« 8年と三ヶ月ぶりの恐怖劇場アンパランス「吸血鬼の絶叫」 | トップページ | 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一 »

2016年3月17日 (木)

越後金丸駅(米坂線)

本日の駅紹介は、米坂線・越後金丸駅。

越後片貝駅はこちらへ← →小国駅はこちらへ

6月9日記、列車交換設備と跨線橋撤去後の駅の様子を追加しました。
青字の記述がそれです。


越後金丸駅の駅名標

新潟県岩船郡関川村に所在する無人駅で、開業は昭和8年(1933年)11月30日。
開業当時の所在は岩船郡関谷村で、同村は昭和29年に隣接する女川村と合併して現在の関川村が発足しました。
当駅周辺の金丸地区は山形県と境を接する関川村南部地域として、今日に至ります。
なお、現在の岩船郡を構成するのは関川村と離島の粟島浦村で、郡としては有名無実化同然の感があります。
21世紀を迎えた時点では他に二町(山北町と荒川町)・二村(朝日村と神林村)が属してしましたが、これら町村は2008年に県北地域の中心である村上市と合併してしまったのです。
さて、越後金丸駅は二面二線の列車交換可能な構造で、かつては貨物取り扱いもありました。
(当駅は2016年12月に2番線が廃止となり棒線化されました)
当駅は荒川と山地に挟まれた地形にあり、また最寄の集落からは北に500mも離れています。
ゆえに何故このような狭隘なところにこの規模の駅を、まるで押し込むかのように作ったのかと昔は疑問に思っていました。
関川村史にはその辺の話が全く触れられていなかったのですけれど、ネットで色々調べてみると、当駅の現在位置から5km山に入ったところに「金丸鉱山」があるそうです。
陶器の材料の長石やガラスの材料の石英を含む「ペグマタイト」を産出するそうで、当駅が開業した戦前は重要な鉱山だったようです。
この駅が現在の位置に定められたのも、この鉱山の産出物を貨物輸送する為の利便性が重要な要素だったのかもしれませんね。

越後金丸駅駅舎
越後金丸駅駅舎の様子、2013年6月撮影。
建築財産票によると、完成は昭和43年10月。
列車交換駅らしく、運転関係とおぼしきスペースが目につきます。
この規模の駅で二階建てというのも珍しい。
ここ関川村は、新潟県下越地方では阿賀町と並んで雪の多い地域なのですが、この建物の許容積雪量は90cm。
屋根の厚みを見ると剛健そうに見えるのですけれど、見た目よりも華奢な建物なのね。
この駅舎が完成した当時は、米坂線は蒸気機関車9600形の一人舞台。
当時は貨物も含めれば、当駅に停車する列車も現在よりずっと多かったことでしょう。
それを考えると、現在の寂れ具合はもののあわれを深く感じるところなのです。
建物の経年から考えて、改築もそう遠くないのでしょう。
その時は、改築後の咲花駅駅舎を平屋にして半分にしたような建物になりそうな予感。

駅舎の出入り口付近
駅舎出入り口付近の様子、2013年6月撮影。
当駅には水洗トイレが設置されていますけれど、訪問した当時は小便器が撤去されていて事実上の男女兼用な状態。
洗面所の水は飲めませんという注意書きがありましたっけ。

越後金丸駅駅舎内部
駅舎内部の様子、2013年6月撮影。
私が当駅を取材目的で最初に降り立ったのは2004年11月、二回目が2008年4月でしたが、その当時と比較しても変わったのはベンチが朱色の長物から近年のJR東日本定番形に変わっていた程度。
独特のカビ臭は相変わらずで、その濃厚さは純然たる地上駅としては私の訪れた駅の中でもトップです。
なお、当駅には米坂線ワンマン化以前から自動券売機も乗車証明書発行機も未設置でした。

越後金丸駅の上りホームその一
上りホーム(米沢方面乗り場)に接する駅舎部分と跨線橋出入り口の様子、2013年6月撮影。
この辺は元有人駅の貫禄が見て取れます。

列車交換設備と跨線橋撤去後の越後金丸駅構内その1
上の画と同じ位置で撮影した跨線橋撤去後の様子、2018年6月撮影。
上屋の先のかつて跨線橋が置かれていたあたりは、アスファルトで無造作に舗装されています。


