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2016年3月21日 (月)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二」の続きです。
今回は昭和43年ダイヤ改正から昭和50年までの、新潟県内急行列車の絶頂期から黄昏を迎え始める時期の話です。

昭和43年10月の全国ダイヤ白紙大改正、通称ヨンサントオでは、新潟県内の急行列車体系がほぼ完成の域に達します。
日本海縦貫線関係では、
戦前から運行され、また新潟県内最古の愛称付き急行のひとつである「日本海」(大阪-青森間)は、新設される寝台特急(新潟県内初の寝台特急)に伝統ある愛称を譲って、「きたぐに」と改称されます。
一方、新潟-大阪間に運行されている同名の昼行キハ58系気動車急行は「越後」に改称。
信越本線関係では、
「くびき」が「よねやま」に統合されて、「よねやま」二往復体制になります。
(新潟-長野間、新潟-妙高高原間各一往復)
「よねやま」を初め、それまでキハ55系主体で運転されていたローカル気動車急行は、この頃には逐次キハ58系に更新されていったと思うのですけれど、明確な資料が無いのが残念です。
また新潟県内最後の準急「かくだ」が廃止され、「ひめかわ」はそれまで新潟-直江津間の「よねやま」との併結運転から単独運転に変更され、「かくだ」の代替として越後線経由になります(新潟-糸魚川間)。
上越線関係では、
夜行の「越路」が「佐渡」に編入されて、定期の「佐渡」は昼行五往復、夜行一往復になりました。
羽越本線関係では、
「羽越」が再度設定されて、新潟-秋田間に運行を開始しました。
また上野-秋田間の夜行急行「羽黒」は「鳥海」に編入されて、「鳥海」は昼行の気動車と夜行の客車の二往復体制になります。
その他では、新宿-糸魚川間の気動車急行「白馬」が「アルプス」に編入されて、「白馬」の愛称は一旦消滅しました。

この結果、新潟県内を走る定期急行列車と一日当たりの延べ県内走行営業キロ数は下記の通りになります。
営業キロ数は若干の計算間違いがあるかもしれないので、目安としてお考えください。
電車急行(165系)
「佐渡」六往復(新潟-上野間、昼行五往復、夜行一往復)、
「ゆざわ」一往復(新潟-小出間、小出-越後湯沢間普通列車)、
「妙高」二往復(直江津-上野間)。

気動車急行(キハ58系及びキハ55系)

「鳥海」一往復(上野-秋田間)、
「しらゆき」一往復(金沢-青森間)、
「越後」一往復(新潟-大阪間)、
「赤倉」一往復(新潟-名古屋間)、
「よねやま」二往復(新潟-妙高高原・長野間)、
「ひめかわ」一往復(新潟-糸魚川間、越後線経由)、
「いいで」一往復、(新潟-上野間、磐越西線経由)、
「あがの」二往復(新潟-福島間)、
「羽越」一往復(新潟-秋田間)、
「あさひ」二往復(新潟-仙台間)、
「うおの」一往復(新潟-越後川口間、越後川口-十日町間普通列車)、
「野沢」一往復(長岡-長野間)、
「アルプス」一往復(新宿-糸魚川間)。

客車急行
「きたぐに」一往復(大阪-青森間昼夜行)、
「鳥海」一往復(上野-秋田間夜行)、
「天の川」一往復(新潟-上野間夜行)、
「白山」一往復(金沢-上野間、昼行長野経由)、
「北陸」一往復(金沢-上野間夜行長岡経由)、
「越前」一往復(金沢-上野間夜行長野経由)。

