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2016年3月の記事

2016年3月28日 (月)

ヤマト帰還後の地球防衛の第一段階・大口径陽電子衝撃砲と反物質弾頭型誘導弾

前回「ヤマト2199の世界観における地球製波動機関実用化までに要する期間について」では、「宇宙戦艦ヤマト2199」の世界に立脚してで地球製波動機関開発のタイムスケジュールを試験艦完成(2003年)、実戦用艦艇完成(2206年)、機動打撃用の「太陽系第一外周艦隊」配備(2210年)と設定してみました。
今回は波動機関搭載艦で編成される艦隊配備までの間の、地球の防衛力整備の流れを考えてみようと思います。

「ヤマト」の成功によって九死に一生を得た地球人類にとって、短期的に見て最大の脅威は、ガミラス反乱軍の太陽系襲来と遊星爆弾や惑星間弾道弾による地球攻撃であると前回述べておきました。
そしてそれを完全に阻止するには太陽系外縁で彼らを撃破可能な艦隊整備が必要であること。
しかしそれには地球製波動コアの開発が不可欠であり、それには時間がかかること。
となると、当面の地球防衛は波動機関を抜きにして考えなければなりません。
防衛ラインに関しては、かつてのように冥王星宙域まで押し出す事はあまりに無謀な話なのでこれを却下。
新型空間魚雷や三式弾といったガミラス艦に有効な兵器を手中にしたとはいえ、真の主力兵器であるべき陽電子衝撃砲は、それを主力兵器たらしめる連射性能を得る為のエネルギーを供給可能な波動機関が実用出来ない限り、相変わらず「決戦兵器」に留まっています。
波動機関の存在無くしては、「ヤマト」の波動砲のような使い方しか出来ず、しかも威力はおそらく敵重巡を撃破できるレベルの、極めて貧弱な「決戦兵器」でしかありません。
防御力もまたしかりで、ガミラス軍艦艇が用いるミゴヴェザー・コ-ティングに必要なエネルギーでさえ、従来のコスモタービン機関では満足に供給できないでしょう。
従来のコスモタービン機関に依存する限り、この状況に変化は無いのです。
こんな状態で太陽系外縁まで進出可能な艦隊を再建したところで、所詮「前よりは多少マシ」な程度です。

よって本格的な宇宙艦隊の再建は当面諦めて、内惑星宙域で遊星爆弾や惑星間弾道弾を有効に迎撃できる能力獲得と、敵威力偵察部隊の地球近傍への侵入に対処出来る最低限の戦力を保持すること、これが「ヤマト」帰還後の地球防衛の第一ステップとなるのです。

遊星爆弾や惑星間弾道弾の迎撃については、まず可及的速やかに月面基地を再建して、コスモレーダーを用いた高精度の早期警戒/要撃システムを構築。
システムと連動する大口径の陽電子衝撃砲と反物質弾頭を搭載した空間超重魚雷の発射設備を持つ迎撃要塞を複数設置します。
「ヤマト」の主砲をも上回る規模の大口径陽電子衝撃砲は効率を度外視して、複数の大出力コスモタービンによって得られるエネルギーによって起動・発射され、遊星爆弾の軌道を地球から逸らす事が目的です。
地球から離れた宙域で迎撃できるのならば、威力のより小さな衝撃砲でも目標の軌道を逸らすことが可能でしょう。
僅かでも逸らすことが出来れば、地球圏に到達する頃には軌道のずれは大きくなっています。
しかし地球に接近した遊星爆弾の軌道を確実に逸らすには、相当なパワーが必要なのです。

一方、反物質弾頭搭載の空間超重魚雷は、目標を完全に破壊する事が目標です。
水星と太陽近傍に設置された反物質製造工場で、太陽エネルルギーによって得られる莫大な電力を使って反物質を生産し、超大型の空間魚雷の弾頭として用いるのです。
ここで私的設定として、ガミラス戦中盤に二種類の反物質兵器開発が企図された事にしておきます。
一つは地球地下の最重要地点に落着する遊星爆弾や惑星間弾道弾を完全に破壊消滅させる為の大型迎撃兵器。
もう一つは陽電子衝撃砲と並ぶ、対艦戦闘の切り札としてのより小型の戦術兵器「空間重魚雷」です。
従来の空間魚雷では敵艦のミゴヴェザー・コ-ティングによって威力が無効化されてしまうので、弾頭の威力を大幅に増して力づくで敵艦を殴りつけてやろうという発想です。
しかしこれらは、反物質の生産効率がそもそも著しく低いのが開発の隘路になってしまいます。
また前者については配備を想定した月面の迎撃拠点が敵の攻撃で次々と無力化されてしまい、かと言って地球本土に配備したのでは威力が大きすぎる為に、破壊は出来たものの肝心の守るべきものも巻き添えにしてしまう「味方殺し」の危険性が高い為に、計画は断念されます。
戦術兵器としての「空間重魚雷」はその後も開発が進められて、実際に仮制式化されます。
しかし大型迎撃兵器よりは小ぶりといっても、従来の空間魚雷の数倍以上の大きさです。
反物質弾頭そのものは小型であっても、不安定な弾頭を安定させる保護システムは相当の重量・容積が必要なのです。
加えて最低でも従来の空間魚雷と同程度の機動性を持たせるとなると、魚雷は相当な大きさになってしまいます。
その規模は突撃駆逐艦が艦底にぶら下げている、航続距離延伸用の増槽と同じ。
従来の空間魚雷並みの宙走性能では、戦艦や巡洋艦が腰ダメで投射しても敵艦を反物質弾頭の必殺半径に捉える事は困難な為に、確実に戦果を挙げるためには敵の機動に追随出来る性能を持つ突撃駆逐艦への装備が必要になります。
しかし突撃駆逐艦に空間重魚雷を搭載する事は増槽とのバーターであり、これを搭載する事でフネの航続性能を著しく低下させてしまう為に、メ号作戦のような深宙域での戦闘には使えないのです。
仮に突撃駆逐艦の推進剤搭載容量を艦5、増槽各2.5の比率とした場合、反物質弾頭型魚雷を一発、増槽一本を搭載した戦闘航海での進出限界は天王星宙域になります。
撃破確率を高める為に駆逐艦の搭載余力ギリギリの二発搭載(増槽無し)の場合は、土星の公転軌道を少し越える辺りが限界です。
結局、この「空間重魚雷」は搭載する突撃駆逐艦の航続性能上の問題から、ガミラス戦末期の深宇宙での戦闘に用いる機会を逸し、ガミラス軍が地球本土に侵攻した際の阻止火力の切り札として温存される事になりましたけれど、戦争末期に通常弾頭でも敵艦に直接打撃を与えられる新型魚雷が開発され、それが量産されるに及んで急速にその価値を失います。

ガミラス戦後、戦術兵器としての反物質弾頭はコストパフォーマンスの悪さから廃棄された一方で、敵戦略兵器迎撃用としての反物質弾頭には再び目が向けられることになります。
月面要塞に設置される大口径陽電子衝撃砲では迎撃ポイントが地球に近すぎるが故に、相手の軌道を逸らしきれない可能性がある為です。
逸らしきれなかった目標は、完全に破壊しなけれはなりません。
破壊しきれずにバラバラになった物体が地球上の広範囲に降り注ぎ、大被害をもたらしかねないからです。
しかし通常弾頭の誘導弾では威力に限りがあり、巨大な物体を完全に破壊するのは不可能。
その為、迎撃誘導弾の弾頭は目標を完全に破壊消滅させるだけの威力が求められ、「ヤマト」の波動砲が封印されている現状で、それを達成出来るのは反物質弾頭だけなのです。
幸い、こちらの手元には無用の長物と化した「空間重魚雷」の弾頭がありますから、これを再利用して大威力の反物質弾頭型迎撃誘導弾を早急に開発して、月面要塞の堅固な地下サイロに配備するのです。
弾頭は「空間重魚雷」のそれをそのまま活用して、迎撃誘導弾一発に複数の弾頭を搭載するか、再加工して単一の強力な弾頭に仕立て直すかのいずれか。
誘導弾本体は可及的速やかな配備の為に既存の技術を使って高性能は望まず、高速の物体に追いつくための高加速性を最重点に設計。
迎撃目標は、第一に大口径陽電子衝撃砲では軌道を逸らすことが最初から不可能と判断された大型の遊星爆弾や惑星間弾道弾、第二に大口径陽電子衝撃砲が軌道を逸らしそこねた物体です。

これら二種類の迎撃手段によって、同時に数発程度の敵戦略攻撃に充分対処できる能力を、出来れば「ヤマト」帰還後の一年以内に獲得しなければならないでしょう。

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2016年3月27日 (日)

