カテゴリー「R008 新潟交通電車線廃線跡」の記事

2008年4月20日 (日)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十六・月潟駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十六回は月潟駅跡。

西蒲原郡月潟村(現・新潟市南区・・・なお、新潟市の南端はこの旧月潟村地域で、私の住まいからの距離は直線で20kmあります。新潟市東端からの直線距離は実に約40km! 
無駄に広いというかなんというか・・・)に所在していて、東関屋駅から21.6km、曲駅から2.5kmの地点にあります。
月潟駅の開業は白根-燕間が開通した昭和8年(1933年)8月15日で、開業当時は白根-月潟間に中間駅は存在せず、その距離4.2kmをノンストップで走っていました。
平成5年(1993年)8月1日に月潟-間が廃止された後は、電鉄線南の起終点として機能していました。
月潟駅跡は電鉄線内で唯一、現役当時の姿を保ったまま保存されており、かつて電鉄線で使用されていた電車2両と除雪車1両がホームに横付けされて、静態保存展示されています。


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月潟駅駅舎の様子、2008年3月撮影。
2004年5月の電鉄線廃線歩き時に見た廃駅舎と異なり、綺麗に保存されています。
古い建物でも人の手が入るかどうかで劣化度は全然違います。
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曲駅方から見た月潟駅の様子、2008年3月撮影。
こちら側の駅構内は駐車場になっています。

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燕駅方面はご覧のように遊歩道になっています、2008年3月撮影。

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曲駅方の駐車場の様子、2008年3月撮影。
こちら側にはトイレがありますから、安心して見学できるのです。

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月潟駅のホームに据え付けられて展示されている「かぼちゃ電車」、2004年5月撮影。

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燕駅方にはキ116形除雪車が連結展示されています、2004年5月撮影。

私は2004年五月と2008年三月に月潟駅跡を訪問しましたが、いずれもホーム内・駅舎周り(駅舎内は立ち入り禁止です)共に綺麗に保たれており、食べカスやペットボトル、タバコの吸殻などの無粋極まるものは一切落ちておりません。
駅跡の鉄道施設の管理は「かぼちゃ電車保存会」の方々が行っているとの事ですが、きっと清掃もまめに実施されておられるのでしょう。
この駅の保存に携わる方々の、廃線から9年後の今直変わる事のない意識の高さと情熱に深く頭を垂れ、敬服並びに感謝するものであります。

さて月潟駅で特筆すべきなのは、電鉄線の東関屋-月潟間において唯一、「駅前商店街」が存在している事です。
人口が集積している旧黒埼町中心部(越後大野黒埼中学前新大野)以外の駅は住宅地のど真ん中が農業地域の小集落に存在し、味方村は村の中心部を通るものの、「駅前
商店街」は形成されていません。
相応の周辺人口を抱えていた旧黒埼町中心部三駅にしても、商圏は国道を軸にして広がっていて、各駅はその末端という形になっていました。
月潟駅前商店街といっても、個人商店と一般住宅が混在していて明確に商圏を形成しているわけではないのですが(ただし、銀行の支店はあります。電車線の駅近くに銀行があるのは、新潟市中心地区に含まれる東関屋~平島と黒埼中学前、そして当駅のみです)、駅を中心にストリートが形成されているその情景は、これまで正直うらぶれたイメージの駅跡を見て時にはヘコたれた身にとっては、眩く賑やかに映るのであります。
なお、この先燕駅に至る区間は電鉄線の遺構はほとんど残っておらず、中間の六分、新飯田、灰方の各駅跡はかつて駅が存在していた事を示す駅名票がおかれているだけだそうで、燕駅には電鉄線駅の面影は全くありません。
唯一、小中川駅跡のみはホーム状の休憩所に整備されており、そこから月潟方面へ向かって廃線跡とおぼしき小道が通っていて、私も燕から月潟へ行く路線バスの車中からそれを確認しました。
新生町バス停至近ですが、路線パスの日中の便は2008年3月現在で一往復しかなく、非常に不便でした。
燕駅からの距離は5km弱、月潟駅跡からは7kmというところで、クルマ無しには訪問困難な場所です。
周辺人口は結構あってクルマの通行量も多く、僻地のイメージにはほど遠いところなんですけど・・・。

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白根方から見た月潟駅駅前通りの様子、2008年3月撮影。

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月潟駅駅舎の手前には「月潟商店街」の案内板があります、2008年3月撮影。

