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2016年3月20日 (日)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一」からの続きです。
今回は昭和37年から昭和43年10月ダイヤ白紙大改正前夜までの話です。

昭和36年10月の全国ダイヤ白紙大改正以降、新潟県内の急行列車の整備も急速に進んで行きます。
キハ58系が落成していく度に、主要幹線の急行列車をキハ55系から置き換えて、捻出されたキハ55系と新造のキハ58系によって、後に急行格上げになるローカル準急の新設。
そして直流電化区間用の急行型電車の決定版である165系電車の投入によるものです。
その経過を、準急と合わせて年毎に追って行くと下記の通りになります。

昭和37年
3月:
準急「羽越」(新潟-秋田間、キハ55系気動車主体)運行開始。
これと同時に準急「あさひ」も一往復増発されます。
県都新潟と県北地方の速達アクセスが、これで実質的に構築されました。
また「あさひ」の運行開始により、県都新潟と隣接各県主要都市との間に、昼行優等列車二往復以上の体制が確立されました。
山形・仙台へは準急「あさひ」二往復、
郡山・福島へは準急「あがの」二往復、
長野へは準急「よねやま」「あさま」。
富山・金沢へは特急「白鳥」と急行「きたぐに」。
6月:
信越本線・新潟-長岡間の電化で上野-新潟間の電気運転が可能になったのを機に、長岡止まりの準急「ゆきぐに」一往復を新潟延長の上で急行に格上げして「弥彦」としました。
これで昼行上越急行は「佐渡」「越路」「弥彦」の三往復になりました。
しかし車両は80系電車、食堂車有りの客車、食堂車無しの客車とバラバラです。
電車は高速ではあっても乗り心地は疑問符が付くもので、洗面所も無く一等車はいわゆる「並ロ」。
当時、急行列車の一等車と言ったら「特ロ」が常識になっていましたから、高い一等急行料金を払って「並ロ」に座らされたのでは、たまったものじゃありません。
一方客車は重厚な乗り心地で一等車も「特ロ」、洗面所付きながら低速です。
同時に運行を開始した特急「とき」(新潟-上野間、161系電車)は、冷暖房完備で居住性抜群で乗り心地も素晴らしく、急行とのギャップは極めて大きかったでしょうね。
現代に当てはめれば、新鋭特急車両とキハ40系気動車や115系電車ぐらいの感覚的な差があるかも。
165系電車投入までの暫定措置とはいえ、新潟は田舎モンでおとなしいから、こげんぐらいでちょうどよかとナメられてる気がして、イヤな気分ですなまったく。
関西で同じ事をやったら、暴動モノですがな。
11月:
準急「うおの」(新潟-十日町間、キハ55系気動車)運行開始。
天下のNHKの当時のドキュメンタリーでも、「三級ローカル線」などと酷い事を言われていた飯山線にも、ようやく近代化の波が訪れたのです。
十日町地方の方には、県都新潟と直通出来る列車の誕生は画期的な出来事だったに違いありません。
なお、この「うおの」は準急「よねやま」と新潟-長岡間を併結運転していました。
12月:
急行「赤倉」(新潟-名古屋間、キハ58系気動車)運行開始。
この列車は純粋な意味での新設ではなく、準急「あさま」(新潟-長野間)と準急「きそ」(長野-名古屋間)を結合させて急行に格上げしたものです。
これで新潟と中部地方の中心・名古屋が直接結ばれましたけれど、新潟と名古屋の結び付きって正直薄いんですよね。
客車準急「妙高」(上野-直江津間)をキハ57系に車両変更して急行に格上げ。
これで上越地方と長野を結ぶ急行列車は、気動車の「赤倉」「妙高」と客車の「白山」の三往復になりました。
新宿から大糸線に乗り入れる気動車急行「白馬」の内一往復を糸魚川まで延長して、新宿-糸魚川間の運転としました。
大糸線の新潟県内区間初の優等列車です。

