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2016年5月の記事

2016年5月29日 (日)

分水駅(越後線)

本日の駅紹介は、越後線・分水駅。

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新潟県燕市に所在する有人駅で、過疎電化ローカル線である越後線南部区間の中間駅としては出雲崎駅と共に希少な、みどりの窓口設置駅でもあります。
越後線唯一の優等列車であった気動車急行「ひめかわ」の停車駅でもありました。
正式な開業は大正2年(1913年)4月20日で、開業当時の駅名は「地蔵堂」。
当時の所在は西蒲原郡地蔵堂町で、駅名は町名から取ったものです。
分水町史によると、当駅は当初、大河津分水工事の資材搬入拠点として使用する観点から、大河津分水に近い地点への設置が考えられていたそうです。
当駅から大河津分水路までは500m程、分水可動堰までは1.8kmですけれど、当初の停車場想定位置が単純に分水路の河畔だったのか、それとも大河津駅(現・寺泊駅)から南東方向に急カーブして現在の国道116号沿いに出て分水を渡った辺りだったのか、残念ながら定かではありません。
後者なら可動堰や洗堰にも近くて、資材搬入の利便性は高かったと思いますけれど。
ともあれ停車場の位置は、町の中心部への設置を望む町の働きかけで現在位置に決定しました。
しかし民家の立ち退きや駅周辺の道路整備(大河津分水の資材搬入基地として使用するのでこれは必須だったのでしょうね)に手間取った為に、やむなく駅から吉田方に約200mの、現在の良寛資料館付近に仮駅を設置したのです。
仮駅としての開業は、大正元年12月18日です。

さて地蔵堂町は戦後の昭和29年に周辺諸村と合併して、新自治体「分水町」として新たなスタートを切ります。
地蔵堂駅は分水町の玄関駅となりましたが、自治体名と駅名が違うのは少々考え物です。
越後線電化完成を翌年に控えた昭和58年4月に、駅名を現在の「分水」に改称して、ようやく町名と駅名の一致をみたのです。
本来ならもっと早い時期に改称すべきだったでしょうに、町に鉄道に対する熱意があまり無かったのか、国鉄のお役所体質で陳情を中々受理しなかったのか?
この辺の裏事情も興味を惹くところであります。
分水町はその後、平成の大合併で平成18年に近隣の吉田町と共に燕市と合併して、その西部地区となり現在に至ります。
JR東日本によると、分水駅の2014年度一日平均乗車人員は546人。
同社新潟県内有人67駅中51位で、飯山線・十日町駅よりもやや多いレベルにあり、越後線南部区間の過疎ダイヤを考えれば中々健闘していると言えそうです。
駅からはやや遠いのですが、高校があって通学客が相当数存在するのもその理由でしょう。

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分水駅駅舎の様子、上は2005年8月、下は2011年4月撮影。
建築財産票によると、2000年3月10日の完成で、許容積雪量は1.3m。
駅の利用実態に合った程よい大きさの、堅実な建物と申せましょうか。
この時点ではタクシーが一台待機中でした。
画像左側に停まっているバスは、折り返し待機中の越後交通運行長岡行です。
駅舎の壁面のレンガ状のデザインは、何を表現しているのだろうと疑問に思っていたところですが、コレは大河津分水をイメージしているのだそうです。
なるほど、我がイマジネーションの不足が恥ずかしい限りでございます(恥)。

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分水駅前広場の様子、2011年4月撮影。
当駅前のバス停からは、越後交通運行の長岡-分水線、東三条-寺泊車庫線が発着しています。
前者は長岡駅まで約一時間で、過疎ダイヤの越後線南部区間における駅巡りでは貴重な路線です。
長岡周辺と分水界隈の取材が比較的短時間で行えるのですから。
後者も東三条や燕三条と分水界隈、そして海岸沿いの寺泊中心街の取材に使えます。
また分水駅前からは燕市のコミニュテイバス「スワロー号」が平日に限り運行していて、分水-粟生津南吉田-吉田--燕三条の移動に使えます。

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分水駅駅舎内の様子、2011年4月撮影。
画像右側が待合室で、新しい建物として当然の空調付きです。
室内はJR東日本定番の三人掛けベンチが三脚。
この時点での待合室開放時間は、駅窓口営業時間と同一の朝7時から夕方5時半まで。
5年後の現在も同じようですね。

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寺泊駅方から見た分水駅ホーム全景、2005年8月撮影。
定期列車の発着は右側の駅舎に面したホームのみです。
越後線電化完成後の昭和60年3月改正ダイヤでは、当駅での列車交換は既に無くなっていました。

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寺泊駅方を望む、2011年4月撮影。
4月下旬の撮影で、桜の時期ももう終わりですね。

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粟生津駅方から見た分水駅ホーム全景、2005年8月撮影。
右側のホームへは地下道で連絡していますが、通常は通行禁止になっていて残念ながら見学することは出来ません。

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ホーム端から粟生津駅方を望む、2005年8月撮影。

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分水駅駅舎ホーム側の様子、2005年8月撮影。
トイレはこの改札内の他に、駅前広場横の公園に公衆トイレがあります。
至近にトイレを借りられる店が無いので、来訪者にとっては大いなる福音。

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分水駅を出発する115系電車の柏崎行、2011年4月撮影。
この電車ももうじき見納めですな。

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粟生津方の踏切から見た分水駅構内、2011年4月撮影。
画像中央に大河津分水に架かる鉄橋が見えます。

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分水駅から国道116号線に至る旧地蔵堂町中心街の様子、2011年4月撮影。
郷愁を誘うレトロな町並みですけれど、当地域も御他聞に漏れず商業集積は国道沿いに集中してしまっています。
再開発が行われず廃れる一方だからこそのレトロな町並みなわけで、ここでもうーむと考えてしまうのですな。

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分水駅から1kmほどで、国道116号線の大河津橋に到達、2011年4月撮影。
旧市街地と異なり、こちらはクルマがひっきりなし。

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大河津橋上から分水可動堰を望む、2011年4月撮影。
画像奥の緑色の建造物が当時現役だった旧可動堰、右手前で工事中なのが新可動堰です。
新可動堰はこの撮影から約七ヶ月後の2011年11月に供用開始しました。

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大河津橋上から見た越後線の鉄橋、2011年5月撮影。
強風でしばしば抑止がかかる為、その際のダイヤ調整の為に分水駅の列車交換設備を残しているそうです。
しかし強風が予測されれば運休のご時勢ですから、あの設備も使う機会はどれだけあるのやら。

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花も散った大河津分水沿いの桜並木、2011年4月撮影。

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旧可動堰に近づいてまいりました、2011年4月撮影。

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旧可動堰の先にある、信濃川大河津資料館に到着、2011年4月撮影。
入館無料で、この地域の洪水との戦い、治水の重要性を見学勉強できる場です。

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大河津分水の上流側を望む、2011年4月撮影。

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俯瞰で見た旧可動堰、2011年4月撮影。

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2016年5月22日 (日)

ほくほく大島駅(北越急行ほくほく線)

本日の駅紹介は、北越急行ほくほく線・ほくほく大島駅。
新潟県上越市に所在する無人駅で、開業はほくほく線開通と同時の平成9年(1997年)3月22日。
開業当時の所在は東頸城郡大島村で、同村にとっては待望久しい鉄道駅の誕生でした。
ほくほく線・十日町-犀潟間が国鉄北越北線として昭和48年に着工して、約四半世紀を経ての駅開業だったのです。
大島村はその後、平成の大合併で平成17年に周辺諸町村と共に新潟県第三の都市である上越市に合併編入されて今日に至ります。

ほくほく大島駅は東に難工事で有名な全長約9.1kmの鍋立山トンネル、西に全長約1.6kmの深沢トンネルに挟まれた保倉川の谷合いの僅かな明かり区間に位置していて、トンネルの多いほくほく線の中にあっても、両方向共にこれほどトンネルとの間合いが小さい駅は他にありません。

