カテゴリー「R001 鉄道」の記事

2017年9月18日 (月)

昭和55年10月改正ダイヤにおける新津駅優等列車時刻表

新津駅記事に関連して、新潟県内において在来線優等列車絶頂期であった昭和55年10月改正ダイヤにおける、新津駅発着優等列車時刻表を作成してみました。

新津駅優等列車時刻表 
昭和55年10月改正ダイヤから作成、列車編成は鉄道ジャーナル社刊「国鉄の花形列車1981」から抜粋
赤字は特急列車、緑字は急行列車、青字は寝台専用列車です
下り
列車名 始発 発車時刻 終着
特急 日本海
1号
大阪 01:15 青森 24系25形客車11両編成(ハネのみ)+電源車
急行 鳥海 上野 02:50 秋田 旧型客車及び10系寝台車10両編成( ロネ1、ハネ2、ロザ1、ハザ自6)+荷物車3両
特急 日本海
3号
大阪 04:26 青森 24系客車11両編成(ハネのみ)+電源車
急行 天の川 上野 04:53 秋田 20系客車10両編成(ロネ2、ハネ8)+電源車+郵便車
急行 佐渡7号 上野 05:00 新潟 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 つるぎ 大阪 06:33 新潟 24系25形客車11両編成(ハネのみ)+電源車
急行 きたぐに 大阪 08:38 青森 12系客車及び10系寝台車11両編成(ロネ1、ハネ4、ハザ自7)+郵便車+荷物車
急行 とがくし
1号
上田 10:16 新潟 165系電車7両編成(ハザ指1、ハザ自6)、上田-長野間普通列車
特急 とき1号 上野 10:50 新潟 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 うおの 十日町 11:00 新潟 キハ58系気動車3両編成(ハザ自のみ) 十日町-越後川口間普通列車
特急 いなほ
1号
上野 11:14 秋田 485系電車12両編成(ロザ1、ハザ指7、ハザ自3、シ1)
特急 北越 金沢 11:35 新潟 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
急行 佐渡1号 上野 12:21 新潟 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
急行 あがの
2号
仙台 12:53 新潟 キハ58系気動車6両編成(ハザ指1、ハザ自5) 新津-新潟間普通列車
特急 とき7号 上野 13:47 新潟 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 しらゆき 金沢 14:13 青森 キハ58系気動車9両編成(ロザ1、ハザ指1、ハザ自7)
特急 雷鳥3号 大阪 14:41 新潟 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 いなほ
3号
上野 15:13 青森 485系電車12両編成(ロザ1、ハザ指7、ハザ自3、シ1)
特急 とき11号 上野 15:48 新潟 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 いいで 上野 16:11 新潟 キハ58系気動車4両編成(ロザ1、ハザ自3)、磐越西線経由
特急 とき15号 上野 17:22 新潟 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 赤倉 名古屋 18:03 新潟 キハ58系気動車10両編成(ロザ2、ハザ指2、ハザ自6)
急行 佐渡3号 上野 18:18 新潟 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 雷鳥13号 大阪 18:41 新潟 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 とき19号 上野 18:49 新潟 181系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 あがの4号 仙台 18:52 新潟 キハ58系気動車8両編成(ロザ1、ハザ自7)
特急 いなほ
5号
上野 19:14 秋田 485系電車12両編成(ロザ1、ハザ指7、ハザ自3、シ1)
急行 とがくし
3号
上田 19:35 新潟 165系電車7両編成(ハザ指1、ハザ自6)
特急 とき23号 上野 20:48 新潟 181系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
特急 雷鳥21号 大阪 21:41 新潟 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 とき25号 上野 22:18 新潟 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 佐渡5号 上野 23:09 新潟 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 とき27号 上野 23:18 新潟 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
上り
列車名 始発 発車時刻 終着
急行 鳥海 秋田 00:40 上野 旧型客車及び10系寝台車10両編成( ロネ1、ハネ2、ロザ1、ハザ6)+荷物車3両
特急 日本海4号 青森 02:45 大阪 24系25形客車11両編成(ハネのみ)+電源車
特急 とき4号 新潟 07:00 上野 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 佐渡2号 新潟 07:10 上野 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 雷鳥12号 新潟 07:43 大阪 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 とき6号 新潟 08:00 上野 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 あがの1号 新潟 08:36 仙台 キハ58系気動車8両編成(ロザ1、ハザ自7)、福島-仙台間普通列車
特急 とき8号 新潟 09:00 上野 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 赤倉 新潟 09:29 名古屋 キハ58系気動車10両編成(ロザ2、ハザ指2、ハザ自6)
特急 雷鳥16号 新潟 09:43 大阪 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 いなほ2号 秋田 10:32 上野 485系電車12両編成(ロザ1、ハザ指7、ハザ自3、シ1)
特急 とき12号 新潟 11:00 上野 181系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 とがくし2号 新潟 11:08 上田 165系電車7両編成(ハザ指1、ハザ自6)
急行 いいで 新潟 12:15 上野 キハ58系気動車4両編成(ロザ1、ハザ自3)、磐越西線経由
特急 とき16号 新潟 13:00 上野 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
特急 佐渡4号 新潟 13:34 上野 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 雷鳥28号 新潟 13:43 大阪 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 いなほ4号 青森 14:33 上野 485系電車12両編成(ロザ1、ハザ指7、ハザ自3、シ1)
急行 しらゆき 青森 14:43 金沢 キハ58系気動車9両編成(ロザ1、ハザ指1、ハザ自7)
急行 あがの3号 新潟 16:26 仙台 キハ58系気動車6両編成(ハザ指1、ハザ自5)、福島-仙台間普通列車
急行 佐渡6号 新潟 16:31 上野 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 北越 新潟 16:42 金沢 485系電車12両編成(ロザ2、ハザ指6、ハザ自3、シ1)
特急 とき24号 新潟 17:00 上野 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
特急 いなほ6号 秋田 17:40 上野 485系電車12両編成(ロザ1、ハザ指7、ハザ自3、シ1)
特急 とき28号 新潟 19:00 上野 183系電車12両編成(ロザ2、ハザ指7、ハザ自3)
急行 うおの 新潟 19:22 十日町 キハ58系気動車5両編成(ハザ自のみ) 越後川口-十日町間普通列車
急行 とがくし4号 新潟 19:44 上田 165系電車7両編成(ハザ指1、ハザ自6)、長野-上田間普通列車
急行 きたぐに 青森 21:40 大阪 12系客車及び10系寝台車11両編成(ロネ1、ハネ4、ハザ指1、ハザ自6)+郵便車
特急 つるぎ 新潟 22:41 大阪 24系25形客車11両編成(ハネのみ)+電源車
急行 佐渡8号 新潟 23:16 上野 165系電車12両編成(ロザ2、ハザ指3、ハザ自7)
特急 日本海2号 青森 23:46 大阪 24系客車11両編成(ハネのみ)+電源車
急行 天の川 秋田 23:50 上野 20系客車10両編成(ロネ2、ハネ8)+電源車+郵便車

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2017年9月10日 (日)

蒲原鉄道廃線跡と村松

磐越西線・五泉駅を紹介しておいて見逃してはおられないのが、かつて五泉駅から村松そして加茂駅まで延びていた蒲原鉄道の廃線跡です。
そこで今回は、五泉駅記事の補完という形で、蒲原鉄道の村松駅、そしてその界隈を点描してみます。

五泉と村松を結ぶ県道新津村松線上の「今泉」バス停
五泉と村松を結ぶ県道新津村松線上の「今泉」バス停、2003年11月撮影。
この至近に蒲原鉄道・五泉-村松間唯一の中間駅である今泉駅がありました。

今泉駅付近の蒲原鉄道廃線跡
今泉からさらに村松に歩みを進める、2003年11月撮影。
この時点で蒲原鉄道廃止から約4年経過しています。
線路は外されて、路盤はこのように雑草に覆い尽くされています。
半年先行して廃止された新潟交通電車線では線路も架線柱も駅舎さえも残存して、現役時代さながらの姿を保っていたのとは対照的。

静態保存されていた蒲原鉄道の電車
村松の中心街に入る手前で静態保存されていた蒲原鉄道の電車、2003年11月撮影。
町や蒲原鉄道ではなく、有志の方が私費を投じて保管していたのです。
頭が下がります。
自分の器の小ささを恥じ入るばかり。

斜めから見た蒲原鉄道の静態保存電車
斜めから見た蒲原鉄道の静態保存電車、2003年11月撮影。

正面から見た蒲原鉄道の静態保存電車
正面から見た蒲原鉄道の静態保存電車、2003年11月撮影。

蒲原鉄道の電車モハ71
電車の連結部、2003年11月撮影。
左側の電車は「モハ71」。
鉄道ジャーナル1983年8月号の蒲原鉄道の小特集によると、モハ71は昭和2年に製造された元西武鉄道の制御車で三扉車、昭和40年に電装化し蒲原鉄道に入ってきたようです。
画像左側には「蒲原鉄道 村松変電所」の看板が。
蒲原鉄道が最終的に鉄道線廃止を決めたのは、赤字の他に老朽化した電車や変電所の更新費用の問題でした。
鉄道線廃止の数年前に出版された川島令三氏の著作では、いっそのこと気動車化したら?という提言がなされていましたっけ。
鉄道線を存続させるにはその手しか無いよなぁと、当時私も同感したものです。
キハ110が磐越西線新津方から蒲原鉄道に直接乗り入れできれば、それなりのインパクトもあるはず。
しかし耳にした範囲では、そうした話が真面目に検討されたことはなかったよう。
外の人間がどうこう言っても、もうどうしようもない状態だったのでしょう。
まぁここで妄想を述べさせていただければ、JR東日本が買収して村松駅を棒線化の上で磐越西線馬下折り返しの列車を村松発着に変更するとか。
五泉-馬下間よりは五泉-村松間の方が利用が多いのは、周辺人口規模から言ってもまず間違いないところですし。
もちろんこのようなマニアの机上の空論が省みられることなぞ絶対にあり得ない事なのは、よくよくわかっておりますですよハイ。

