記、旧記事を新記事に統合し、画像を一部貼り替え加筆修正しました。

市振駅の駅名標

新潟県糸魚川市の西端・・・というよりは、我が県最西端の駅で、2015年3月の北陸新幹線開業と同時にJR西日本・北陸本線から第三セクターのえちごトキめき鉄道・日本海ひすいラインの所属に変わっています。

開業は大正元年(1912年)10月15日で、開業時の所在は西頚城郡市振村。
村はその後、昭和29年(1954年)10月1日に隣接する青海町に編入、さらに平成17年(2005年)3月19日に糸魚川市と合併して今日に至っています。

富山県泊駅から青海駅まで北陸本線を東へ延伸するに当たって、泊-親不知間に設置する駅については沿線の富山県の宮崎、境両村とこの村が名乗りを上げたそうです。
しかし折り悪く当時コレラが流行していた事から、病気の伝染を助長する糞便を撒き散らす汽車はノー!という事で境村が誘致合戦から撤退。
残る宮崎村と市振村の争いの末、極めて弁のたったという村長の活躍で、立地条件にさしたる利点があるわけでもない市振村が勝ち残り、目出度く市振駅誕生の運びとなりました。
(敗北した隣の宮崎村には、昭和32年10月15日に越中宮崎駅が新設されています)
ただ、村にとってちょっと痛かったのは、村名を駅名とする事にこだわったばかりに、全国的な知名度のある「親不知」の名前を使わなかった事です。
日本海と山地に挟まれた急峻な難所である親不知は、当駅と親不知駅(駅間8.6km)の中間にあります。
現在の親不知駅の駅名(当時の所在は西頚城郡歌外波村)ははっきりと決まっていなかったので、その気があれば市振駅を親不知駅と命名する事も可能でした。
当時は所在自治体名や地名を駅名とするのが常識でしたので、親不知という名前の持つネームバリュー(当時は「難所」というネガティブイメージが先行していて、新駅の名前にはふさわしくないと考えられたのかもしれませんが)を村の振興に活用するという発想はなかったのでしょうけれど・・・。
村が新駅の村名命名にこだわったおかげで、隣の歌外波村は村の駅に村名を使わずに知名度の高い「親不知」と命名、これが現在の親不知駅であります。

古い資料で恐縮ですが、糸魚川市統計要覧によると市振駅の平成19年度(2007年度)の年間乗車人員は20,435人で、定期利用者率は約80%。
単純計算すると1日平均約56人になります。
この数字はトンネル駅として知名度の高い筒石駅とほぼ同等で、旧糸魚川市近郊の梶屋敷駅の約半分になります。
駅周辺の鄙びた風情を考えると、中々に健闘しているように思われる数字ですけれど、
この数字は2005年度比で約22%の減。
一年で二桁の減少率ですから、10年後の現在(2017年)は単純計算すると20人前後まで落ち込んでいる可能性も無いとは言えないのです。

市振駅駅舎
市振駅駅舎の様子、2013年10月撮影。
建築財産票によれば、竣工は明治41年(1908年)10月。
明治大正の駅舎特有の上屋とその支柱の造作がこの建物にもしっかりあります。
当駅開業は北陸本線・泊-青海間開通の大正元年(1912年)10月なので、建築財産票の表記が正しいのであれば、駅開業の4年も前に完成していた事になります。
泊-青海間の開通が遅れた為にこのような差が生じたのでしょうか?
建物の経年から考えて改築を考えるべきでしょうけれど、もしそうなったら待合室のみの小さな建物になってしまうのでしょう。
いやもしかするとホームに待合室を建ててそれで終了かも。
駅の敷地は国道を往くドライバー向けの休憩所に転用するのもあり得ますな。

市振駅前広場
駅前広場の様子、2009年6月撮影。
駅前を通る国道8号線出入り口に派出所があります。
私が最初に当駅を訪れた2004年3月には市振-泊間の路線バスが乗り入れていましたが、その直後に廃止されてしまいました。
2017年3月時点では、富山県朝日町運営のあさひまちバスと糸魚川市の青海地域コミニュティバスが乗り入れています。
あさひまちバスは平日のみの運行で市振-泊間に上下9本が設定されていて、当駅から国道を約1km西に進んで富山県に入ってすぐの「境東」バス停からは市振便に加えて泊との間に上下17本が走っています。
平日限定とはいえ、本数は比較的多く利便性は中々のものです。
このバスだと越中宮崎駅、泊駅への移動に使えます。
一方、青海地域コミニュティバスは市振-親不知-青海間に運行されていますけれど、金曜日のみの運行でしかも要予約です。
来訪者が簡単に旅程に組み込めるものではなく、事実上当地域の方専用になっています。
この地域は、行政上は糸魚川市になっていますが地域の方の移動実態としては富山県側ということなのでしょうね。
まぁここから青海までは約14km、糸魚川市中心部までは約21km。
対して泊までは約9kmですからそれも已む無しでしょう。

