« 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三 | トップページ | 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五 »

2016年3月23日 (水)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三」の続きです。
今回は衰亡の一途を辿る、国鉄末期の新潟県内急行列車についての話です。

昭和51年9月ダイヤ改正では、それまで10系寝台車で運転されていた寝台急行「天の川」が待望の20系客車化を実施します。
20系客車の急行転用は、同年2月の「銀河」(東京-大阪間)に次ぐもので、「天の川」と同時に「新星」(上野-仙台間)も20系寝台急行に生まれ変わっています。
この改正後でも特急「あさかぜ」二往復、「瀬戸」、「安芸」、「北陸」、「北星」、「あけぼの」二往復が20系で運用されているので、「天の川」が急行のまま20系化されたのは画期的な事だったのです。
これまで運用されていた、コイルバネでよく揺れる、戦前の三等寝台車スハネ30以来の詰め込み式設計の10系寝台車に対して、一部の寝台特急でまだ運用されている、静粛で乗り心地もよく、天井も高くて心理的圧迫感の小さい20系とでは、それこそ月とスッポン。
同じ区間を並走する10系寝台車の「鳥海」とは大差があったでしょう。
鉄道ジャーナルの「鳥海」列車追跡記事には、揺れる、うるさいと最低な状態のA寝台車オロネ10の状態が書かれていましたっけ。
私は20系B寝台車には一度だけ乗車の機会があって、JRに移行後、20系もそろそろ引退という話が出てきた頃の臨時「ざおう」で上野から山形まで体験乗車しました。
既に24系25形の二段式B寝台には何度か乗っていたので、52cm幅の三段ベッドを見た時は、乗り合わせた私よりやや年上の青年氏と「狭いねぇ」と苦笑し合ったものです。
しかし相当の経年であるにも関わらず、揺れは思いの他小さくて驚いた記憶がありまなぁ。
その少し前に「銀河」に乗った時は、静岡浜松あたりで大揺れになって、すわ東海地震かと恐怖心を覚えたのが強烈な印象として残っていたので、臨時「ざおう」の乗り心地のよさは一層良く思えたのです。
狭いベッドも、横になれば特に問題無し。
私には閉所恐怖症の気は全然無いので、ああいうのは平気なのです。
閑話休題、
急行寝台車のテコ入れとしては当時最高のカードが20系への置き換えだったわけですけど、固定編成で寝台車オンリーの20系は、そのままでは「天の川」のような寝台専用列車に限定されてしまいます。
座席車が少なくてもよいのなら、「十和田」や「だいせん」のように余剰A寝台車を座席車化すれば良いのですけれど、座席車と混結で且つ座席車の比率が高い列車にはこの手も使えません。
そこで次善の策として期待されたのが、余剰20系を12系座席車と混結出来るように電気系統を改造する事でした。
ただこれはコストパフォーマンス的にあまり芳しくない結果だったようで、西日本地区の夜行急行に限定されています。
座席車を12系に更新していて、且つ東北・上越新幹線開業に直接の影響を受けない「きたぐに」「津軽」あたりは、この方式に変えてもよかった気もしますけど。
その後の特に関西対九州の寝台特急の低迷で近い将来の整理が必要になって、14系客車に余剰が出る見込みになったのも、20系の12系混結改造に影響しているのかもしれませんね。

昭和53年10月のダイヤ改正では、新潟-大阪間の昼行気動車急行「越後」が特急「雷鳥」に格上げされます。
新潟県内を走る長距離気動車急行には他に「しらゆき」「赤倉」がありますが、これらは列車の使命が二区間に大きく分かれています。
「しらゆき」なら金沢・富山-新潟、新潟-秋田・青森、「赤倉」なら新潟-長野、長野・松本-名古屋です。
一方「越後」は、新潟-大阪間に特急「北越」が設定されていることから見て、その需要のメインは新潟-関西間の直通旅客であったと思われます。
つまり「しらゆき」「赤倉」よりも長距離旅客の割合は高かったと推察され、時代遅れになりつつあった気動車急行はいかに安価な料金とはいえ、その任には最早耐えられないスピードと居住性だったと申せましょう。
特急に格上げされたのも、単に国鉄の増収策だけではない旅客側の事情もあったのではないかと。
ともあれ、「越後」が無くなったことで新潟県内通過定期急行列車は一往復減の28往復。
一日当たり延べ走行営業キロ数は約7,500kmに減じました。
特急は同改正でさらに増発が実施されて、32往復、約11,100kmになっています。