おまけ*駅前にいたぬこさん

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私はぬこさんに会うとしゃがんで両目ウインクをしてコミュニケーションを試みるのですが、この冬毛もふもふの彼氏?はこちらに敵意がないと見るや、ひたすらガン無視(泣)。
話しかけても耳すら動かさんYO・・・
見ず知らずのオサーンよりも、すぐ近くの木の上で盛んに囀っている鳥サンに興味深々のご様子ですた。

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2008年4月14日 (月)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十五・味方駅跡~月潟駅跡間

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十五回は味方駅跡~月潟駅跡間の点描です。

私が電鉄線廃線跡を最初に訪れた2004年5月時点において、味方駅跡~月潟駅跡間に存在した白根駅、千日駅、曲駅は完全にその姿を消していました。
レールや架線柱も、白根駅跡前後を挟んで千日駅跡近くまで残っていただけで、千日駅付近~月潟駅跡間は一部が遊歩道に、それ以外は廃路盤も半ば雑草に覆われて、現役当時の面影は既に失われつつありました。
聞くところによると、廃止後も長い間現役当時の面影を色濃く残していた東関屋-味方間とは対照的に、当該区間は電鉄線廃止後程なくしてレールや架線柱の撤去が行われたそうです。

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中之口川の堤防道路を味方から歩いて、白根駅跡に造られた公園に近づきます。
2007年11月撮影。

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旧白根駅跡に造られた公園の様子、2007年11月撮影。
旧白根駅は東関屋駅から17.4km、味方駅から1.9km地点に所在していました。
地域の方々以外には白根市の駅と認識されていた当駅(私もそのうちの一人)ですが、白根駅の住所は「西蒲原郡味方村白根」。
至近の橋で中之口川を渡ればそこは白根市の中心市街地で、その距離は500mもありません。
ゆえに感覚的には白根市の玄関駅と言って一向に差し支えないのですが・・・。
味方村としては村の外れにある駅が沿線きっての大駅で、外部の人には白根市の駅だと間違われて、色々と面白くなかったのでは?と思います。
この公園で白根駅に触れたモニュメント等は一回りしてみたところ、発見できませんでしたが、この扱いの冷たさが味方村流の意趣返しだと考えるとなかなか面白いですw。
代わりに「味方音頭」の立派な歌碑が置いてあるのが、村の面目躍如と言えなくもないw。

さて白根駅は電鉄線開業当時の終着駅で、東関屋駅と並ぶ電鉄線の要衝だったのですが、公園をこうして見る限り、そのスペースは案外狭かった事に驚かされます。
現役当時には、このスペースにそこそこの大きさの駅舎とホームが二面、貨物用の側線もあったといいますからね。
Nゲージのレイアウトでリアルに再現できそうなコンパクトさであります。

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旧白根駅跡の公園を出て、月潟方面に進みます、2007年11月撮影。

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旧白根駅跡の公園を出て少し進むと、線路と架線柱が姿を現します。
上は2004年5月、下は2007年11月撮影。
画像奥の架線柱の右側に信号機が併設されているのに注目。
ここから月潟駅方に少し進んだあたりが、2004年5月時点でレールや架線柱が残存していた終端になります。
そのあたりに存在した千日駅跡は背の高い雑草に覆われて、ホームが残っているのか撤去されたのかも確認できませんでした。
なお、千日駅は東関屋駅から18.2km、白根駅から0.8kmの地点にあって、味方村と月潟村の境界付近にに所在していました。
開業は1985年(昭和60年)12月で、電鉄線ではときめき駅の次に新しい駅です。
至近に病院がありますから、そこへの通院の便を図って新設されたのでしょう。

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千日駅跡付近から少し歩いて国道の下をくぐり、振り返っての風景。
2004年5月の撮影ですが、既に現役当時の面影はありません。
なおこの先も同じ日の撮影になります。

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電鉄線跡を活用した遊歩道の休憩所。
ここが曲駅跡のようです。
曲駅は東関屋駅から19.1km、千日駅から0.9kmの地点に位置していて、曲駅と月潟駅が旧西蒲原郡月潟村(現・新潟市南区)の所在になります。

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曲駅跡と思われる休憩所から少し進むと存在する、レールと架線柱が消えてしまった月潟駅跡への道のりで唯一残る電鉄線の形ある遺構がこのミニ鉄橋。

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曲駅と月潟駅の間は距離2.5km、電鉄線の東関屋駅-月潟駅間の駅間距離としては最長になります。
バラストが敷かれている事が、電鉄線がここにあった唯一の証。

   