電車の見学を終えて、村松の街中に足を踏み出しつつ振り返って一枚
電車の見学を終えて、村松の街中に足を踏み出しつつ振り返って一枚、2003年11月撮影。

電車と凸形電気機関車のセット
旧村松駅付近まで来ると、またまた車両を発見、2003年11月撮影。
今度は電車と凸形電気機関車のセットであります。

蒲原鉄道の電車モハ31
この電車は「モハ31」、2003年11月撮影。
大正12年製の非貫通型で、他社からの購入ではなく蒲原鉄道発注の純血種のようです。
ガソリン気動車に似た感じの正面二枚窓であります。

蒲原鉄道モハ31を斜めから見る
蒲原鉄道モハ31を斜めから見る、2003年11月撮影。

蒲原鉄道唯一の電気機関車、ED1形
蒲原鉄道唯一の電気機関車、ED1形、2003年11月撮影。
アメリカのウェスチングハウス社製電気機関車に範をとった無骨な凸形機で、昭和5年製。
往時は貨物列車の牽引や除雪、イレギュラーで故障した電車の牽引と、たった一両で縦横無尽な活躍を見せていた蒲原鉄道の陰の主役的存在でありました。
前述の鉄道ジャーナル1983年8月号には、七谷駅で故障電車を牽引するED1形のカラー写真が載っていますが、回りの雨に濡れた鄙びた情景、無骨な機関車、古典的電車の3本セットでもう辛抱たまらんモノがあります。
この号の特集は当時、飯田線で廃止目前となった戦前製の旧型国電の特集で、それに関連して地方電化ローカル私鉄の例として蒲原鉄道と栗原電鉄が取り上げられています。
古書店で見かける機会があったら、ぜひ入手していただきたいお薦めの一冊であります。

旧村松駅のバスターミナル
旧村松駅はバスターミナルに姿を変えています、2012年7月撮影。
村松を訪れるのは2003年11月以来でしたが、このバスターミナルは発着本数もすっかり減って、その機能もあまり果たされていない様子。
五泉-村松間はともかく、村松から加茂へは鉄道代替バスとは思えない過疎ダイヤ。
元々この区間の需要が少なかった証なのであります。
前述の鉄道ジャーナル誌の小特集は村松-加茂間廃止が具体化する以前の記事でしたが、鉄道線全体の約8割を占めるのに利用は約3割に過ぎないという、同区間の苦境が問題になっていたのです。
昭和50年代半ばの村松-加茂間の一日平均輸送人員は約850人だったそうです。

現在(2017年)の、村松-加茂間のバス事情をかいつまんでおくと、加茂-村松直通便は一日3往復で朝夕晩の運行。
この区間のバスは加茂市が運行していますが、加茂駅から旧七谷駅あたりまでは上下46本と充分な本数が確保されている一方、現在蒲原鉄道の電車が保存されていて先日公共放送BSのとうちゃこで火野正平氏が訪れていた冬鳥越へは上下18本と本数が激減。
その先、旧高松駅あたりになると上下8本になります。
加茂市と五泉市に跨る路線を加茂市が運行しているので、旧村松町内に入るバスが少なくなるのは仕方のないことなのですが、遠方からの来訪者が廃線跡を探訪するにはひどく不便なダイヤになってしまっているのです。

旧村松町中心街の様子
人口二万人弱を擁した旧村松町中心街の様子、2012年7月撮影。
車の往来は多いものの、シャッターを閉めた店舗が目立ち、歩行者も少なくて正直活気はありません。
村松中心街の道は十字路が無いのですが、これは村松藩の防御策由来なんだとか。
十字路にすべきところでも道をわざとずらして、味方の兵を進撃する敵の死角に潜ませて迎え撃つつもりだったのでしょうね。

村松城跡公園入り口
村松城跡公園入り口、2012年7月撮影。
かつての越後村松藩三万石の城跡に作られた公園です。
村松藩は当初、旧安田町域(現在の阿賀野市)に拠点を持ち、藩の格は最下位の「無城」でした。
それが村松に移転して、城を持てる「城主格」になりました。

蒲原鉄道の電車モハ11その1
城跡公園内に保存されている蒲原鉄道の電車「モハ11」、2012年7月撮影。
昭和5年製の蒲原鉄道純血種の電車で、蒲鉄の他の電車の出自がバラバラの単品なのに対して、このモハ11は同型のモハ12が存在しているので形式として「形」と呼称して差し支えない存在なのです。

蒲原鉄道の電車モハ11その2
モハ11は全長12.432mで、相棒のモハ12と共に蒲原鉄道最小の電車でもありました、2012年7月撮影。

郷土資料館に展示されているタブレット閉塞機
城跡公園内には旧村松町の郷土資料館があり、館内には蒲原鉄道の展示コーナーが常設されています、2012年7月撮影。
これはタブレット閉塞機。
ジリリとベルが鳴ってタマが出てくるヤツですな。
先月の鉄道ピクトリアルの特集はまさにこれでした。

郷土資料館に展示されている電車のサボや駅名板
電車のサボや駅名板などもこうして見学できます、2012年7月撮影。

郷土資料館に展示されている蒲原鉄道の鉄道模型
蒲原鉄道の村松-五泉間を模した鉄道模型のレイアウト、2012年7月撮影。
手前が村松駅です。

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2017年8月27日 (日)

昭和55年10月改正ダイヤにおける村上駅時刻表

村上駅記事に関連して、昭和55年10月改正ダイヤにおける村上駅時刻表を作成してみました。
当時の普通列車は過疎ダイヤで、また利便性も悪いものでした。
例えば夜に村上から新潟へ行きたい場合、事実上の最終列車は19:38発の急行「きたぐに」です。
次の21:38発急行「天の川」は寝台専用列車なので、短距離利用はできません。
まぁタクシーに乗ったと考えれば、当時のB寝台料金¥4,500ナリを投資した人もいるかもしれませんが、それも空席があればの話。
その次の21:48発新津行634Dは新発田で白新線の接続がなく(白新線新発田発の普通列車最終は21:10発)、新津で新潟行に乗り換えると新潟到着は日付の変わった0:09という具合だったのです。
現在は19:21発の特急「いなほ」最終が出た後も、新潟直行便は快速1本、普通2本が確保されていて、終電は22:29発。
まったく便利になったものよと、なんやかやと言われてもやはりJR東日本は偉大だの感を強くするのであります。

村上駅時刻表
昭和55年改正ダイヤから作成
赤字は特急、緑字は急行、青字は寝台専用列車
下り
列車名 始発 発車時刻 終着
急行 鳥海 上野 04:11 秋田 旧型客車10両編成+荷物車3両
特急 日本海3号 大阪 05:19 青森 24系客車11両編成+電源車
急行 天の川 上野 06:43 秋田 20系客車10両編成+電源車+郵便車
833 新津 07:16 青森
621 新津 (08:11) 当駅止
急行 羽越1号 新潟 08:23 秋田 キハ58系気動車4両編成
835D 新潟 09:32 あつみ温泉
急行 きたぐに 大阪 10:13 青森 12系客車6両編成+郵便車+荷物車
923D 柏崎 (11:09) 当駅止
特急 いなほ1号 上野 12:05 秋田 485系電車12両編成
837 新津 13:04 秋田
927M 新潟 (14:46) 当駅止
839 当駅始発 15:00 秋田
急行 しらゆき 金沢 15:35 青森 キハ58系9両編成
特急 いなほ3号 上野 16:02 青森 485系電車12両編成
629D 新津 16:15 鼠ヶ関
急行 羽越3号 新潟 16:40 秋田 キハ58系気動車5両編成
931D 新潟 (17:51) 当駅止 快速列車
841D 新潟 17:55 吹浦
特急 白鳥 大阪 18:19 青森 485系電車12両編成
933M 新潟 (18:59) 当駅止
特急 いなほ5号 上野 20:03 秋田 485系電車12両編成
843D 新潟 20:33 鼠ヶ関
637D 新津 (21:37) 当駅止
639D 新津 (23:46) 当駅止
上り
列車名 始発 発車時刻 終着
620D 当駅始発 05:20 新津
924M 当駅始発 06:31 新潟
826D 鼠ヶ関 07:34 新潟
928D 当駅始発 08:34 新潟 快速列車
828D 吹浦 09:27 新潟
特急 いなほ2号 秋田 09:40 上野 485系電車12両編成
特急 白鳥 青森 10:22 大阪 485系電車12両編成
急行 羽越2号 秋田 10:58 新潟 キハ58系気動車5両編成
832 秋田 12:16 新津
急行 しらゆき 青森 13:17 金沢 キハ58系9両編成
特急 いなほ4号 青森 13:42 上野 485系電車12両編成
834 秋田 14:08 新津
936M 当駅始発 15:37 長岡
急行 羽越4号 秋田 16:04 新潟 キハ58系気動車4両編成
830D 酒田 16:26 新潟
特急 いなほ6号 秋田 16:50 上野 485系電車12両編成
632D 鼠ヶ関 18:07 新津
838 秋田 19:19 新津
急行 きたぐに 青森 19:38 大阪 12系客車6両編成+郵便車
急行 天の川 秋田 21:38 上野 20系客車10両編成+電源車+郵便車
634D 当駅始発 21:48 新津
特急 日本海2号 青森 23:23 大阪 24系客車11両編成+電源車
急行 鳥海 秋田 23:23 上野 旧型客車10両編成+荷物車3両