昭和55年10月ダイヤ改正では特急・急行共にこの状況に変化はありません。
ちなみにこの段階でグリーン車を2両連結していたのは「佐渡」「よねやま」「赤倉」「妙高」。
「赤倉」は全国唯一のグリーン車2両の気動車急行です。
全国広しと言えども他には「伊豆」「東海」「信州」「アルプス」だけ。
かつては「特ロ」と「並ロ」を一両ずつ連結しているのが当然だった幹線筋の急行列車の面影を、新潟県内ではまだ見出すことが出来たのです。

そしてついに迎えた運命の日。
昭和57年11月の東北・上越新幹線大宮暫定開業に伴うダイヤ大改正です。
急行列車は大幅に整理されて下記の如き状況に。
「佐渡」夜行一往復を廃止、昼行一往復を季節列車化。
「妙高」二往復を特急「あさま」に格上げ。
「うおの」を快速に格下げ。
「しらゆき」を特急に格上げして「白鳥」に編入。
「羽越」を特急「いなほ」に格上げ。
「ひめかわ」を快速に格下げし、柏崎-青海間は廃止。
「いいで」を廃止。
「白馬」を廃止。
「あがの」の新潟-五泉間を快速に格下げ。
「鳥海」を寝台特急「出羽」に格上げ。
「越前」と「能登」を統合して長野経由の「能登」として一本化。
「きたぐに」の新潟-青森間を特急「いなほ」に格上げ。

残存する急行列車は「赤倉」をキハ58系気動車から165系電車に、「きたぐに」を12系客車&10系寝台車から14系客車に、「能登」を旧型客車&10系寝台車から14系客車にそれぞれ更新しています。
「赤倉」については、381系特急化の話があったと耳にしています。
しかし新潟-長野間のインフラを振り子対応にするにはカネがかかり過ぎるので、急行のまま存置だったとか。
しかし新潟-長野間は振り子をオフにしていてもいいんじゃないのと思うのです。
勾配区間は気息奄々で、編成をダブルエンジン車主体にせざるを得ない為に普通車の冷房化もままならず、平坦区間でも電車急行と同じダイヤにする為に停車駅を減らさざるを得ないキハ58系に比べれば、振り子を使わない381系でも40分程度のスピードアップは充分可能だったはずです。
またまた閑話休題、
「赤倉」の電車化と「いいで」の廃止によって、気動車のグリーン車は新潟県内の定期列車から姿を消しました。
また「きたぐに」「鳥海」「能登」「越前」に加えて奥羽本線の「津軽」の10系寝台車も連結を終了して、10系寝台車および旧型客車の定期急行運用はこれで終焉を迎えたのです。
10系寝台車はその後も普通夜行列車「山陰」「はやたま」「ながさき」で細々と余命を過ごし、最終的に昭和60年3月改正で「山陰」廃止によって全廃されています。

さてこの大改正の結果、新潟県内定期急行列車は、
「佐渡」二往復(新潟-上野間、165系電車)。
「よねやま」(直江津-上野間、165系電車)。
「天の川」(上野-秋田間、夜行20系客車)。
「赤倉」(新潟-名古屋間、165系電車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、165系電車)。
「きたぐに」(新潟-大阪間、夜行14系客車)。
「能登」(上野-金沢間長野経由、夜行14系客車)。
「べにばな」二往復(新潟-仙台間、キハ58系気動車)。
「あがの」二往復(新潟-福島間、急行区間は五泉-郡山間、キハ58系気動車)。
「野沢」(長岡-長野間、キハ58系気動車)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)
合計15往復、一日当たり県内走行延べ営業キロは約3,700km。
改正前の半分になってしまったのです。
越後線と大糸線から急行が全廃されたことなどで、新潟県内定期急行停車駅は改正前の55駅から13駅減の42駅になりました。
一方、特急も「とき」「はくたか」が全廃されるなど大きな影響を受けたものの、急行の格上げ等でドラスティックなものにはなっていません。
改正後は26往復で約8,500kmです。

「佐渡」「よねやま」「天の川」が生き残ったのは、上越新幹線が上野発着になるまでの暫定措置であり、この時点で先が見えてしまっています。
私が「佐渡」に最後に乗ったのもこの時期で、昭和59年の夏休みに新潟-上野間を片道乗車しました。
「佐渡」は新潟県内区間で度々乗っていたものの、全区間乗車は昭和57年夏と合わせて二回きり。
まだお盆前の八月初めでしたが、夏休みの真っ最中だというのに自由席の乗車率50%といったところで、快適には過ごせたものの急行時代の終わりを実感したものです。
新幹線開業直前の昭和57年夏のお盆前に上野-新潟間を利用した際は、立錐の余地無く満員で指定席もグリーン車も全て売り切れだったのに。
しかも熊谷あたりで起きた踏切事故の影響で二時間抑止というオマケ付き。

続きはまた次回。

|

« 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三 | トップページ | 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五 »

R001 鉄道」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三 | トップページ | 戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五 »