ヤマト2199の世界観における地球製波動機関実用化までに要する期間について

「宇宙戦艦ヤマト2199」続編のタイムスケールについてその2です。

宇宙戦艦ヤマト帰還後に地球人類が成すべき第一の課題は地球再生で、
前回の「コスモリバースシステムと地球復活のタイムスケールについて」では、それは相当長期間に渡る事業であると推論してみました。
第二の課題は地球の防衛力再建です。
「ヤマト」からの報告によって、国連宇宙軍司令部は次の三点を確認できるでしょう。
第一に、デスラー独裁体制崩壊後の新生ガミラス国家が地球と敵対する可能性は激減したこと。
第二に、亡きデスラー総統にあくまで忠誠を誓い本国の指揮下から離脱した一部のガミラス軍が、デスラー体制崩壊の引き金を引いた「ヤマト」を擁する地球に対する復讐戦を企てる可能性。
第三に、ガミラスもその実態を把握出来ていない正体不明の軍事勢力「ガトランティス」の地球侵略の可能性。
第二の点は、「ヤマト」がイスカンダルからの帰途にバラン星宙域で実際に反乱分子とおぼしきガミラス艦隊の襲撃を受けていること、そして銀河系内に例え少数ではあっても、バラン星と太陽系間の中継拠点確保の為にガミラス軍が進出している可能性と彼らの行動を予測するだけの情報を地球人類が持っていないことなどから、短期的且つ必然性の高い脅威と考えておかねばならないでしょう。
第三の点については、外宇宙から銀河系への速やかな進出に必要不可欠な亜空間ネットワークをガミラスが握っていることから、「ガトランティス」としてはまずガミラスを打倒して亜空間ネットワークを手中に収める必要がありますが、これはそう簡単に出来る事ではないでしょう。
つまり地球人類を破滅の淵に追い詰めたガミラスが、次なる脅威に対しては防波堤の役割を果たしてくれるというわけです。
よって「ガトランティス」の大軍が太陽系に襲来することは長期的、理論的に考えられる脅威ではありますけれど、短期的にはその恐れ無し、中期的には精々偵察部隊の侵入程度ではないかと思われます。

この状況判断に沿って考えるならば、地球にとって当面最大の脅威は、反乱ガミラス軍が再び太陽系の外惑星に根拠地を築いて、地球人類に対する復讐及び地球を手中にして祖国を追われた彼らの新天地とすべく、遊星爆弾や惑星間弾道弾による地球攻撃を再開することです。
足掛け9年に渡るガミラスとの戦いで、地球の人口は激減していると思われます。
そこに再度あのような攻撃を受けたら、今度こそ人類は滅亡するかもしれません。
それを阻止するのに最も効果的な方策は、防衛ラインを拡大して太陽系内の制宙権を地球人類が掌握してしまうことです。
侵入する敵艦隊を太陽系外縁で撃破してしまえば、太陽系内に根拠地を築かれることもなく遊星爆弾攻撃の心配をする必要も無い。
しかしそれを実現するには地球製波動機関の実用化が必要不可欠です。
これなくしては、砲塔式の陽電子衝撃砲多数を搭載して高速機動が可能な、ガミラス戦闘艦と互角に戦える航宙戦闘艦で編成される宇宙艦隊の実現など夢想にしか過ぎないのです。
ここで大きな問題になるのは、波動機関に必要な地球製波動コアの開発と量産に一体どの程度の時間が必要なのかという点。
イスカンダルからの最初の使者ユリーシャは、波動コアの技術を人類に提供してはくれませんでした。
それについて考えられる可能性は二つ。
一つ目は、波動コアが西暦2198年当時の地球人類の理解を遥かに超える代物で、
開発は不可能に近いこと。
この場合、この先を論じることは出来ません。
ガミラスに匹敵する強大な侵略者が襲来したら、今度こそ地球人類は絶滅する他なし。
二つ目は、技術を供与するか現物の解析にある程度の時間をかければ地球人類でも開発可能ではあるが、イスカンダル訪問用の宇宙船出航までの限られた時間内では無理であったということ。

第一の可能性に立てばこれでお話はオシマイになってしまいますから、この先は第二の可能性に立って論じます。
波動コアが地球人類の技術力でも開発は可能(ただしガミラスの例を見ても、「ヤマト」の波動炉心に装填されたイスカンダル純正コアよりも能力はかなり劣ると考えなければならないでしょう)であったとして、開発に必要な時間設定を地球の技術史に当てはめて考えた場合、参考になりそうなのは核分裂反応の原子炉への応用です。
核分裂の爆発的反応を応用したのが原子爆弾で、その実用化は1945年。
核分裂反応を制御して動力として使用可能にした原子炉を搭載した最初の軍艦である米海軍潜水艦「ノーチラス」の完成が1954年。
完全に実戦仕様の米海軍原潜第一号「スケート」完成が1957年末。
世界初の原子力推進水上戦闘艦である巡洋艦「ロングビーチ」と空母「エンタープライズ」の完成が1961年。
波動砲の実用化(2199年)を原子爆弾の実用化に擬えれば、地球製波動コアを搭載する最初の試験艦が完成するのは西暦2208年になります。
実戦仕様の航宙艦一番艦の完成は2211年です。
波動機関搭載艦のみで構成された最初の艦隊が編成完結するのは、2216年頃になるでしょう。
ただこれだとヤマト帰還から16年後の話になって、古代や島たちを縦横無尽に動かすには少々歳をとり過ぎかも。
リアルな時間設定ではあっても、作劇上はちょっとマズいかもしれません。

核分裂反応の応用と地球製波動機関の開発を比較して最も異なる点は、後者は既に機関本体を入手済みで、「ヤマト」の航海を通して機関についての知識知見も相当程度深まっているという点です。
手探りで艦艇搭載用原子炉を開発した史実とは、開発開始時点でのノウハウの蓄積が大きく違うのです。
従ってこの点でタイムスケジュールを縮小できると考えると、地球製波動コアを装備した試験艦の完成は2203年頃。
入念なテスト期間を経て、量産型波動機関を搭載した巡洋艦の一番艦完成が2206年頃。
戦艦や空母といった大型艦艇の一番艦完成が2209年頃。
戦艦や空母を有して、太陽系外縁での機動打撃任務を担う「太陽系第一外周艦隊」の実戦配備は2210年頃。
これだと「ヤマト」帰還から約十年で、古代や島たちは30そこそこ。
イスカンダル遠征の功績によって、帰還後は戦時任官解除即二階級特進で一尉に昇進。
その後約十年あれば、その時点でも地球最強の戦艦であろう「ヤマト」の戦術長や航海長、副長(艦長代理)に真に相応しい階級(二佐)まで昇進していてもおかしくはないでしょう。
若さを維持しつつ階級が立場に追いついて、作劇的には丁度良い感じかもしれません。

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2016年3月26日 (土)

コスモリバースシステムと地球復活のタイムスケールについて

ども。
今年で地上波放送開始三周年を迎えた「宇宙戦艦ヤマト2199」。
その続編が「さらば宇宙戦艦ヤマト/宇宙戦艦ヤマト2」のストーリーラインで製作されることが昨年7月にファンクラブ会報誌で発表されてから八ヶ月経過し、近日中に正式な製作発表が行われるのではという噂もあって、ヤマトフリークな私としては、四年前同様に目の離せない一年になりそうです。
作品公開は前作同様に、おそらくは劇場公開から始めるのでしょうけれど、残念ながら我が新潟の地ではやらないでしょうなぁ。
アニメだマンガだと騒ぐ土地柄なんですけど、そのベクトルは「萌え」に向っているので、ヤマトのような作品はあまり興味が無いんでしょうね。

閑話休題。
続編を製作するに当たっては、極力ご都合主義は廃してもらいたいところ。
前作のように「ヤマト」帰還後たったの一年で、地球があれほど復興して波動砲装備の戦艦が40隻近く就役しているとか、そういうムチャクチャな話はやめていただきたい。
話のタイムスケールを、もっとリアルな肉付けで設定していただきたいものです。

リアルな肉付けのタイムスケールの話となると、真っ先に触れておかねばならないのが地球再生の件です。
ヤマトがイスカンダルから供与された「コスモリバースシステム」は、その星の知的生命体の記憶を元にして惑星自らが記憶しているエレメントを解き放ち、その惑星を本来あるべき姿に戻すというものであると私は理解しています。
システムが発動すれば、おそらく生命無きものについてはそれこそ「天地創造」もかくやと思われる物凄い規模と速度で復元再生されて、地球にとっての異物である敵性植物とその毒素は跡形も無く浄化消滅するでしょう。
生命についても、魂の無いモノ、つまり「明確な自我をもたないもの」「本能のみで生きるもの」については、これまたあっという間に復元再生されるのではないかと思います。
そういったいきものは、例えは適切でないかもしれませんが「地球の生命体としてデフォルトな存在」で、地球の持つ記憶で再現出来るのです。
それは細菌や微生物に始まって植物、昆虫、両生類、爬虫類、原始的な哺乳類や鳥類です。
しかしそれ以上の動物についてはどうなのか?
本能以上のもの=魂を持つ動物は、それぞれが宇宙の広さに匹敵するような奥深い内面があると考えてみます。
そしてその広大無辺さと奥深さを持つ無数の魂は、コスモリバースシステムの核となった沖田十三という人間の記憶のレベルも、地球の記憶のレベルも遥かに超えていて再現不可能ではなかろうかと。
それは魂を持ついきものが、いかに尊い存在であるかの証でもあるのですけれど。
この持論に沿えば、複雑極まる自我を持つ人類の復元再生はおそらく無理、高等霊長類やイルカ、クジラといった高度な海棲哺乳類も多分無理、犬猫レベルでもそれぞれ個性を持ち時として利他的な行動を取りますから、彼らも魂持つものとして無理ではないでしょうか。
鳥類でもカラスあたりは犬猫と同レベルでこれまた無理かも。
そうなると、青く美しい姿を取り戻した地球の生態系は、極めて歪なものになります。
生態系の上位に君臨する捕食動物の大半と中位の草食動物の相当数が欠落しているのですから。
おそらくというかまず間違いなく、動植物の個体やDNAは地下都市に避難保管されているでしょう。
したがって地球の生態系を完全に復元するには、魂ある動物を地上に放ち、またクローン繁殖させて生殖に問題のない個体は順次地上に放つことを、相当な期間に渡って継続することになります。
これは未来の技術をもってしても、数百年がかりの長期計画になるのです。
本当の意味で地球がガミラス戦以前の姿に戻るのは、西暦3000年を迎える頃なのかもしれません。