市振駅前を通る国道8号線その1
市振駅前を通る国道8号線その2
駅前を通る国道8号線の様子、上は2009年6月、下は2013年10月撮影。
駅前のお菓子屋さんが、当駅付近唯一のお店です。
上の画像右側の建物は駐輪場です。
親不知駅付近では大型車がびゅんびゅん走っている国道も、この辺りでは交通量も落ち着いて見えるのが不思議なところ。
親不知ICから北陸自動車道に入るクルマがそれだけ多いということなのでしょうか。

市振駅前を通る国道8号線その3
駅から国道を東に進み、市振集落へ向かう県道の分岐付近から振り返って一枚、2009年6月撮影。
空も一面曇って、ひどく蒸し暑い梅雨只中の日でしっけ。
当駅を訪れたのは2004年、2005年、2009年、2013年の四回ですけれど、どの訪問もこんな曇りか小雨模様で青空が見えたことはほとんど無かったですなぁそう言えば。

陸橋上から見た市振駅構内
国道から分かれて集落に向かう県道の陸橋上から構内を俯瞰で見る、2013年10月撮影。
電圧の高い交流電化区間だけあって、素人にもよくわかる物々しい重装備の架線柱です。
直流区間なら架線柱ももっとスッキリしていて、駅構内の様子もよくわかるのですけれど。

市振駅駅舎内部その1
市振駅駅舎内部その2
駅舎内部の様子、2013年10月撮影。
有人時代の面影の残る室内です。
隣の親不知駅駅舎と異なって構内出入り口に遮風板が設置されていません。
戸を閉めておかないと、特に冬は大変ですなこれは。

ホームから見た駅舎その1
島式ホームから見た駅舎と構内通路、2013年10月撮影。
構内踏切は新潟県内の駅では旧信越本線の脇野田駅と直江津以西の有間川、親不知、そして当駅のみ。
とりわけ直江津以西のモノの雰囲気はバリバリの下越人である私にとっては独特というより異質感満載で、越後というよりは最早越中の気配。
それもそのはず、ここ市振駅は新潟駅から約200kmの彼方なのです。
東京からだと郡山や掛川の手前まで、大阪からだと倉敷あたりというスケールなのですよ。

ホームから見た駅舎その2
構内の島式ホームとその右手の駅舎の位置関係、2013年10月撮影。
上屋は一両分ほどで、その下にベンチが左右4脚ずつ設置されています。
上屋とベンチは親不知駅方に大きく偏った配置なので、列車撮影で待機している時は身の置き所に少々迷うのです。
構図的には列車と上屋と駅舎がセットになっているのが望ましいと個人的に思っているので、撮影の際は富山県側に立たなければなりませんが、列車が近づく毎にここからホーム端まで移動するのは面倒くさいのですよ。

構内通路
構内通路から糸魚川方を見る、2013年10月撮影。

市振駅の島式ホームその1
島式ホームの富山方から見た市振駅構内、2013年10月撮影。
はるか彼方の上屋と架線柱以外に遮るものがない幅広のホームは、のっぺりと平板な印象が強くて個人的にはあまり意欲が湧かないのです、
画像左側の防波板も少々無骨に過ぎるかなぁ。
後背の親不知子不知の天険の風情は良いのですけれど。

市振駅の島式ホームその2
上の画の立ち位置から振り返って富山方を見る、2013年10月撮影。
画像左の横取り線は、ご覧のように富山県側の本線とは繋がっていません。

構内の煉瓦小屋
少々退屈な構内でアクセントになっているのが、明治期以来の煉瓦積みの小屋です、2012年10月撮影。

市振駅を出発する475系電車
上りホームを出発する475系電車富山行、2013年10月撮影。

市振駅で行き違う上下の475系電車
市振駅で行き違う上下の475系電車、2009年6月撮影。

市振駅を出発した413系電車
上りホームを出発して加速する413系電車、2013年10月撮影。


市振駅に停車中の419系電車その1
市振駅に停車中の419系電車その2
下りホームに停車中の419系電車直江津行、上は2005年6月、下は2009年6月撮影。

市振駅を通過する485系電車特急「北越」その1
下り線を通過する下り485系電車T編成の特急「北越」新潟行、2013年10月撮影。

市振駅を通過する485系電車特急「北越」その2
上り線を通過する485系電車R編成の特急「北越」金沢行、2013年10月撮影。

市振駅を通過する特急「はくたか」その1
金沢行特急「はくたか」が上り線を通過、2013年10月撮影。

市振駅を通過する特急「はくたか」その2
下り線を通過する越後湯沢行特急「はくたか」、2013年6月撮影。

市振漁港
新潟県最西端の市振漁港の様子、2009年6月撮影。
駅から東に500m程進むと市振集落に入ります。
この集落は、かの松尾芭蕉が宿泊した旧宿場町であります。