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2008年4月 6日 (日)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十四・味方駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十四回は味方駅跡。
東関屋駅から15.5km、味方中学前駅から1kmの地点に所在しており、電鉄線の東関屋-白根間が開通した1933年(昭和8年)4月1日に開業しました、
味方駅は電鉄線最古参の駅の一つで、列車交換設備無しの棒ホーム駅ながら往時には
貨物の取り扱いも行われていて、広い駅構内が当時の活況を偲ばせます・・・。

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中之口川の堤防道路の味方中学駅方から俯瞰で見た味方駅。

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堤防道路の白根駅方から見た味方駅構内の様子。
線路の左側の敷地が貨物ホームと側線跡のようです。
旅客用ホームの先に貨物用ホームがありますが、駅用地の横幅が取れなかったゆえの構内配置でしょうか。

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味方中学前駅方から見た味方駅。
画像左側の堤防道路が壁になっていて、見通しは良くありません。

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白根駅方から見た味方駅構内の様子。

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前述の独特の構内配置ゆえに、短い旅客ホームははるか向こうにあると錯覚してしまうのです。

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この時点で駅舎は既に撤去済みだったのが残念でした。

2004年5月時点ではこのように線路と架線柱が手付かずで残り、草に埋もれつつはありましたが構内も往時の面影を残していましたが・・・。
2007年11月の再訪時には、線路は外されて痛々しい姿に変わっていました。

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堤防道路から見た、雑草と廃枕木に埋もれつつある味方駅の廃ホーム。

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並走する道路が比較的広く、旧貨物側線のフラットなところから重機が容易に入って来れる旧構内です。

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味方駅前の様子。
左側には郵便局が以前と変わらず。
3年半前と比べ、周囲は何の変化も無いのに駅跡だけは急激な変化・・・。
電鉄線廃止以来これまで止まっていた駅跡の刻が、一気に動き出して時代に追いつこうとしているようでした。

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この時期の近隣の諸駅跡同様に、廃枕木が束にされて置かれていました。

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他の諸駅同様に、架線柱は最後まで残っています。

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そしてそれから五ヵ月後の2008年3月時点の味方駅前の様子。
ホームも架線柱も完全に撤去されて、駅用地は更地になっていました。

さて、味方駅跡を訪れるにあたって、ぜひ押さえていただきたいのがこちら「笹川邸」。
画像は特記以外は2008年3月撮影です。

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道路の奥に見える建物が笹川邸正門、道路の右側が電鉄線跡。

前回、前々回は時間が無くて見学を断念した、私にとって非常に心残りなところでしたが、先月思い立ってついに訪問!
鉄道が走っていない土地へは足も遠ざかる身としては、思い立ったが吉日です。
この「笹川邸」は、1954年(昭和29年)、更に昭和53年、平成3年に追加でその建築総面積約4,800坪が国の重要文化財に指定されておりまして、江戸時代には味方組八か村(約八千石)を束ねる、小藩にもう少しでキャッチアップするほどの威勢を誇った大庄屋の面影を今に伝えています。

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笹川邸表門。建築されたのは天正年間(1570年代)との事です。
では入場料金500円也を払って邸内へ。
見学コースは決まっておりまして、順路の指示に従って見学するのが一応のルールです。
部屋の中にも入る事が出来、近世和式建築の真髄を目の当りにして驚倒する事請け合い。
日曜の午後とあって家族連れで騒がしいのかなぁ・・・との不安も、皆様思いのほか静かに見学されていて、秩序立ったいい雰囲気の中でじっくりと見て回る事が出来ました。



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1826年に再建された笹川邸の母屋。
画像右側の道を進んで見学に入ります。

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28畳敷の大広間。

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笹川邸当主の居間の様子。
内部は天気が曇りということも相まって、昼間でも薄暗いのです。

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採光を重視した廊下の造り。

この建物は明治維新後も昭和45年に至るまで笹川氏の邸宅で、それゆえ部屋には電灯
もついています。
それでも日中でこのような状態ですから、夜、それも近代文明の産物の存在しない昔のそれは果たしてどのような様子だったのか・・・。
闇、闇、闇・・・無音なのに何かが耳元に響いてくるような、漆黒の闇それ自体が身体に圧し掛かってくるようなあの感触・・・。
都市部で生活している身には、滅多に感じる事のないあの異様な感触が毎晩の事であったのだなぁと、畳敷きの間取りに佇みながら思うのでありました。

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笹川邸に隣接した味方界隈のもう一つの文化財、「諏訪神社」。
新潟県文化財第二十六号です。