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2016年3月24日 (木)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その五

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四」の続きです。
今回は国鉄最末期からJR発足、そして終焉までの最後の話です。

昭和60年3月ダイヤ改正では、これまで乗り換えの不便さに対応して暫定措置で存置されていた上越急行「佐渡」「よねやま」が全廃。
寝台急行「天の川」は輸送体系の変化を理由に廃止されてしまいます。
大宮止まりとはいえ新幹線が開業していた当時、新潟-上野間の寝台需要がどれほどあったかはやや疑問ではあるものの、昭和20年代半ばから設定されていた対東京の定期夜行列車が全廃されたのは、衝撃的な話でした。
その結果、夜行需要は高速バスにシフトして、その需要の多さに慌てた当局が夜行快速「ムーンライト」を走らせるという展開になるのですが、それはもう少し後の話です。
「べにばな」は山形で分断され、新潟-山形間の気動車急行として存続。
「赤倉」は長野で分断されて、新潟-長野間の「南越後」として再出発。
「南越後」はグリーン車を連結しません。
これによって、新潟県内から165系電車のグリーン車が、いや急行型車両のグリーン車が姿を消したのです。
伝統ある幹線昼行急行の、事実上の終焉と言える出来事です。
後に残された昼行急行は、全席自由席のかつての準急的存在に過ぎないのです。
・・・しかし「南越後」って、センスのかけらもないネーミングだなぁ。
当時から呆れてました。
素直に「とがくし」に統一すればいいのにと。
一応、「とがくし」は長野から上田まで、「南越後」は長野から松本まで普通列車として運転するゆえの差別化らしいのです。
でも新潟県内から普通列車区間まで乗り通す人がそんなに多いとも思えないですから、失笑モノの愛称をあえて付けることも無かったのにと思うのですよ。
前身の急行「日本海」以来、客車で運行されてきた「きたぐに」は、14系客車から583系電車に衣替え。
まさか新潟駅で、毎日583系を見れる時代がこようとは。
特急「白鳥」や上野発着時代の「青森いなほ」が583系化されなかったことで、新潟の地でこの電車が定期運行されるなんて諦めていたのですよ。
この話を聞いた時は、「きたぐに」と特急「雷鳥」で昼夜兼行運用、もしくは「きたぐに」の間合いで「いなほ」の一部を583系化するんじゃないかとか、妄想を逞しくしたものです。
結果は全てハズレだったわけですけど。

「佐渡」「よねやま」「天の川」廃止による新潟県内急行列車と一日当たり延べ県内走行営業キロは下記の通りです。
「きたぐに」(新潟-大阪間夜行、583系電車)。
「能登」(上野-金沢間夜行長野経由、14系客車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、長野-上田間普通列車、165系電車)。
「南越後」(新潟-長野間、長野-松本間普通列車、165系電車)。
「べにばな」二往復(新潟-山形間、キハ58系)。
「野沢」(長野-長岡間、キハ58系)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)。
計9往復、約2,100km。
ちなみに特急は25往復、約7,600km。

昭和61年11月の、国鉄最後のダイヤ改正は約半年後のJR移行を踏まえたもので、急行史的には過疎路線のローカル急行群に最後の一撃が加えられたものでした。
新潟県内では、飯山線の「野沢」と只見線の「奥只見」が廃止。
「野沢」にはこの時期、長野-長岡間と十日町-長岡間に乗車した事があります。
前者は長野出発時で五割ほどの乗り具合で、十日町で大量下車。
後者はガラ空きの車中の人になりましたっけ。
共に夏休み中でしたけど、繁忙期にこれではなぁと、急行愛好の私でも廃止は致し方無しの印象を強く持ったものです。

昭和62年4月1日のJR発足にはこの陣容で望み、JR最初のダイヤ改正(昭和63年3月)wでは、「とがくし」と「南越後」が統合されて、「赤倉」三往復として再出発。
愛称的にはこれですっきりして、車両にも夜行快速「ムーンライト」用のグレードアップ車が間合いで入るようになります。

それから平成に入って三年間は、新潟県内急行列車は不動のまま過ごします。
そして平成3年3月ダイヤ改正では、「赤倉」三往復中一往復が、車両はそのままで越後線経由の快速「やひこ」に格下げ。
この「やひこ」には平成4年5月に全区間乗車したことがあります。
京都へ一人傷心旅行をした後、帰路は大阪から客車急行「ちくま」のB寝台で長野まで。
この時は、列車寝台で一晩過ごすこと、そして急行列車に乗るのがこれで最後だとは思いませんでしたねぇ・・・。
早朝に長野に到着して、「やひこ」に乗り継いで新潟まで。
「やひこ」はグレードアップ車で快適、直江津から乗客が増えて越後線に入る頃は満席でした。
越後線内は停車駅が少なく、柏崎-吉田間は確か無停車。
規格の良くない越後線内でトバしてみたところで、速達化はたかが知れてます。
揺れも激しかったし。
「やひこ」は短命で、平成5年12月に廃止されてしまうのですが、越後線内の停車駅を増やしたら、もう少しは潜在需要を掘り起こすきっかけになったんじゃないのかなぁと。
出雲崎や寺泊、分水と県都新潟の間は高速バスも無く、越後線も過疎ダイヤでクルマ以外では行き来に不便なのです。
閑話休題、
同輩の「あがの」が上越新幹線上野開業に伴って、あっさり快速に格下げされてしまったのに対し、山形止まりになりながらも急行として健在ぶりを示していた「べにばな」。
この列車は山形新幹線運行に伴う奥羽本線の改軌工事の影響で、平成3年8月に米沢止まりの上で快速に格下げされてしまいます。
「べにばな」の愛称は現在も残っているものの、一往復に減便されて肝心の快速運転も新潟-坂町間のみ。
「べにばな」には羽越、米坂界隈への駅取材で何度も乗っていますが、朝の新潟発は坂町までに多くが下車してしまい、米坂線内まで行く乗客は半分ぐらいの印象。
夜の新潟行はガラガラでした。
曜日や時期によって乗り具合は異なるのてしょうけれど、「あがの」の乗りが堅調な感じなのに比べて「べにばな」は、坂町で切ってしまっても構わないのではと思うのです。
朝の新潟発の場合は直前に「いなほ」が先発していますから、「べにばな」を米坂線内の普通列車に格下げしても、ダイヤは弄らなくて済むのです。

平成5年3月改正では、14系客車で運転されていた「能登」が489系電車に更新されて、寝台車の連結を終了。
これで新潟県内から毎日運転の客車列車が姿を消すことになりました。

平成9年10月の長野新幹線開業に伴うダイヤ改正では、昭和30年代後半の都市間準急をルーツに持つ新潟県内最後の昼行急行「赤倉」が特急「みのり」に格上げ。
県内昼行急行史の終了であり、また国鉄~JRの急行型電車優等列車史の終焉でもありました。
グリーン車の座席を装備したグレードアップ車に、「やひこ」廃止後は車両運用に余裕が出来たことで当たる率が高かった「赤倉」を、座席のレベルは落ちて料金は倍近く値上がりして、スピードアップも微々たるものの「みのり」へ格上げしたのは、単なる値上げと嫌われて低迷。
年を追うごとに削減が行われ、平成14年12月には快速「くびき野」に格下げされてしまいました。
「くびき野」は、特急型車両に料金無しで乗れてスピードも特急「北越」と大差は無く、運行時間帯の良さもあって盛況でした。
当初は四連だったのを、数年で「北越」と同じ六連に増強。
半室グリーン席や指定席車を連結して、自由席の座席カバーが無いのを除けば「北越」と大差無い、掛け値無しに乗り得な列車になったのです。
「くひき野」、特に夕方に新井を出発する5号は、上越方面の駅取材の帰りの足として私の愛用列車でした。
自由席のみの時代は直江津からだと座れるかどうかわからず、新井までわざわざ出て座席を確保したものです。
指定席車が付いてからはもっぱらこちらを愛用。
平成27年3月ダイヤ改正まで発売されていた新潟対上越地区の特急自由席往復割引きっぷ「えちご往復きっぷ」では「くびき野」の指定席には乗れないこともあってか、「くびき野」の指定席はいつも空いていました。
三連休の最終日に乗っても、自由席がすし詰めなのに対して指定席は50%程度のほど良い乗り具合。
500円ちょっと払えば余裕で座れるのにと、不思議でしたなぁ。
一般の人は「指定席」と聞くと、ちょっと構えてしまって小額でも心理的抵抗があるにしても、勿体ない話です。
18きっぷ期間外の通常の土日はガラガラで、乗客は新潟に着くまで私ひとりきりという事も何度かありましたっけ。
そんな「くびき野」も平成27年3月改正で廃止。
どうやら当局は、高速バスと張り合うのを止めて薄利多売も止めることにしたようです。
特急自由席割引きっぷも一気に五割アップで、それまでは乗れた上越新幹線・新潟-長岡間も乗車禁止、では「北越」の仕切り直しの「しらゆき」の本数を増やすのかと言えば、「北越」時代の五往復はそのまま維持。
いなかもんはこげんぐらいでちょうどよか、お上の言うこと黙って聞いとりゃエエンじゃとナメられているようで、実に不愉快な展開なのです。