市振関所跡
市振小学校校庭前に立つ「市振関所跡」、2009年6月撮影。
江戸時代の全国五十三関所中重要二十三関所の一つで、陸路と海上両方の監視拠点でした。
駅から集落への入り口に小学校があり、土曜の午後とあって子供達がそこかしこで歓声奇声を上げて遊んでおり、賑々しい印象。

市振集落
集落を通る県道の様子、2009年6月撮影。
集落内には美容院と、営業しているのか定かでない雑貨店。
この辺は、駅のイメージとリンクした鄙びたものです。

市振の「海道の松」
集落の終端にあるのが、画面右側にある糸魚川市文化財の「海道の松」、2009年6月撮影。
その樹齢は200年以上だとか。
昔の北陸道は、この松から海岸に下りて、悪天候時や冬場はまさに命がけで天下の険・親不知子不知を越えて東へと向かったのです。

2009年8月 8日 (土)

親不知駅(えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン)

本日の駅紹介は北陸本線・親不知駅

青海駅はこちらへ← →市振駅はこちらへ

親不知駅の駅名標

新潟県糸魚川市に所在する無人駅で、1912年(大正元年)10月15日の開業です。
2015年3月の北陸新幹線開業後は第三セクターのえちごトキめき鉄道・ひすいラインに移管されて今日に至ります。
開業当時は西頚城郡歌外波村の所在で、同村の玄関駅でした。
隣の市振村が著名な「親不知子不知」を有しているにも関わらず、村名をそのまま駅名としてしまった為、歌外波村がネーミングをゲットして村の駅に「親不知」の名を冠しました。
当時は観光よりも難所のイメージが強かったでしょうし、そこから生じるネガティブなイメージが市振村をして「親不知」の名を駅に命名するのを躊躇した向きもあるのでしょう。
それとは逆に自村のこれといった明確なイメージの湧かない名前よりも、「親不知」というインパクトの高い名前を取った歌外波村。
対照的な行き方を見せた両村の損得勘定はどうだったのでしょうか・・・。

駅前の観光案内板
駅前の観光案内板、2006年10月撮影。
天険まで徒歩一時間と書かれていますが、国道8号線の歩道がそこまで達しているのかどうか。
私は途中の道の駅までしか行ったことがありませんが。

なお、歌外波村も市振村も戦後の昭和29年10月1日をもって青海町と合併、その青海町も平成17年3月19日に糸魚川市と合併し、現在に至ります。

さて親不知駅は南側から迫り出す山地と北側の日本海に囲まれた狭隅な立地条件にあります。
当地から旧青海町にかけての山地一帯は日本有数の石灰石の産地で、明治になると地元による石灰石採掘が始まり、1917年(大正6年)には「帝国石灰」(東海電極製造)が農業用石灰採取を開始、1927年(昭和2年)に「信越化学」が鉱業所を設置、1936年(昭和11年)には「大日本セルロイド」が進出し、「信越化学」と「大日本セルロイド」が石灰石を新井・直江津・富山・武生の各社関係工場に貨車輸送する事から、当駅は石灰石の集積出荷拠点として大いに賑わったそうです。
資料によると、1964年(昭和39年)には年間667万トンを取り扱い、当時の国鉄金沢鉄道管理局管内の貨物営業では、隣の青海駅と並ぶ稼ぎ頭で駅員も三十人を越えていたとの事!
しかし青海駅がその後も石灰石輸送で重きを成したのとは対照的に、当駅の貨物取り扱い量はその後急減・・・。
資料には触れられておりませんでしたが、従来の採掘場からの石灰石の枯渇と更なる採掘場の開発には、青海周辺と比べて峻険な地形が災いして採算ベースに乗らずに順次当地から撤退・・・というところなのでしょうか?
かくして石油ショック後の昭和52年(1977年)には貨物取り扱い量はたったの9000トン!(驚!)
この年の5月に貨物取り扱いを廃止しています。
ウイキペディアによるとこの時石灰採掘専用線も廃止されたとの事ですが、今日ではその痕跡を見出す事は出来ません。
(専用線の詳細をご存知の方、ぜひともご教授お願い致します)
その後は周辺人口に見合うローカル駅らしく、荷物廃止を経て無人化(ウィキペディアによれば1994年)され今日に至ります。