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2016年3月24日 (木)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四」の続きです。
今回は国鉄最末期からJR発足、そして終焉までの最後の話です。

昭和60年3月ダイヤ改正では、これまで乗り換えの不便さに対応して暫定措置で存置されていた上越急行「佐渡」「よねやま」が全廃。
寝台急行「天の川」は輸送体系の変化を理由に廃止されてしまいます。
大宮止まりとはいえ新幹線が開業していた当時、新潟-上野間の寝台需要がどれほどあったかはやや疑問ではあるものの、昭和20年代半ばから設定されていた対東京の定期夜行列車が全廃されたのは、衝撃的な話でした。
その結果、夜行需要は高速バスにシフトして、その需要の多さに慌てた当局が夜行快速「ムーンライト」を走らせるという展開になるのですが、それはもう少し後の話です。
「べにばな」は山形で分断され、新潟-山形間の気動車急行として存続。
「赤倉」は長野で分断されて、新潟-長野間の「南越後」として再出発。
「南越後」はグリーン車を連結しません。
これによって、新潟県内から165系電車のグリーン車が、いや急行型車両のグリーン車が姿を消したのです。
伝統ある幹線昼行急行の、事実上の終焉と言える出来事です。
後に残された昼行急行は、全席自由席のかつての準急的存在に過ぎないのです。
・・・しかし「南越後」って、センスのかけらもないネーミングだなぁ。
当時から呆れてました。
素直に「とがくし」に統一すればいいのにと。
一応、「とがくし」は長野から上田まで、「南越後」は長野から松本まで普通列車として運転するゆえの差別化らしいのです。
でも新潟県内から普通列車区間まで乗り通す人がそんなに多いとも思えないですから、失笑モノの愛称をあえて付けることも無かったのにと思うのですよ。
前身の急行「日本海」以来、客車で運行されてきた「きたぐに」は、14系客車から583系電車に衣替え。
まさか新潟駅で、毎日583系を見れる時代がこようとは。
特急「白鳥」や上野発着時代の「青森いなほ」が583系化されなかったことで、新潟の地でこの電車が定期運行されるなんて諦めていたのですよ。
この話を聞いた時は、「きたぐに」と特急「雷鳥」で昼夜兼行運用、もしくは「きたぐに」の間合いで「いなほ」の一部を583系化するんじゃないかとか、妄想を逞しくしたものです。
結果は全てハズレだったわけですけど。

「佐渡」「よねやま」「天の川」廃止による新潟県内急行列車と一日当たり延べ県内走行営業キロは下記の通りです。
「きたぐに」(新潟-大阪間夜行、583系電車)。
「能登」(上野-金沢間夜行長野経由、14系客車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、長野-上田間普通列車、165系電車)。
「南越後」(新潟-長野間、長野-松本間普通列車、165系電車)。
「べにばな」二往復(新潟-山形間、キハ58系)。
「野沢」(長野-長岡間、キハ58系)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)。
計9往復、約2,100km。
ちなみに特急は25往復、約7,600km。

昭和61年11月の、国鉄最後のダイヤ改正は約半年後のJR移行を踏まえたもので、急行史的には過疎路線のローカル急行群に最後の一撃が加えられたものでした。
新潟県内では、飯山線の「野沢」と只見線の「奥只見」が廃止。
「野沢」にはこの時期、長野-長岡間と十日町-長岡間に乗車した事があります。
前者は長野出発時で五割ほどの乗り具合で、十日町で大量下車。
後者はガラ空きの車中の人になりましたっけ。
共に夏休み中でしたけど、繁忙期にこれではなぁと、急行愛好の私でも廃止は致し方無しの印象を強く持ったものです。

昭和62年4月1日のJR発足にはこの陣容で望み、JR最初のダイヤ改正(昭和63年3月)wでは、「とがくし」と「南越後」が統合されて、「赤倉」三往復として再出発。
愛称的にはこれですっきりして、車両にも夜行快速「ムーンライト」用のグレードアップ車が間合いで入るようになります。

それから平成に入って三年間は、新潟県内急行列車は不動のまま過ごします。
そして平成3年3月ダイヤ改正では、「赤倉」三往復中一往復が、車両はそのままで越後線経由の快速「やひこ」に格下げ。
この「やひこ」には平成4年5月に全区間乗車したことがあります。
京都へ一人傷心旅行をした後、帰路は大阪から客車急行「ちくま」のB寝台で長野まで。
この時は、列車寝台で一晩過ごすこと、そして急行列車に乗るのがこれで最後だとは思いませんでしたねぇ・・・。
早朝に長野に到着して、「やひこ」に乗り継いで新潟まで。
「やひこ」はグレードアップ車で快適、直江津から乗客が増えて越後線に入る頃は満席でした。
越後線内は停車駅が少なく、柏崎-吉田間は確か無停車。
規格の良くない越後線内でトバしてみたところで、速達化はたかが知れてます。
揺れも激しかったし。
「やひこ」は短命で、平成5年12月に廃止されてしまうのですが、越後線内の停車駅を増やしたら、もう少しは潜在需要を掘り起こすきっかけになったんじゃないのかなぁと。
出雲崎や寺泊、分水と県都新潟の間は高速バスも無く、越後線も過疎ダイヤでクルマ以外では行き来に不便なのです。
閑話休題、
同輩の「あがの」が上越新幹線上野開業に伴って、あっさり快速に格下げされてしまったのに対し、山形止まりになりながらも急行として健在ぶりを示していた「べにばな」。
この列車は山形新幹線運行に伴う奥羽本線の改軌工事の影響で、平成3年8月に米沢止まりの上で快速に格下げされてしまいます。
「べにばな」の愛称は現在も残っているものの、一往復に減便されて肝心の快速運転も新潟-坂町間のみ。
「べにばな」には羽越、米坂界隈への駅取材で何度も乗っていますが、朝の新潟発は坂町までに多くが下車してしまい、米坂線内まで行く乗客は半分ぐらいの印象。
夜の新潟行はガラガラでした。
曜日や時期によって乗り具合は異なるのてしょうけれど、「あがの」の乗りが堅調な感じなのに比べて「べにばな」は、坂町で切ってしまっても構わないのではと思うのです。
朝の新潟発の場合は直前に「いなほ」が先発していますから、「べにばな」を米坂線内の普通列車に格下げしても、ダイヤは弄らなくて済むのです。

平成5年3月改正では、14系客車で運転されていた「能登」が489系電車に更新されて、寝台車の連結を終了。
これで新潟県内から毎日運転の客車列車が姿を消すことになりました。

平成9年10月の長野新幹線開業に伴うダイヤ改正では、昭和30年代後半の都市間準急をルーツに持つ新潟県内最後の昼行急行「赤倉」が特急「みのり」に格上げ。
県内昼行急行史の終了であり、また国鉄~JRの急行型電車優等列車史の終焉でもありました。
グリーン車の座席を装備したグレードアップ車に、「やひこ」廃止後は車両運用に余裕が出来たことで当たる率が高かった「赤倉」を、座席のレベルは落ちて料金は倍近く値上がりして、スピードアップも微々たるものの「みのり」へ格上げしたのは、単なる値上げと嫌われて低迷。
年を追うごとに削減が行われ、平成14年12月には快速「くびき野」に格下げされてしまいました。
「くびき野」は、特急型車両に料金無しで乗れてスピードも特急「北越」と大差は無く、運行時間帯の良さもあって盛況でした。
当初は四連だったのを、数年で「北越」と同じ六連に増強。
半室グリーン席や指定席車を連結して、自由席の座席カバーが無いのを除けば「北越」と大差無い、掛け値無しに乗り得な列車になったのです。
「くひき野」、特に夕方に新井を出発する5号は、上越方面の駅取材の帰りの足として私の愛用列車でした。
自由席のみの時代は直江津からだと座れるかどうかわからず、新井までわざわざ出て座席を確保したものです。
指定席車が付いてからはもっぱらこちらを愛用。
平成27年3月ダイヤ改正まで発売されていた新潟対上越地区の特急自由席往復割引きっぷ「えちご往復きっぷ」では「くびき野」の指定席には乗れないこともあってか、「くびき野」の指定席はいつも空いていました。
三連休の最終日に乗っても、自由席がすし詰めなのに対して指定席は50%程度のほど良い乗り具合。
500円ちょっと払えば余裕で座れるのにと、不思議でしたなぁ。
一般の人は「指定席」と聞くと、ちょっと構えてしまって小額でも心理的抵抗があるにしても、勿体ない話です。
18きっぷ期間外の通常の土日はガラガラで、乗客は新潟に着くまで私ひとりきりという事も何度かありましたっけ。
そんな「くびき野」も平成27年3月改正で廃止。
どうやら当局は、高速バスと張り合うのを止めて薄利多売も止めることにしたようです。
特急自由席割引きっぷも一気に五割アップで、それまでは乗れた上越新幹線・新潟-長岡間も乗車禁止、では「北越」の仕切り直しの「しらゆき」の本数を増やすのかと言えば、「北越」時代の五往復はそのまま維持。
いなかもんはこげんぐらいでちょうどよか、お上の言うこと黙って聞いとりゃエエンじゃとナメられているようで、実に不愉快な展開なのです。