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ほくほく大島駅駅舎全景、2010年5月撮影。
なお撮影は全て2010年5月です。
私は新潟県内の他の駅には最低2回は降りているのですけれど、当駅に関してはこの訪問が今のところ最初で最後です。
訪問から6年も経つので、今年もう一度行って最新の状況を見てから書こうかとも思ったのですが、駅も周囲も6年前とほぼ変化が無いようですので、やや古い話になりますが述べておこうと思います。
画像右側が、難工事で有名な鍋立山トンネル側です。
三階建ての最上階が古民家風のデザインになっていて、鄙びた当地域の雰囲気をよく表しています。
駅前広場は広大ですが、日曜の午前中のこの日は軽トラが一台止まっているだけ。
上越市統計年鑑によると、平成19年度(2007年度)のほくほく大島駅一日平均乗車人員は約78人です。
上越市内のほくほく線諸駅と比較すると、秘境駅として扱われることもある大池いこいの森駅の約4.3倍、くびき駅の約9割、うらがわら駅、虫川大杉駅の約6割です。
旧村の人口規模としてはほぼ同等のうらがわら駅(浦川原村)と比較しても劣位にあるのは、中心街に立地しているうらがわら駅と、後述するように旧村中心部と距離がある当駅の違いでしょうか。

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ほくほく大島駅駅舎内部の様子。
ゆったりとした空間で居住性も良し。
内部には自動券売機とコインロッカー。
居心地が良いのはこのスペースが三階部分にあって、外とは完全に隔離されているという心理的な要因も大きいかと。
地平スペースにある待合室って、無意味そうな人の出入りとか生活雑音とか無意識の内に身構えるところがあるんですよね。

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まつだい駅方から見た、ほくほく大島駅ホームの様子。
画面奥が鍋立山トンネルです。
当初の予定通りに当駅が列車交換駅として完成していたら、どのような姿の半トンネル駅になっていたことやら。
トンネルを見ながら、列車の待ち時間にそんな妄想に耽ってみたりするのです。

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有効長2両のほくほく大島駅ホーム端から虫川大杉駅方を望む。
駅を出てすぐ直下の県道と保倉川をオーバークロスして、深沢トンネルへ突入します。
ほくほく大島駅は当初列車交換駅として計画され、鍋立山トンネル出入り口はその為の複線規格で施工されていますが、深山トンネル側はご覧の通り単線規格で、こちら側に交換設備を張り出すことは最初から想定していなかったのでしょう。

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ほくほく大島駅のホーム出入り口付近の様子。
鍋立山トンネルに高速で出入りする特急「はくたか」は実に迫力があって、画像右下の柵の存在とその注意書きを実感できたものでした。
「はくたか」が消えて一年あまりを過ぎ、その注意書きが有効なのも一日上下併せて三本の超快速「スノーラビット」だけとなりました。

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まつだい駅方から見た、ほくほく大島駅ホームの様子。
こちら側から見ると幾分かは開放感があります。

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鍋立山トンネル出入り口の様子。
複線規格で設計されたトンネルがよく理解できます。

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ほくほく大島駅に到着するHK100形電車「ゆめぞら」の直江津行。

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ほくほく大島駅ホームから、これから歩く県道の旧大島村中心部方面を望む。
一見すると谷あいの深い山中に分け入る気配。

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ほくほく大島駅ホームから見た、県道の旧大島村役場方面を望む。
画像左下は当駅駅前広場です。
地図を見ると、この先約2.5kmに「大島」集落があります。
昔はそちらの方が村の中心だったのでしょうか。
国道253号線の整備で村の軸心が現在の場所に移ったとか?

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県道から見たほくほく大島駅付近の様子。
駅至近の見所といったら「深沢の大けやき」ぐらいです。

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ほくほく大島駅至近の深沢諏訪神社。
この神社の境内に「深沢の大けやき」があります。

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これが「深沢の大けやき」。
樹高40m、幹囲5m、推定樹齢約800年だそうです。

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ほくほく大島駅から国道253号線沿いの旧大島村中心部に向って県道を歩きながら、駅方面を振り返って一枚。
デジカメのデータによると、駅を出発して約5分後の景色です。
5月も半ばだというのに、日陰にはまだわずかに雪が残っていましたっけ。

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ほくほく大島駅から約10分歩いて、国道253号線に到達。
この界隈が旧大島村の中心街になります。
付近にはヤマザキショップとスーパーが各一軒という按配。
山間の名うての豪雪地帯ゆえ、三階建ての家が目立ちます。
私も子供の頃、魚沼に住んでいたことがあるので実感としてわかるのですが、マジで一階からは出入り困難でしたからねぇ。
だから屋根の雪下ろしの手伝いといっても、二階から雪の上に出て脚立立ててちょこっと登るだけ。
雪の降らない地域の方は勿論、同じ新潟県でも小雪の新潟市住まいでは想像を絶するレベルの雪、雪また雪だったのです。
なお、駅からここまではスクールバス兼用のコミュニティバスが設定されていますけれど、土休日は残念ながら全便運休です。
2016年4月現在で、ほくほく線のうらがわら駅から虫川大杉駅経由で旧大島村への東頸バス運行の路線が一日四往復設定されていますが、こちらも土休日は全便運休。
まつだい方面へのバス路線は設定されていないので、ほくほく大島駅訪問はほぼ鉄道のみでという事になります。

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2016年5月21日 (土)

「第二次大戦のイギリス軍艦」で元戦艦アイアン・デューク女史に妄想を廻らす

ども。
先日、世界の艦船増刊の「第二次大戦のイギリス軍艦」が発売されたので早速入手。
私はかつて当ブログで、戦後のイギリス海軍勢力の消長について連載したほど、イギリス海軍が好きなのです。
海軍の本分は海上交通を保護して国民生活を維持すること。
それを列強海軍の中で最も貫いているのがイギリス海軍だからです。
対米艦隊決戦を前提にして全てをそこに向けて組織を構築している、帝国海軍とは根本からして違うのです。
帝国海軍は対米戦を迫られた時、今まで営々と大金をかけて築いた連合艦隊がアメリカを相手に戦えないと今更言えずに無謀な戦いに突入してしまいました。
しかしイギリス海軍にはそのような尖がった戦略などありません。
地中海でイタリア海軍と戦うのも、北海でドイツ海軍と戦うのもそれは帝国海軍が考えているような艦隊決戦ではなく、味方の海上輸送路をいかにして保護して戦争遂行能力を、国力を維持するかという基本路線の単なる派生でしかないのです。
従って全てにおいて融通無碍、帝国海軍ではおそらく発想の外であっただろう、戦艦を重要船団の護衛に付ける事も開戦直後からやっているぐらいです。
その辺が個人的に非常に好ましく思えるのですよ。

私は昭和55年に出版された旧版も持っていますが、これは現在の目で見ると本文の構成がキッチリ纏まっておらず、ちょっと見難いのです。
また艦艇の要目や艦名は巻末に纏めてあるので、本文と巻末をいちいち見返さなくてはならず、ハンディな参考文献としては、はなはだ使い勝手が悪いのですよ。
世界の艦船別冊では他に「アメリカ」「フランス」「イタリア」「ドイツ」の第二次大戦の軍艦シリーズがありますが、昭和57年発行の「ドイツ」は「イギリス」と同じ構成でこれもまた見難い。
昭和59年発行の「アメリカ」では、本文の艦船各級の艦名と要目が同一ページに纏められて俄然見やすくなったものの、翌年発行の「フランス」では要目が巻末になってまた見難くなっていました。
構成が現代風に落ち着くのは昭和61年発行の「イタリア」になります。
「アメリカ」については既に新装版が出ていて、今回の「イギリス」は第二次世界大戦の軍艦シリーズのリニューアル第二弾になります。
マニアとしては、「ドイツ」「フランス」「イタリア」の早期のリニューアル、そして「ソ連」を加えて欲しいものです。
個人的には特に「フランス」の新装版が欲しいなぁ。

さて新装版の「第二次大戦のイギリス軍艦」ですが、本文は見やすくて文句無し。
写真もこれまでの「軍艦史」シリーズで見たことが無いモノがあって、例えば重巡洋艦のページには目が釘付けでしたがな。
戦時中に電探と対空砲を装備拡充して、すっかりイカツイ艦容になった「ロンドン」「サセックス」「ノーフォーク」辺りは萌え~の一言w
残念だったのは護衛艦艇が一括りにされていたことで、私は今回新装版が出るという話を聞いて最も期待していたのが、少なくともフリゲイトを単独のコーナーで扱い、艦名と要目、写真を纏める事だったのです。
フリゲイト(及びコルベットとスループ)こそは、海上交通保護を本分とするイギリス海軍の象徴だと認識していたからです。
「アメリカ」ではフリゲイトに相当する護衛駆逐艦を、駆逐艦以上の艦種と同じ扱いで載せていますから、イギリス海軍のフリゲイトもそうしても罰は当たるまいに。
こうなれば「イギリス護衛艦史」の発行に望みをかけたいところであります。
戦前のスループから始まって戦時中のフリゲイト、コルベット、そして戦後のフリゲイトを網羅した一冊をぜひ出していただきたいところであります。