旧歌外波村の集落は山地にわずかに開けた谷間に沿っていて、周辺は新潟県下有数の地すべり警戒地域。
注意喚起の立て札も駅周辺に見られ、地元の方々の気苦労が察せられます。
駅前通りには糸魚川寄りに郵便局、市振寄りに旅館が一軒といったところで、スーパー・コンビニは勿論雑貨屋も無く、駅周辺での食料調達は出来ません。

親不知駅前通りその1
駅前通りの糸魚川方から駅を望む、2006年10月撮影。

親不知駅前通りその2
駅前通りの駅側から糸魚川方を望む、2006年10月撮影。

駅前通りを一旦糸魚川方向に進み、北陸線のトンネル手前を陸橋で乗り越えて国道8号線へ出て1kmほど富山方向に進むと道の駅「親不知ピアパーク」があります。

親不知駅付近の国道8号線
国道から望む弥生三月の日本海、2004年3月撮影。

道の駅にはレストランや休憩所がありますので、鉄道でこの地に降り立ち、撮影などで長時間滞在する場合はこちらで日本海を眺めながら休憩するのも良いでしょう。
また道の駅への道中左手には、北陸自動車道橋脚建設が影響したとされる消失したかつての砂浜とその向こうの親不知駅全景を望めます。

国道8号線から見た親不知駅その1
国道8号線から見た親不知駅その2
国道から見た駅全景、2009年6月撮影。

国道の歩道の幅は非常に狭い上に、高速で行き来するトラックやダンプの煽り風、そして日本海から吹きつける海風が複合して、風の強い日や悪天候の日の国道歩行は危険でお奨めできません。
そんな日は、体重の軽い人は大型車が通過する際、立ち止まって踏ん張らないと冗談抜きで車と接触しかねません・・・。

親不知駅駅舎
親不知駅駅舎の様子、2009年6月撮影。
建築財産票によれば大正元年6月の竣工。
駅開業の四ヶ月前には完成していた事になります。
駅舎に増築したような形で恐らくは当駅華やかかりし頃の駅員宿舎?が現在も残っております。
見たところテレビアンテナはなさそうですが、現在でも保線の休憩所として使用されているのでしょうか?
駅事務室同様に現在では不要なスペースに見え、建物自体の経年を考えれば六年後の北陸線第三セクター化前後には、待合室機能のみの簡素な建物に改築されてしまうのでしょうね・・・。

親不知駅駅舎内部その1
親不知駅駅舎内部その2
駅舎内部の様子、2009年6月撮影。
駅舎は現在待合室の機能のみで、室内には自動券売機一台と分別ゴミ箱、木製のベンチが二脚に異常時連絡用?の黒電話が一台。
日中は照明が点灯しておらず、駅手前まで迫る山地の陰になっている事も相まって、室内は薄暗いです。
まぁ、そのおかげで光に集まる小虫の類は日中待合室内に不必要に入ってきませんので、虫が鬱陶しい向きには比較的過ごし易いのが利点と言えましょうか。
駅出入り口には飲料自販機とTELBOXが置かれております。
トイレは駅舎とは別棟にあり非水洗です。内部はこのクラスの駅のそれにしてはなかなか綺麗でした。

親不知駅の島式ホームその1
島式ホームの富山方から見た親不知駅構内、2004年3月撮影。
当駅構内は幅の狭い島式ホームが一本きりです。


親不知駅の島式ホームその2
島式ホームの構内通路から富山方を見る、2009年6月撮影。

親不知駅の島式ホームその3
ホーム上屋の様子、2009年6月撮影。
上屋は2両分程で、歴史の古い駅のそれとしては短めです。

親不知駅の島式ホームその4
富山方に向かってゆるやかな曲線を描くホーム、2009年6月撮影。

駅前通りから見た親不知駅構内
北陸本線と並走する駅前通りから見た親不知駅構内、2014年5月撮影。

北陸本線と並行する国道8号線と北陸自動車道
駅前通りの糸魚川方から見た構内と、北陸本線と並行する国道8号線と北陸自動車道、2014年5月撮影。

構内踏切
駅舎とホームを結ぶ構内踏切の様子、2009年6月撮影。

海岸側には北陸自動車道と国道8号線の高架群が絡み合いながら雄渾に屹立していて視界を遮り、ホームから日本海の大海原を望見する事は残念ながら出来ません。
予備知識のない方は「親不知」という名前に惹かれて下車なんて事もあるのかもしれませんが、この光景にはさぞやがっかりと心中お察し申し上げる次第であります。