またまた閑話休題、
「赤倉」廃止で、新潟県内に残る急行列車は「きたぐに」と、碓氷越え廃止に伴って長岡経由に変更された「能登」の二往復のみ。
とは言っても、この頃には全国で急行列車の廃止がいよいよ深度化していたので、夜行二往復が通るというのは最も恵まれていた方なのです。
以後、12年半に渡ってこの体制が続くことになります。
しかしこの間も急行列車の退潮は大きく進んで、平成20年3月には寝台急行「銀河」廃止で寝台急行史の終了、21年3月には気動車急行「つやま」廃止で国鉄~JRの定期昼行急行史の最後のページが閉じられました。

平成22年3月ダイヤ改正では「能登」が臨時列車に格下げ。
繁忙期を中心に暫く運行を続けましたが、平成24年2月をもって事実上の廃止。
そして平成24年3月、ついに「きたぐに」が臨時列車化。
新潟県内定期急行史はついに完結の日を迎えました。
臨時「きたぐに」は翌年1月の年始運行を最後に廃止されて、急行列車という種別そのものが新潟県内からは消滅しました。
「きたぐに」廃止後もしばらくは停車各駅では乗車位置表示板が残っていて、駅取材でそれらを見ては、感傷に浸ったものです。
JR東日本新潟支社では発券が面倒だからなのか臨時急行を設定する気が全く無いようで、特急型車両を使用する臨時列車は快速扱いです。
今後も県内で急行列車が走る事はおそらく無いでしょう。

幼い頃に目を輝かせて乗った懐かしい日々・・・、「佐渡」の冷房のよく効いた車中に驚いたあの日、「しらゆき」の混雑に閉口したあの日、お盆の真っ最中に「佐渡」に乗って、スシ詰めの大人たちの間に滑り込んで泣きたくなるほど辛かったあの日、「きたぐに」の快適な車内にご満悦だった亡き母の笑顔、冷房の無い真夏の「赤倉」で窓を全開にして日本海に目を見張ったあの日、「羽越」の車内の汚さに呆れたあの日。
さらばみなさらば。

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2016年3月23日 (水)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三」の続きです。
今回は衰亡の一途を辿る、国鉄末期の新潟県内急行列車についての話です。

昭和51年9月ダイヤ改正では、それまで10系寝台車で運転されていた寝台急行「天の川」が待望の20系客車化を実施します。
20系客車の急行転用は、同年2月の「銀河」(東京-大阪間)に次ぐもので、「天の川」と同時に「新星」(上野-仙台間)も20系寝台急行に生まれ変わっています。
この改正後でも特急「あさかぜ」二往復、「瀬戸」、「安芸」、「北陸」、「北星」、「あけぼの」二往復が20系で運用されているので、「天の川」が急行のまま20系化されたのは画期的な事だったのです。
これまで運用されていた、コイルバネでよく揺れる、戦前の三等寝台車スハネ30以来の詰め込み式設計の10系寝台車に対して、一部の寝台特急でまだ運用されている、静粛で乗り心地もよく、天井も高くて心理的圧迫感の小さい20系とでは、それこそ月とスッポン。
同じ区間を並走する10系寝台車の「鳥海」とは大差があったでしょう。
鉄道ジャーナルの「鳥海」列車追跡記事には、揺れる、うるさいと最低な状態のA寝台車オロネ10の状態が書かれていましたっけ。
私は20系B寝台車には一度だけ乗車の機会があって、JRに移行後、20系もそろそろ引退という話が出てきた頃の臨時「ざおう」で上野から山形まで体験乗車しました。
既に24系25形の二段式B寝台には何度か乗っていたので、52cm幅の三段ベッドを見た時は、乗り合わせた私よりやや年上の青年氏と「狭いねぇ」と苦笑し合ったものです。
しかし相当の経年であるにも関わらず、揺れは思いの他小さくて驚いた記憶がありまなぁ。
その少し前に「銀河」に乗った時は、静岡浜松あたりで大揺れになって、すわ東海地震かと恐怖心を覚えたのが強烈な印象として残っていたので、臨時「ざおう」の乗り心地のよさは一層良く思えたのです。
狭いベッドも、横になれば特に問題無し。
私には閉所恐怖症の気は全然無いので、ああいうのは平気なのです。
閑話休題、
急行寝台車のテコ入れとしては当時最高のカードが20系への置き換えだったわけですけど、固定編成で寝台車オンリーの20系は、そのままでは「天の川」のような寝台専用列車に限定されてしまいます。
座席車が少なくてもよいのなら、「十和田」や「だいせん」のように余剰A寝台車を座席車化すれば良いのですけれど、座席車と混結で且つ座席車の比率が高い列車にはこの手も使えません。
そこで次善の策として期待されたのが、余剰20系を12系座席車と混結出来るように電気系統を改造する事でした。
ただこれはコストパフォーマンス的にあまり芳しくない結果だったようで、西日本地区の夜行急行に限定されています。
座席車を12系に更新していて、且つ東北・上越新幹線開業に直接の影響を受けない「きたぐに」「津軽」あたりは、この方式に変えてもよかった気もしますけど。
その後の特に関西対九州の寝台特急の低迷で近い将来の整理が必要になって、14系客車に余剰が出る見込みになったのも、20系の12系混結改造に影響しているのかもしれませんね。

昭和53年10月のダイヤ改正では、新潟-大阪間の昼行気動車急行「越後」が特急「雷鳥」に格上げされます。
新潟県内を走る長距離気動車急行には他に「しらゆき」「赤倉」がありますが、これらは列車の使命が二区間に大きく分かれています。
「しらゆき」なら金沢・富山-新潟、新潟-秋田・青森、「赤倉」なら新潟-長野、長野・松本-名古屋です。
一方「越後」は、新潟-大阪間に特急「北越」が設定されていることから見て、その需要のメインは新潟-関西間の直通旅客であったと思われます。
つまり「しらゆき」「赤倉」よりも長距離旅客の割合は高かったと推察され、時代遅れになりつつあった気動車急行はいかに安価な料金とはいえ、その任には最早耐えられないスピードと居住性だったと申せましょう。
特急に格上げされたのも、単に国鉄の増収策だけではない旅客側の事情もあったのではないかと。
ともあれ、「越後」が無くなったことで新潟県内通過定期急行列車は一往復減の28往復。
一日当たり延べ走行営業キロ数は約7,500kmに減じました。
特急は同改正でさらに増発が実施されて、32往復、約11,100kmになっています。

昭和55年10月ダイヤ改正では特急・急行共にこの状況に変化はありません。
ちなみにこの段階でグリーン車を2両連結していたのは「佐渡」「よねやま」「赤倉」「妙高」。
「赤倉」は全国唯一のグリーン車2両の気動車急行です。
全国広しと言えども他には「伊豆」「東海」「信州」「アルプス」だけ。
かつては「特ロ」と「並ロ」を一両ずつ連結しているのが当然だった幹線筋の急行列車の面影を、新潟県内ではまだ見出すことが出来たのです。

そしてついに迎えた運命の日。
昭和57年11月の東北・上越新幹線大宮暫定開業に伴うダイヤ大改正です。
急行列車は大幅に整理されて下記の如き状況に。
「佐渡」夜行一往復を廃止、昼行一往復を季節列車化。
「妙高」二往復を特急「あさま」に格上げ。
「うおの」を快速に格下げ。
「しらゆき」を特急に格上げして「白鳥」に編入。
「羽越」を特急「いなほ」に格上げ。
「ひめかわ」を快速に格下げし、柏崎-青海間は廃止。
「いいで」を廃止。
「白馬」を廃止。
「あがの」の新潟-五泉間を快速に格下げ。
「鳥海」を寝台特急「出羽」に格上げ。
「越前」と「能登」を統合して長野経由の「能登」として一本化。
「きたぐに」の新潟-青森間を特急「いなほ」に格上げ。

残存する急行列車は「赤倉」をキハ58系気動車から165系電車に、「きたぐに」を12系客車&10系寝台車から14系客車に、「能登」を旧型客車&10系寝台車から14系客車にそれぞれ更新しています。
「赤倉」については、381系特急化の話があったと耳にしています。
しかし新潟-長野間のインフラを振り子対応にするにはカネがかかり過ぎるので、急行のまま存置だったとか。
しかし新潟-長野間は振り子をオフにしていてもいいんじゃないのと思うのです。
勾配区間は気息奄々で、編成をダブルエンジン車主体にせざるを得ない為に普通車の冷房化もままならず、平坦区間でも電車急行と同じダイヤにする為に停車駅を減らさざるを得ないキハ58系に比べれば、振り子を使わない381系でも40分程度のスピードアップは充分可能だったはずです。
またまた閑話休題、
「赤倉」の電車化と「いいで」の廃止によって、気動車のグリーン車は新潟県内の定期列車から姿を消しました。
また「きたぐに」「鳥海」「能登」「越前」に加えて奥羽本線の「津軽」の10系寝台車も連結を終了して、10系寝台車および旧型客車の定期急行運用はこれで終焉を迎えたのです。
10系寝台車はその後も普通夜行列車「山陰」「はやたま」「ながさき」で細々と余命を過ごし、最終的に昭和60年3月改正で「山陰」廃止によって全廃されています。