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笹川邸付近の電鉄線廃線跡、上は2007年11月、下が2008年3月の状況です。
一冬越した廃線跡は架線柱も完全に撤去され、最早舗装待ちの砂利道のようです。
冬枯れで緑が少ないので色彩もくすんで、廃線跡が消えていく寂しさを一層つのらせます・・・。

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2008年3月20日 (木)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十三・味方中学前駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十三回は味方中学前駅跡。
当駅は電鉄線廃止時の起点である東関屋駅から14.4kmの地点に所在していました。

開業は昭和28年4月1日で、開業当時の所在は新潟県西蒲原郡味方村。
電車線が廃止された1999年4月時点でも同村の所在で、味方村は電車線廃止の約六年後の2005年3月に新潟市に編入されて、同市南区になって今日に至ります。

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味方中学駅前の待合室、2004年5月撮影。
電車線廃止から約五年後の様子です。
随分と荒廃していましたが、建物の原型はしっかり保っていました。

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吉江駅方から見た味方中学前駅ホームの様子、2004年5月撮影。
昭和28年の開業以来一貫して「停留所」だった棒ホームです。
ワンマン運転用のミラーが二本共残っていました。

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ホーム中央部の様子、2004年5月撮影。
駅名標は枠だけが残っていました。
駅名標の右側の朽ちかけた柵もなかなか味わい深いのです。

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味方駅方から見た廃ホームの様子、2004年5月撮影。
この時点ではホーム、待合室、レール、架線柱の四点セットがしっかり残存していました。

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線路と並行する路上から見た味方中学前駅全景、2004年5月撮影。
ホームの有効長はギリギリ三両というところ。
廃駅の周辺は駅名が示すように中学校が立地する味方村の文教地区で、真新しい住宅が建ち並んでいる中にこのような廃墟。
周りとのギャップが強烈でありました。
懐古系廃墟系鉄ヲタとしては万感胸に迫るものがある一方、住民感覚で見れば鉄道廃止後五年も経つのにこんな廃墟が近所にあるのは、とても褒められた話ではありませんな。
その辺のせめぎあいでやるせない気持ちになった、皐月の土曜の夕刻なのでした。

この訪問から約三年半後の2007年11月に再訪したところ、すっかり様変わりしていて驚愕しました。

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あの廃墟がこのような見栄えのする「味方中学前駅跡地公園」に生まれ変わっていました。

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廃駅がいずれ姿を消し、その敷地がこのような用途に転用されるのは当然の話なのですが、鉄ヲタの感情論としてはやはり寂しい・・・。
しかしここでは駅のホームを模した空間が綺麗に整備されて、模擬の駅名票にはここがかつて鉄道の駅であった事を明記しています。

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味方村として、この地に鉄道が走っていたという歴史を忘れない、後の世代にも語り継いでいくのだという心意気が感じ取る事が出来ます。
電鉄線の廃駅跡のいくつかでもこちらのような活用の仕方をしてもらえれば感謝の極みと当時思ったものです。

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味方中学前駅跡地公園から白根方面へ進んで300m弱までは舗装されていましたが、その先はこのようにレールを撤去された廃路盤がしばらく残っていました。

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2008年3月 4日 (火)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十二・吉江駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十二回は吉江駅跡。
吉江駅は旧・西蒲原郡味方村(現・新潟市南区)に所在していた棒線の無人駅でした。
電鉄線・東関屋-白根間が開業したのと同時の、1933年(昭和8年)4月1日に開業しました。
東関屋駅から13.5km、七穂駅からは1.2km地点にあります。
ここ吉江駅跡は前回紹介した七穂駅跡同様、周囲にランドマークと呼べるものが無いところなのですが、電鉄線沿いの集落の宅地密度は上がっているようにも見えて、板井、七穂ではついぞ見かけることのなかった人気も感じられ、ホッとした気分にさせてくれました。
廃駅巡りで「滅び」のイメージばかりを見せつけられていると、好きでやっている事とはいえ精神衛生上あまりよろしくないかなぁと思う時があります。
2004年5月に思い立って新潟交通電車線の廃線跡歩きを始めて、この駅に至るまでに眺めて来た板井、七穂両駅跡は周囲に人気も無く、特に七穂駅跡は駅の原型をほとんど留めず、かといって敷地が完全に転用されているわけでもなく中途半端に放置されている様が「見捨てられた場所」「滅び」のイメージをこちらに強く抱かせて、五月にしては強い日差しの下を昼食も摂らずに延々と歩いてきた疲れも手伝ってか、流石にスキモノの私もめげてしまいました・・・。
そんなこんなですっかり弱気の虫に取り憑かれ、「今日はここまでにするか・・・」と足を引き摺り引き摺り辿り着いたのがここ吉江駅跡でした。