海岸側にはかつての貨物用側線跡とおぼしきスペースがありますが、現在は保線用と思しき側線が一つ。
下り本線(糸魚川方面)とは繋がっておりますけれど、途中から俄かに草生していており、ホーム中ほどの位置で車止めです。

親不知駅に停車中の413系電車
弥生三月の朝、海側の下りホームに停車中の糸魚川行413系電車、2004年3月撮影。
ちらりと見える海の蒼さが印象的。

親不知駅に停車中の419系電車
下りホームに停車中の419系電車直江津行、2004年3月撮影。
親不知駅を出発する419系電車
上りホームを出発する所謂「食パン顔」の419系電車富山行、2009年6月撮影。

親不知駅に停車中の475系電車
下りホームに停車中の475系電車直江津行、2009年6月撮影。

親不知駅を通過する485系電車特急「北越」その1
下りの475系電車停車中に上り線を高速通過する485電車T編成の金沢行特急「北越」、2006年10月撮影。

親不知駅を通過する特急「はくたか」
上り線を通過する金沢行特急「はくたか」を駅前通り富山方から見る、2006年10月撮影。

親不知駅を通過する485系電車特急「北越」その2
下り線を通過する485系電車T編成の新潟行特急「北越」。

親不知駅を通過する485系電車特急「北越」その3
春ののどかな青空の下、上り線を通過する485系R編成金沢行特急「北越」、2004年3月撮影。





親不知駅を出発する475系電車
日没直前の親不知駅を出発する475系電車国鉄交直流急行色の富山行、2009年6月撮影。

親不知駅を出発した413系電車
上りホームを出発した青一色の413系電車富山行、2014年5月撮影。

2009年8月 2日 (日)

地味なFJフューリーは我が新潟の空の守護神だった!

先月30日に発売された「世界の傑作機」最新刊は「ノースアメリカンFJフューリー」。

米海軍ジェット戦闘機の実戦部隊配備第2号(ただし空母運用資格不合格に付きCVクルーズ参加せず)「FJ」と、朝鮮戦争で遭遇した共産軍最新鋭戦闘機MiG-15に対抗できる戦闘機を持たず焦燥感にかられた米海軍が、恥も外聞もプライドも捨てて、当時唯一MiGに対抗出来た米空軍主力戦闘機「F-86セイバー」を艦載戦闘機として仕立て直させた「FJ-2」、そこから海軍独自の発達を遂げた「FJ-3」「FJ-4」シリーズの二種類に大別される「フューリー」シリーズ。
それを一冊に纏めて紹介したのがこの本であります。

前々号が、その特異なスタイルからマニア受けする(フジミから1/72でプラモデルが発売されているのが愛好者の多い証)「ヴォートF7Uカットラス」などという機体を扱っておりますので、この「フューリー」もいずれは・・・とは思っておりましたが、まさかこんなに早く出るとはねぇ~・・・。
まぁ、戦闘機が配備されては数年で退役してしまう(前述のカットラスはその典型)新陳代謝の極めて激しい時代において、実に千機を越す生産数と、54年~62年と実に9年に及ぶ実戦配備の期間(セイバーを単に空母運用可にしただけのFJ-2と、当時の新鋭攻撃機A4Dをも一部の性能で凌ぎ戦術核爆弾運用能力まで持つ最終生産型FJ-4Bとではほとんど別機に近いのですが)。
地味ながら50年代後半の米海軍空母航空団の屋台骨の一端を担った機には違い無く、艦載機としてはダメ出しギリギリで無理矢理運用していた前述のカットラスと比較すれば扱われるのに相応しいとは思います。
しかしねぇ、「フューリー」を扱う前に、いくらでも扱われるべき機は残っているでしょうにとね、ちょっとばかし苦言も呈したくなるのであります。