旧版に無かったフネとして、おおっと惹きつけられたのは砲術練習艦「アイアン・デューク」。
第一次世界大戦勃発時にはグランド・フリートの旗艦であった栄光の元超ド級戦艦です。
それがロンドン海軍軍縮条約締結で、主砲と装甲を減じた砲術練習艦に転じて第二次大戦を迎えました。
同じ境遇のフネとしては帝国海軍の「比叡」とアメリカ海軍の「ワイオミング」がいますけれど、前者は大改装を加えられて、高速戦艦として再生し帝国海軍得意の夜戦で敵巡洋艦部隊に大損害を与えながらも、航空攻撃で退路を封じられた形になり沈んでいます。
しかし敵艦隊と壮絶に撃ち合って相手に大損害を与えた末の最期ですから、武人のフネとしては納得のいく生涯だったと言えましょう。
「ワイオミング」は最終的には対空射撃練習艦としてアメリカ海軍の戦勝に貢献した後、1947年に除籍されていますからハッピー・リタイアと申せましょう。
しかし我らが「アイアン・デューク」は開戦翌月の空襲で損傷擱座してしまうのです。
ウィキペディア英語版によると、1941年5月のドイツ海軍戦艦「ビスマルク」の出撃に際して、ドイツ側はイギリス本国艦隊の根拠地スカパ・フロー泊地への偵察で「アイアン・デューク」と他に二隻の戦艦に偽装したダミーシップを現役の戦艦と誤認したようで、それが「ビスマルク」の出撃に影響を与えたんだとか。
イギリス本国艦隊の主力艦三隻はスカパ・フローにいるから、今が出撃のチャンスと考えたのでしょう。
その判断が巡り巡って「ビスマルク」撃沈による大西洋の海上交通死守に繋がったと思えば、死せる孔明生ける仲達を走らすと言えなくも無い「アイアン・デューク」なのでございます。

ここで妄想を廻らせてみたいのは、もし「アイアン・デューク」が健在であったなら、実戦に投入する機会は果たしてあったのか?という事。
健在な34.3サンチ連装砲三基をもって、上陸作戦時の火力支援や重要船団の護衛任務に就かせるのは果たして現実的な話であろうか?と。
30.5サンチ連装砲三基が健在なアメリカ海軍の練習戦艦「ワイオミング」も、戦争前半に火力支援艦としても使えるように考慮の上で改装が行われています。
アメリカ海軍よりもその種の艦艇に逼迫を生じていて、新規にモニターを建造する程であったイギリス海軍ですから、戦局如何では「手持ちのブツは使えるだけ使う」とばかりに実戦に引っ張り出していたのではないかと考えるところなのです。
一度は一線から退きながらも、祖国の危機に老骨に鞭打っていくさ場に馳せ参じる。
こういう画は実に日本人好みで燃えるシチュエーションではないかね諸君!

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2016年5月15日 (日)

只見駅(只見線)

本日の駅紹介は、只見線・只見駅。

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当ブログは新潟県の駅紹介がメインコンテンツなのでありますが、只見線の列車運用上は小出-只見間で一区間になっている関係もあり、区切りも良いと思うので新潟福島県境の只見駅も番外編的な形で紹介致したく存じます。

さて只見駅は福島県南会津郡只見町に所在する有人駅で、開業は昭和38年(1963年)8月20日。
当時の所在も既に只見町でした。
只見駅は会津方から延伸された当時の会津線の終着駅としてまず開業しましたけれど、この延伸区間の元々の出自は只見川の電源開発用に敷設された専用鉄道でした。
それを国鉄が買収して、会津線の延長区間として開業させたのですが、その際には大赤字必至のこの区間の買収に当局が難色を示してすんなりとはいかなかったようです。
(その辺の事情は、鉄道ピクトリアル2010年11月号に詳細が載っています)。
沿線の道路もまだ未整備の状況下でさえ赤字が懸念されるレベルであったわけで、昭和46年8月に只見-大白川間が開通して小出-会津若松間が全通し、線名を「只見線」と改めた後もその状況に変化は無く、JR東日本によると2014年の当駅一日平均乗車人員は22名。
運転業務の為にJR直営の有人駅として維持しているようなもので、旅客営業は片手間といったら失礼かもしれませんけれど、この利用の少なさではそれしか適切な表現が思い浮かびません・・・。

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只見駅駅舎の様子、2009年7月撮影。
建築財産票を発見できなかったのですが、間違いなく駅開業当時からの建物です。
昭和30年代に建てられた地方中堅級駅舎の典型的な姿で、平屋と横長の実用一点張り。
駐車場はきわめて広く、道の駅の代わりのような使われ方をされているのが特徴。
トイレは駅構外にあるので、クルマの人には都合が良いのです。
なお当日は日曜の午後でしたが、駅前にタクシーの待機はありませんでした。

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只見駅を取材目的で訪れたのは2004年7月と2009年7月の二回で、この画は2004年7月のもの。
おそらくもう只見駅には入ってこないであろう、「SL会津只見号」の運行を祝う看板が目を惹きます。
画像右側に路線バスの停留所が見えますが、この時点では当駅から町内を南東に縦貫する国道289号線経由のバスが運行されていました。
20年程前の道路地図を見ると、只見線に並行する国道252号線経由のバス路線も確認できます。
しかし現在、それらは全て廃止されています。

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只見駅駅舎内部の様子、2009年7月撮影。
ベンチはJR東日本定番型ではなく、病院の待合室に置いてあるようなモノです。
直営駅だというのに何故?
まぁ人がいない時はこの方がくつろげていいのか。
上の画像左上の横に只見町の観光案内所がありました。
地元の名産品を販売していて、この時点では18時までの営業でした。
下の画像左上の発車時刻表に注目。
上下併せて一日八本。
知識としてはわかっていても、実際に現地でこういうのを見ると軽い衝撃を受けるのです。

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ホームへは構内通路で行き来します。
2004年7月撮影。

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構内通路から只見駅の島式ホームを見る、2009年7月撮影。
駅舎とホームは結構な距離があるのです。

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構内通路出入り口付近(田子倉方)から見た只見駅ホーム全景、2009年7月撮影。

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只見駅ホーム上の名所案内板、2004年7月撮影。
いずれの名所も遠方で、バスが全路線廃止された現在では、只見線に乗ってはるばるやって来てもタクシーかレンタカーで行くしか無いのです。

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ホーム端から田子倉方を望む、2009年7月撮影。
線路は合計三本で構内も広く、只見線の要衝駅に相応しい風格と言えましょうか。

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会津蒲生駅方から見た只見駅ホーム全景、2009年7月撮影。
左上に見えるのは旧貨物ホーム跡でしょうか。
往時には会津若松方から貨物列車が当駅まで乗り入れていて、近くの山々から切り出されてくる材木を送り出していましたけれど、昭和57年7月に廃止されました。
大白川-只見間は貨物列車の設定はありませんでした。
当地域と新潟県側の物流面での交流がいかに無かったかの表れのようです。

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ホーム端から会津蒲生駅方を望む、2009年7月撮影。
この撮影の頃は、ホームの駅名標が急速にJR東日本定番型に置き換えられていたのですけれど、只見駅の駅名標はご覧のように定番風に書き換えただけです。
この先の区間は2011年7月に発災した新潟福島豪雨による路線寸断で、現在も只見-会津川口間が不通なのは皆様よくご存知の通り。
復旧はまぁ、残念ながら無理でしょうなぁ。

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只見駅に停車中の会津若松行キハ40系気動車、2009年7月撮影。
当駅に会津若松からの列車が到着することは、恐らくもう無いのでしょうなぁ。

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只見駅に到着したキハ40系気動車小出行、2009年7月撮影。
ウィキペディアによると、当駅発着列車は全て駅舎反対側のホームを出入りしているそうなので、小出行キハ40が停まっているこちら側では列車の姿は見れないのでしょう。
只見-会津川口間の復旧が断念されて部分廃止になったら、こちらの線路は撤去されてしまうかもしれませんね。
只見駅は山間の盲腸線の棒線駅になって、その場合は直営駅ではなくなって只見町の委託駅になるのでしょう。