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吉江駅跡はホーム上の木造で小作りな待合室も未だ健在、2004年5月撮影。
室内には電鉄線廃止を告知する看板が置いてありました。
「新潟交通電車線(東関屋-月潟間)は平成十一年四月四日迄で営業を停止し鉄道事業を廃止致します。永年に渡御利用戴き感謝申し上げると共に今後は代替バス(四月五日より運行)の御利用をお願い申し上げます 平成十一年三月」
2004年5月の電鉄線廃線歩きで、こんな看板を廃駅で見たのは後にも先にもここだけです。
廃線から5年以上経ってもまだこんな看板が残っていたとは・・・、貴重なモノを見させてもらいました。

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七穂駅方から見た吉江駅。
中之口川の堤防道路の直下に張り付くように駅が置かれていました。

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前述のように、待合室は荒廃が進んでいますが残存しています。

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味方中学前駅方から見た吉江駅構内の様子。
駅名標は枠の柱だけが残っています。

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電鉄線と並行する路上から見た吉江駅の様子。

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堤防道路上には駅への出入り口があります。
板井駅のように集落側にホームを置けば良いと思うのですけれど、駅用地の取得上こうならざるを得なかったのでしょうか。

それから三年半後の2007年11月に再訪した吉江駅跡は、この時期の他の諸駅同様にレールが撤去されていました。

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画像右側の廃枕木の束が、全てを象徴していますね。

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廃ホーム上には廃枕木が置かれていて、ホームを歩くのも一苦労。
しびとの棺桶の葬列に迷い込んだような違和感が実に嫌でした。

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生活道路からホームへのアクセスが容易なので、重機によるホーム撤去もきっと円滑に進んだことでしょう。

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吉江駅から味方中学前駅に向かって堤防道路を進み、振り返って一枚。
上は2004年5月、下が2007年11月撮影。
鉄路は生気を失いましたが、町並みも人々の平和な営みも何ら変わる事は無く。

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2008年2月26日 (火)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十一・七穂駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十一回は七穂駅跡。
七穂駅は旧・西蒲原郡味方村(現・新潟市南区)に所在していた駅で、列車交換設備を有していました。
東関屋駅から12.3km、板井駅からは2.1kmの地点にあります。
私の手持ちの電鉄線時刻表(廃止一年前)には当駅の電話番号が載っておりましたので、廃止まで有人駅だったとずっと思い込んでおりました。
しかしこのエントリーを書くに当たって調べてみたら、廃止一年前に無人化されていたとの
事です。
よく調べもせずに思い込みだけで書くのは危険ですね、自戒自戒!

さて七穂駅の開業は1937年(昭和12年)11月22日で、電鉄線東関屋-白根間の開業から四年半以上経ってからでした。
電鉄線開業当時、木場駅-白根駅間8.5km間に列車交換可能な駅は存在せず、列車増発に当たってダイヤ作成上のネックになっていたのは充分想像できます。
当該区間の既存の駅(板井、吉江、味方)のいずれか、特にほぼ中間地点の
吉江駅に列車交換設備を増設すれば良いのですが、いずれの駅も中之口川の堤防と集落の間の狭い用地しか確保できなかったようです。
それゆえに、駅用地の確保が過不足無く行えた(駅開設の見返りにと、地区の積極的な土地提供があったのかもしれません。明治~大正時代にはそのような事例が間々あります)当駅を、運転上の要請から新規開業させたのではないか・・・と私は想像を巡らせているのですけれど、本当のところは如何に!?
また当駅の開業当時の駅名は「越後山王」と言い、「七穂」に改名したのは1940年(昭和15年)10月1日の事です。
「越後山王」のほうが風格が感じられて良いと思うのは私だけでしょうか?
七穂駅は地図で見ると、旧味方村の山王地区と大倉地区に跨って設置されていて、その辺の事情から、駅開設前後に地区間でいろいろあった故の改名では?と想像を逞しくしてしまいます。
しかし実際のところは果たしてどうであったのか、非常に興味をそそられます。

ここ七穂駅は両隣の板井、吉江両駅と同じく、中之口川の堤防道路と電車線沿いの集落の間にあります。
木場、板井両駅は至近に上越新幹線の高架が通り、農協や高校、小学校が近くにありましたが、当駅は新幹線の高架も遠く離れ、小学校も中之口川を渡って板井方向に1km近く行ったところにあります。
従って駅訪問のランドマークになるべきものもなく、非常に地味な立地です。