戦後機に限定してみても、

ボーイングB-47ストラトジェット
(米空軍の世界初ジェット戦略爆撃機)
ノースロップF-89スコーピオン
(米空軍の世界初本格的ジェット全天候迎撃戦闘機)
ミコヤンMiG-19ファーマー
(ソ連初の超音速戦闘機)
グロスター・ミーティア
(世界で二番目、連合軍初の英国実用ジェット戦闘機)
デ・ハビランド・バンパイア/ヴェノム
(英国二番目のジェット戦闘機で、ミーティアと共に冷戦
最初期の西欧諸国空軍を支えた)
E.E・キャンベラ
(英空軍のジェット軽爆撃機。米空軍もB-57として採用)
グロスター・ジャベリン
(英空軍初の本格的全天候迎撃戦闘機)
スーパーマリン・アタッカー
(英海軍初のジェット戦闘機)
ホーカー・シーホーク
(英海軍初の完全なるジェット戦闘機)
ホーカー・シーヴィクセン
(英海軍初の本格的全天候戦闘機)
スーパーマリン・シミター
(英海軍初の戦術核攻撃機にして遷音速戦闘機)

・・・とまぁ、これらはサイダー飲んだらゲップが出るぐらい当然の事として扱われるべき機でありますし、これらには及ばずとも、「フューリー」以上の価値がありそうなものに、

ダッソー・ミラージュⅣ
(冷戦期にフランスの核抑止力の一翼を担った高速爆撃機)
セスナT-37/A-37ドラゴンフライ
(米空軍の初等ジェット練習機で、不正規戦用の軽攻撃機ドラゴンフライに発達)
グラマンS2Fトラッカー/E1Fトレーサー
(艦載対潜哨戒機。海上自衛隊にも配備。早期警戒機トレーサーに発達)
ダッソー・エタンダールⅣ/シュペルエタンダール
(フランス海軍初の国産ジェット戦闘攻撃機とその発達型。フォークランドとペルシャ
湾の雄)

・・・とまぁこんな面々が控えておるわけです。
「世界の傑作機」の中の人たちが米海軍機が好きで好きでもう辛抱堪らんさ加減はこれまでのシリーズ実績からも痛い程伝わってまいりますが(若い頃、ベトナム戦争時に厚木周辺でガルグレイに派手なマーキングのファントムやクルセイダーの撮影追っかけをやっていらした方もいるでしょう)、仮にも「傑作機」と銘打っている以上、もうちょっとバランス感覚を働かせては如何と思う次第なのであります。

さて「フューリー」の本文ですが、実戦経験が無いので生産機数の多さに比べてエピソードの方は矢張りイマイチ、地味です・・・。
しかしそんな中で目が釘付けになったのが、

新潟に一時期フューリーが配備されていた!

という記述。
FJ-2装備の米海兵隊戦闘飛行隊VMF-235が、1956年8月に厚木基地から新潟基地に移動し、日本海側の防空任務についたとの事です。
当時はまだ航空自衛隊は揺籃期、F-86Fセイバー装備の戦闘機部隊建設が始まったばかりで、防空アラート任務に就くのは一年半ほど先。
日本本土の防空は米軍が全面的に担っていた頃の話です。
VMF-235はその秋、新潟でFJ-4に機種改編し、翌年1月まで任務に就いていたとの事。
こういう話を知ると、にわかにFJに親近感が湧きいとおしさに心揺さぶられるのは人情というもの(笑)。

さらにFJといえば、もう十年以上前にエマー社(英国)の1/72「FJ-4B」を作った事がありますなぁ~。
同じくエマー社の1/72「F3Hデモン」と一緒に買って。
FJ-4Bは非常にチープな出来で、インテイクは開口していないしコクピット周りは貧弱そのものだし、主翼が折りたたみ式になっていて隙間ガタガタだったり、ノーズに錘を入れないと尻餅付いちゃうけど、付かないように錘を入れると前脚が貧弱で折れそうとか、もうなんだかなぁ~な内容だったのであります。今なら徹底的な改修に乗り出すところですが、当時はまだ造型に手を染める前で資料も皆無な事もあり、そのまま素組して修正もロクにせず筆塗りでデカールを適当に張って棚の一番上(ロクに掃除もしない)にポイっと(笑)。
そのお陰で、もっと出来のいい作品が棚から落としたのパーツが取れ消し飛んで修復不能となり、次々と廃棄の憂き目にあったのを尻目に今日までこうして生き延びているわけです。
実機同様、地味こそ長寿の秘訣なりってね!