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田子倉駅方の踏切から見た只見駅構内、2009年7月撮影。
駅を離れて距離を置き再見すれば、やはり小さな駅なのだなぁと実感できるのです。
この小さな駅から、短期間の臨時列車とはいえ上野直通の気動車急行「奥只見」が発着していたのですよ。

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只見駅前通りの様子、2009年7月撮影。
付近には旅館の看板が三軒と食事喫茶処が一軒。
しかし日曜の午後のこの時はひっそり閑で、営業しているのか否かも定かではなく。

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駅前通りを数分歩いて、只見線と並行する国道252号線に出ます。
この道沿い周辺が只見町の中心地です。
只見町は人口五千人弱と、このような山間の町としてはそこそこのボリュームがあるように見えるのですけれど、町域が広く人口密度が小さいのです。
その為か中心部は町の人口規模に比べると、寂しさはぬぐえません。
人影だけではなく行きかうクルマも少ない。
撮影当時は道沿いにはヤマザキショップと雑貨店が各一軒といったところ。

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町内を流れる只見川の様子、2009年7月撮影。

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只見駅から徒歩約10分の「只見保養センター ひとっぷろまち湯」。
食堂も併設されているので、時間潰しも兼ねてアイスコーヒーでも飲んで涼んでいこうかと入りかけたら、休憩中ということでダメでした・・・。
当時は食堂の開いている時間帯が食事時のみだったようです。
現在はそんなことはないようですけれど。

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只見川の水位上昇注意喚起の看板、2009年7月撮影。
水力発電の盛んな当地域ならではですな。

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只見保養センター ひとっぷろまち湯で涼めなかったので、前回来た時から気になっていた駅裏のスキー場を見物に行きます。
行きがてらに撮った只見駅裏とその周辺の様子、2009年7月撮影。
後背に高くそびえ立つのは標高871mの紫倉山です。

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町営の只見スキー場の様子、2009年7月撮影。
リフトは一本だけでこじんまりとしています。
しかし頂上の傾斜は33度あるそうで、なかなか侮れないかも!?

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2016年5月13日 (金)

さらばシーハリアーそして第一世代ハリアー

備忘録的に。
5月11日、世界最後の運用可能なシーハリアーV/STOL戦闘攻撃機が、インド海軍から退役したそうです→ソースはhttp://dailynewsonline.jp/article/1125654/

何分、物持ちのよいインド海軍ですので、私はてっきりシーハリアーはまだまだ使い続けるのだろうと漠然と考えていましたので、このニュースは意外で驚きました。

イギリス空軍向けに開発されて1970年に実戦配備を開始したハリアー攻撃機を、イギリス海軍が艦隊空母の退役と搭載するファントムFG.1戦闘機空軍移管後のささやかな代替として、全通甲板型巡洋艦インヴィンシブル級搭載用として艦載機化、レーダーを搭載して制限付き全天候迎撃能力を持たせたのがシーハリアーFRS.1戦闘攻撃機です。
実戦配備は1980年でした。
1982年に生起したフォークランド紛争では、シーハリアーを搭載した軽空母ハーミーズとインヴィンシブルを主力とする艦隊が出撃し、シーハリアーが前評判(アルゼンチン空軍の主力戦闘機ミラージュⅢに対して著しく劣速)を覆す活躍で、世界にその名を轟かせました。
日本でも一時期、シーハリアー萌えの空気が広がり、80年代半ばの海上自衛隊の洋上防空能力向上計画では、イージス艦の導入とシーハリアー搭載の軽空母導入のいずれかが検討されていたりするのです。

このシーハリアーにいち早く目を付けたのが他ならぬインド海軍で、最初の発注はフォークランド紛争以前の1979年。
イギリス製軍用機の常として大きな数字を与えられ、シーハリアーMk.51と呼称されたV/STOL戦闘攻撃機はフォークランド紛争終結直後の1982年8月に初飛行し、当時インド海軍唯一のイギリス製軽空母「ヴィクラント」に、これまたイギリス製の艦上戦闘機シーホークの後継として配備されたのです。

インド海軍がシーハリアーの採用をいち早く決定したのは、彼らがシーハリアーの能力を評価したというよりは、つらつら考えるに
「これしか他に買える機体が無かった」
からかもしれません。
当時、インドはソ連の事実上の同盟国であり、アメリカからの兵器輸入などとても望めない状況にありました。
「ヴィクラント」はフォークランド紛争時のアルゼンチン海軍空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」と同型艦です。
従って発着艦設備の改良を行えば、「ベインティシンコ・デ・マヨ」同様にアメリカ製A-4スカイホーク攻撃機の運用が、運用制限付きながら可能であったはずです。
しかしアメリカとの当時の関係では、A-4の購入などとても無理な話。
インドの事実上の同盟国たるソ連はキエフ級航空巡洋艦搭載用として、YaK-38フォージャーV/STOL戦闘攻撃機を1970年代半ばから実戦配備を開始していました。
しかし当のソ連海軍自身がこの機の運用にまだ試行錯誤をしている状況で、且つ性能的にもかなり物足りなくシーハリアーよりも明らかに劣っています。
フランス海軍は、これまたフォークランド紛争でイギリス海軍のミサイル駆逐艦を、搭載するエグゾセ対艦ミサイルで撃沈して勇名をはせたシュペル・エタンダール戦闘攻撃機を1978年から実戦配備を開始していました。
しかし前述の「ベインティシンコ・デ・マヨ」の航空機運用能力では同機の運用が困難で、フォークランドで活躍したアルゼンチン海軍所属のシュペル・エタンダールも空母からではなくアルゼンチン本土の陸上基地から作戦を実施したのです。
「ベインティシンコ・デ・マヨ」で運用困難なのであれば、その同型艦である「ヴィクラント」もシュペル・エタンダールの運用は困難なはずです。
アメリカ製の蒸気カタパルトを導入して「ヴィクラント」に装備できれば、運用もあるいは可能であったかもしれません。
しかしアメリカとの関係はそれを許しません。
A-4スカイホーク攻撃機は対米関係が悪過ぎて買えない。
Yak-38戦闘攻撃機は艦載用としてまだ不安があり性能的にも不満。
シュペル・エタンダール戦闘攻撃機は空母の能力上、運用は極めて困難。
消去法で残るのは唯一、シーハリアーだけだったのです。

本家本元のイギリス海軍では、フォークランド紛争の戦訓を取り入れた改良型のシーハリアーFA.2を開発し、既存のシーハリアーFRS.1の改造と新造機というダブルトラックで、1990年代初めから実戦配備を開始します。
シーハリアーFA.2はレーダーFCSの換装によって完全な全天候迎撃能力を備え、最新鋭のアクティブレーダー誘導式空対空ミサイルAMRAAMの運用が可能です。
しかし当時は所謂第二世代のハリアーであるアメリカ製AV-8Bが幅を利かせていて、フォークランド紛争後にハリアーを新たに導入したイタリア、スペイン両海軍はシーハリアーではなくAV-8Bを選択しています。
AV-8Bは航続性能、搭載能力においてシーハリアーを凌駕しており、加えてF/A-18ホーネット戦闘攻撃機と同じレーダーFCSを搭載したAV-8Bプラスならば、シーハリアーFA.2を凌ぐ迎撃及び対地攻撃能力を獲得できるのですから、後発のハリアー採用国がシーハリアーを選ばなかったのも当然の話なのです。
イギリス海軍のシーハリアーも、冷戦後はその高い迎撃能力も宝の持ち腐れ、重要度が増した対地攻撃ではAV-8Bやそれを逆輸入した形のイギリス空軍第二世代ハリアーよりも明らかに見劣りがして、21世紀に入ってからのイギリス軍の戦力見直し構想でリストラの対象になってしまい、2006年に退役してしまったのです。
新造のシーハリアーFA.2は18機で、その機齢はこの時点でまだ十数年。
まだまだ使える状態ですから、当時私はインド海軍が買うのだろうと思っていました。
しかしそれは果たされる事がなく、また聞いた話ではシーハリアーMk.51にインドとフランスが共同で近代化改修を実施して、フランス製アクティブレーダー誘導式空対空ミサイルMICAを運用可能とする計画も予算不足を理由にボツ。
抜本的な改修を行わないまま、最後のシーハリアー、そしておそらくは最後の第一世代ハリアーであるこのMk.51がついに退役の日を迎えたのです。
第一世代ハリアーを導入したのはイギリス空軍及び海軍、アメリカ海兵隊、インド海軍、スペイン海軍、タイ海軍ですが、米英西各軍からはとうの昔に退役、タイのハリアーはスペイン海軍を退役した中古機で機齢は40年近く、近年は活動していないようで事実上退役しているようですから。