電鉄線廃止後も長らく現役当時の面影を濃く留めていた平島駅味方駅間にあって七穂駅は唯一、早いうちに駅用地の転用が実施されています。
私が当駅を最初に訪問した2004年5月当時には既に駅舎は撤去され、相対式のホームも埋められて、駅用地の一部は道路拡幅と畑へ転用されていました。

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吉江駅方から見た七穂駅跡の様子。
こちら側はレールが残っていました。

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板井駅方から見た七穂駅跡。
前述のように駅用地の大半は転用されています。

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辛うじて残っていた対面式ホームの端部。

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吉江駅方には架線柱に付けられた場内信号機が残っていて、二又のレールと共に、ここ七穂駅が電鉄線の運転上の要衝であった残り香になっていました。

それから三年半後に再訪した七穂駅跡は、レールが撤去されて駅の面影も消え去る寸前でした。

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撤去された枕木が廃路盤沿いにまとめて並べられて搬出の時を待っています。

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架線柱と場内信号機は辛うじて残っていました。

現役当時の画像と比べて見ても、変わっていないのは大きな松の木だけ。
「樅ノ木は残った」ならぬ「松ノ木は残った」といったところです。
松の木は長寿だと聞きますし、百年後、この地区で七穂駅の現役当時を知る方が亡くなられた後も、せめてこの木だけは味方の南の地にかつて駅があった事を後世に伝えるしるべとして生き続けて欲しいと思うところでありました。

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2008年2月22日 (金)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十・板井駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十回は板井駅跡。
板井駅は東関屋駅から10.2km、木場駅から1.3km地点に位置していて、旧西蒲原郡黒埼町(現・新潟市西区)の南端に所在していました。

板井駅は1933年(昭和8年)4月1日の東関屋-白根間開通時に設置された棒駅で、当たった資料によると開業当時は「停留場」(場内信号等の運転設備無し)ではなく「駅」だったようです。
駅廃止時の所在地は西蒲原郡黒崎町の南端で、黒埼町はその後2001年元日をもって新潟市に編入されています。
電車線起点の東関屋駅から10km強しか離れていないここ板井駅ですが、周囲は画像を見ればわかるようにローカル色の濃い風景。
至近に小学校がある以外、ランドマークになるようなものはありません。
集落を抜けて西方に数百m進むと上越新幹線の高架に行き当たりますが、一面田園の緑の海を真っ直ぐに進む頑強な鉄筋コンクリートの隊列と、堤防道路によって周囲から遮蔽され、廃線趣味以外の人間には顧みられる事もなく、ゆっくりと朽ち果てていくこの廃駅とすっかり草むした二条の鉄路のあまりに対象的な姿に、もののあわれを感じずにはおれません・・・。

この板井駅跡を最初に訪問したのは、2004年の5月。
五月晴れのこの時期にしてはやや強い陽光の下、トレッキングと洒落込んで東関屋寄り3km先の新大野駅跡からてくてく進み、途中レールを見失って右往左往しつつ、ようやくの事で辿り着いたのです。
木製の黒光りする年季の入った架線柱は未だ健在、レールもこのあたりはまだ寸断や撤去される事もなく、かつての面影を濃厚に留めていました。

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木場駅方から見た板井駅構内、2004年5月撮影。
当駅は中之口川の堤防道路の直下にあって、反対側は農村の集落。
周囲の見通しはよくありません。

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七穂駅方から見た板井駅構内、2004年5月撮影。
駅敷地のこの狭さでは、列車交換設備を置くことは無理だったでしょう。

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駅舎(待合室)はこの時点で残念ながら撤去済み、2004年5月撮影。

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駅名標の枠は残存していました、2004年5月撮影。

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七穂駅方に進みつつ、振り返って板井駅の遠景を望む、2004年5月撮影
「でんしゃにちゅうい」、この種の立て札は当駅周辺の線路沿いに散見されるものですが(電車が低速なのをいい事に、踏切まで回り道をせずに線路を渡って堤防道路と生活道路を行き来する人が多かったのでしょう)、これらの印象もまた強烈・・・もう二度と電車は来ないのにね・・・。

それから三年半後の2007年11月に再訪した板井駅跡は、線路が完全に撤去されていました。

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ホームはまだ手付かずで、駅名標の枠もまだ残っていました。

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堤防道路の木場駅方から見た板井駅跡。

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七穂駅方から見た板井駅跡。
架線柱と「でんしゃにちゅうい」もまだ残っていました。

   