新潟県内走行定期急行列車の一日当たり延べ走行営業キロ数合計約8,500km。

定期特急列車は「とき」三往復と「白鳥」「はくたか」「日本海」各一往復で、新潟県内一日当たり延べ走行営業キロ数は約2,200km。
急行列車が準急の格上げで本数、走行キロ共に増やしているのに対し、特急の増発はまだまだ微々たるものといえ、走行キロは急行列車の約25%に過ぎません。
この当時はローカル準急上がり以外の主要急行には冷房付きの一等車が連結されていて、主要幹線の急行には豪華に一等二両。
電車急行「佐渡」「妙高」には半室ビュッフェ、客車長距離急行「きたぐに」には、全国でも小数派になっている急行用食堂車が連結されて庶民の旅に彩りを添えていたのです。
私がハッキリと記憶している頃には、急行からこれらは消え去ってしまっていて、「とき」の181系食堂車も183系に編成を合わせる為に抜かれています。
「白鳥」「雷鳥」には食堂車が連結されていたものの、上越地方や北陸関西には親戚がいないので用事も無く乗る機会も無く、とうとう食堂車には足を踏み入れず仕舞いでしなぁ。

昭和44年
10月:
気動車特急「いなほ」(上野-秋田間)新設に伴い、昼行「鳥海」を季節列車に格下げ。
気動車急行「ひめかわ」の運転区間を延長して、新潟-青海間に変更。

昭和45年
10月:
信越本線全線電化完成に伴い、急行「よねやま」二往復を気動車から165系電車に変更し、運転区間を新潟-長野間に統一。

昭和46年
特記事項無し。

昭和47年
3月に山陽新幹線・新大阪-岡山間開業に伴うダイヤ改正が実施されました。
新潟県内急行列車の動きとしては、
新潟発着の寝台急行「天の川」を秋田まで延長して、上野-秋田間の運転に変更。
大阪-富山間に運行されていた寝台急行「つるぎ」を新潟まで延長して、大阪-新潟間の運転としました。
電車急行「よねやま」二往復を「とがくし」に改称。
電車急行「ゆざわ」を、特急「とき」増発と引き換えに廃止。
確か六日町、小出、小千谷の各駅に「とき」が停車を始めるのは、この頃だったと記憶しておりますけれど、アヤフヤなモノゆえ間違っていたらご容赦の程を。
前年から臨時列車として運行されていた金沢-松本間(大糸線経由・金沢-糸魚川間を「しらゆき」と併結)「白馬」一往復を定期列車に格上げ。
約三年半ぶりに「白馬」の愛称が、昔馴染みの大糸線に定期復活したのです。
客車昼行急行「白山」は電車特急に格上げ。
これによって、純然たる昼行客車急行は函館本線の「ニセコ」のみになりました。
ただし新潟県内では、「きたぐに」が新潟-青森間を座席車と食堂車の昼行編成で健在です。
そして迎えた10月、新潟県内では白新・羽越本線全線電化完成に伴うダイヤ改正で、急行と特急の勢力が逆転を始めるのです。
白新、羽越本線関連では、
特急「いなほ」の電車化と一往復増発に伴い、季節運転の昼行「鳥海」を廃止。
代替として「羽越」を一往復増発して二往復体制に。
しかし電化完成と掛け声は勇ましいものの、電車運転は特急「白鳥」「いなほ」のみ。
気動車列車は急行・普通共にそのまま存置で、客車列車と貨物列車の牽引機関車がD51形やDD51形からEF81形に代わっただけ。
交直流型急行電車が製造を終了し、他線区からの捻出転属も無いこと、非電化区間直通気動車急行との併結や車両運用の問題があるにせよ、気動車急行がそのままなのはこの線区によく乗った身としては、幼心にもガッカリでしたねぇ。
同じ急行料金を払っているのに、電車急行「佐渡」「よねやま」は乗り心地も良く普通車にも冷房が入っていました。
片や気動車の「しらゆき」「赤倉」「羽越」は煤けていて車内も乱雑としていて、乗り心地も悪く、グリーン車以外の冷房車は僅少。
気動車急行の普通車に冷房が無いのは、勾配線区が多くて編成をダブルエンジンのキハ58中心に組成せざるを得ず、冷房用電源を搭載できるシングルエンジンのキハ28をうまく組み込めない事、そして東京の本社のエラいさんが「北国に冷房はいらない」と北陸東北の冷房化に消極的だった事、普通車冷房化と編成出力向上を同時に賄えるキハ65が西日本限定にされた事などが挙げられます。
でも北陸だって東北だって、真夏は昔から蒸し暑いのですよ。
それなりにこの仕打ちですからね。
本社に権限が集中して、各管理局の要望に耳を傾けないんでしょうね。
もう30年以上昔の話ですけど、幼い頃に味わった不条理は生涯忘れないのですよ。
閑話休題、
上越線関連では、
一度は消滅した「よねやま」の愛称が、上野-直江津間(長岡経由)の電車急行一往復として復活。
ただしこれは純増ではなく、「佐渡」一往復を新潟発着から直江津発着に変更したものです。
この結果、定期「佐渡」は四往復になります。
ただ、資料では定期と季節運転を合わせて記されているので、定期運転については私の推定です。
ひょっとするとこの時点では定期五往復かもしれません。
日本海縦貫線関係では、
3月に新潟延長が成った「つるぎ」が寝台特急に格上げ。
そして新潟県内急行列車の最後の新設列車として、「奥只見」(小出-会津若松間、キハ58系)が運行を開始。