さてこの大改正の結果、新潟県内定期急行列車は、
「佐渡」二往復(新潟-上野間、165系電車)。
「よねやま」(直江津-上野間、165系電車)。
「天の川」(上野-秋田間、夜行20系客車)。
「赤倉」(新潟-名古屋間、165系電車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、165系電車)。
「きたぐに」(新潟-大阪間、夜行14系客車)。
「能登」(上野-金沢間長野経由、夜行14系客車)。
「べにばな」二往復(新潟-仙台間、キハ58系気動車)。
「あがの」二往復(新潟-福島間、急行区間は五泉-郡山間、キハ58系気動車)。
「野沢」(長岡-長野間、キハ58系気動車)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)
合計15往復、一日当たり県内走行延べ営業キロは約3,700km。
改正前の半分になってしまったのです。
越後線と大糸線から急行が全廃されたことなどで、新潟県内定期急行停車駅は改正前の55駅から13駅減の42駅になりました。
一方、特急も「とき」「はくたか」が全廃されるなど大きな影響を受けたものの、急行の格上げ等でドラスティックなものにはなっていません。
改正後は26往復で約8,500kmです。

「佐渡」「よねやま」「天の川」が生き残ったのは、上越新幹線が上野発着になるまでの暫定措置であり、この時点で先が見えてしまっています。
私が「佐渡」に最後に乗ったのもこの時期で、昭和59年の夏休みに新潟-上野間を片道乗車しました。
「佐渡」は新潟県内区間で度々乗っていたものの、全区間乗車は昭和57年夏と合わせて二回きり。
まだお盆前の八月初めでしたが、夏休みの真っ最中だというのに自由席の乗車率50%といったところで、快適には過ごせたものの急行時代の終わりを実感したものです。
新幹線開業直前の昭和57年夏のお盆前に上野-新潟間を利用した際は、立錐の余地無く満員で指定席もグリーン車も全て売り切れだったのに。
しかも熊谷あたりで起きた踏切事故の影響で二時間抑止というオマケ付き。

続きはまた次回。

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2016年3月21日 (月)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二」の続きです。
今回は昭和43年ダイヤ改正から昭和50年までの、新潟県内急行列車の絶頂期から黄昏を迎え始める時期の話です。

昭和43年10月の全国ダイヤ白紙大改正、通称ヨンサントオでは、新潟県内の急行列車体系がほぼ完成の域に達します。
日本海縦貫線関係では、
戦前から運行され、また新潟県内最古の愛称付き急行のひとつである「日本海」(大阪-青森間)は、新設される寝台特急(新潟県内初の寝台特急)に伝統ある愛称を譲って、「きたぐに」と改称されます。
一方、新潟-大阪間に運行されている同名の昼行キハ58系気動車急行は「越後」に改称。
信越本線関係では、
「くびき」が「よねやま」に統合されて、「よねやま」二往復体制になります。
(新潟-長野間、新潟-妙高高原間各一往復)
「よねやま」を初め、それまでキハ55系主体で運転されていたローカル気動車急行は、この頃には逐次キハ58系に更新されていったと思うのですけれど、明確な資料が無いのが残念です。
また新潟県内最後の準急「かくだ」が廃止され、「ひめかわ」はそれまで新潟-直江津間の「よねやま」との併結運転から単独運転に変更され、「かくだ」の代替として越後線経由になります(新潟-糸魚川間)。
上越線関係では、
夜行の「越路」が「佐渡」に編入されて、定期の「佐渡」は昼行五往復、夜行一往復になりました。
羽越本線関係では、
「羽越」が再度設定されて、新潟-秋田間に運行を開始しました。
また上野-秋田間の夜行急行「羽黒」は「鳥海」に編入されて、「鳥海」は昼行の気動車と夜行の客車の二往復体制になります。
その他では、新宿-糸魚川間の気動車急行「白馬」が「アルプス」に編入されて、「白馬」の愛称は一旦消滅しました。

この結果、新潟県内を走る定期急行列車と一日当たりの延べ県内走行営業キロ数は下記の通りになります。
営業キロ数は若干の計算間違いがあるかもしれないので、目安としてお考えください。
電車急行(165系)
「佐渡」六往復(新潟-上野間、昼行五往復、夜行一往復)、
「ゆざわ」一往復(新潟-小出間、小出-越後湯沢間普通列車)、
「妙高」二往復(直江津-上野間)。

気動車急行(キハ58系及びキハ55系)

「鳥海」一往復(上野-秋田間)、
「しらゆき」一往復(金沢-青森間)、
「越後」一往復(新潟-大阪間)、
「赤倉」一往復(新潟-名古屋間)、
「よねやま」二往復(新潟-妙高高原・長野間)、
「ひめかわ」一往復(新潟-糸魚川間、越後線経由)、
「いいで」一往復、(新潟-上野間、磐越西線経由)、
「あがの」二往復(新潟-福島間)、
「羽越」一往復(新潟-秋田間)、
「あさひ」二往復(新潟-仙台間)、
「うおの」一往復(新潟-越後川口間、越後川口-十日町間普通列車)、
「野沢」一往復(長岡-長野間)、
「アルプス」一往復(新宿-糸魚川間)。

客車急行
「きたぐに」一往復(大阪-青森間昼夜行)、
「鳥海」一往復(上野-秋田間夜行)、
「天の川」一往復(新潟-上野間夜行)、
「白山」一往復(金沢-上野間、昼行長野経由)、
「北陸」一往復(金沢-上野間夜行長岡経由)、
「越前」一往復(金沢-上野間夜行長野経由)。

新潟県内走行定期急行列車の一日当たり延べ走行営業キロ数合計約8,500km。

定期特急列車は「とき」三往復と「白鳥」「はくたか」「日本海」各一往復で、新潟県内一日当たり延べ走行営業キロ数は約2,200km。
急行列車が準急の格上げで本数、走行キロ共に増やしているのに対し、特急の増発はまだまだ微々たるものといえ、走行キロは急行列車の約25%に過ぎません。
この当時はローカル準急上がり以外の主要急行には冷房付きの一等車が連結されていて、主要幹線の急行には豪華に一等二両。
電車急行「佐渡」「妙高」には半室ビュッフェ、客車長距離急行「きたぐに」には、全国でも小数派になっている急行用食堂車が連結されて庶民の旅に彩りを添えていたのです。
私がハッキリと記憶している頃には、急行からこれらは消え去ってしまっていて、「とき」の181系食堂車も183系に編成を合わせる為に抜かれています。
「白鳥」「雷鳥」には食堂車が連結されていたものの、上越地方や北陸関西には親戚がいないので用事も無く乗る機会も無く、とうとう食堂車には足を踏み入れず仕舞いでしなぁ。

昭和44年
10月:
気動車特急「いなほ」(上野-秋田間)新設に伴い、昼行「鳥海」を季節列車に格下げ。
気動車急行「ひめかわ」の運転区間を延長して、新潟-青海間に変更。

昭和45年
10月:
信越本線全線電化完成に伴い、急行「よねやま」二往復を気動車から165系電車に変更し、運転区間を新潟-長野間に統一。

昭和46年
特記事項無し。

昭和47年
3月に山陽新幹線・新大阪-岡山間開業に伴うダイヤ改正が実施されました。
新潟県内急行列車の動きとしては、
新潟発着の寝台急行「天の川」を秋田まで延長して、上野-秋田間の運転に変更。
大阪-富山間に運行されていた寝台急行「つるぎ」を新潟まで延長して、大阪-新潟間の運転としました。
電車急行「よねやま」二往復を「とがくし」に改称。
電車急行「ゆざわ」を、特急「とき」増発と引き換えに廃止。
確か六日町、小出、小千谷の各駅に「とき」が停車を始めるのは、この頃だったと記憶しておりますけれど、アヤフヤなモノゆえ間違っていたらご容赦の程を。
前年から臨時列車として運行されていた金沢-松本間(大糸線経由・金沢-糸魚川間を「しらゆき」と併結)「白馬」一往復を定期列車に格上げ。
約三年半ぶりに「白馬」の愛称が、昔馴染みの大糸線に定期復活したのです。
客車昼行急行「白山」は電車特急に格上げ。
これによって、純然たる昼行客車急行は函館本線の「ニセコ」のみになりました。
ただし新潟県内では、「きたぐに」が新潟-青森間を座席車と食堂車の昼行編成で健在です。
そして迎えた10月、新潟県内では白新・羽越本線全線電化完成に伴うダイヤ改正で、急行と特急の勢力が逆転を始めるのです。
白新、羽越本線関連では、
特急「いなほ」の電車化と一往復増発に伴い、季節運転の昼行「鳥海」を廃止。
代替として「羽越」を一往復増発して二往復体制に。
しかし電化完成と掛け声は勇ましいものの、電車運転は特急「白鳥」「いなほ」のみ。
気動車列車は急行・普通共にそのまま存置で、客車列車と貨物列車の牽引機関車がD51形やDD51形からEF81形に代わっただけ。
交直流型急行電車が製造を終了し、他線区からの捻出転属も無いこと、非電化区間直通気動車急行との併結や車両運用の問題があるにせよ、気動車急行がそのままなのはこの線区によく乗った身としては、幼心にもガッカリでしたねぇ。
同じ急行料金を払っているのに、電車急行「佐渡」「よねやま」は乗り心地も良く普通車にも冷房が入っていました。
片や気動車の「しらゆき」「赤倉」「羽越」は煤けていて車内も乱雑としていて、乗り心地も悪く、グリーン車以外の冷房車は僅少。
気動車急行の普通車に冷房が無いのは、勾配線区が多くて編成をダブルエンジンのキハ58中心に組成せざるを得ず、冷房用電源を搭載できるシングルエンジンのキハ28をうまく組み込めない事、そして東京の本社のエラいさんが「北国に冷房はいらない」と北陸東北の冷房化に消極的だった事、普通車冷房化と編成出力向上を同時に賄えるキハ65が西日本限定にされた事などが挙げられます。
でも北陸だって東北だって、真夏は昔から蒸し暑いのですよ。
それなりにこの仕打ちですからね。
本社に権限が集中して、各管理局の要望に耳を傾けないんでしょうね。
もう30年以上昔の話ですけど、幼い頃に味わった不条理は生涯忘れないのですよ。
閑話休題、
上越線関連では、
一度は消滅した「よねやま」の愛称が、上野-直江津間(長岡経由)の電車急行一往復として復活。
ただしこれは純増ではなく、「佐渡」一往復を新潟発着から直江津発着に変更したものです。
この結果、定期「佐渡」は四往復になります。
ただ、資料では定期と季節運転を合わせて記されているので、定期運転については私の推定です。
ひょっとするとこの時点では定期五往復かもしれません。
日本海縦貫線関係では、
3月に新潟延長が成った「つるぎ」が寝台特急に格上げ。
そして新潟県内急行列車の最後の新設列車として、「奥只見」(小出-会津若松間、キハ58系)が運行を開始。