またまた閑話休題、
「赤倉」廃止で、新潟県内に残る急行列車は「きたぐに」と、碓氷越え廃止に伴って長岡経由に変更された「能登」の二往復のみ。
とは言っても、この頃には全国で急行列車の廃止がいよいよ深度化していたので、夜行二往復が通るというのは最も恵まれていた方なのです。
以後、12年半に渡ってこの体制が続くことになります。
しかしこの間も急行列車の退潮は大きく進んで、平成20年3月には寝台急行「銀河」廃止で寝台急行史の終了、21年3月には気動車急行「つやま」廃止で国鉄~JRの定期昼行急行史の最後のページが閉じられました。

平成22年3月ダイヤ改正では「能登」が臨時列車に格下げ。
繁忙期を中心に暫く運行を続けましたが、平成24年2月をもって事実上の廃止。
そして平成24年3月、ついに「きたぐに」が臨時列車化。
新潟県内定期急行史はついに完結の日を迎えました。
臨時「きたぐに」は翌年1月の年始運行を最後に廃止されて、急行列車という種別そのものが新潟県内からは消滅しました。
「きたぐに」廃止後もしばらくは停車各駅では乗車位置表示板が残っていて、駅取材でそれらを見ては、感傷に浸ったものです。
JR東日本新潟支社では発券が面倒だからなのか臨時急行を設定する気が全く無いようで、特急型車両を使用する臨時列車は快速扱いです。
今後も県内で急行列車が走る事はおそらく無いでしょう。

幼い頃に目を輝かせて乗った懐かしい日々・・・、「佐渡」の冷房のよく効いた車中に驚いたあの日、「しらゆき」の混雑に閉口したあの日、お盆の真っ最中に「佐渡」に乗って、スシ詰めの大人たちの間に滑り込んで泣きたくなるほど辛かったあの日、「きたぐに」の快適な車内にご満悦だった亡き母の笑顔、冷房の無い真夏の「赤倉」で窓を全開にして日本海に目を見張ったあの日、「羽越」の車内の汚さに呆れたあの日。
さらばみなさらば。

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2016年3月23日 (水)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その四

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三」の続きです。
今回は衰亡の一途を辿る、国鉄末期の新潟県内急行列車についての話です。

昭和51年9月ダイヤ改正では、それまで10系寝台車で運転されていた寝台急行「天の川」が待望の20系客車化を実施します。
20系客車の急行転用は、同年2月の「銀河」(東京-大阪間)に次ぐもので、「天の川」と同時に「新星」(上野-仙台間)も20系寝台急行に生まれ変わっています。
この改正後でも特急「あさかぜ」二往復、「瀬戸」、「安芸」、「北陸」、「北星」、「あけぼの」二往復が20系で運用されているので、「天の川」が急行のまま20系化されたのは画期的な事だったのです。
これまで運用されていた、コイルバネでよく揺れる、戦前の三等寝台車スハネ30以来の詰め込み式設計の10系寝台車に対して、一部の寝台特急でまだ運用されている、静粛で乗り心地もよく、天井も高くて心理的圧迫感の小さい20系とでは、それこそ月とスッポン。
同じ区間を並走する10系寝台車の「鳥海」とは大差があったでしょう。
鉄道ジャーナルの「鳥海」列車追跡記事には、揺れる、うるさいと最低な状態のA寝台車オロネ10の状態が書かれていましたっけ。
私は20系B寝台車には一度だけ乗車の機会があって、JRに移行後、20系もそろそろ引退という話が出てきた頃の臨時「ざおう」で上野から山形まで体験乗車しました。
既に24系25形の二段式B寝台には何度か乗っていたので、52cm幅の三段ベッドを見た時は、乗り合わせた私よりやや年上の青年氏と「狭いねぇ」と苦笑し合ったものです。
しかし相当の経年であるにも関わらず、揺れは思いの他小さくて驚いた記憶がありまなぁ。
その少し前に「銀河」に乗った時は、静岡浜松あたりで大揺れになって、すわ東海地震かと恐怖心を覚えたのが強烈な印象として残っていたので、臨時「ざおう」の乗り心地のよさは一層良く思えたのです。
狭いベッドも、横になれば特に問題無し。
私には閉所恐怖症の気は全然無いので、ああいうのは平気なのです。
閑話休題、
急行寝台車のテコ入れとしては当時最高のカードが20系への置き換えだったわけですけど、固定編成で寝台車オンリーの20系は、そのままでは「天の川」のような寝台専用列車に限定されてしまいます。
座席車が少なくてもよいのなら、「十和田」や「だいせん」のように余剰A寝台車を座席車化すれば良いのですけれど、座席車と混結で且つ座席車の比率が高い列車にはこの手も使えません。
そこで次善の策として期待されたのが、余剰20系を12系座席車と混結出来るように電気系統を改造する事でした。
ただこれはコストパフォーマンス的にあまり芳しくない結果だったようで、西日本地区の夜行急行に限定されています。
座席車を12系に更新していて、且つ東北・上越新幹線開業に直接の影響を受けない「きたぐに」「津軽」あたりは、この方式に変えてもよかった気もしますけど。
その後の特に関西対九州の寝台特急の低迷で近い将来の整理が必要になって、14系客車に余剰が出る見込みになったのも、20系の12系混結改造に影響しているのかもしれませんね。

昭和53年10月のダイヤ改正では、新潟-大阪間の昼行気動車急行「越後」が特急「雷鳥」に格上げされます。
新潟県内を走る長距離気動車急行には他に「しらゆき」「赤倉」がありますが、これらは列車の使命が二区間に大きく分かれています。
「しらゆき」なら金沢・富山-新潟、新潟-秋田・青森、「赤倉」なら新潟-長野、長野・松本-名古屋です。
一方「越後」は、新潟-大阪間に特急「北越」が設定されていることから見て、その需要のメインは新潟-関西間の直通旅客であったと思われます。
つまり「しらゆき」「赤倉」よりも長距離旅客の割合は高かったと推察され、時代遅れになりつつあった気動車急行はいかに安価な料金とはいえ、その任には最早耐えられないスピードと居住性だったと申せましょう。
特急に格上げされたのも、単に国鉄の増収策だけではない旅客側の事情もあったのではないかと。
ともあれ、「越後」が無くなったことで新潟県内通過定期急行列車は一往復減の28往復。
一日当たり延べ走行営業キロ数は約7,500kmに減じました。
特急は同改正でさらに増発が実施されて、32往復、約11,100kmになっています。

昭和55年10月ダイヤ改正では特急・急行共にこの状況に変化はありません。
ちなみにこの段階でグリーン車を2両連結していたのは「佐渡」「よねやま」「赤倉」「妙高」。
「赤倉」は全国唯一のグリーン車2両の気動車急行です。
全国広しと言えども他には「伊豆」「東海」「信州」「アルプス」だけ。
かつては「特ロ」と「並ロ」を一両ずつ連結しているのが当然だった幹線筋の急行列車の面影を、新潟県内ではまだ見出すことが出来たのです。

そしてついに迎えた運命の日。
昭和57年11月の東北・上越新幹線大宮暫定開業に伴うダイヤ大改正です。
急行列車は大幅に整理されて下記の如き状況に。
「佐渡」夜行一往復を廃止、昼行一往復を季節列車化。
「妙高」二往復を特急「あさま」に格上げ。
「うおの」を快速に格下げ。
「しらゆき」を特急に格上げして「白鳥」に編入。
「羽越」を特急「いなほ」に格上げ。
「ひめかわ」を快速に格下げし、柏崎-青海間は廃止。
「いいで」を廃止。
「白馬」を廃止。
「あがの」の新潟-五泉間を快速に格下げ。
「鳥海」を寝台特急「出羽」に格上げ。
「越前」と「能登」を統合して長野経由の「能登」として一本化。
「きたぐに」の新潟-青森間を特急「いなほ」に格上げ。