シーハリアーの退役と共に、かつてのイギリス海軍空母「ハーミーズ」の後身であるインド海軍空母「ヴィラード」も来月に退役との事です。
「ハーミーズ」は第二次大戦末期の1944年6月に起工されましたが、戦争終結で暫く放置。
後に設計を大幅に変更して、最初からジェット艦上機運用能力を持つ中型艦隊空母として1959年11月に就役。
その後、イギリスの国防政策の抜本的変更で艦隊空母全廃の方針を受けて、70年代初めにイギリス海兵隊輸送用のコマンド母艦に改造されて再就役。
さらに対潜能力を追加された後、スキージャンプ甲板を設置してシーハリアーの効率的な運用能力を獲得し、フォークランド紛争ではイギリス派遣艦隊の旗艦として出征。
1985年に退役後、インドに売却されてインド海軍空母「ヴィラード」として1987年に再就役して、今日までインド海軍の力の象徴として君臨していたのです。
実にもって波乱万丈の生涯であります。
武勲を挙げ軍歴を全うしたハッピー・リタイヤメントと申せましょう。
この艦の退役で、第二次大戦に起源を持つ現役の水上戦闘艦は、フィリピン海軍のフリゲート艦「ラジャ・フマボン」(元アメリカ海軍カノン級護衛駆逐艦で、海上自衛隊在籍時代の艦名は「あさひ」)だけとなりました。

・・・そう言えばフィリピンはまた、大変な話になりそうですな。
私設警察みたいな処刑団を率いて、犯罪者を殺して回ったという人物が次期大統領ですよ。
いくら治安が悪いとはいえ、法治主義なにそれおいしいの!?ですがな。
そんな御仁ですから、特亜ばりの人治主義で酷いことになるんじゃないかと心配です。
南沙諸島の領有権は棚上げにして中国と経済協力する方針で、日米とも距離を置くそうですから、南沙は中国のモノになっていくのでしょうな。
その中国は南沙の埋め立て地に浮動式の原発を置くのだとか。
いざとなったら不幸な事故アルとでっかい声でわめいて、メルトダウンとかさせちゃいそうですな。
この話も怖い怖すぎます。
そんな中国を牽制するためにも、インド海軍の質的向上は日本としても歓迎すべきことなのでしょう。

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2016年5月 8日 (日)

越後田中駅(飯山線)

本日の駅紹介は、飯山線・越後田中駅。

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新潟県中魚沼郡津南町に所在する無人駅で、開業は飯山鉄道の停車場として昭和2年(1927年)8月1日。
開業当時の所在は中魚沼郡上郷村で、同村の玄関駅でした。
上郷村は昭和30年に周辺諸村と合併して新自治体の津南町となり、今日に至ります。

津南町史によると、越後田中駅は当初貨物取扱を行わず交換設備も設けない「停留所」として設置が計画されましたが、土地の有力者が全面協力(明記はされていませんが駅用地の自発的な寄付があったのでしょう)によって、飯山鉄道の他駅と同様の貨物取扱及び交換設備を備えた「停車場」に格上げ開業されたとの事です。
鹿渡、外丸両村が絞り取られた「寄附金」も、この自発的協力が功を奏して小額で済んだそうで、やはり生身の人間のやる事ですから「心証」は大事ですよという事なのでしょう。
地元の自発的な協力で一人前の駅扱いになった越後田中駅ですけれど、やはり周辺人口の元々の少なさには抗えず、昭和45年末に越後水沢魚沼中条の両駅と共に無人化されて今日に至ります。
十日町市史によると昭和40年の当駅一日平均乗車人数は98人で、同時期に無人化された越後水沢駅の188人、魚沼中条駅の290人に比べても格段に少なかったのです。
貨物に関しても、昭和40年時点で既に記載されていないので、相当以前に取扱は廃止されていたと思われます。
利用状況はその後10年で大激減して、昭和50年時点で一日平均17人。
平成4年時点で20人です。
現在はおそらく一桁であろうと思います。
JR北海道であれば、隣の足滝駅と共にリストラの対象になっているレベルと言えるでしょう。

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越後田中駅駅舎の様子、2011年5月撮影。
建築財産票によると、平成10年9月の完成です。
飯山線新潟県内区間無人諸駅と同様の建物で、トイレはありません。
駅前左手の申し訳程度の駐輪場が、当駅の利用実態を無言のうちに来訪者に語りかけてきます。

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越後田中駅待合室内部の様子、2011年5月撮影。
室内にはベンチが三脚あるだけ。
ゴミ箱も「善意の傘」もありません。

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津南駅方から見た越後田中駅ホームの様子、2011年5月撮影。
津南町史では交換設備を備えた駅として開業と述べられていましたけれど、ウィキペディアにある当駅の旧駅舎を見ると、その位置は現駅舎と同じ位置なのです。
ということは、旧駅舎が作られた時点で少なくとも島式ホームによる交換方式ではなかったと考えられるのです。
では相対式であったのか?・・・私の目で見た限り、何とも判断がつきませんなぁ。

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ホーム端から津南方を見る、2011年5月撮影。
ホームの有効長は飯山線の他駅同様の4両です。

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足滝駅方から見た越後田中駅構内、2011年5月撮影。

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ホーム端から足滝駅方を望む、2011年5月撮影。
画像左側に伸びているホーム跡とも見えなくも無い構造物がまた謎なのです。

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越後田中駅を出発するキハ110系気動車単行の十日町行、2011年5月撮影。

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越後田中駅前の小道から振り返って一枚、2011年5月撮影。
豪雪地帯特有の、背の高い昔風の民家が見られる昔懐かしい風景です。

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踏切を渡って高台の県道から見た越後田中駅とその周辺、2011年5月撮影。

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俯瞰で見た越後田中駅の全容、2011年5月撮影。
あんなこじんまりとした建物でも、駅の規模が小さいので相対的に大きく感じられます。

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県道を路線バスが通る国道117号線に向って進みます。
東日本大震災発生の翌日未明に起きた長野北部地震で、震度6弱に襲われた津南町ですが、より震源に近いこの辺りの揺れはさらに大きかったのではと思われます。
発災後約二ヶ月の時点でもまだ復旧に未着手のところもあって、画像左側の歩道もその一つでした。

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県道を進み国道手前の信濃川に架かる橋から振り向いて一枚、2011年5月撮影。

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橋から見た信濃川の様子、2011年5月撮影。

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越後田中駅から寄り道をしつつ約15分で、国道117号線に出ます、2011年5月撮影。
周辺には観光物産館があります。
十日町方面から津南までは通行量の多い国道117号線も、この辺まで来るとご覧のような長閑さ。

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越後田中駅最寄の「小下里」バス停に近づく、南越後観光バス運行の路線バス森宮野原発津南行、2011年5月撮影。
利用状況ゆえか、中型バスです。
津南-森宮野原間にはこの路線と急行バス森宮野原-越後湯沢線が運行されていて、駅巡りに適当な日中の運行は合わせて5往復です。

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2016年5月 4日 (水)

津南駅(飯山線)

本日の駅紹介は、飯山線・津南駅。

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新潟県中魚沼郡津南町に所在する有人駅で、開業は昭和2年(1927年)8月1日。
開業当時は飯山鉄道・越後外丸駅で、中魚沼郡外丸村の所在でした。
外丸村は昭和30年に周辺諸村と合併して新自治体の津南町となり、当駅は後述するように町の中心地域からはかなり離れてはいますが、新たな町の玄関駅になります。
町の玄関駅に相応しいように、昭和43年に現在の駅名「津南」に改称して今日に至ります。
中魚沼郡の諸町村は平成の大合併の号令の下、十日町市と合併してしまいましたけれど、津南町は住民投票の結果、合併には加わらずに孤高を保つことを選択したのです。
合併するとどうしても旧町村の独自性や魅力は薄れてしまいますから、財政的に単独でもなんとかやっていける判断なのであれば、これからは特に外から人を呼び込む魅力化施策を行う為にも独立独歩の立場を維持した方が賢明ではないのかなぁと個人的には思うところで、それゆえ津南町の姿勢には応援したくなるのです。

