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2016年3月19日 (土)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一

来る3月26日のJRダイヤ改正で、定期で唯一の急行列車「はまなす」が廃止されます。
これでJRからは定期急行列車が全廃されてしまいます。
幼い頃に急行列車に親しんだ中年鉄ヲタとしては、実にもって寂しい!の一言。
我が新潟県でも、急行列車が消滅して早三年になります。
我が県の場合は臨時急行の設定は無いので、文字通りの消滅であります。
そこで今回から備忘録的に、戦後の新潟県内国鉄~JR急行列車の興亡の軌跡を
簡単に辿って行きたいと存じます。

戦後、新潟県内に毎日運転の定期急行列車が走り始めたのは昭和22年6月で、
上野-新潟・金沢間(上越線経由)に夜行急行が運行開始、翌7月には戦時下の
昭和18年に決戦ダイヤ移行で廃止された大阪-青森間の急行列車が復活しました。
両列車共に復活当初はまだ名無し・・・というよりも当時の国鉄で愛称を付けるのは
特別急行列車に限定されていたので、これは当然の話です。
その後上野-新潟・金沢間の夜行急行は系統分離されて、金沢便は急行、新潟便
は準急になります。
金沢便は昭和24年に大阪まで延長され、上野-大阪間の運転になります。
新潟便については格下げの印象を持ちますけれど、
利用客からすれば、基本的に急行列車と変わらぬ客車に急行の半額の準急料金で
乗れるのですから、かなりのお値打ちだったでしょう。

さて、その後まもなく、国鉄が急行列車にも愛称を付ける方針にしたのを受けて、昭和25年11月に上野-金沢間の夜行急行に「北陸」、大阪-青森間の長距離急行には「日本海」と命名されます。
その前月には、昭和24年9月に運行を開始した上野-新潟間の不定期昼行急行列車が定期化(愛称は付けられず名無しの701レ・702レ)されているので、新潟県内を走る定期急行列車は「北陸」「日本海」「701レ・702レ」の一日三往復になりました。
当時最新鋭にして特急の一等展望車を除けば最高水準の居住性を誇るリクライニンシート装備の座席車である特別二等車(通称「特ロ」)は、昭和25年秋から「北陸」と「701レ・702レ」に連結を開始していますが、当時「特ロ」を連結する急行列車は最重要な列車に限られていて、「北陸」と「701レ・702レ」にとっては面目躍如な話だったのです。
なお「北陸」には、戦前製の二等寝台車も連結されていました。
「日本海」については、需要が小さいという理由で「特ロ」連結は大阪-金沢・富山間のみとされています。

閑話休題、
昭和20年代は不定期急行こそ設定されるものの、定期列車についてはなかなか増えません。
昭和29年10月に、それまで上野-直江津間に運行されていた準急を金沢延長の上で急行に格上げした「白山」(上野-金沢間、長野経由)が加わったのみでした。
昭和20年代末の時点では、新潟県内を走る定期急行列車はこの四往復(701レ・702レは昭和27年に「越路」と命名されました)のみで、一日走行営業キロは延べ約1,500kmに過ぎません。
昭和31年11月ダイヤ改正では、上野-新潟間に二本目の昼行急行列車として
「佐渡」がデビュー。
それまで上野-秋田間(羽越経由)夜行不定期急行として運行されていた「津軽」が、「羽黒」と改称されて目出度く定期化されます。
しかし定期急行列車の新設はこれで暫く打ち止め。
急行を補完すると共に、地方都市間速達輸送の主役であるはずの準急列車も、前述の上野-新潟間夜行準急に愛称が付いた「越後」のみ。
勿論、特別急行列車などというハイカラでハイソな列車は県内には影も形もありません。、
当時は復興期から高度経済成長期に脱却しつつあり、東海道では一等展望車と食堂車を連結した特別急行列車が鉄路の大スターとして君臨し、急行列車も続々増発、それらを補佐する準急も客車あり80系電車ありと咲き誇っている時代にですよ。
現代では死語となった「裏日本」という言葉が、まだ生きていたのを感じさせずにはおきませんな。