昭和47年10月改正時点では、急行30往復(電車9往復、気動車16往復、客車5往復)、一日当たり県内延べ走行営業キロ約7,900km。
これに対し特急は19往復、約6,200kmです。

昭和48年10月改正では特急は24往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは約7,800km。
定期急行は前年改正と変化が無いので、この時点で新潟県内では特急と急行の勢力がほぼ互角になりました。
この改正では「きたぐに」の普通座席車が、それまでの旧型客車から冷房付きで空気バネの12系客車に更新されているのが、個人的に感慨深いトピックです。
12系客車の定期急行列車運用は「きたぐに」が最初の例の一つで、当時まだ少なからず存在していたであろう長距離客には大いなる福音であったでしょう。

昭和50年3月改正では、上野-金沢間(長岡経由)に寝台特急「北陸」が運行を開始。
従来の寝台急行急行「北陸」は、座席車と寝台車混結の「能登」に改称して存続します。
「能登」に改めて連結された普通座席車は旧型客車で、当初はこの数年後に予定されていた上越新幹線開業後に手を入れる事を考えた、応急的措置だったのかもしれません。
当時の上野発着の東北方面夜行急行は概ねこんな感じで、この段階では「津軽」「十和田」「八甲田」「鳥海」「越前」そして「能登」の普通座席車は旧型客車で存置されていました。
東北・奥羽本線の夜行急行はその後20系や12系にグレードアップされていますけれど、「鳥海」「越前」「能登」は結局普通座席車に何のテコ入れもされないまま、開業が大幅に遅れた東北・上越新幹線開通まで、旧態依然とした姿で走り続けることになります。
鉄道ジャーナルの昔の列車追跡記事を読むと、「鳥海」では昭和55年になってもオハ35系が運用されていました。
そしてこれら全て新潟県内を通過しているのです。
「北国のいなかはこげんぐらいでちょうどよか」とナメられている気がして、とってもイヤな気分。
また新宿発着の「アルプス」が電車に統一された為に、非電化の大糸北線に乗り入れる気動車「アルプス」は廃止。
これで県内走行定期急行列車は一往復減の29往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは改正前の約7,900kmから微減に転じました。
一方、特急は「北陸」誕生で一日当たり県内延べ走行営業キロは約8,200kmになって、とうとう急行を逆転し、この後その差はどんどん開いていくことになるのです。
またこの時期には、「きたぐに」の食堂車が北陸トンネル火災事故の元凶と見なされて即刻連結中止、「佐渡」「よねやま」「妙高」のビュッフェ営業の中止と、急行列車の供食設備が相次いで失われていて、いよいよ古き良き急行時代の黄昏が始まったのでした。
続きはまた次回。

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