エマーの1/72「FJ-4B」と「F3H」
デモンと並ぶFJ-4B。
ピトー管は折れ埃で薄汚くデカールコートもしていないのはご愛嬌。

2009年8月 1日 (土)

鯨波駅(信越本線)

本日の駅紹介は信越本線・鯨波駅

青海川駅はこちらへ← →柏崎駅はこちらへ

2017年2月24日記、リニューアルを実施しました。

鯨波駅の駅名標

新潟県柏崎市に所在する無人駅で、1904年(明治37年)4月1日の開業です。
開業当時は刈羽郡鯨波村の所在であり、その後1940年(昭和15年)4月1日に柏崎市(当時は柏崎町)と合併し、今日に至ります。
当駅の所在する信越本線(当時は北越鉄道)・鉢崎(現・米山駅)-柏崎間が開通した1897年(明治30年)からしばらく経っての開業です。
ウィキペディアを見ると、正式に駅として開業する前に臨時停車場→廃止→仮停車場として復活という履歴があり、一応は村の玄関駅に当たりながら何故そのような扱いを受けていたのか興味のあるところです。
周辺人口が当地区より少ないであろう青海川駅の後塵を拝しているのは一体???

鯨波駅駅舎
鯨波駅駅舎の様子、2013年6月撮影。
建築財産票によれば、駅舎竣工は昭和44年10月。
ホームが地平面よりも高い為、駅舎は二階建てになっていて二階部分が出入り口になっています。
「日本の渚百選」にも入っている有名な鯨波海水浴場と日本海にちなんだと思われるスカイブルーがよく映える建物と言えましょう。
長い階段も良いアクセントになっていますな。
ちなみにトイレは駅舎一階部分にあります。

鯨波駅駅舎内部その1
鯨波駅駅舎内部その2
駅舎内部の様子、2013年6月撮影。
青の映える涼やかな印象の駅舎の外観とは異なり、内部は「斜陽」の二文字が真っ先に頭に浮かぶ寂しさ。
無人化されて久しいと思われる駅舎内部は、今日では遊休化が著しいのです。
下の画右側にはカーテンに閉ざされた窓口が残っています。
かつて海水浴シーズンには、きっぷを求めるお客で繁盛していていたのでしょう。
現在は当駅全盛時代の墓標のような姿です。
築半世紀を間もなく迎えようというこの駅舎、近い将来には改築の話も出るでしょう。
その時は震災復旧後の青海川駅待合室のような、利用実態に見合ったこじんまりとした建物に換えられてしまうのでしょうね。

鯨波駅駅舎内部その3
2006年10月当時の駅舎内部。
この時点では自動券売機は未設置で、代わりに乗車証明書発行機が置かれていました。

鯨波駅の上りホームその1
上りホーム(直江津方面乗り場)の直江津方から見た鯨波駅構内、2013年6月撮影。
電化複線上に対面式ホーム2本というシンプルな構内です。

鯨波駅の上りホームその2
上りホーム端から直江津方を望む、2013年6月撮影。
画像右手にチラリと映っているのが日本海。
柏崎駅を出発した上り列車がトンネルをくぐると、そこはもう日本海海岸。
ここから米山駅までは進行方向右側に陣取って海をほげーと眺めながら、脱日常のゆとりの一時を過ごすわけであります。

鯨波駅の上りホームその3
上りホーム側の駅舎と上屋周りの様子、2013年6月撮影。
上屋は短めで、駅舎全幅と跨線橋出入り口をカバーする程度です。

鯨波駅の上りホームその4
上りホームの柏崎方から見た構内、2013年6月撮影。
古い時代の駅の常として、当駅のホーム配置も千鳥式。

鯨波駅の跨線橋
跨線橋内部の様子、2013年6月撮影。
このクラスの駅としては場違いに思える広い通路が目を引きます。
至近に著名な海水浴場を抱える谷浜駅(えちごトキめき鉄道)の跨線橋と同様に、夏の海水浴客対応なのでしょう。
今日では列車で海水浴場を訪れるのは、自動車免許を持たない高校生以下のグループと県外からのお客だけでしょうなぁ。

跨線橋上から見た構内その1
跨線橋上から構内の直江津方を望む、2013年6月撮影。

跨線橋上から見た構内その2
同じく構内の柏崎方を望む、2013年6月撮影。
こちら側はホームを出てすぐに左にカーブしていて見通し悪し。
画像左手が海なので、この先日本海に一層近づくのではと錯覚してしまいますが、実際は急速に海から離れて柏崎駅に至ります。
また画像左の下りホームの駅名標から先のあたりの草生した空間が少々気になるところ。
前述のように幅広の跨線橋をホーム上に納めるためのバルジなのかはたまた?