残存する急行列車は「赤倉」をキハ58系気動車から165系電車に、「きたぐに」を12系客車&10系寝台車から14系客車に、「能登」を旧型客車&10系寝台車から14系客車にそれぞれ更新しています。
「赤倉」については、381系特急化の話があったと耳にしています。
しかし新潟-長野間のインフラを振り子対応にするにはカネがかかり過ぎるので、急行のまま存置だったとか。
しかし新潟-長野間は振り子をオフにしていてもいいんじゃないのと思うのです。
勾配区間は気息奄々で、編成をダブルエンジン車主体にせざるを得ない為に普通車の冷房化もままならず、平坦区間でも電車急行と同じダイヤにする為に停車駅を減らさざるを得ないキハ58系に比べれば、振り子を使わない381系でも40分程度のスピードアップは充分可能だったはずです。
またまた閑話休題、
「赤倉」の電車化と「いいで」の廃止によって、気動車のグリーン車は新潟県内の定期列車から姿を消しました。
また「きたぐに」「鳥海」「能登」「越前」に加えて奥羽本線の「津軽」の10系寝台車も連結を終了して、10系寝台車および旧型客車の定期急行運用はこれで終焉を迎えたのです。
10系寝台車はその後も普通夜行列車「山陰」「はやたま」「ながさき」で細々と余命を過ごし、最終的に昭和60年3月改正で「山陰」廃止によって全廃されています。

さてこの大改正の結果、新潟県内定期急行列車は、
「佐渡」二往復(新潟-上野間、165系電車)。
「よねやま」(直江津-上野間、165系電車)。
「天の川」(上野-秋田間、夜行20系客車)。
「赤倉」(新潟-名古屋間、165系電車)。
「とがくし」二往復(新潟-長野間、165系電車)。
「きたぐに」(新潟-大阪間、夜行14系客車)。
「能登」(上野-金沢間長野経由、夜行14系客車)。
「べにばな」二往復(新潟-仙台間、キハ58系気動車)。
「あがの」二往復(新潟-福島間、急行区間は五泉-郡山間、キハ58系気動車)。
「野沢」(長岡-長野間、キハ58系気動車)。
「奥只見」(小出-会津若松間、小出-浦佐間普通列車、キハ58系)
合計15往復、一日当たり県内走行延べ営業キロは約3,700km。
改正前の半分になってしまったのです。
越後線と大糸線から急行が全廃されたことなどで、新潟県内定期急行停車駅は改正前の55駅から13駅減の42駅になりました。
一方、特急も「とき」「はくたか」が全廃されるなど大きな影響を受けたものの、急行の格上げ等でドラスティックなものにはなっていません。
改正後は26往復で約8,500kmです。

「佐渡」「よねやま」「天の川」が生き残ったのは、上越新幹線が上野発着になるまでの暫定措置であり、この時点で先が見えてしまっています。
私が「佐渡」に最後に乗ったのもこの時期で、昭和59年の夏休みに新潟-上野間を片道乗車しました。
「佐渡」は新潟県内区間で度々乗っていたものの、全区間乗車は昭和57年夏と合わせて二回きり。
まだお盆前の八月初めでしたが、夏休みの真っ最中だというのに自由席の乗車率50%といったところで、快適には過ごせたものの急行時代の終わりを実感したものです。
新幹線開業直前の昭和57年夏のお盆前に上野-新潟間を利用した際は、立錐の余地無く満員で指定席もグリーン車も全て売り切れだったのに。
しかも熊谷あたりで起きた踏切事故の影響で二時間抑止というオマケ付き。

続きはまた次回。

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2016年3月21日 (月)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その三

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二」の続きです。
今回は昭和43年ダイヤ改正から昭和50年までの、新潟県内急行列車の絶頂期から黄昏を迎え始める時期の話です。

昭和43年10月の全国ダイヤ白紙大改正、通称ヨンサントオでは、新潟県内の急行列車体系がほぼ完成の域に達します。
日本海縦貫線関係では、
戦前から運行され、また新潟県内最古の愛称付き急行のひとつである「日本海」(大阪-青森間)は、新設される寝台特急(新潟県内初の寝台特急)に伝統ある愛称を譲って、「きたぐに」と改称されます。
一方、新潟-大阪間に運行されている同名の昼行キハ58系気動車急行は「越後」に改称。
信越本線関係では、
「くびき」が「よねやま」に統合されて、「よねやま」二往復体制になります。
(新潟-長野間、新潟-妙高高原間各一往復)
「よねやま」を初め、それまでキハ55系主体で運転されていたローカル気動車急行は、この頃には逐次キハ58系に更新されていったと思うのですけれど、明確な資料が無いのが残念です。
また新潟県内最後の準急「かくだ」が廃止され、「ひめかわ」はそれまで新潟-直江津間の「よねやま」との併結運転から単独運転に変更され、「かくだ」の代替として越後線経由になります(新潟-糸魚川間)。
上越線関係では、
夜行の「越路」が「佐渡」に編入されて、定期の「佐渡」は昼行五往復、夜行一往復になりました。
羽越本線関係では、
「羽越」が再度設定されて、新潟-秋田間に運行を開始しました。
また上野-秋田間の夜行急行「羽黒」は「鳥海」に編入されて、「鳥海」は昼行の気動車と夜行の客車の二往復体制になります。
その他では、新宿-糸魚川間の気動車急行「白馬」が「アルプス」に編入されて、「白馬」の愛称は一旦消滅しました。

この結果、新潟県内を走る定期急行列車と一日当たりの延べ県内走行営業キロ数は下記の通りになります。
営業キロ数は若干の計算間違いがあるかもしれないので、目安としてお考えください。
電車急行(165系)
「佐渡」六往復(新潟-上野間、昼行五往復、夜行一往復)、
「ゆざわ」一往復(新潟-小出間、小出-越後湯沢間普通列車)、
「妙高」二往復(直江津-上野間)。

気動車急行(キハ58系及びキハ55系)

「鳥海」一往復(上野-秋田間)、
「しらゆき」一往復(金沢-青森間)、
「越後」一往復(新潟-大阪間)、
「赤倉」一往復(新潟-名古屋間)、
「よねやま」二往復(新潟-妙高高原・長野間)、
「ひめかわ」一往復(新潟-糸魚川間、越後線経由)、
「いいで」一往復、(新潟-上野間、磐越西線経由)、
「あがの」二往復(新潟-福島間)、
「羽越」一往復(新潟-秋田間)、
「あさひ」二往復(新潟-仙台間)、
「うおの」一往復(新潟-越後川口間、越後川口-十日町間普通列車)、
「野沢」一往復(長岡-長野間)、
「アルプス」一往復(新宿-糸魚川間)。

客車急行
「きたぐに」一往復(大阪-青森間昼夜行)、
「鳥海」一往復(上野-秋田間夜行)、
「天の川」一往復(新潟-上野間夜行)、
「白山」一往復(金沢-上野間、昼行長野経由)、
「北陸」一往復(金沢-上野間夜行長岡経由)、
「越前」一往復(金沢-上野間夜行長野経由)。

新潟県内走行定期急行列車の一日当たり延べ走行営業キロ数合計約8,500km。

定期特急列車は「とき」三往復と「白鳥」「はくたか」「日本海」各一往復で、新潟県内一日当たり延べ走行営業キロ数は約2,200km。
急行列車が準急の格上げで本数、走行キロ共に増やしているのに対し、特急の増発はまだまだ微々たるものといえ、走行キロは急行列車の約25%に過ぎません。
この当時はローカル準急上がり以外の主要急行には冷房付きの一等車が連結されていて、主要幹線の急行には豪華に一等二両。
電車急行「佐渡」「妙高」には半室ビュッフェ、客車長距離急行「きたぐに」には、全国でも小数派になっている急行用食堂車が連結されて庶民の旅に彩りを添えていたのです。
私がハッキリと記憶している頃には、急行からこれらは消え去ってしまっていて、「とき」の181系食堂車も183系に編成を合わせる為に抜かれています。
「白鳥」「雷鳥」には食堂車が連結されていたものの、上越地方や北陸関西には親戚がいないので用事も無く乗る機会も無く、とうとう食堂車には足を踏み入れず仕舞いでしなぁ。

昭和44年
10月:
気動車特急「いなほ」(上野-秋田間)新設に伴い、昼行「鳥海」を季節列車に格下げ。
気動車急行「ひめかわ」の運転区間を延長して、新潟-青海間に変更。