越後鹿渡駅のエントリーでも触れたように、当時の飯山鉄道が駅設置地域に執拗に求めたのが「寄附金」です。
津南町史によると、越後外丸駅設置に当たっては飯山鉄道から外丸村に6,500円の「寄附金」要求があったとのことで、金額は隣の越後鹿渡駅よりも3,000円も多かったのです。
結局、村は「任意ではございますが絶対にお支払いくださいませ」の6,500円ナリを、大正14年から昭和14年まで15年がかりで完納したとの事。
支払い中に昭和恐慌が起きて、支払いもさぞ苦しかっただろうと思われますが、鉄道側は執拗に完納を要求したとの事・・・、自分だって越後外丸駅のおかげで多少は儲けているでしょうにねぇ。
なお、延滞した際の利子までは求めなかったそうで、893な商売にあって一服の清涼剤と言えなくもございません。
しかしそもそも、地元自治体にこれほどの負担がのしかかる根本原因は、当時の新潟県も中魚沼郡も飯山鉄道に対して補助金を一切出さなかったことにあるのですよ。
私鉄に対する自治体の補助金制度は当時どうなっていたのか、いや単に県や群がケチだったのか、その辺の経緯も知りたいところであります。

なお、旧外丸村内には越後外丸駅以外にもう一つ停車場が存在していた時期があります。
当駅から北側(越後鹿渡方面)に、昭和12年5月に足滝仮停車場と共に設置された「北外丸」仮停車場がそれです。
両者共に信濃川流域の電源開発の資材搬入用として設置された停車場で、旅客はそのついでという位置付けでした。
戦時下の昭和19年6月に飯山鉄道が国有化されると同時に、足滝と北外丸の両仮停車場は廃止。
戦後に足滝、北外丸両停車場の復活について地元から請願が国鉄当局にあり、検討の結果足滝については自治体が設置の費用負担をする請願駅として復活の運びとなった一方で、北外丸については却下されてしまいます。
津南町史によると、北外丸停車場は外丸村の中心部に位置していたとの事で、路線バス津南-鹿渡新田線の「外丸本村」バス停付近がそうなのかもしれません。
付近には郵便局があり、近年まで小学校もあったのです。
村の事だけを考えれば、最初から北外丸地区に駅を設置しておけばよかったのではとも思いますが、そうなると立地条件(適度に平坦な土地が必要)に加えて、信濃川対岸の現在の津南町中心地区との距離がさらに開いてアクセスがますます悪くなってしまうので、周辺諸村との関係上やりたくても出来なかったのかもしれませんね。
津南駅から十日町駅方面に出発して、二つ目のトンネルを過ぎたあたりが北外丸仮停車場だと思われますが、津南駅からの距離は約2km、越後鹿渡駅からの距離は約2.5km。
この距離の短さとバス路線の存在がネックになって復活は見送られたとの事で、隣駅との駅間距離が短いのにも関わらず復活した足滝駅との差は、直接競合するライバルの存在の有無だったようです。

十日町市史によると、昭和40年の越後外丸駅の一日平均乗車人数は423人で、当駅同様に準急「野沢」停車駅の越後田沢駅よりやや少ないレベルでした。
一日平均貨物取扱量については越後田沢駅の29トンに対して当駅は74トンと優勢です。
この辺りは、中里村と津南町の人口規模の差から来る物流量の違いが明確に現れていると申せましょう。
越後田沢駅は昭和45年末に貨物取扱を廃止しますが、越後外丸から改称した津南駅のそれはその後も健在で、昭和55年の一日平均貨物取扱量は30トン。
昭和53年に戸狩-津南間の貨物営業は廃止されているので、この時点では津南駅が十日町方面への貨物列車の始発着駅になっていたものと思われます。
津南駅の貨物取扱が廃止されたのは、昭和57年10月でした。
旅客に関しては、ライバルと言える越後田沢駅と拮抗する状態が長く続いていましたけれど、現在では越後田沢駅が無人化されて急行停車駅としての隆盛時代をなかなか見出せない状態なのに対して、ここ津南駅は温泉施設併設の威力もあってか、平成初期と比べてもやや上向きで、堅調という利用状況にあります。
ただ堅調とはいっても、2014年度の当駅一日平均乗車人員は106人で、新潟県内JR東日本所在有人67駅中65位。
津南駅より下位なのは、米坂線・越後下関駅と羽越本線・府屋駅のみです。

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津南駅駅舎の様子、2011年5月撮影。
駅舎といっても建物の大半は温泉施設「リバーサイド津南」。
ウィキペディアによると、駅との併設で完成したのは1995年。
駅周辺に人気があるのはこの施設のおかげでしょう。
温泉の威力は実に大きい。

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施設一階の津南駅関連空間の様子、2011年5月撮影。
この日は平日の月曜日で、温泉は残念ながら定休日で委託の津南駅窓口業務も休みのようでした。
東日本大震災の影響による節電で、温泉休業の建物内は照明も切られています。
津南町は3.11の翌日未明に発生した長野北部地震で震度6弱に見舞われているので、節電に関しても新潟の他地域よりも敏感だったのかもしれません。

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ホームへの出入り口の様子、2011年5月撮影。

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越後田中駅方から見た津南駅ホームの様子、2011年5月撮影。
十日町駅を除く飯山線新潟県内区間各駅に比べて上屋の長さは突き抜けていて、十日町駅以外の飯山線の新潟県内他駅とは別格て゜す。
建築財産票によると、上屋の完成は平成9年12月。
しかしホームに停車中の単行列車を撮る場合、この立派な上屋で空が遮られてあまり見栄えのよくないものに。

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ホーム端から越後田中駅方を望む、2011年5月撮影。
画像右側の空き地が、かつての貨物側線跡なのでしょうか。

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越後鹿渡駅方から見た津南駅構内、2011年5月撮影。
かつては島式ホームだったそうですけれど、温泉施設や駐車場の整備でその面影はあまり見られません。
昭和60年3月ダイヤ改正では津南-十日町間で7回の定期旅客列車の交換機会(十日町駅は除く)がありましたけれど、うち6回は越後田沢駅で行われていて、津南駅では夜の一回きり。
当時は他に下りの津南始発が一本ありました。

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ホーム端から越後鹿渡駅方を望む。
津南駅のホーム有効長は4両で他駅と同じです。

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津南駅に到着したキハ110系気動車戸狩野沢行、2011年5月撮影。

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晩秋の津南駅を出発するキハ110系気動車戸狩野沢行、2003年11月撮影。
取材目的で津南駅に降り立って最初の一枚がこれ。

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津南駅ホームの名所案内板、2004年10月撮影。

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越後鹿渡駅方の踏切を渡って一枚、2004年5月撮影。

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駅裏にある津南町営の「マウンテンパーク津南スキー場」への道すがらに一枚、2011年5月撮影。

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かつては津南駅から連絡リフトで直上のスキー場に行けたそうですけれど、このリフトはこの時点で使用停止されて久しいそうです、2011年5月撮影。
日本最大規模を誇る津南の河岸段丘を望めるというマウンテンパーク津南スキー場ですが、2015-16シーズンは一般客向け営業を行いませんでした。
大資本の入っていない公営の中小スキー場の苦境の小典型と言えますなぁ。

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津南駅前広場から見た、国道405号線の津南市街地方面。
2011年5月撮影。
この時点では、温泉施設の他に駅前に食堂が一軒ありました。
生憎この日は定休日で、リバーサイド津南の定休日に合わせているようでした。
おかげでこの日、昼ごはんを食いはぐれるハメに。

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さて、津南駅を後にして、国道405号線で信濃川対岸の津南町中心地区まで歩いてみます。
2011年5月撮影。

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国道405号線の信濃川大橋から見た信濃川、2011年5月撮影。
この辺はまだ荒々しくて、最下流の新潟市に住む私が万代橋から見る穏やかな流れとは全く違う野性味溢れる姿なのです。

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津南駅から国道405線を南下して、津南中心街の国道117号線までは約1.5km。
道中は勾配があって、距離以上に遠く感じます。
お年寄りにとってはかなり酷な道のりでしょう。
津南駅-津南間は南越後観光バス運行の津南-鹿渡新田線と津南駅-中子線を利用できますが、本数は多いとは言えません。
詳細は当ブログ右サイドバーからリンクしている「南越後観光バス」の津南・十日町地区を参照願います。