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2008年2月16日 (土)

新潟交通電車線跡探訪その九・木場駅跡

新潟交通電車線跡探訪・第九回は木場駅跡。
新大野駅跡で市街地に別れを告げ、右手に電鉄線の廃線を見ながら中之口川の堤防道路を歩く事三十分弱で到着です。
木場駅は東関屋駅から8.9km、新大野駅から1.9kmの地点にあって、西蒲原郡黒埼町(現・新潟市西区)に所在していました。
当駅は電鉄線・東関屋-白根間が開通した1933年(昭和8年)4月1日に開業した有人駅。
列車交換設備を有し、かつては貨物の取り扱いも行っていて、また当駅と東関屋駅(県庁前-東関屋間営業時は県庁前駅)間には区間列車が数往復設定されていて、貨物輸送と旅客・貨物・運転の三点いずれにおいても電鉄線内の要衝駅の一つなのです。
駅前には農協があって巨大な倉庫も軒を連ねており、かつては周辺の豊饒な土地から取れる米や野菜をこの駅から電鉄線で出荷していたのでしょう。
秋の収穫時期にはさぞ賑わった事だろうと、駅跡で感慨に耽る事しばしなのであります。

余談ですが木場駅は某K高校の最寄り駅。
このK高、私が中~高校生の頃にはキョーフの伝説に彩られた絶対に近づきたくない、命が幾つあっても足りない学校としてつとに有名でございまして・・・。
アカシャツに短ランボンタンは当たり前、ファッションと武器を兼ね備えたチェーンをガラガラヘビの威嚇のようにジャラジャラ音を立てながら周りを睥睨(ごく一部の生徒がそうなのではないとか)とか、他にも色々とまるでリアル「熱笑花沢高校」の如きトンデモ話がまことしやかに時には面白おかしく語られたものです。
従いましてこの木場駅、思春期の私にとっては地獄の一丁目同然の、
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルな駅だったのであります・・・。

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新大野駅方から見た木場駅遠景、2004年5月撮影。

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板井駅方から見た木場駅構内の様子、2004年5月撮影。

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副本線?の廃ホーム上から見た木場駅構内の板井駅方の様子、2004年5月撮影。

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副本線?の廃ホーム上から見た木場駅構内の新大野駅方の様子、2004年5月撮影。
画像左側の木造の大きな駅舎はすっかりあばら屋然となっていましたが、その姿をなお
も留めていました。

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廃線跡に立って板井駅方を見通す、2004年5月撮影。

ホーム、レール、架線柱全て健在な木場駅のその様子は、遠目から見れば営業中の田舎駅と錯覚を起こしても不思議ではない堂々たるものでした。
ホームに立ってみれば新緑の清々しく若い芳香と、駅舎や架線柱から立ち昇る古い木のやや日向臭げな渋い匂いが鼻腔にすうっと・・・。
天気も良くて暑からず寒からずのお日様を浴びながら、ホームに座り込んでペットボトルのお茶をすすりつつ、鳥の囀りを耳にしながらしばらくボ~ッと過ごした春のお昼時。
こういうのが駅周りの最大のエツラクなんであります。

それから三年半後の2007年11月ではこのような末期的様相に。

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新大野駅方から見た木場駅跡遠景。

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構内の線路も全て剥がされて、ホーム解体と架線柱撤去を待つばかりの木場駅跡。

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あの大きな駅舎も撤去されていました。
駅舎敷地には工事事務所とおぼしきプレハブの建物と背の高い雑草の群れ。
終末の時はいよいよ迫れり。
陰鬱な冬の到来をすぐそこに控えた一年でもっとも物悲しい時期、秋の名残の最後の陽を浴びながら、悄然と佇む私の長い影なのでありました。

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2007年11月時点では、新大野駅以南の廃線各所にこのように撤去されたレール、また枕木が積まれて搬出の時、死出の旅立ちを静かに待っていました・・・。

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木場駅跡から板井駅跡方向に少し進み、振りかえって木場駅跡方面を撮影。
上は2004年5月、下が2007年11月。
レールと枕木がないと、こうも印象が異なります。

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2008年2月 9日 (土)

