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2016年3月24日 (木)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四」の続きです。
今回は国鉄最末期からJR発足、そして終焉までの最後の話です。

昭和60年3月ダイヤ改正では、これまで乗り換えの不便さに対応して暫定措置で存置されていた上越急行「佐渡」「よねやま」が全廃。
寝台急行「天の川」は輸送体系の変化を理由に廃止されてしまいます。
大宮止まりとはいえ新幹線が開業していた当時、新潟-上野間の寝台需要がどれほどあったかはやや疑問ではあるものの、昭和20年代半ばから設定されていた対東京の定期夜行列車が全廃されたのは、衝撃的な話でした。
その結果、夜行需要は高速バスにシフトして、その需要の多さに慌てた当局が夜行快速「ムーンライト」を走らせるという展開になるのですが、それはもう少し後の話です。
「べにばな」は山形で分断され、新潟-山形間の気動車急行として存続。
「赤倉」は長野で分断されて、新潟-長野間の「南越後」として再出発。
「南越後」はグリーン車を連結しません。
これによって、新潟県内から165系電車のグリーン車が、いや急行型車両のグリーン車が姿を消したのです。
伝統ある幹線昼行急行の、事実上の終焉と言える出来事です。
後に残された昼行急行は、全席自由席のかつての準急的存在に過ぎないのです。
・・・しかし「南越後」って、センスのかけらもないネーミングだなぁ。
当時から呆れてました。
素直に「とがくし」に統一すればいいのにと。
一応、「とがくし」は長野から上田まで、「南越後」は長野から松本まで普通列車として運転するゆえの差別化らしいのです。
でも新潟県内から普通列車区間まで乗り通す人がそんなに多いとも思えないですから、失笑モノの愛称をあえて付けることも無かったのにと思うのですよ。
前身の急行「日本海」以来、客車で運行されてきた「きたぐに」は、14系客車から583系電車に衣替え。
まさか新潟駅で、毎日583系を見れる時代がこようとは。
特急「白鳥」や上野発着時代の「青森いなほ」が583系化されなかったことで、新潟の地でこの電車が定期運行されるなんて諦めていたのですよ。
この話を聞いた時は、「きたぐに」と特急「雷鳥」で昼夜兼行運用、もしくは「きたぐに」の間合いで「いなほ」の一部を583系化するんじゃないかとか、妄想を逞しくしたものです。
結果は全てハズレだったわけですけど。

「佐渡」「よねやま」「天の川」廃止による新潟県内急行列車と一日当たり延べ県内走行営業キロは下記の通りです。
「きたぐに」(新潟-大阪間夜行、583系電車)。
「能登」(上野-金沢間夜行長野経由、14系客車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、長野-上田間普通列車、165系電車)。
「南越後」(新潟-長野間、長野-松本間普通列車、165系電車)。
「べにばな」二往復(新潟-山形間、キハ58系)。
「野沢」(長野-長岡間、キハ58系)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)。
計9往復、約2,100km。
ちなみに特急は25往復、約7,600km。

昭和61年11月の、国鉄最後のダイヤ改正は約半年後のJR移行を踏まえたもので、急行史的には過疎路線のローカル急行群に最後の一撃が加えられたものでした。
新潟県内では、飯山線の「野沢」と只見線の「奥只見」が廃止。
「野沢」にはこの時期、長野-長岡間と十日町-長岡間に乗車した事があります。
前者は長野出発時で五割ほどの乗り具合で、十日町で大量下車。
後者はガラ空きの車中の人になりましたっけ。
共に夏休み中でしたけど、繁忙期にこれではなぁと、急行愛好の私でも廃止は致し方無しの印象を強く持ったものです。

昭和62年4月1日のJR発足にはこの陣容で望み、JR最初のダイヤ改正(昭和63年3月)wでは、「とがくし」と「南越後」が統合されて、「赤倉」三往復として再出発。
愛称的にはこれですっきりして、車両にも夜行快速「ムーンライト」用のグレードアップ車が間合いで入るようになります。

それから平成に入って三年間は、新潟県内急行列車は不動のまま過ごします。
そして平成3年3月ダイヤ改正では、「赤倉」三往復中一往復が、車両はそのままで越後線経由の快速「やひこ」に格下げ。
この「やひこ」には平成4年5月に全区間乗車したことがあります。
京都へ一人傷心旅行をした後、帰路は大阪から客車急行「ちくま」のB寝台で長野まで。
この時は、列車寝台で一晩過ごすこと、そして急行列車に乗るのがこれで最後だとは思いませんでしたねぇ・・・。
早朝に長野に到着して、「やひこ」に乗り継いで新潟まで。
「やひこ」はグレードアップ車で快適、直江津から乗客が増えて越後線に入る頃は満席でした。
越後線内は停車駅が少なく、柏崎-吉田間は確か無停車。
規格の良くない越後線内でトバしてみたところで、速達化はたかが知れてます。
揺れも激しかったし。
「やひこ」は短命で、平成5年12月に廃止されてしまうのですが、越後線内の停車駅を増やしたら、もう少しは潜在需要を掘り起こすきっかけになったんじゃないのかなぁと。
出雲崎や寺泊、分水と県都新潟の間は高速バスも無く、越後線も過疎ダイヤでクルマ以外では行き来に不便なのです。
閑話休題、
同輩の「あがの」が上越新幹線上野開業に伴って、あっさり快速に格下げされてしまったのに対し、山形止まりになりながらも急行として健在ぶりを示していた「べにばな」。
この列車は山形新幹線運行に伴う奥羽本線の改軌工事の影響で、平成3年8月に米沢止まりの上で快速に格下げされてしまいます。
「べにばな」の愛称は現在も残っているものの、一往復に減便されて肝心の快速運転も新潟-坂町間のみ。
「べにばな」には羽越、米坂界隈への駅取材で何度も乗っていますが、朝の新潟発は坂町までに多くが下車してしまい、米坂線内まで行く乗客は半分ぐらいの印象。
夜の新潟行はガラガラでした。
曜日や時期によって乗り具合は異なるのてしょうけれど、「あがの」の乗りが堅調な感じなのに比べて「べにばな」は、坂町で切ってしまっても構わないのではと思うのです。
朝の新潟発の場合は直前に「いなほ」が先発していますから、「べにばな」を米坂線内の普通列車に格下げしても、ダイヤは弄らなくて済むのです。