昭和47年10月改正時点では、急行30往復(電車9往復、気動車16往復、客車5往復)、一日当たり県内延べ走行営業キロ約7,900km。
これに対し特急は19往復、約6,200kmです。

昭和48年10月改正では特急は24往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは約7,800km。
定期急行は前年改正と変化が無いので、この時点で新潟県内では特急と急行の勢力がほぼ互角になりました。
この改正では「きたぐに」の普通座席車が、それまでの旧型客車から冷房付きで空気バネの12系客車に更新されているのが、個人的に感慨深いトピックです。
12系客車の定期急行列車運用は「きたぐに」が最初の例の一つで、当時まだ少なからず存在していたであろう長距離客には大いなる福音であったでしょう。

昭和50年3月改正では、上野-金沢間(長岡経由)に寝台特急「北陸」が運行を開始。
従来の寝台急行急行「北陸」は、座席車と寝台車混結の「能登」に改称して存続します。
「能登」に改めて連結された普通座席車は旧型客車で、当初はこの数年後に予定されていた上越新幹線開業後に手を入れる事を考えた、応急的措置だったのかもしれません。
当時の上野発着の東北方面夜行急行は概ねこんな感じで、この段階では「津軽」「十和田」「八甲田」「鳥海」「越前」そして「能登」の普通座席車は旧型客車で存置されていました。
東北・奥羽本線の夜行急行はその後20系や12系にグレードアップされていますけれど、「鳥海」「越前」「能登」は結局普通座席車に何のテコ入れもされないまま、開業が大幅に遅れた東北・上越新幹線開通まで、旧態依然とした姿で走り続けることになります。
鉄道ジャーナルの昔の列車追跡記事を読むと、「鳥海」では昭和55年になってもオハ35系が運用されていました。
そしてこれら全て新潟県内を通過しているのです。
「北国のいなかはこげんぐらいでちょうどよか」とナメられている気がして、とってもイヤな気分。
また新宿発着の「アルプス」が電車に統一された為に、非電化の大糸北線に乗り入れる気動車「アルプス」は廃止。
これで県内走行定期急行列車は一往復減の29往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは改正前の約7,900kmから微減に転じました。
一方、特急は「北陸」誕生で一日当たり県内延べ走行営業キロは約8,200kmになって、とうとう急行を逆転し、この後その差はどんどん開いていくことになるのです。
またこの時期には、「きたぐに」の食堂車が北陸トンネル火災事故の元凶と見なされて即刻連結中止、「佐渡」「よねやま」「妙高」のビュッフェ営業の中止と、急行列車の供食設備が相次いで失われていて、いよいよ古き良き急行時代の黄昏が始まったのでした。
続きはまた次回。

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2016年3月20日 (日)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一」からの続きです。
今回は昭和37年から昭和43年10月ダイヤ白紙大改正前夜までの話です。

昭和36年10月の全国ダイヤ白紙大改正以降、新潟県内の急行列車の整備も急速に進んで行きます。
キハ58系が落成していく度に、主要幹線の急行列車をキハ55系から置き換えて、捻出されたキハ55系と新造のキハ58系によって、後に急行格上げになるローカル準急の新設。
そして直流電化区間用の急行型電車の決定版である165系電車の投入によるものです。
その経過を、準急と合わせて年毎に追って行くと下記の通りになります。

昭和37年
3月:
準急「羽越」(新潟-秋田間、キハ55系気動車主体)運行開始。
これと同時に準急「あさひ」も一往復増発されます。
県都新潟と県北地方の速達アクセスが、これで実質的に構築されました。
また「あさひ」の運行開始により、県都新潟と隣接各県主要都市との間に、昼行優等列車二往復以上の体制が確立されました。
山形・仙台へは準急「あさひ」二往復、
郡山・福島へは準急「あがの」二往復、
長野へは準急「よねやま」「あさま」。
富山・金沢へは特急「白鳥」と急行「きたぐに」。
6月:
信越本線・新潟-長岡間の電化で上野-新潟間の電気運転が可能になったのを機に、長岡止まりの準急「ゆきぐに」一往復を新潟延長の上で急行に格上げして「弥彦」としました。
これで昼行上越急行は「佐渡」「越路」「弥彦」の三往復になりました。
しかし車両は80系電車、食堂車有りの客車、食堂車無しの客車とバラバラです。
電車は高速ではあっても乗り心地は疑問符が付くもので、洗面所も無く一等車はいわゆる「並ロ」。
当時、急行列車の一等車と言ったら「特ロ」が常識になっていましたから、高い一等急行料金を払って「並ロ」に座らされたのでは、たまったものじゃありません。
一方客車は重厚な乗り心地で一等車も「特ロ」、洗面所付きながら低速です。
同時に運行を開始した特急「とき」(新潟-上野間、161系電車)は、冷暖房完備で居住性抜群で乗り心地も素晴らしく、急行とのギャップは極めて大きかったでしょうね。
現代に当てはめれば、新鋭特急車両とキハ40系気動車や115系電車ぐらいの感覚的な差があるかも。
165系電車投入までの暫定措置とはいえ、新潟は田舎モンでおとなしいから、こげんぐらいでちょうどよかとナメられてる気がして、イヤな気分ですなまったく。
関西で同じ事をやったら、暴動モノですがな。
11月:
準急「うおの」(新潟-十日町間、キハ55系気動車)運行開始。
天下のNHKの当時のドキュメンタリーでも、「三級ローカル線」などと酷い事を言われていた飯山線にも、ようやく近代化の波が訪れたのです。
十日町地方の方には、県都新潟と直通出来る列車の誕生は画期的な出来事だったに違いありません。
なお、この「うおの」は準急「よねやま」と新潟-長岡間を併結運転していました。
12月:
急行「赤倉」(新潟-名古屋間、キハ58系気動車)運行開始。
この列車は純粋な意味での新設ではなく、準急「あさま」(新潟-長野間)と準急「きそ」(長野-名古屋間)を結合させて急行に格上げしたものです。
これで新潟と中部地方の中心・名古屋が直接結ばれましたけれど、新潟と名古屋の結び付きって正直薄いんですよね。
客車準急「妙高」(上野-直江津間)をキハ57系に車両変更して急行に格上げ。
これで上越地方と長野を結ぶ急行列車は、気動車の「赤倉」「妙高」と客車の「白山」の三往復になりました。
新宿から大糸線に乗り入れる気動車急行「白馬」の内一往復を糸魚川まで延長して、新宿-糸魚川間の運転としました。
大糸線の新潟県内区間初の優等列車です。

昭和38年
3月:
準急「野沢」(越後川口-長野間、キハ55系気動車?)運行開始。
午前中に飯山線沿線から県都長野へ行き、夕方帰るための用務を主とした列車で、当初の守備範囲は十日町まででした。
4月:
急行「しらゆき」(金沢-青森間、キハ58系気動車)運行開始。
日本海沿岸の直通旅客に加えて、金沢・富山-新潟と新潟-秋田・青森という地域間輸送も受け持つ、「白鳥」「きたぐに」を補完する性格の列車です。
急行「きたぐに」は大阪まで延長して、新潟-大阪間の運転としました。
これで新潟対関西の直通昼行(といっても一日潰れますけど)チャンネルは、特急「白鳥」と「きたぐに」の二往復体制になりました。
6月:
165系電車の新造投入によって、昼行上越急行列車を165系に更新。
編成も従来の7~8両編成から、半室ビュッフェ車と一等車各2両込みの12両編成に増強。
大型のヘッドマークが取り付けられて、東海道153系急行と並ぶ、日本最高クラスの堂々たる昼行急行列車になりました。
一年前の惨憺たる状態に比べて、夢でも見ているような変転でありましょう。
また夜行電車急行として「越後」を新設し、従来の夜行準急「越後」は寝台急行に格上げして、「天の川」に改称しました。
さらに前年の改正では80系電車準急のまま存置された「ゆきぐに」(長岡-上野間)を新潟延長・急行格上げします。
この結果、上越急行は昼行の165系電車「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」の四往復、夜行は寝台主体の「天の川」と165系「越後」で、特急「とき」を加えれば対東京のアクセスは大幅に改善向上したのです。
個人的には、「天の川」編成に一両だけ連結された座席指定車が、元特急用のスハフ43形だった話に目が釘付けですなぁ。
151系電車特急「こだま」がデビューする昭和33年11月までは、歴史と伝統に彩られた東海道客車特急の、庶民には手が出ない高嶺の花の特急専用三等車だったハコが、流れ流れて新潟に顔を出すようになったのです。
かつての花形スタァが地方公演ばかりの毎日を送っている、そんな印象でせつなくもありまた萌えるのです。
10月:
準急「くびき」(新潟-新井間、キハ55系気動車主体)と準急「ひめかわ」(新潟-糸魚川間、キハ55系主体)運行開始。
「くびき」については、新潟県内都市間需要の増大に加えて、「あさま」が急行「赤倉」に格上げされた為に、料金面で値上げという不満が出たからではないかなぁと思います。
「ひめかわ」については、糸魚川地域から県都新潟への用務利用を考えての設定と思われます。
長距離急行「きたぐに」「しらゆき」は、日帰り用務には使い難い時間帯なのです。
なおこれら気動車準急列車で一等車を連結していたのは「よねやま」のみのようです。
一等車と行ってもキハ55系の一等車キロ25、つまり「並ロ」です。
急行「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由、キハ58系)運行開始。
磐越西線経由で上野まで行くという、上越線開業前まで時間を遡ったような列車ですけれど、勿論新潟対東京ではなく、新潟対会津、中通り、中通り対東京の二つの使命を持つ列車であります。
準急「あがの」との違いは、純然たる急行用のキハ58系による運転であり、更に「特ロ」一等車キロ28が連結されていることです。