昭和38年
3月:
準急「野沢」(越後川口-長野間、キハ55系気動車?)運行開始。
午前中に飯山線沿線から県都長野へ行き、夕方帰るための用務を主とした列車で、当初の守備範囲は十日町まででした。
4月:
急行「しらゆき」(金沢-青森間、キハ58系気動車)運行開始。
日本海沿岸の直通旅客に加えて、金沢・富山-新潟と新潟-秋田・青森という地域間輸送も受け持つ、「白鳥」「きたぐに」を補完する性格の列車です。
急行「きたぐに」は大阪まで延長して、新潟-大阪間の運転としました。
これで新潟対関西の直通昼行(といっても一日潰れますけど)チャンネルは、特急「白鳥」と「きたぐに」の二往復体制になりました。
6月:
165系電車の新造投入によって、昼行上越急行列車を165系に更新。
編成も従来の7~8両編成から、半室ビュッフェ車と一等車各2両込みの12両編成に増強。
大型のヘッドマークが取り付けられて、東海道153系急行と並ぶ、日本最高クラスの堂々たる昼行急行列車になりました。
一年前の惨憺たる状態に比べて、夢でも見ているような変転でありましょう。
また夜行電車急行として「越後」を新設し、従来の夜行準急「越後」は寝台急行に格上げして、「天の川」に改称しました。
さらに前年の改正では80系電車準急のまま存置された「ゆきぐに」(長岡-上野間)を新潟延長・急行格上げします。
この結果、上越急行は昼行の165系電車「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」の四往復、夜行は寝台主体の「天の川」と165系「越後」で、特急「とき」を加えれば対東京のアクセスは大幅に改善向上したのです。
個人的には、「天の川」編成に一両だけ連結された座席指定車が、元特急用のスハフ43形だった話に目が釘付けですなぁ。
151系電車特急「こだま」がデビューする昭和33年11月までは、歴史と伝統に彩られた東海道客車特急の、庶民には手が出ない高嶺の花の特急専用三等車だったハコが、流れ流れて新潟に顔を出すようになったのです。
かつての花形スタァが地方公演ばかりの毎日を送っている、そんな印象でせつなくもありまた萌えるのです。
10月:
準急「くびき」(新潟-新井間、キハ55系気動車主体)と準急「ひめかわ」(新潟-糸魚川間、キハ55系主体)運行開始。
「くびき」については、新潟県内都市間需要の増大に加えて、「あさま」が急行「赤倉」に格上げされた為に、料金面で値上げという不満が出たからではないかなぁと思います。
「ひめかわ」については、糸魚川地域から県都新潟への用務利用を考えての設定と思われます。
長距離急行「きたぐに」「しらゆき」は、日帰り用務には使い難い時間帯なのです。
なおこれら気動車準急列車で一等車を連結していたのは「よねやま」のみのようです。
一等車と行ってもキハ55系の一等車キロ25、つまり「並ロ」です。
急行「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由、キハ58系)運行開始。
磐越西線経由で上野まで行くという、上越線開業前まで時間を遡ったような列車ですけれど、勿論新潟対東京ではなく、新潟対会津、中通り、中通り対東京の二つの使命を持つ列車であります。
準急「あがの」との違いは、純然たる急行用のキハ58系による運転であり、更に「特ロ」一等車キロ28が連結されていることです。

昭和39年
この年の10月に東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正がありましたけれど、新潟県内を走る急行・準急列車に大きな影響は無し。
この改正後の県内通過定期急行列車と一日の延べ県内走行営業キロ数は下記の通りです。
電車急行(165系電車)
「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」「越後」(新潟-上野間、「越後」のみ夜行)、
気動車急行(キハ57及び58系)
「赤倉」(新潟-名古屋間)、「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由)、「きたぐに」(新潟-大阪間)「しらゆき」(金沢-青森間)、「妙高」(直江津-上野間)、「白馬」(新宿-糸魚川間)。
客車急行
「天の川」(新潟-上野間夜行)、「北陸」(金沢-上野間、長岡経由夜行)、「羽黒」(上野-秋田間、新津経由夜行)、「日本海」(大阪-青森間、昼夜行)、白山(金沢-上野間、昼行)。
急行16往復。 一日の延べ県内走行営業キロ数約5,200km。
ちなみに特急列車は、電車「とき」(新潟-上野間)と気動車「白鳥」(大阪-青森・上野間)の二往復のみで、一日の延べ県内走行営業キロ数は約900kmに過ぎません。
新潟県内のみならず全国的にも、地方幹線の手堅い主役として颯爽と鉄路を駆け抜けていたのが、この時代の急行列車だったのです。

昭和40年
10月:
準急「羽越」を上野まで延長してキハ58系気動車急行に格上げして、秋田-上野間運転の「鳥海」に改称。
県北地域と東京を直接結ぶ昼行優等列車の誕生です。
準急「くびき」を妙高高原まで延長して、新潟-妙高高原間の運行とする。
妙高高原まで延長したのは、あるいは観光需要を見越しての事かもしれません。
165系電車準急「ゆざわ」(新潟-越後湯沢間)を新設。
慢性的に混雑する上越急行の補完役として設定されたであろう「ゆざわ」は、翌年3月に急行に格上げされるので、準急として走ったのは僅か半年でした。
客車夜行急行「越前」(上野-福井間長野経由)運行開始。

そして今からちょうど半世紀前の昭和41年。
3月に準急制度が見直されて、運転距離100km以上の準急は全て急行に統合されます。
新潟県内では「よねやま」「くびき」「ひめかわ」「あがの」「あさひ」「野沢」「うおの」「ゆざわ」が一斉に急行格上げとなって、新潟県内から一時的に準急列車が消滅。
10月:
新潟県内最後の新設準急として、「かくだ」(新潟-柏崎間)運行開始。
「かくだ」は越後線経由で、同線最初の優等列車誕生です。
対東京の上越線電車急行群の名称が整理されて、「佐渡」に統一。
同時に上野-石打間の電車準急「苗場」を新潟延長の上で急行に格上げして、「佐渡」に編入したので、「佐渡」はこれで定期五往復体制になります。
また夜行の「越後」は伝統ある愛称の「越路」に変更されました。
「妙高」は165系電車化した上で、上野-長野間の「信州」の内一往復を直江津まで延長して「妙高」に編入、これで直江津-上野間の「妙高」は二往復体制になりました。
新潟県上越地方と東京間の昼行直通速達列車は「妙高」二往復と「白山」、そして前年に「白鳥」から分離された気動車特急「はくたか」の合計四往復体制になりました。

昭和42年には新潟県内急行列車に変化は無く、翌年10月の全国白紙大改正を迎えるのですが、それはまた次回。

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