新潟交通電車線跡探訪その八・新大野駅跡

新潟交通電車線跡探訪・第八回は新大野駅跡。
新大野駅は東関屋駅から7.0km、黒埼中学前から0.5kmの地点にあり、手元にある平成9年(1997年)3月16日(電車線廃止の2年前)現在の時刻表には駅の電話番号が載っておりますので、この時点では業務委託の有人駅であったと思われます。
(ちなみにこの時刻表に電話番号が載っているのは東関屋、焼鮒越後大野木場七穂味方白根月潟の各駅) さて新大野駅は電車線東関屋-白根間開通の約一年二ヶ月後、昭和9年(1934年)6月15日に開業した停留所で、開業から廃止まで列車交換設備の無い棒駅でした。
駅は旧黒埼町の市街地の外れに位置しており、東関屋駅から続いていた市街地も当駅で一応の区切りとなり、ここから先は急激にローカル色が増して鄙びた情景へと変わってまいります。

新大野駅跡を最初に探索した2004年5月の時点では、駅舎・ホーム・レール・架線柱の四点セットが揃いぶみ。

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新大野駅駅舎の様子。
列車交換駅の焼鮒駅や越後大野駅のそれと比べて小さく簡素な造りの建物です。
内部立ち入り禁止なのは安全上防犯上当然の話ですが、やはり残念。

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木場駅方から見た新大野駅構内の様子。

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電鉄線と並走する路上から見た新大野駅構内。
駅前広場の駐輪場は形だけ残っていましたが既にボロボロ。


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黒埼中学前駅方から見た新大野駅構内。
駅名標の枠も残存していました。

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ホーム上から見た駅舎の様子。

2004年5月の訪問時、新大野駅のような棒駅で駅舎(待合室)が残存していたのは他に吉江駅跡のみ。
吉江駅は待合室のみの機能ですので、当駅のように有人のしかも棒駅が往時そのままに
残っているのは極めて貴重でした。

それから3年半後の新大野駅はこのような状態に成り果てていました。

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駅舎は解体されて跡形もなく、レールも剥がされていました。
また夜来の雨が廃路盤に溜まっているのが強烈に印象に残ります。
廃墟と澱んだ溜水という取り合わせは、廃墟の打ち捨てられたイメージを強調していて見ていて非常にやるせなくまた嫌な気分になります。
廃線なのですから当然の事とは言え、管理する人間も誰もおらず、周りからすっかり見捨てられている事の何よりの証なのですからね。

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廃線を眺めながら、新大野駅から木場駅に向かって歩きました、2004年5月撮影。

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2007年11月の同じ道行きでは線路は完全に撤去されて、架線柱が辛うじて残存という末期的状態。

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2008年1月24日 (木)

新潟交通電車線跡探訪その七・黒埼中学前駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第七回は黒埼中学前駅跡。
黒埼中学前駅は東関屋駅から6.5km、越後大野駅から0.5kmの地点にある無人駅で、現役当時は西蒲原郡黒埼町(現・新潟市西区)に所在していました。

旧黒埼町は面積が狭い事もあって学校数は少なく、小学校は4校、中学校は1校のみ。
その1校というのが黒埼中学校で、当駅は黒埼中学(当駅から0.3km弱)への広域通学の利便性向上の為に1982年(昭和57年)1月1日に開業しました。
実際には白根方面次駅の新大野駅(当駅から0.5km)からでも中学への距離は当駅からのそれとたいして違いはなく(新大野駅から黒埼中学まで0.5km弱)、その点ではあまり意味のない駅設置だなぁと思うのですが・・・。
それよりはむしろ、旧黒埼町中心街へのアクセスとしての意味合いが大きいように感じます。
旧黒埼町内の警察署や銀行、郵便局は当駅が最寄りだったのです。
昔読んだ本には黒埼町の要望、出資による駅設置とも、当時既に経営状況のよろしくなかった電車線の増収策の一環とも書かれていましたけれど、真相は果たして!?

黒埼中学前駅跡を初探索した2004年5月の時点では、待合室こそ撤去されていたものの、ホームもレールも架線柱も全て健在。

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越後大野駅方から見た黒埼中学前駅遠景。

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新大野駅方から見た黒埼中学前駅。

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周辺は宅地で、その只中にある停留所が黒埼中学前駅でした。

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電鉄線廃止から五年経っていますが、駅名標の枠もまだ残存しています。
撤去された待合室の基礎部分もはっきりわかります。

しかし2007年10月の再訪時には、ホームもレールも完全に撤去されてしまっていて、不自然な土盛りと周辺の変わらぬ家並みから、ようやくここが駅跡だと推定できる状況でした。

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ホーム・レール共に完全撤去されているからには、廃線跡地の転用に何らかの結論が出たのでしょうか? 
廃線跡に沿った道路が学童の主要な通学路になっているようですし、道路拡幅と学童保護の為の歩行者専用道の設置あたりが妥当だと思われますけどね。

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