昭和45年
10月:
信越本線全線電化完成に伴い、急行「よねやま」二往復を気動車から165系電車に変更し、運転区間を新潟-長野間に統一。

昭和46年
特記事項無し。

昭和47年
3月に山陽新幹線・新大阪-岡山間開業に伴うダイヤ改正が実施されました。
新潟県内急行列車の動きとしては、
新潟発着の寝台急行「天の川」を秋田まで延長して、上野-秋田間の運転に変更。
大阪-富山間に運行されていた寝台急行「つるぎ」を新潟まで延長して、大阪-新潟間の運転としました。
電車急行「よねやま」二往復を「とがくし」に改称。
電車急行「ゆざわ」を、特急「とき」増発と引き換えに廃止。
確か六日町、小出、小千谷の各駅に「とき」が停車を始めるのは、この頃だったと記憶しておりますけれど、アヤフヤなモノゆえ間違っていたらご容赦の程を。
前年から臨時列車として運行されていた金沢-松本間(大糸線経由・金沢-糸魚川間を「しらゆき」と併結)「白馬」一往復を定期列車に格上げ。
約三年半ぶりに「白馬」の愛称が、昔馴染みの大糸線に定期復活したのです。
客車昼行急行「白山」は電車特急に格上げ。
これによって、純然たる昼行客車急行は函館本線の「ニセコ」のみになりました。
ただし新潟県内では、「きたぐに」が新潟-青森間を座席車と食堂車の昼行編成で健在です。
そして迎えた10月、新潟県内では白新・羽越本線全線電化完成に伴うダイヤ改正で、急行と特急の勢力が逆転を始めるのです。
白新、羽越本線関連では、
特急「いなほ」の電車化と一往復増発に伴い、季節運転の昼行「鳥海」を廃止。
代替として「羽越」を一往復増発して二往復体制に。
しかし電化完成と掛け声は勇ましいものの、電車運転は特急「白鳥」「いなほ」のみ。
気動車列車は急行・普通共にそのまま存置で、客車列車と貨物列車の牽引機関車がD51形やDD51形からEF81形に代わっただけ。
交直流型急行電車が製造を終了し、他線区からの捻出転属も無いこと、非電化区間直通気動車急行との併結や車両運用の問題があるにせよ、気動車急行がそのままなのはこの線区によく乗った身としては、幼心にもガッカリでしたねぇ。
同じ急行料金を払っているのに、電車急行「佐渡」「よねやま」は乗り心地も良く普通車にも冷房が入っていました。
片や気動車の「しらゆき」「赤倉」「羽越」は煤けていて車内も乱雑としていて、乗り心地も悪く、グリーン車以外の冷房車は僅少。
気動車急行の普通車に冷房が無いのは、勾配線区が多くて編成をダブルエンジンのキハ58中心に組成せざるを得ず、冷房用電源を搭載できるシングルエンジンのキハ28をうまく組み込めない事、そして東京の本社のエラいさんが「北国に冷房はいらない」と北陸東北の冷房化に消極的だった事、普通車冷房化と編成出力向上を同時に賄えるキハ65が西日本限定にされた事などが挙げられます。
でも北陸だって東北だって、真夏は昔から蒸し暑いのですよ。
それなりにこの仕打ちですからね。
本社に権限が集中して、各管理局の要望に耳を傾けないんでしょうね。
もう30年以上昔の話ですけど、幼い頃に味わった不条理は生涯忘れないのですよ。
閑話休題、
上越線関連では、
一度は消滅した「よねやま」の愛称が、上野-直江津間(長岡経由)の電車急行一往復として復活。
ただしこれは純増ではなく、「佐渡」一往復を新潟発着から直江津発着に変更したものです。
この結果、定期「佐渡」は四往復になります。
ただ、資料では定期と季節運転を合わせて記されているので、定期運転については私の推定です。
ひょっとするとこの時点では定期五往復かもしれません。
日本海縦貫線関係では、
3月に新潟延長が成った「つるぎ」が寝台特急に格上げ。
そして新潟県内急行列車の最後の新設列車として、「奥只見」(小出-会津若松間、キハ58系)が運行を開始。

昭和47年10月改正時点では、急行30往復(電車9往復、気動車16往復、客車5往復)、一日当たり県内延べ走行営業キロ約7,900km。
これに対し特急は19往復、約6,200kmです。

昭和48年10月改正では特急は24往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは約7,800km。
定期急行は前年改正と変化が無いので、この時点で新潟県内では特急と急行の勢力がほぼ互角になりました。
この改正では「きたぐに」の普通座席車が、それまでの旧型客車から冷房付きで空気バネの12系客車に更新されているのが、個人的に感慨深いトピックです。
12系客車の定期急行列車運用は「きたぐに」が最初の例の一つで、当時まだ少なからず存在していたであろう長距離客には大いなる福音であったでしょう。

昭和50年3月改正では、上野-金沢間(長岡経由)に寝台特急「北陸」が運行を開始。
従来の寝台急行急行「北陸」は、座席車と寝台車混結の「能登」に改称して存続します。
「能登」に改めて連結された普通座席車は旧型客車で、当初はこの数年後に予定されていた上越新幹線開業後に手を入れる事を考えた、応急的措置だったのかもしれません。
当時の上野発着の東北方面夜行急行は概ねこんな感じで、この段階では「津軽」「十和田」「八甲田」「鳥海」「越前」そして「能登」の普通座席車は旧型客車で存置されていました。
東北・奥羽本線の夜行急行はその後20系や12系にグレードアップされていますけれど、「鳥海」「越前」「能登」は結局普通座席車に何のテコ入れもされないまま、開業が大幅に遅れた東北・上越新幹線開通まで、旧態依然とした姿で走り続けることになります。
鉄道ジャーナルの昔の列車追跡記事を読むと、「鳥海」では昭和55年になってもオハ35系が運用されていました。
そしてこれら全て新潟県内を通過しているのです。
「北国のいなかはこげんぐらいでちょうどよか」とナメられている気がして、とってもイヤな気分。
また新宿発着の「アルプス」が電車に統一された為に、非電化の大糸北線に乗り入れる気動車「アルプス」は廃止。
これで県内走行定期急行列車は一往復減の29往復、一日当たり県内延べ走行営業キロは改正前の約7,900kmから微減に転じました。
一方、特急は「北陸」誕生で一日当たり県内延べ走行営業キロは約8,200kmになって、とうとう急行を逆転し、この後その差はどんどん開いていくことになるのです。
またこの時期には、「きたぐに」の食堂車が北陸トンネル火災事故の元凶と見なされて即刻連結中止、「佐渡」「よねやま」「妙高」のビュッフェ営業の中止と、急行列車の供食設備が相次いで失われていて、いよいよ古き良き急行時代の黄昏が始まったのでした。
続きはまた次回。

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2016年3月20日 (日)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その二

前回「戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一」からの続きです。
今回は昭和37年から昭和43年10月ダイヤ白紙大改正前夜までの話です。

昭和36年10月の全国ダイヤ白紙大改正以降、新潟県内の急行列車の整備も急速に進んで行きます。
キハ58系が落成していく度に、主要幹線の急行列車をキハ55系から置き換えて、捻出されたキハ55系と新造のキハ58系によって、後に急行格上げになるローカル準急の新設。
そして直流電化区間用の急行型電車の決定版である165系電車の投入によるものです。
その経過を、準急と合わせて年毎に追って行くと下記の通りになります。

昭和37年
3月:
準急「羽越」(新潟-秋田間、キハ55系気動車主体)運行開始。
これと同時に準急「あさひ」も一往復増発されます。
県都新潟と県北地方の速達アクセスが、これで実質的に構築されました。
また「あさひ」の運行開始により、県都新潟と隣接各県主要都市との間に、昼行優等列車二往復以上の体制が確立されました。
山形・仙台へは準急「あさひ」二往復、
郡山・福島へは準急「あがの」二往復、
長野へは準急「よねやま」「あさま」。
富山・金沢へは特急「白鳥」と急行「きたぐに」。
6月:
信越本線・新潟-長岡間の電化で上野-新潟間の電気運転が可能になったのを機に、長岡止まりの準急「ゆきぐに」一往復を新潟延長の上で急行に格上げして「弥彦」としました。
これで昼行上越急行は「佐渡」「越路」「弥彦」の三往復になりました。
しかし車両は80系電車、食堂車有りの客車、食堂車無しの客車とバラバラです。
電車は高速ではあっても乗り心地は疑問符が付くもので、洗面所も無く一等車はいわゆる「並ロ」。
当時、急行列車の一等車と言ったら「特ロ」が常識になっていましたから、高い一等急行料金を払って「並ロ」に座らされたのでは、たまったものじゃありません。
一方客車は重厚な乗り心地で一等車も「特ロ」、洗面所付きながら低速です。
同時に運行を開始した特急「とき」(新潟-上野間、161系電車)は、冷暖房完備で居住性抜群で乗り心地も素晴らしく、急行とのギャップは極めて大きかったでしょうね。
現代に当てはめれば、新鋭特急車両とキハ40系気動車や115系電車ぐらいの感覚的な差があるかも。
165系電車投入までの暫定措置とはいえ、新潟は田舎モンでおとなしいから、こげんぐらいでちょうどよかとナメられてる気がして、イヤな気分ですなまったく。
関西で同じ事をやったら、暴動モノですがな。
11月:
準急「うおの」(新潟-十日町間、キハ55系気動車)運行開始。
天下のNHKの当時のドキュメンタリーでも、「三級ローカル線」などと酷い事を言われていた飯山線にも、ようやく近代化の波が訪れたのです。
十日町地方の方には、県都新潟と直通出来る列車の誕生は画期的な出来事だったに違いありません。
なお、この「うおの」は準急「よねやま」と新潟-長岡間を併結運転していました。
12月:
急行「赤倉」(新潟-名古屋間、キハ58系気動車)運行開始。
この列車は純粋な意味での新設ではなく、準急「あさま」(新潟-長野間)と準急「きそ」(長野-名古屋間)を結合させて急行に格上げしたものです。
これで新潟と中部地方の中心・名古屋が直接結ばれましたけれど、新潟と名古屋の結び付きって正直薄いんですよね。
客車準急「妙高」(上野-直江津間)をキハ57系に車両変更して急行に格上げ。
これで上越地方と長野を結ぶ急行列車は、気動車の「赤倉」「妙高」と客車の「白山」の三往復になりました。
新宿から大糸線に乗り入れる気動車急行「白馬」の内一往復を糸魚川まで延長して、新宿-糸魚川間の運転としました。
大糸線の新潟県内区間初の優等列車です。