越後金丸駅の上りホームその二
上りホームの坂町方から見た越後金丸駅構内、2013年6月撮影。
ホーム配置は千鳥形です。
ホームの有効長は四両といったところで、蒸気機関車全盛時代もこの長さで足りていたということなのでしょう。
当駅の旅客列車停車のトピックスとしては、新潟-山形間の気動車急行「べにばな」が一時期停車していたことが挙げられます。
私の手持ちの古い時刻表を見ると、昭和55年10月改正では通過だったのが、昭和60年3月改正では二往復中一往復が停車しています。
何故当駅のような、旅客需要は最初からあまり当てにしていなさそうなところに急行列車が停車したのか?
こういうケースだと真っ先に思いつくのが、「列車交換のついでに旅客扱い」ですけれど、「べにばな」の当駅停車は旅客列車との交換は一切関係していないので、それが当てはまらないのです。
当時は米坂線の貨物営業はまだ廃止になっていないので、ひょっとしたら貨物列車との交換ついでに旅客扱いだったのか?
うーむ、実に疑問だ、謎が深まる。

列車交換設備と跨線橋撤去後の越後金丸駅構内その2
上の画と同じ位置で撮影した跨線橋撤去後の駅構内、2018年6月撮影。
初夏の日差しが照りつけるがらんとした構内に、かつての急行列車停車駅の面影はありません・・・。
私は行った事が無いのですが、中国山地のローカル線の急行停車駅にこういうところが多
そう。
今後の注目点は、旧2番ホームを解体撤去してしまうのか否かですな。
重機が入れる空間を有しているのでやろうと思えば簡単に出来ましょうが、それをやるメリットが果たしてあるのかどうか。
個人的にはこのまま遺構として残してもらいたいなぁ

列車交換設備と跨線橋撤去後の越後金丸駅構内その3
列車交換設備撤去後の構内坂町方を見る、2018年6月撮影。
旧2番線の構内中程からこちら側にはまだレールが残っていました。
分岐器は小国方同様に撤去済みです。


越後金丸駅の上りホームその三
上りホーム端から構内の小国方を望む、2013年6月撮影。

列車交換設備と跨線橋撤去後の越後金丸駅構内その4
列車交換設備撤去後の構内小国方を見る、2018年6月撮影。
こちら側は分岐器だけでなく、旧2番線の線路も撤去済み。
ホーム上の小さな待合室もこれまた撤去済み。
待合室が無くなってホームが長く見えます。
枕木だけが残り雑草の生えた線路の撤去跡はやはり哀しいものです。


上りホーム横の旧貨物線?
上りホーム横の旧貨物線? 2008年4月撮影。
当駅の貨物取り扱いは昭和53年に廃止されています。

列車交換設備と跨線橋撤去後の越後金丸駅構内その5
列車交換設備と跨線橋撤去後も、このレールだけはまだ残っています、2018年6月撮影。
しかし最早本線との接続は絶たれていました。


越後金丸駅の跨線橋
跨線橋内部の様子、2013年6月撮影。
完成は比較的新しく、昭和59年1月。
この当時の標準形と言えます。
撮影した時点で、既に虫は多かったです、特に蜂が・・・。
夏から初秋にかけては近づきたくない雰囲気がビンビンに伝わってきます。

跨線橋上から構内の坂町方を見る
跨線橋上から構内の坂町方を見る、2008年4月撮影。
跨線橋撤去後の現在は見る事の叶わぬ風景です。

跨線橋上から構内の米沢方を見る
同じく駅構内の小国方を見る、2008年4月撮影。
GW初日だというのに、一ヶ月季節が逆戻りしたような寒さと暗さでした。

越後金丸駅の下りホームその一
下りホーム(坂町方面乗り場)の小国駅方から見た構内、2013年6月撮影。
元は島式だったのではないかと思わせる造りです。
ホーム上の待合室は大変こじんまりとしていて、特記する事項は無し。

下りホーム横の線路跡と思われる空間
下りホーム横の線路跡と思われる空間、2013年6月撮影。
山側に金丸鉱山があるのならば、そことのアクセスで産物を貨車に積み込むには、こちら側の方が都合が良いように感じられるのですけれど。

越後金丸駅の下りホームその二
下りホーム端から坂町方を見る、2013年6月撮影。
画像左側の線路跡らしきものが実に気になる。
またホームの先端部に構内通路の出入り口らしきものが見えます。

踏切から見た越後金丸駅構内
小国駅方の踏切から見た構内の様子、2013年6月撮影。
こうして見ると実に山深い土地なのかよくわかります。
越後片貝方には踏切が無いので、駅構内全景を地上から観察できるのはこの地点だけです。

列車交換設備と跨線橋撤去後の越後金丸駅構内その6
上の画と同じ踏切から見た、棒線化された越後金丸駅の様子、2018年6月撮影。
上の画ではまだまだ運転上の要衝としての雰囲気を持っていましたが、分岐器も副本線も構内信号も撤去された現在の駅のこの姿、まさに諸行無常の世界ですな・・・。
遮るものが無くなったせいで、駅舎の大きさが視覚的により明確にもなっています。
短い棒ホームに大きな駅舎、こうなるといかにもバランスが悪いのです。