昭和39年
この年の10月に東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正がありましたけれど、新潟県内を走る急行・準急列車に大きな影響は無し。
この改正後の県内通過定期急行列車と一日の延べ県内走行営業キロ数は下記の通りです。
電車急行(165系電車)
「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」「越後」(新潟-上野間、「越後」のみ夜行)、
気動車急行(キハ57及び58系)
「赤倉」(新潟-名古屋間)、「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由)、「きたぐに」(新潟-大阪間)「しらゆき」(金沢-青森間)、「妙高」(直江津-上野間)、「白馬」(新宿-糸魚川間)。
客車急行
「天の川」(新潟-上野間夜行)、「北陸」(金沢-上野間、長岡経由夜行)、「羽黒」(上野-秋田間、新津経由夜行)、「日本海」(大阪-青森間、昼夜行)、白山(金沢-上野間、昼行)。
急行16往復。 一日の延べ県内走行営業キロ数約5,200km。
ちなみに特急列車は、電車「とき」(新潟-上野間)と気動車「白鳥」(大阪-青森・上野間)の二往復のみで、一日の延べ県内走行営業キロ数は約900kmに過ぎません。
新潟県内のみならず全国的にも、地方幹線の手堅い主役として颯爽と鉄路を駆け抜けていたのが、この時代の急行列車だったのです。

昭和40年
10月:
準急「羽越」を上野まで延長してキハ58系気動車急行に格上げして、秋田-上野間運転の「鳥海」に改称。
県北地域と東京を直接結ぶ昼行優等列車の誕生です。
準急「くびき」を妙高高原まで延長して、新潟-妙高高原間の運行とする。
妙高高原まで延長したのは、あるいは観光需要を見越しての事かもしれません。
165系電車準急「ゆざわ」(新潟-越後湯沢間)を新設。
慢性的に混雑する上越急行の補完役として設定されたであろう「ゆざわ」は、翌年3月に急行に格上げされるので、準急として走ったのは僅か半年でした。
客車夜行急行「越前」(上野-福井間長野経由)運行開始。

そして今からちょうど半世紀前の昭和41年。
3月に準急制度が見直されて、運転距離100km以上の準急は全て急行に統合されます。
新潟県内では「よねやま」「くびき」「ひめかわ」「あがの」「あさひ」「野沢」「うおの」「ゆざわ」が一斉に急行格上げとなって、新潟県内から一時的に準急列車が消滅。
10月:
新潟県内最後の新設準急として、「かくだ」(新潟-柏崎間)運行開始。
「かくだ」は越後線経由で、同線最初の優等列車誕生です。
対東京の上越線電車急行群の名称が整理されて、「佐渡」に統一。
同時に上野-石打間の電車準急「苗場」を新潟延長の上で急行に格上げして、「佐渡」に編入したので、「佐渡」はこれで定期五往復体制になります。
また夜行の「越後」は伝統ある愛称の「越路」に変更されました。
「妙高」は165系電車化した上で、上野-長野間の「信州」の内一往復を直江津まで延長して「妙高」に編入、これで直江津-上野間の「妙高」は二往復体制になりました。
新潟県上越地方と東京間の昼行直通速達列車は「妙高」二往復と「白山」、そして前年に「白鳥」から分離された気動車特急「はくたか」の合計四往復体制になりました。

昭和42年には新潟県内急行列車に変化は無く、翌年10月の全国白紙大改正を迎えるのですが、それはまた次回。

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2016年3月19日 (土)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一

来る3月26日のJRダイヤ改正で、定期で唯一の急行列車「はまなす」が廃止されます。
これでJRからは定期急行列車が全廃されてしまいます。
幼い頃に急行列車に親しんだ中年鉄ヲタとしては、実にもって寂しい!の一言。
我が新潟県でも、急行列車が消滅して早三年になります。
我が県の場合は臨時急行の設定は無いので、文字通りの消滅であります。
そこで今回から備忘録的に、戦後の新潟県内国鉄~JR急行列車の興亡の軌跡を
簡単に辿って行きたいと存じます。

戦後、新潟県内に毎日運転の定期急行列車が走り始めたのは昭和22年6月で、
上野-新潟・金沢間(上越線経由)に夜行急行が運行開始、翌7月には戦時下の
昭和18年に決戦ダイヤ移行で廃止された大阪-青森間の急行列車が復活しました。
両列車共に復活当初はまだ名無し・・・というよりも当時の国鉄で愛称を付けるのは
特別急行列車に限定されていたので、これは当然の話です。
その後上野-新潟・金沢間の夜行急行は系統分離されて、金沢便は急行、新潟便
は準急になります。
金沢便は昭和24年に大阪まで延長され、上野-大阪間の運転になります。
新潟便については格下げの印象を持ちますけれど、
利用客からすれば、基本的に急行列車と変わらぬ客車に急行の半額の準急料金で
乗れるのですから、かなりのお値打ちだったでしょう。

さて、その後まもなく、国鉄が急行列車にも愛称を付ける方針にしたのを受けて、昭和25年11月に上野-金沢間の夜行急行に「北陸」、大阪-青森間の長距離急行には「日本海」と命名されます。
その前月には、昭和24年9月に運行を開始した上野-新潟間の不定期昼行急行列車が定期化(愛称は付けられず名無しの701レ・702レ)されているので、新潟県内を走る定期急行列車は「北陸」「日本海」「701レ・702レ」の一日三往復になりました。
当時最新鋭にして特急の一等展望車を除けば最高水準の居住性を誇るリクライニンシート装備の座席車である特別二等車(通称「特ロ」)は、昭和25年秋から「北陸」と「701レ・702レ」に連結を開始していますが、当時「特ロ」を連結する急行列車は最重要な列車に限られていて、「北陸」と「701レ・702レ」にとっては面目躍如な話だったのです。
なお「北陸」には、戦前製の二等寝台車も連結されていました。
「日本海」については、需要が小さいという理由で「特ロ」連結は大阪-金沢・富山間のみとされています。

閑話休題、
昭和20年代は不定期急行こそ設定されるものの、定期列車についてはなかなか増えません。
昭和29年10月に、それまで上野-直江津間に運行されていた準急を金沢延長の上で急行に格上げした「白山」(上野-金沢間、長野経由)が加わったのみでした。
昭和20年代末の時点では、新潟県内を走る定期急行列車はこの四往復(701レ・702レは昭和27年に「越路」と命名されました)のみで、一日走行営業キロは延べ約1,500kmに過ぎません。
昭和31年11月ダイヤ改正では、上野-新潟間に二本目の昼行急行列車として
「佐渡」がデビュー。
それまで上野-秋田間(羽越経由)夜行不定期急行として運行されていた「津軽」が、「羽黒」と改称されて目出度く定期化されます。
しかし定期急行列車の新設はこれで暫く打ち止め。
急行を補完すると共に、地方都市間速達輸送の主役であるはずの準急列車も、前述の上野-新潟間夜行準急に愛称が付いた「越後」のみ。
勿論、特別急行列車などというハイカラでハイソな列車は県内には影も形もありません。、
当時は復興期から高度経済成長期に脱却しつつあり、東海道では一等展望車と食堂車を連結した特別急行列車が鉄路の大スターとして君臨し、急行列車も続々増発、それらを補佐する準急も客車あり80系電車ありと咲き誇っている時代にですよ。
現代では死語となった「裏日本」という言葉が、まだ生きていたのを感じさせずにはおきませんな。