昭和38年
3月:
準急「野沢」(越後川口-長野間、キハ55系気動車?)運行開始。
午前中に飯山線沿線から県都長野へ行き、夕方帰るための用務を主とした列車で、当初の守備範囲は十日町まででした。
4月:
急行「しらゆき」(金沢-青森間、キハ58系気動車)運行開始。
日本海沿岸の直通旅客に加えて、金沢・富山-新潟と新潟-秋田・青森という地域間輸送も受け持つ、「白鳥」「きたぐに」を補完する性格の列車です。
急行「きたぐに」は大阪まで延長して、新潟-大阪間の運転としました。
これで新潟対関西の直通昼行(といっても一日潰れますけど)チャンネルは、特急「白鳥」と「きたぐに」の二往復体制になりました。
6月:
165系電車の新造投入によって、昼行上越急行列車を165系に更新。
編成も従来の7~8両編成から、半室ビュッフェ車と一等車各2両込みの12両編成に増強。
大型のヘッドマークが取り付けられて、東海道153系急行と並ぶ、日本最高クラスの堂々たる昼行急行列車になりました。
一年前の惨憺たる状態に比べて、夢でも見ているような変転でありましょう。
また夜行電車急行として「越後」を新設し、従来の夜行準急「越後」は寝台急行に格上げして、「天の川」に改称しました。
さらに前年の改正では80系電車準急のまま存置された「ゆきぐに」(長岡-上野間)を新潟延長・急行格上げします。
この結果、上越急行は昼行の165系電車「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」の四往復、夜行は寝台主体の「天の川」と165系「越後」で、特急「とき」を加えれば対東京のアクセスは大幅に改善向上したのです。
個人的には、「天の川」編成に一両だけ連結された座席指定車が、元特急用のスハフ43形だった話に目が釘付けですなぁ。
151系電車特急「こだま」がデビューする昭和33年11月までは、歴史と伝統に彩られた東海道客車特急の、庶民には手が出ない高嶺の花の特急専用三等車だったハコが、流れ流れて新潟に顔を出すようになったのです。
かつての花形スタァが地方公演ばかりの毎日を送っている、そんな印象でせつなくもありまた萌えるのです。
10月:
準急「くびき」(新潟-新井間、キハ55系気動車主体)と準急「ひめかわ」(新潟-糸魚川間、キハ55系主体)運行開始。
「くびき」については、新潟県内都市間需要の増大に加えて、「あさま」が急行「赤倉」に格上げされた為に、料金面で値上げという不満が出たからではないかなぁと思います。
「ひめかわ」については、糸魚川地域から県都新潟への用務利用を考えての設定と思われます。
長距離急行「きたぐに」「しらゆき」は、日帰り用務には使い難い時間帯なのです。
なおこれら気動車準急列車で一等車を連結していたのは「よねやま」のみのようです。
一等車と行ってもキハ55系の一等車キロ25、つまり「並ロ」です。
急行「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由、キハ58系)運行開始。
磐越西線経由で上野まで行くという、上越線開業前まで時間を遡ったような列車ですけれど、勿論新潟対東京ではなく、新潟対会津、中通り、中通り対東京の二つの使命を持つ列車であります。
準急「あがの」との違いは、純然たる急行用のキハ58系による運転であり、更に「特ロ」一等車キロ28が連結されていることです。

昭和39年
この年の10月に東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正がありましたけれど、新潟県内を走る急行・準急列車に大きな影響は無し。
この改正後の県内通過定期急行列車と一日の延べ県内走行営業キロ数は下記の通りです。
電車急行(165系電車)
「佐渡」「越路」「弥彦」「ゆきぐに」「越後」(新潟-上野間、「越後」のみ夜行)、
気動車急行(キハ57及び58系)
「赤倉」(新潟-名古屋間)、「いいで」(新潟-上野間、磐越西線経由)、「きたぐに」(新潟-大阪間)「しらゆき」(金沢-青森間)、「妙高」(直江津-上野間)、「白馬」(新宿-糸魚川間)。
客車急行
「天の川」(新潟-上野間夜行)、「北陸」(金沢-上野間、長岡経由夜行)、「羽黒」(上野-秋田間、新津経由夜行)、「日本海」(大阪-青森間、昼夜行)、白山(金沢-上野間、昼行)。
急行16往復。 一日の延べ県内走行営業キロ数約5,200km。
ちなみに特急列車は、電車「とき」(新潟-上野間)と気動車「白鳥」(大阪-青森・上野間)の二往復のみで、一日の延べ県内走行営業キロ数は約900kmに過ぎません。
新潟県内のみならず全国的にも、地方幹線の手堅い主役として颯爽と鉄路を駆け抜けていたのが、この時代の急行列車だったのです。

昭和40年
10月:
準急「羽越」を上野まで延長してキハ58系気動車急行に格上げして、秋田-上野間運転の「鳥海」に改称。
県北地域と東京を直接結ぶ昼行優等列車の誕生です。
準急「くびき」を妙高高原まで延長して、新潟-妙高高原間の運行とする。
妙高高原まで延長したのは、あるいは観光需要を見越しての事かもしれません。
165系電車準急「ゆざわ」(新潟-越後湯沢間)を新設。
慢性的に混雑する上越急行の補完役として設定されたであろう「ゆざわ」は、翌年3月に急行に格上げされるので、準急として走ったのは僅か半年でした。
客車夜行急行「越前」(上野-福井間長野経由)運行開始。

そして今からちょうど半世紀前の昭和41年。
3月に準急制度が見直されて、運転距離100km以上の準急は全て急行に統合されます。
新潟県内では「よねやま」「くびき」「ひめかわ」「あがの」「あさひ」「野沢」「うおの」「ゆざわ」が一斉に急行格上げとなって、新潟県内から一時的に準急列車が消滅。
10月:
新潟県内最後の新設準急として、「かくだ」(新潟-柏崎間)運行開始。
「かくだ」は越後線経由で、同線最初の優等列車誕生です。
対東京の上越線電車急行群の名称が整理されて、「佐渡」に統一。
同時に上野-石打間の電車準急「苗場」を新潟延長の上で急行に格上げして、「佐渡」に編入したので、「佐渡」はこれで定期五往復体制になります。
また夜行の「越後」は伝統ある愛称の「越路」に変更されました。
「妙高」は165系電車化した上で、上野-長野間の「信州」の内一往復を直江津まで延長して「妙高」に編入、これで直江津-上野間の「妙高」は二往復体制になりました。
新潟県上越地方と東京間の昼行直通速達列車は「妙高」二往復と「白山」、そして前年に「白鳥」から分離された気動車特急「はくたか」の合計四往復体制になりました。

昭和42年には新潟県内急行列車に変化は無く、翌年10月の全国白紙大改正を迎えるのですが、それはまた次回。

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2016年3月19日 (土)

戦後の新潟県内急行列車興亡史を備忘録的に・その一

来る3月26日のJRダイヤ改正で、定期で唯一の急行列車「はまなす」が廃止されます。
これでJRからは定期急行列車が全廃されてしまいます。
幼い頃に急行列車に親しんだ中年鉄ヲタとしては、実にもって寂しい!の一言。
我が新潟県でも、急行列車が消滅して早三年になります。
我が県の場合は臨時急行の設定は無いので、文字通りの消滅であります。
そこで今回から備忘録的に、戦後の新潟県内国鉄~JR急行列車の興亡の軌跡を
簡単に辿って行きたいと存じます。

戦後、新潟県内に毎日運転の定期急行列車が走り始めたのは昭和22年6月で、
上野-新潟・金沢間(上越線経由)に夜行急行が運行開始、翌7月には戦時下の
昭和18年に決戦ダイヤ移行で廃止された大阪-青森間の急行列車が復活しました。
両列車共に復活当初はまだ名無し・・・というよりも当時の国鉄で愛称を付けるのは
特別急行列車に限定されていたので、これは当然の話です。
その後上野-新潟・金沢間の夜行急行は系統分離されて、金沢便は急行、新潟便
は準急になります。
金沢便は昭和24年に大阪まで延長され、上野-大阪間の運転になります。
新潟便については格下げの印象を持ちますけれど、
利用客からすれば、基本的に急行列車と変わらぬ客車に急行の半額の準急料金で
乗れるのですから、かなりのお値打ちだったでしょう。