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終点へラストスパートの、南越後観光バス運行の路線バス十日町発津南行。
この路線が毎時一本以上の運行頻度を確保出来ているのは、十日町以外で沿線最大の人口集積地域である国道沿線の津南界隈の鉄道事情が悪すぎるのが要因の一つかと思われますな。
なお津南中心街と長野県の森宮野原駅間には、南越後観光バス運行の急行バス越後湯沢-森宮野原線と路線バス津南-森宮野原線が国道117号線経由で運行されています。
前者は越後田沢界隈から国道353号線に入って、清津峡を通り石打、越後湯沢へと抜けていきます。
駅巡りに使える日中の時間帯の運行は両者合わせて5往復で、飯山線と相互補完で使うのが吉です。
ただし、途中の越後田中、足滝両駅と国道はやや距離があるので要注意。
特に足滝は、道を確認しながら行かないと方向感覚を失って迷う可能性があります(12年前に迷ってバスに乗り遅れ、足滝から津南まで歩くハメになった経験者は語るw)。

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2016年5月 3日 (火)

越後田沢駅(飯山線)

本日の駅紹介は、飯山線・越後田沢駅。

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新潟県十日町市に所在する無人駅で、開業は昭和2年(1927年)10月6日。
飯山鉄道の駅としての開業でした。
開業時の所在は中魚沼郡田沢村で、同村唯一の鉄道駅にして玄関駅です。
田沢村は昭和30年3月末に隣接する倉俣村と合併して新自治体の中里村になりましたが、中里村の中心地区は旧田沢村のそれであり、越後田沢駅の村唯一の鉄道駅であり玄関駅という立ち位置も不動でした。
中里村は2005年4月に周辺町村と共に十日町市と合併し、装いも新たになった十日町市の南西地域となって今日に至ります。

中里村史によると飯山鉄道の当初の計画では、越後鹿渡駅から現在の国道353号線沿いを進み、宮中ダムの手前で信濃川を渡って河畔を進んで越後水沢駅近くで現在線に合流する予定だったようです。
これだと越後田沢駅は、現在の位置より500m程北の信濃川の手前に作られることになります。
しかしそれだと駅は田沢村の中心集落から1kmも離れてしまうことになる為、田沢村は村内のルート変更の請願書を会社に提出します。
村の主張は、会社の当初計画よりも村提出の計画(現在線)の方が工事が容易で工費も安く、村の中心に近い位置に停車場を設けられて理想的な形になるとの事でした。
この主張は飯山鉄道も納得するところで、この請願を受け入れる形で鉄道の田沢村村内のルート変更が実現したのです。
現在線も信濃川と清津川の合流地点付近を鉄橋で越えた後、すぐトンネルに入りますから工費はそれなりにかかったと思われますが、それでもこのルートに変えたということは、信濃川対岸から急カーブで信濃川を渡る当初計画の厳しさを窺い知れます。

十日町市史によると、越後田沢駅の昭和40年一日平均乗車人数は471人。
同年の十日町駅の約二割で、当駅と同じく当時の準急「野沢」停車駅の津南駅よりもやや多かったのです。
471人というと、現在の十日町駅の飯山線乗車人員に匹敵する数字。
土日の日中はホームに人影を見ることもない現在の姿からは想像できないところです。
一方、貨物の取り扱いトン数では津南駅の約四割で、この辺は中魚沼郡内の中心地区であった津南町と中里村の自治体としての勢力、人口規模の差がはっきり出ています。

十日町市史には平成四年までの乗車人員が載っていますが、平成四年の時点でも津南駅と越後田沢駅の数字はほぼ互角で、十日町駅を除けば下条、津南、そして当駅が飯山線下条-足滝間で常に突出した数字でした。
しかし現在、津南駅は温泉施設と併設になり委託による有人維持で、かつての急行列車停車駅のメンツも保たれている形ですけれど、当駅は90年代前半に無人化されて久しく、かつての急行停車駅としての面影は構内の列車交換設備跡としっかりした造りの上屋に僅かに見出すのみなのです。
2014年度の津南駅一日平均乗車人員は106人で、平成四年当時よりやや上向いているのですけれど、越後田沢駅の場合はおそらく半分以下になってしまっていると思われます。
やはり列車で来ようかと思わせる集客施設や景勝地が当駅の至近に存在しないのが、津南駅と当駅に駅勢地域の人口規模以上の差が付いてしまっている最大の要因なのでしょう。

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越後田沢駅駅舎の様子、2011年5月撮影。
建築財産票は確認出来なかったのですが、ウィキペディアによると2001年に改築されたようです。
豪雪地帯の建物の常として、屋根の傾斜は極めて急です。

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越後田沢駅駅舎内部の様子、2011年5月撮影。
飯山線の新潟県内区間の他の無人駅と全く異なる造りです。
待合室内は小奇麗で居住性も良好。
来訪者にとって何より有り難いのは、水洗トイレが設置されていることです。
飯山線の新潟県内無人駅でトイレがあるのは当駅のみ。
トイレの心配をせずに済むのは、駅巡り者にとっては大いなる福音です。

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待合室内に飾られている、越後田沢駅旧駅舎の写真。
2011年5月撮影。
この駅舎が現役だった時代、この駅には急行「野沢」が停車していたのですな。

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駅舎からホームへは構内通路で連絡しています、2011年5月撮影。
短い島式ホームと構内通路はかつての飯山鉄道が作った駅の証です。
飯山線内の新潟県内区間の無人駅で、現在「生きている」?線路を横断していくのは越後田沢駅のみ。


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ホームから見た越後田沢駅駅舎、2011年5月撮影。

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越後水沢駅方から見た越後田沢駅ホームの様子、2011年5月撮影。
上屋はしっかりした造りで、他の無人駅とは格が違います。

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ホーム端から越後水沢駅方を望む、2011年5月撮影。
ホームの有効長は4両ですが、飯山線の旅客列車は国鉄時代でも最長でこの程度。
現在は基本的に単行です。

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越後鹿渡駅方から見た越後田沢駅ホームの様子、2011年5月撮影。
少々見辛いですが、上屋の下(ホーム右側)にベンチがあります。
ベンチの数は6脚で他の無人駅より多いのも、当駅の格の違いからか。

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ホーム端から越後鹿渡駅方を望む、2011年5月撮影。
画像左下が駅舎との連絡通路です。

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構内通路から越後水沢駅方を見る、2011年5月撮影。
かつては列車交換可能な島式ホームであった越後田沢駅も、現在は棒線化されて不要になった側には無常にも白い柵が設置されています。
横取線が残っているのがかつての隆盛の僅かな残照と言えましょうか。
昭和60年3月改正ダイヤを見ると、当駅では一日6回の定期旅客列車の交換が行われていました。
当時の津南-十日町間の定期旅客列車本数は急行2本、普通列車は下り8本、上り6本で、同区間の列車交換機会(十日町駅を除く)7回のほとんどはここ越後田沢駅で行われていたのです(残り1回は津南駅)。
かつては良好な利用状況に加えて運転面でも飯山線内で枢要な位置にあったからこそ、現在の閑散過ぎる状態はローカル線の衰退をそのまま具現化しているようで、只見線の越後須原駅と並んで非常に考えさせられるものがあります。

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線路脇の小道から越後鹿渡駅方を見る、2011年5月撮影。

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越後田沢駅ホームの名所案内板、2004年9月撮影。
どこも駅から相当に離れているのです。

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越後田沢駅を出発するキハ110単行の戸狩野沢温泉行、2011年5月撮影。
飯山線の全ての定期旅客列車はキハ110なので、車両的には全く面白味がないのです。
単行が常のこの区間ではなおの事。

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越後田沢駅を通過するキハ58系2連の「なつかしの急行野沢」号、2004年9月撮影。
昭和61年11月ダイヤ改正で廃止された急行「野沢」は三連で、この駅に停車してたのです。

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越後鹿渡方の踏切から見た越後田沢駅構内の様子、2011年5月撮影。
横取線はこちら側とのみ繋がっています。

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駅裏から見た越後田沢駅の風情、2011年5月撮影。

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越後水沢方の踏切から見た越後田沢駅構内の様子、2011年5月撮影。
線路が不自然に曲がっているのが、当駅がかつて列車交換設備を持っていた事の証です。