荷物取り扱い用?の出入り口
駅舎向って左側にある荷物取り扱い用?の出入り口、2013年6月撮影。
当駅の荷物取り扱いは昭和58年に廃止されています。
米坂線の今泉 - 坂町間CTC化と時を同じくしていて、あるいは当駅の無人化もその時だったのかもしれません。

越後金丸駅を出発するキハ110系気動車快速「べにばな」
1番線から出発するキハ110系気動車快速「べにばな」米沢行、2013年6月撮影。
快速といっても米坂線内は各駅停車です。
坂町-今泉間の日中は有人駅以外の乗降が皆無に近いので、越後下関、小国、羽前椿以外は通過でも差し支え無さそうに思われます。
しかしそこまでして速達化する積極的な理由も無いのでしょうね。
ちなみに、当駅に停車する旅客列車の本数は昭和55年10月改正で上下13本、平成27年3月改正で12本と、ほぼ変わっておりません。

越後金丸駅で列車交換中のキハ52
当駅での列車交換中に撮影した坂町行キハ52、2005年5月撮影。
平成27年3月改正ダイヤでは当駅での列車交換は無く、小国駅と越後下関駅に集約されました。
過疎ダイヤな上に何かといえば運休というご時勢ですから、予備の交換設備など必要とされないでしょう。
当駅の交換設備について、今後会社がどういう判断を下すのでしょうか。

結果はご覧の通りで、平成28年12月には2番線の廃止と跨線橋の封鎖、平成29年に跨線橋と分岐器の撤去が実施されています。

越後金丸駅に到着したキハ110系気動車
下りホームに到着したキハ110系気動車坂町行、2013年6月撮影。
駅構内がきちんと映り込む順光の午前から昼にかけて、この下りホームに入る列車はこの便のみ。
当駅での滞在時間は約二時間でした。

棒線化された越後金丸駅に停車中のキハ110系気動車米沢行
跨線橋撤去後の越後金丸駅に停車中のキハ110系気動車単行、2018年6月撮影。
かつては跨線橋が邪魔をして、この位置からの撮影はパッとしないものでしたが、現在ではこのように過不足なく撮れます。


棒線化した越後金丸駅を出発するキハ110系気動車米沢行
棒線化した越後金丸駅を出発するキハ110系気動車、2018年6月撮影。
画像右側の旧2番ホームの駅名標が寂寥感を煽るのです。
JR東日本定番型に換装されてまだ数年なのに、もう遺構になっています。


駅付近の国道113号線その一
米坂線と並走する国道113号線の小国方から見た駅前の様子、2013年6月撮影。
当駅周辺には文字通り何もありません。
飲料の自販機すら無いのです。
国道を小国方面に進むと、かつては小学校を有した金丸集落に行き着きます。
しかし関川村立金丸小学校は隣の越後片貝駅近くの沼小学校と共に、平成13年度をもって閉校し、旧校舎は「金丸ふれあい自然の家」として活用されているそうです。
という事は、この地域の学童は10km以上離れた関川村中心地区にある関川小学校に通わなければならないのでしょう。
真冬は実に大変な話だと思うところです。

駅付近の国道113号線その二
国道113号線を坂町方面に少し進み、振り返って一枚、2013年6月撮影。
車の通行量は多く、このように車が全く映らない画を撮るのには時間がかかるのです。
なお、この地域には路線バスは走っていません。
20年程前の道路地図を見ても、バス路線は設定されておりませんでした。
随分前から、米坂線以外の公共交通機関は存在していないようです。

駅付近の国道113号線その三
さらに歩いて荒川の対岸と結ぶ橋から撮影、2013年6月撮影。
画面奥が越後金丸駅です。

駅付近の国道113号線その四
採掘か何かで切り立った山肌のすぐ下に駅の跨線橋が見えます、2013年6月撮影。

米坂線の鉄橋とその奥の八ツ口橋
青と赤のコントラストが良い感じの米坂線の鉄橋とその奥の八ツ口橋、2013年6月撮影。

八ツ口橋から見た荒川下流
八ツ口橋から見た荒川下流、奥に見えるのは国道113号線の八ツ口大橋、2013年6月撮影。
こうして見ると遠くにあるように見えますが、実際は直線距離で1km程の距離しかないのです。

八ツ口大橋上から見た米坂線の鉄橋
国道113号線の八ツ口大橋上から見た米坂線の鉄橋、2013年6月撮影。
越後金丸駅からここまで約2.5km。
越後片貝駅までの距離の中間地点です。

|

« 8年と三ヶ月ぶりの恐怖劇場アンパランス「吸血鬼の絶叫」 | トップページ | 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一 »

R013 米坂線の駅」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 8年と三ヶ月ぶりの恐怖劇場アンパランス「吸血鬼の絶叫」 | トップページ | 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一 »