鯨波駅の下りホームその1
下りホーム(長岡方面乗り場)の跨線橋と上屋の位置関係、2013年6月撮影。
こちらの上屋は短く、車両一両分ほどです。
またベンチが無いので、駅撮り待機の際は身の置き所が無く困るのが泣き所。
画像左下のあたりもなんとなく臭うところで、かつては盛夏の海水浴客用の臨時改札が置かれていたのでは?と妄想を逞しくするところであります。
ここから外に出られれば、鯨波海水浴場はすぐそこなのですよ。

鯨波駅の下りホームその2
下りホームの柏崎方から見た構内、2013年6月撮影。

鯨波駅の下りホームその3
下りホームの跨線橋付近から柏崎方を見通す、2013年6月撮影。
画像左の黄色い設置物はなんなのか、見当が付きませんです。
駅名が表記されているのですが、何かの基礎っぽい感じもしますな。

鯨波駅の下りホームその4
下りホームの直江津方から見た構内、2013年6月撮影。
ホームのこのあたりは遊休していて、活用されている黄色い線からは随分と距離があります。

鯨波駅を出発する115系電車その1
下りホームを出発する115系電車長岡行、2013年6月撮影。

鯨波駅に停車中の115系電車
上りホームに停車中の115系電車直江津行、2013年6月撮影。

鯨波駅を出発する115系電車その2
上りホームを出発した115系電車長野色の直江津行、2013年6月撮影。

鯨波駅を通過する485系電車特急「北越」
構内下り線を通過する485系電車R編成の特急「北越」新潟行、2014年7月撮影。

鯨波駅を通過する485系電車快速「くびき野」その1
構内下り線を通過する485系電車T編成の快速「くびき野」新潟行、2013年6月撮影。
この種の列車は国鉄時代なら海水浴シーズンに臨時停車していたのかもしれませんが、鉄道で海水浴に行くという行動様式が廃れてしまった現代では考慮すらされないのでしょうね。

鯨波駅を通過する485系電車快速「くびき野」その2
四両編成時代の快速「くびき野」が構内下り線を通過中、2005年10月撮影。

鯨波駅に進入するEF510形電気機関車牽引の貨物列車
構内下り線に進入中のEF510形電気機関車牽引の貨物列車、2014年7月撮影。

鯨波駅を通過するEF81形電気機関車牽引の貨物列車
構内下り線を通過するEF81形電気機関車牽引の貨物列車、2005年10月撮影。

鯨波駅前その1
鯨波駅前その2
駅前の様子、2013年6月撮影。
上の画の駅舎側面には鯨のイラスト。
駅前はL字の通りの底に位置しています。
北越後観光バス運行の路線バス柏崎駅前-谷根線はこの通りを経由していますが、駅前にはバス停は無く、鯨波駅前と鯨波一丁目の両バス停にはいずれも少々歩くことになります。
2017年1月現在では、平日上下18本、土休日上下11本を運行しています。

駅付近の国道8号線
駅付近の国道8号線の様子、2013年6月撮影。

鯨波海岸その1
信越本線をガードでくぐるとそこは鯨波の海岸です、2013年6月撮影。

鯨波海水浴場その1
海水浴場の営業開始に向けて準備の始まった、初夏の鯨波の砂浜の明朗な風情、2013年6月撮影。

鯨波海岸その2
取材目的で初めて訪れた秋の夕日の鯨波海岸、2006年10月撮影。
海に沈む夕陽に照らされ、こちらからは黒々とした逆光のシルエットで思い思いに散歩している人影。
昔の金曜ロードショーで流れていた、夕陽を背にした物悲しいトランペットの音色が聞こえてくるようです。
寂寥感溢れて実に感極まる情景だったのです。

鯨波鬼岩
鯨波海岸の名所「鯨波鬼岩」、2013年6月撮影。
その昔、この洞穴には村の娘たちをさらって食べる凶悪な赤鬼が棲んでいたそうですよ。

鯨波海岸の展望台
鯨波海岸の展望台、2013年6月撮影。
残念ながら中越沖地震に被災して以降、立ち入り禁止でした。
とっくの昔に直したのだろうと思い込み、俯瞰で海岸の景色を楽しめると期待に胸躍らせて行った私にとっては大ショックでしたなぁ。
地震が発生したのはこの撮影の6年前です。
その間ずっとたな晒しなのは、もう直す気が無いんでしょうな。
柏崎刈羽原発が運転停止して、街の金回りも調子悪いですからね。
その後どうなっているのやら。

鯨波海水浴場その2
展望台に登れなかったので、代わりにトンネルの上の小山に登って海水浴場を見てみました、2013年6月撮影。
一帯が入り江になっているのがわかります。
かつては首都圏から海水浴場への直通アクセスとして、「くじらなみ」を愛称に冠した快速列車が国鉄時代から近年に至るまで運行されていました。
子供の頃は夏の時刻表を見て、臨時列車の項の「くじらなみ」の五文字に夏の訪れを実感したものでした。

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