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越後田沢駅前の様子、2011年5月撮影。
駅舎の左手に見えるのはヤマザキショップで、この時点では0700~2000の営業でした。
駅至近の買い物処として、周辺の方々にも私のような来訪者にも貴重な存在です。

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越後田沢駅から500m弱で国道117号線に出ます、2011年5月撮影。
かつての田沢村~中里村の中心街で、日常生活に必要な店舗がぎゅっとまとまって立地しています。
駅からは少し距離がありますが、セブンイレプンも国道の十日町寄りにあります。

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国道を走る南越後観光バス運行の津南発十日町行路線バス、2011年5月撮影。
30分~一時間に一本の高い運行頻度で、運賃こそ鉄道よりも高いものの利便性は過疎ダイヤの飯山線の比ではありません。
実際、土日に乗車してみても乗客はそこそこいるのです。
病院にダイレクトに行けるのが高齢化過疎地域のバスの最大の強みで、飯山線が逆立ちしても勝てないのはこの辺りの事情でしょう。

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この日の主たる目的は、JR東日本の信濃川不正取水事件で有名な宮中ダムの見物です、2011年5月撮影。
越後田沢駅から国道353号線を進み、飯山線を渡って行きます。
田植えを終えたばかりの田圃には水が満々。

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宮中ダムの様子、2011年5月撮影。
宮中ダムは昭和13年の完成で、ここで取水された水は下流の水力発電所群で発電に利用され、JR東日本の首都圏の電車運行に多大の貢献をしているのです。
東京を初め他県では大きな話題にならなかったでしょうけれど、JR東日本によるこのダムの不正取水事件は新潟県内では大きく取り上げられたのです。
田舎を軽く見られているようで、県民としては極めて不愉快な話でしたなぁ。

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信濃川に架かる国道353号線の宮中橋、2011年5月撮影。
宮中ダムの画はこの橋上から撮ったものです。
越後田沢駅からここまで約2km半です。

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宮中橋上から下流(十日町方)を望む、2011年5月撮影。
画像左手の建物は日帰り温泉の宮中島温泉こと「ミオンなかさと」。
サイトを見ると、鉄道でのアクセスは十日町駅下車でおクルマとなっています。
物理的な距離での最寄は越後田沢駅なのですけれど、アクセス手段としては飯山線は全く眼中に無しの様子。
歩いて3km程度ですけれど、まぁ温泉に行くのにそんなに歩く人は私ぐらいかw
なお、宮中地区には十日町駅前-中里-田代間の南越後観光運行の路線バスが走っていて、十日町-宮中間は2016年4月ダイヤ改正では通年一日3往復です。

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2016年5月 1日 (日)

小木ノ城駅(越後線)

本日の駅紹介は、越後線・小木ノ城駅。

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新潟県三島郡出雲崎町に所在する無人駅で、開業は昭和33年(1958年)6月25日。
開業当時の所在も出雲崎町で、同町の南端に位置しています。
ウィキペディアには地元の請願駅と記載されていましたが、出雲崎町史にはその辺の事に一切触れられていなかったのが残念。
それほどの人口集積地帯でもなく、出雲崎駅へ約2kmと近いこの小木地区にどういう経緯で駅設置の請願となったのか、非常に興味をそそられる話なのでありますけれど。

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小木ノ城駅前の様子、2011年6月撮影。
駅前道路の道幅は狭く、クルマでの送迎は少々厳しそう。
駐輪場は二ヶ所設置されています。

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駅前道路沿いの小木ノ城駅竣工記念碑、2011年6月撮影。
こういう立派な碑があるという事は、やはり地元主導の請願による駅設置だったのでしょうね。

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小木ノ城駅の待合室の様子、2004年5月撮影。
この駅には二回訪問していますが、これが初回訪問時の画です。
二回共、気が滅入るようなどんより曇天でしたっけ。

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小木ノ城駅待合室内部の様子、2011年6月撮影。
この待合室は駅開業当時からの建物です。
室内にはベンチも無く、待合室というよりは物置という風情です。
それなのに時計とゴミ箱はしっかりあるのがヘンなところ。
また、この時点では自動券売機、乗車証明発行機共に未設置でした。

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小木ノ城駅ホームの上屋部分の様子、2011年6月撮影。
画像右側がベンチの無い待合室の入り口です。
上屋下には真新しいベンチがしっかり設置されています。

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出雲崎駅方から見た小木ノ城駅ホームの様子、2011年6月撮影。
ホームをまたぐ陸橋は国道116号線です。
ホームの有効長は6両ですが、ホームは上屋部分以外は何も無いので、数字以上に長大な印象。
まぁこれは棒ホームの駅でしはしば感じられるところなのですが。

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国道下から出雲崎駅方を望む、2011年6月撮影。
2004年5月訪問時は昔のままだった駅名標も、七年後にはJR東日本定番のモノに。

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ホーム出雲崎方から見た小木ノ城駅の上屋部分とトイレの様子、2011年6月撮影。
手前の小屋がトイレです。
朝顔無しで壁に直接するタイプの小便用と、個室が一つ。
内部については、お察しください・・・。
近年は駅トイレの改築が進んで、磐越西線・新関駅のように劇的に改善されたトイレ事情にビックリ!な事もしはしばあるのですけれど、小木ノ城駅のトイレは現在どうなっていることやら。
この取材の後、越後線南部区間の礼拝-出雲崎間にはかれこれ5年も足を踏み入れていないので、車中からの観察もしていないのです。

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石地駅方から見た小木ノ城駅ホームの様子、2011年6月撮影。
越後線南部区間の駅としては南吉田駅と共に新参者の当駅は、他の諸駅に見られる国有化以前の私鉄時代の痕跡は当然の事ながら存在せず、純粋に国鉄の停留所の風情を今に留めているのが異色なところです。
ホーム直上の高規格の国道の陸橋は威圧感たっぷり。
越後線の細道とは対照的です。

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石地駅方を望む、2011年6月撮影。
越後線はここから線区で最も鄙びた地域に分け入ってまいります。

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小木ノ城駅を出発する115系電車の柏崎行、2011年6月撮影。
越後線南部区間にも新鋭E129系が入っているそうで、115系電車ももう見納めですな。
しかしこの鄙びた昔懐かしい風景にあのオサレな電車は似合わない、つか走っている様子を想像することが出来ないw

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石地駅方の踏切から見た小木ノ城駅全景、2011年6月撮影。

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国道116号線に出るには、踏切を渡りこの階段を上ります、2011年6月撮影。

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階段を上がって国道116号線に出ます、2011年6月撮影。
ここにはご覧のようにセブンイレブンがあって、鉄道、クルマを問わず来訪者にとって実に心強い限り。
越後線南部区間の諸駅近くに24時間営業のコンビニがあるのは、小木ノ城駅の他には粟生津駅と出雲崎駅、西山駅ぐらいです。
ここは大型車の駐車も多く、客単価は高そう。
街場のコンビニ飽和気味なところよりは、こういう場所の方が長続きしそうですな。
なお、当駅の駅名の由来でもある「小木ノ城址」はここから左手に約4kmです。
他サイト、ブログ様の訪問記を見ると、戦国時代の山城跡もそこそこの整備も行われていて、その種の趣味の方は一見の価値があろうかと思います。
私も戦国時代の山城跡は信越本線・北条駅最寄の北条城址や安田駅最寄の安田城址、えちごトキめき鉄道・春日山駅最寄の春日山城址などに行きましたけれど、山城に関する知識が無いので、実見してもなかなかピンとこないのが困ったところなのです。

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国道116号の陸橋から俯瞰で見た小木ノ城駅とその周辺の様子、2011年6月撮影。
俯瞰マニアにとってはなかなかに魅惑的なところです。

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同じく陸橋上から出雲崎駅方面を望む、2011年6月撮影。
国道の築堤もこの先徐々に高度を下げて、線路とフラットになります。

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国道116号線を出雲崎駅に向って歩きながら一枚、2011年6月撮影。
行きかうクルマは多く、越後線の本数は少なく、歩道を行くのは私一人。
なお、この区間には路線バスの設定はありません。
1997年の道路地図を見ても、出雲崎駅-礼拝駅間にバス路線はありません。
相当以前よりバス空白地帯なのがこの一帯なのです。
この日は出雲崎駅からバスで海岸沿いの出雲崎中心街へ行くスケジュールでした。

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