一方、その後の急行列車に繋がる準急列車は、昭和30年代も半ばに差し掛かってようやく整備が始まります。
年毎に簡単に追って行くと次の如し。
昭和34年
4月:「ゆきぐに」(長岡-上野間、80系電車)運行開始。この「ゆきぐに」は昭和36年10月ダイヤ改正で一往復増発されて、二往復中一往復は
国鉄急行型電車の元祖である153系電車で運転されます。
新潟県内の定期急行・準急列車で153系が充てられたのは「ゆきぐに」のみで、極めてレアな存在でした。
後に新潟対東京の上越急行が電気運転化された当初は、「佐渡」他の急行列車がつり革がぶらさがり、洗面所が無く、コイルバネで乗り心地の良くない80系電車や重厚な乗り心地ではあるものの速度の遅い客車で運行されていたのに対し、準急と
して一往復が残った「ゆきぐに」はそれらよりずっと新しくて設備も良く、空気バネで乗り心地も上々の153系電車で引き続き運転されていて、その差は極めて大きいものがありました。
客室の設備面で差があるとしたら、一等車(旧二等車)が準急相当のロマンスシートだった「ゆきぐに」に対して、客車急行のそれは「特ロ」だった事ぐらいでしょうね。
上越急行と準急の車両水準の逆転という不条理は、国鉄の車両運用の事情の産物です。
しかし乗客からすればたまったもんじゃないですよねw。
準急の倍の料金を払って、元々東京-沼津間の湘南電車として設計され、居住性も設備もそれに合わせている80系電車に長時間乗せられるなんて。
またまた閑話休題、
9月:「あがの」(新潟-仙台間磐越西線経由、キハ55系気動車。昭和36年に一往復増発)。
準急料金を取るに相応しい居住性を持つキハ55系を使用した待望の高速優等列車が、新潟県内にもようやく姿を見せました。
昭和35年
11月:「あさひ」(新潟-仙台間米坂線経由、キハ55系気動車)運行開始。
「あがの」「あさひ」の運行開始で、県都新潟と隣接東北各県の主要都市を直接結ぶラインが構築されたのです。
しかし新潟県内主要都市・地域を結ぶ優等列車は未整備のまま。
急行「日本海」や「越路」が使えないわけではないですけれど、これら急行は慢性的に混雑している上に、料金的に気軽に乗れる存在では無いので県内の用務・観光で簡単に使える存在ではありません。

昭和36年10月のダイヤ白紙大改正では、新潟県内もようやく速達優等列車の恩恵にあずかれるようになります。
この改正では県内初の特急列車「白鳥」(大阪-青森・上野間、キハ80系)が運行を開始。
新潟県内を走る定期急行列車の愛称がまだ両手で数えられる時代に、県内を東西に縦断する特急列車が誕生したのです。
一方、急行列車では「きたぐに」(新潟-大阪間)が運行を開始。
使用する車両は最新鋭のキハ58系です。
準急列車では「よねやま」「あさま」(新潟-長野間、キハ55系気動車)が運行を開始。
これでようやく、新潟・長岡・上越地区の新潟県内三大都市圏を結ぶ速達列車が実質的に実現されたのです。

この時点で新潟県内で運行される定期急行列車は、
「佐渡」「越路」(新潟-上野間、客車列車) 
「北陸」(上野-金沢間、長岡経由、客車夜行列車) 
「羽黒」(上野-秋田間、新津経由、夜行客車列車) 
「日本海」(大阪-青森間、昼夜行客車列車) 
「きたぐに」(新潟-金沢間、キハ58系気動車) 
計六往復、一日当たり県内走行延べ営業キロ数は合計約2400kmです。

続きはまた。

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