一方、その後の急行列車に繋がる準急列車は、昭和30年代も半ばに差し掛かってようやく整備が始まります。
年毎に簡単に追って行くと次の如し。
昭和34年
4月:「ゆきぐに」(長岡-上野間、80系電車)運行開始。この「ゆきぐに」は昭和36年10月ダイヤ改正で一往復増発されて、二往復中一往復は
国鉄急行型電車の元祖である153系電車で運転されます。
新潟県内の定期急行・準急列車で153系が充てられたのは「ゆきぐに」のみで、極めてレアな存在でした。
後に新潟対東京の上越急行が電気運転化された当初は、「佐渡」他の急行列車がつり革がぶらさがり、洗面所が無く、コイルバネで乗り心地の良くない80系電車や重厚な乗り心地ではあるものの速度の遅い客車で運行されていたのに対し、準急と
して一往復が残った「ゆきぐに」はそれらよりずっと新しくて設備も良く、空気バネで乗り心地も上々の153系電車で引き続き運転されていて、その差は極めて大きいものがありました。
客室の設備面で差があるとしたら、一等車(旧二等車)が準急相当のロマンスシートだった「ゆきぐに」に対して、客車急行のそれは「特ロ」だった事ぐらいでしょうね。
上越急行と準急の車両水準の逆転という不条理は、国鉄の車両運用の事情の産物です。
しかし乗客からすればたまったもんじゃないですよねw。
準急の倍の料金を払って、元々東京-沼津間の湘南電車として設計され、居住性も設備もそれに合わせている80系電車に長時間乗せられるなんて。
またまた閑話休題、
9月:「あがの」(新潟-仙台間磐越西線経由、キハ55系気動車。昭和36年に一往復増発)。
準急料金を取るに相応しい居住性を持つキハ55系を使用した待望の高速優等列車が、新潟県内にもようやく姿を見せました。
昭和35年
11月:「あさひ」(新潟-仙台間米坂線経由、キハ55系気動車)運行開始。
「あがの」「あさひ」の運行開始で、県都新潟と隣接東北各県の主要都市を直接結ぶラインが構築されたのです。
しかし新潟県内主要都市・地域を結ぶ優等列車は未整備のまま。
急行「日本海」や「越路」が使えないわけではないですけれど、これら急行は慢性的に混雑している上に、料金的に気軽に乗れる存在では無いので県内の用務・観光で簡単に使える存在ではありません。

昭和36年10月のダイヤ白紙大改正では、新潟県内もようやく速達優等列車の恩恵にあずかれるようになります。
この改正では県内初の特急列車「白鳥」(大阪-青森・上野間、キハ80系)が運行を開始。
新潟県内を走る定期急行列車の愛称がまだ両手で数えられる時代に、県内を東西に縦断する特急列車が誕生したのです。
一方、急行列車では「きたぐに」(新潟-大阪間)が運行を開始。
使用する車両は最新鋭のキハ58系です。
準急列車では「よねやま」「あさま」(新潟-長野間、キハ55系気動車)が運行を開始。
これでようやく、新潟・長岡・上越地区の新潟県内三大都市圏を結ぶ速達列車が実質的に実現されたのです。

この時点で新潟県内で運行される定期急行列車は、
「佐渡」「越路」(新潟-上野間、客車列車) 
「北陸」(上野-金沢間、長岡経由、客車夜行列車) 
「羽黒」(上野-秋田間、新津経由、夜行客車列車) 
「日本海」(大阪-青森間、昼夜行客車列車) 
「きたぐに」(新潟-金沢間、キハ58系気動車) 
計六往復、一日当たり県内走行延べ営業キロ数は合計約2400kmです。

続きはまた。

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2011年12月31日 (土)

さよなら日本海ときたぐに

今年最後の備忘録的に・・・
JR東日本新潟支社は、平成24年3月のダイヤ改正で寝台特急「日本海」
(大阪~青森)と夜行急行「きたぐに」(大阪~新潟)を廃止することを決
めた。これに伴い、大阪-新潟間を毎日運行する夜行列車はなくなる。
→http://sankei.jp.msn.com/region/news/111226/ngt11122602070001-n1.htm

遅くとも2015年春の北陸新幹線金沢延伸時までの廃止は確実視されて
いて、数年前からは今年かいや来年かとその動向が注目されていた寝台特急
「日本海」と急行「きたぐに」ですが、とうとうその日が来ました。
客車でもう少しは保せそうな「日本海」はともかく、経年著しい583系が
今後は臨時化されるという「きたぐに」に使われ続けるとも思えず、
伝統ある座席寝台混結編成の「きたぐに」はもうこれで見納めになるので
しょう。
「日本海」の開放式A寝台や「きたぐに」のB寝台に全区間乗り通してみた
いという私の夢はこれで夢のまま終わりです、残念無念・・・。
もう夜汽車に乗って物言わぬ深夜の街並みを眺める機会も無いでしょうな
・・・。
そう言えば夜汽車に最後に乗ったのはもう18年も前、今は無き急行
「ちくま」の大阪-長野間ハネです、二昔近く前の話だよ(泣)。
「きたぐに」は12系客車時代に新潟-村上間でよく乗りました。
他のDC急行は「しらゆき」がいつも混んでいてまず座れなかった
のと、「羽越」の車内が煤けて汚いのを母が嫌った為で、鉄道にさして
興味の無い母も「きたぐに」の乗り心地の良さと大阪から夜を徹して
走ってきたとは思えない綺麗な車内にご満悦でしたっけ。

深夜に県内を通過する「日本海」は仕方無いと諦めて、「きたぐに」は駅で
の佇まいを記録しておこうと、数年前から駅巡りの行程に来迎寺以北の停車
駅での撮影を組み込んでいるのですが、亀田駅と新潟駅での撮影は未だ手付
かず。
日常の行動範囲なので、行きたい時に行ってちょろっと撮ってくればいいや
と思っているうちにチャンスは後三ヶ月でしかも冬。
年明け後、18きっぱーが姿を消した後の土日は多少寒くても行かなきゃな
ぁ。


Kitagunirai
来迎寺駅にて、2008年5月撮影。
「きたぐに」廃止で来迎寺駅に停車する定期優等列車は消滅。

Kitaguninaga
長岡駅にて、2008年5月撮影。

Kitagunimi01
Kitagunimi02
Kitagunimi03
Kitagunimi04 
見附駅にて、2011年6月撮影。
来迎寺駅同様に、ホームを一杯に使って停車するこの光景も
もうじき過去帳入りです。


Kitagunihigashi
東三条駅にて、2009年5月撮影。


Kitaguniniitsu01
Kitaguniniitsu02
Kitaguniniitsu03 
新津駅にて、2011年6月撮影。
一枚目の左手に見えるのは国鉄色485系の特急「北越」です。

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2011年5月 4日 (水)

昭和55年10月改正ダイヤにおける越後川口駅時刻表

越後川口駅のエントリーの別表として、上越新幹線開業前最後の
ダイヤ改正となった昭和55年10月改正ダイヤから越後川口駅
時刻表を作成しました。

特急の停車は無い代わりに昼行急行が全列車停車する、当駅の
最後の輝きを放っていたまさにその時のものです。
飯山線は急行一往復を含む12往復で、長野直通が存在するの
が現在と異なるところ。
現在の飯山線越後川口口は10往復の運行で、当時に比べ普通
列車一往復減に留まっているのが意外な健闘ぶりと言えなくもあり
ません。
しかしこの当時は二連以上が常態なのに対し現在は単行ワンマン
がメインで、輸送力は四半世紀前の約半分です。

越後川口駅時刻表
昭和55年10月改正ダイヤより作成  
青色は急行列車 
上越線
下り
列車名 始発 発車時刻 終着 備考
佐渡7号 上野 03:48 新潟
733M 上野 04:19 長岡
461M 越後湯沢  07:07 長岡
431M 六日町 07:44 新潟 六日町-長岡間休日運休 
433M 水上 08:12 新潟 長岡-新潟間快速
467M 小出 09:01 新潟 小出-長岡間休日運休
うおの 十日町 09:36 新潟 十日町-越後川口間普通 
721M 高崎 10:04 長岡
723M 上野 11:06 長岡
佐渡1号 上野 11:14 新潟
よねやま  上野 12:25 直江津 
725M 高崎 14:35 長岡
727M 高崎 17:07 長岡
佐渡3号 上野 17:14 新潟
469M 越後湯沢 18:03 長岡
729M 上野 19:01 長岡
野沢 長野 19:13 長岡 飯山線経由
731M 高崎 21:49 長岡
佐渡5号 上野 21:58 新潟
上り
列車名 始発 発車時刻 終着 備考
佐渡8号 新潟 00:55 上野
460M 長岡 06:30 六日町 休日運休
724M 長岡 07:32 上野
野沢 長岡 07:57 長野 飯山線経由
佐渡2号 新潟 08:15 上野
462M 長岡 08:25 小出 休日運休
422M 新潟 10:06 上野
よねやま 直江津 10:59 上野
424M 新潟 11:05 越後湯沢 
728M 長岡 13:39 高崎
佐渡4号 新潟 14:57 上野
730M 長岡 15:40 高崎
732M 長岡 17:10 上野
佐渡6号 新潟 17:33 上野
440M 新潟 18:15 越後湯沢 新潟-長岡間快速
734M 長岡 19:34 高崎
うおの 新潟 20:40 十日町 越後川口-十日町間普通列車  
468M 長岡 21:02 水上
470M 長岡 23:05 石打
飯山線
越後川口発
列車名 始発 発車時刻 終着 備考
128D 当駅 07:37 十日町
野沢 長岡 07:57 長野
130D 当駅 08:29 十日町
136D 当駅 10:09 十日町
140D 当駅 11:40 長野
142D 当駅 13:47 十日町
148D 当駅 15:46 十日町
156D 当駅 17:26 十日町
160D 当駅 18:17 森宮野原 
162D 当駅 19:54 十日町
2124D 新潟 20:40 十日町 新潟-越後川口間急行うおの 
164D 当駅 22:00 十日町
越後川口着
列車名 始発 到着時刻 終着 備考
121D 十日町 06:46 当駅
125D 津南 07:27 当駅
127D 森宮野原 08:57 当駅
2121D 十日町 09:30 新潟 越後川口-新潟間急行うおの
133D 十日町 10:53 当駅
137D 長野 13:35 当駅
141D 十日町 15:36 当駅
143D 長野 16:55 当駅
145D 十日町 17:55 当駅
野沢 長野 19:11 長岡
149D 十日町 19:31 当駅
151D 長野 20:23 当駅

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