平成5年3月改正では、14系客車で運転されていた「能登」が489系電車に更新されて、寝台車の連結を終了。
これで新潟県内から毎日運転の客車列車が姿を消すことになりました。

平成9年10月の長野新幹線開業に伴うダイヤ改正では、昭和30年代後半の都市間準急をルーツに持つ新潟県内最後の昼行急行「赤倉」が特急「みのり」に格上げ。
県内昼行急行史の終了であり、また国鉄~JRの急行型電車優等列車史の終焉でもありました。
グリーン車の座席を装備したグレードアップ車に、「やひこ」廃止後は車両運用に余裕が出来たことで当たる率が高かった「赤倉」を、座席のレベルは落ちて料金は倍近く値上がりして、スピードアップも微々たるものの「みのり」へ格上げしたのは、単なる値上げと嫌われて低迷。
年を追うごとに削減が行われ、平成14年12月には快速「くびき野」に格下げされてしまいました。
「くびき野」は、特急型車両に料金無しで乗れてスピードも特急「北越」と大差は無く、運行時間帯の良さもあって盛況でした。
当初は四連だったのを、数年で「北越」と同じ六連に増強。
半室グリーン席や指定席車を連結して、自由席の座席カバーが無いのを除けば「北越」と大差無い、掛け値無しに乗り得な列車になったのです。
「くひき野」、特に夕方に新井を出発する5号は、上越方面の駅取材の帰りの足として私の愛用列車でした。
自由席のみの時代は直江津からだと座れるかどうかわからず、新井までわざわざ出て座席を確保したものです。
指定席車が付いてからはもっぱらこちらを愛用。
平成27年3月ダイヤ改正まで発売されていた新潟対上越地区の特急自由席往復割引きっぷ「えちご往復きっぷ」では「くびき野」の指定席には乗れないこともあってか、「くびき野」の指定席はいつも空いていました。
三連休の最終日に乗っても、自由席がすし詰めなのに対して指定席は50%程度のほど良い乗り具合。
500円ちょっと払えば余裕で座れるのにと、不思議でしたなぁ。
一般の人は「指定席」と聞くと、ちょっと構えてしまって小額でも心理的抵抗があるにしても、勿体ない話です。
18きっぷ期間外の通常の土日はガラガラで、乗客は新潟に着くまで私ひとりきりという事も何度かありましたっけ。
そんな「くびき野」も平成27年3月改正で廃止。
どうやら当局は、高速バスと張り合うのを止めて薄利多売も止めることにしたようです。
特急自由席割引きっぷも一気に五割アップで、それまでは乗れた上越新幹線・新潟-長岡間も乗車禁止、では「北越」の仕切り直しの「しらゆき」の本数を増やすのかと言えば、「北越」時代の五往復はそのまま維持。
いなかもんはこげんぐらいでちょうどよか、お上の言うこと黙って聞いとりゃエエンじゃとナメられているようで、実に不愉快な展開なのです。

またまた閑話休題、
「赤倉」廃止で、新潟県内に残る急行列車は「きたぐに」と、碓氷越え廃止に伴って長岡経由に変更された「能登」の二往復のみ。
とは言っても、この頃には全国で急行列車の廃止がいよいよ深度化していたので、夜行二往復が通るというのは最も恵まれていた方なのです。
以後、12年半に渡ってこの体制が続くことになります。
しかしこの間も急行列車の退潮は大きく進んで、平成20年3月には寝台急行「銀河」廃止で寝台急行史の終了、21年3月には気動車急行「つやま」廃止で国鉄~JRの定期昼行急行史の最後のページが閉じられました。

平成22年3月ダイヤ改正では「能登」が臨時列車に格下げ。
繁忙期を中心に暫く運行を続けましたが、平成24年2月をもって事実上の廃止。
そして平成24年3月、ついに「きたぐに」が臨時列車化。
新潟県内定期急行史はついに完結の日を迎えました。
臨時「きたぐに」は翌年1月の年始運行を最後に廃止されて、急行列車という種別そのものが新潟県内からは消滅しました。
「きたぐに」廃止後もしばらくは停車各駅では乗車位置表示板が残っていて、駅取材でそれらを見ては、感傷に浸ったものです。
JR東日本新潟支社では発券が面倒だからなのか臨時急行を設定する気が全く無いようで、特急型車両を使用する臨時列車は快速扱いです。
今後も県内で急行列車が走る事はおそらく無いでしょう。

幼い頃に目を輝かせて乗った懐かしい日々・・・、「佐渡」の冷房のよく効いた車中に驚いたあの日、「しらゆき」の混雑に閉口したあの日、お盆の真っ最中に「佐渡」に乗って、スシ詰めの大人たちの間に滑り込んで泣きたくなるほど辛かったあの日、「きたぐに」の快適な車内にご満悦だった亡き母の笑顔、冷房の無い真夏の「赤倉」で窓を全開にして日本海に目を見張ったあの日、「羽越」の車内の汚さに呆れたあの日。
さらばみなさらば。

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