さて、その後まもなく、国鉄が急行列車にも愛称を付ける方針にしたのを受けて、昭和25年11月に上野-金沢間の夜行急行に「北陸」、大阪-青森間の長距離急行には「日本海」と命名されます。
その前月には、昭和24年9月に運行を開始した上野-新潟間の不定期昼行急行列車が定期化(愛称は付けられず名無しの701レ・702レ)されているので、新潟県内を走る定期急行列車は「北陸」「日本海」「701レ・702レ」の一日三往復になりました。
当時最新鋭にして特急の一等展望車を除けば最高水準の居住性を誇るリクライニンシート装備の座席車である特別二等車(通称「特ロ」)は、昭和25年秋から「北陸」と「701レ・702レ」に連結を開始していますが、当時「特ロ」を連結する急行列車は最重要な列車に限られていて、「北陸」と「701レ・702レ」にとっては面目躍如な話だったのです。
なお「北陸」には、戦前製の二等寝台車も連結されていました。
「日本海」については、需要が小さいという理由で「特ロ」連結は大阪-金沢・富山間のみとされています。

閑話休題、
昭和20年代は不定期急行こそ設定されるものの、定期列車についてはなかなか増えません。
昭和29年10月に、それまで上野-直江津間に運行されていた準急を金沢延長の上で急行に格上げした「白山」(上野-金沢間、長野経由)が加わったのみでした。
昭和20年代末の時点では、新潟県内を走る定期急行列車はこの四往復(701レ・702レは昭和27年に「越路」と命名されました)のみで、一日走行営業キロは延べ約1,500kmに過ぎません。
昭和31年11月ダイヤ改正では、上野-新潟間に二本目の昼行急行列車として
「佐渡」がデビュー。
それまで上野-秋田間(羽越経由)夜行不定期急行として運行されていた「津軽」が、「羽黒」と改称されて目出度く定期化されます。
しかし定期急行列車の新設はこれで暫く打ち止め。
急行を補完すると共に、地方都市間速達輸送の主役であるはずの準急列車も、前述の上野-新潟間夜行準急に愛称が付いた「越後」のみ。
勿論、特別急行列車などというハイカラでハイソな列車は県内には影も形もありません。、
当時は復興期から高度経済成長期に脱却しつつあり、東海道では一等展望車と食堂車を連結した特別急行列車が鉄路の大スターとして君臨し、急行列車も続々増発、それらを補佐する準急も客車あり80系電車ありと咲き誇っている時代にですよ。
現代では死語となった「裏日本」という言葉が、まだ生きていたのを感じさせずにはおきませんな。

一方、その後の急行列車に繋がる準急列車は、昭和30年代も半ばに差し掛かってようやく整備が始まります。
年毎に簡単に追って行くと次の如し。
昭和34年
4月:「ゆきぐに」(長岡-上野間、80系電車)運行開始。この「ゆきぐに」は昭和36年10月ダイヤ改正で一往復増発されて、二往復中一往復は
国鉄急行型電車の元祖である153系電車で運転されます。
新潟県内の定期急行・準急列車で153系が充てられたのは「ゆきぐに」のみで、極めてレアな存在でした。
後に新潟対東京の上越急行が電気運転化された当初は、「佐渡」他の急行列車がつり革がぶらさがり、洗面所が無く、コイルバネで乗り心地の良くない80系電車や重厚な乗り心地ではあるものの速度の遅い客車で運行されていたのに対し、準急と
して一往復が残った「ゆきぐに」はそれらよりずっと新しくて設備も良く、空気バネで乗り心地も上々の153系電車で引き続き運転されていて、その差は極めて大きいものがありました。
客室の設備面で差があるとしたら、一等車(旧二等車)が準急相当のロマンスシートだった「ゆきぐに」に対して、客車急行のそれは「特ロ」だった事ぐらいでしょうね。
上越急行と準急の車両水準の逆転という不条理は、国鉄の車両運用の事情の産物です。
しかし乗客からすればたまったもんじゃないですよねw。
準急の倍の料金を払って、元々東京-沼津間の湘南電車として設計され、居住性も設備もそれに合わせている80系電車に長時間乗せられるなんて。
またまた閑話休題、
9月:「あがの」(新潟-仙台間磐越西線経由、キハ55系気動車。昭和36年に一往復増発)。
準急料金を取るに相応しい居住性を持つキハ55系を使用した待望の高速優等列車が、新潟県内にもようやく姿を見せました。
昭和35年
11月:「あさひ」(新潟-仙台間米坂線経由、キハ55系気動車)運行開始。
「あがの」「あさひ」の運行開始で、県都新潟と隣接東北各県の主要都市を直接結ぶラインが構築されたのです。
しかし新潟県内主要都市・地域を結ぶ優等列車は未整備のまま。
急行「日本海」や「越路」が使えないわけではないですけれど、これら急行は慢性的に混雑している上に、料金的に気軽に乗れる存在では無いので県内の用務・観光で簡単に使える存在ではありません。

昭和36年10月のダイヤ白紙大改正では、新潟県内もようやく速達優等列車の恩恵にあずかれるようになります。
この改正では県内初の特急列車「白鳥」(大阪-青森・上野間、キハ80系)が運行を開始。
新潟県内を走る定期急行列車の愛称がまだ両手で数えられる時代に、県内を東西に縦断する特急列車が誕生したのです。
一方、急行列車では「きたぐに」(新潟-大阪間)が運行を開始。
使用する車両は最新鋭のキハ58系です。
準急列車では「よねやま」「あさま」(新潟-長野間、キハ55系気動車)が運行を開始。
これでようやく、新潟・長岡・上越地区の新潟県内三大都市圏を結ぶ速達列車が実質的に実現されたのです。

この時点で新潟県内で運行される定期急行列車は、
「佐渡」「越路」(新潟-上野間、客車列車) 
「北陸」(上野-金沢間、長岡経由、客車夜行列車) 
「羽黒」(上野-秋田間、新津経由、夜行客車列車) 
「日本海」(大阪-青森間、昼夜行客車列車) 
「きたぐに」(新潟-金沢間、キハ58系気動車) 
計六往復、一日当たり県内走行延べ営業キロ数は合計約2400kmです。

続きはまた。

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2016年3月17日 (木)

越後金丸駅(米坂線)

本日の駅紹介は、米坂線・越後金丸駅。

越後金丸駅の駅名標

新潟県岩船郡関川村に所在する無人駅で、開業は昭和8年(1933年)11月30日。
開業当時の所在は岩船郡関谷村で、同村は昭和29年に隣接する女川村と合併して現在の関川村が発足しました。
越後金丸駅周辺の金丸地区は山形県と境を接する関川村南部地域として、今日に至ります。
なお、現在の岩船郡を構成するのは関川村と離島の粟島浦村で、郡としては有名無実化同然の感があります。
21世紀を迎えた時点では他に二町(山北町と荒川町)・二村(朝日村と神林村)が属してしましたが、これら町村は2008年に県北地域の中心である村上市と合併してしまったのです。
さて、越後金丸駅は二面二線の列車交換可能な構造で、かつては貨物取り扱いもありました。
当駅は荒川と山地に挟まれた地形にあり、また最寄の金丸集落からは北に500mも離れています。
ゆえに何故このような狭隘なところにこの規模の駅を、まるで押し込むかのように作ったのかと昔は疑問に思っていました。
関川村史にはその辺の話が全く触れられていなかったのですけれど、ネットで色々調べてみると、越後金丸駅の現在位置から5km山に入ったところに「金丸鉱山」があるそうです。
陶器の材料の長石やガラスの材料の石英を含む「ペグマタイト」を産出するそうで、当駅が開業した戦前は重要な鉱山だったようです。
越後金丸駅が現在の位置に定められたのも、金丸鉱山の産出物を貨物輸送する為の利便性が重要な要素だったのかもしれませんね。

越後金丸駅駅舎の様子
越後金丸駅駅舎の様子、2013年6月撮影。
建築財産票によると、完成は昭和43年10月。
列車交換駅らしく、運転関係とおぼしきスペースが目につきます。
この規模の駅で二階建てというのも珍しい。
ここ関川村は、新潟県下越地方では阿賀町と並んで雪の多い地域なのですが、この建物の許容積雪量は90cm。
屋根の厚みを見ると剛健そうに見えるのですけれど、見た目よりも華奢な建物なのね。
この駅舎が完成した当時は、米坂線は蒸気機関車9600形の一人舞台。
当時は貨物も含めれば、当駅に停車する列車も現在よりずっと多かったことでしょう。
それを考えると、現在の寂れ具合はもののあわれを深く感じるところなのです。
建物の経年から考えて、改築もそう遠くないのでしょう。
その時は、改築後の咲花駅駅舎を平屋にして半分にしたような建物になりそうな予感。

越後金丸駅駅舎出入り口付近
越後金丸駅駅舎出入り口付近の様子、2013年6月撮影。
当駅には水洗トイレが設置されていますけれど、訪問した当時は小便器が撤去されていて事実上の男女兼用な状態。
洗面所の水は飲めませんという注意書きがありましたっけ。

越後金丸駅駅舎内の様子
越後金丸駅駅舎内の様子、2013年6月撮影。
私が当駅を取材目的で最初に降り立ったのは2004年11月、二回目が2008年4月でしたが、その当時と比較しても変わったのはベンチが朱色の長物から近年のJR東日本定番形に変わっていた程度。
独特のカビ臭は相変わらずで、その濃厚さは純然たる地上駅としては私の訪れた駅の中でもトップです。
なお、当駅には米坂線ワンマン化以前から自動券売機も乗車証明書発行機も未設置でした。

上りホームに接する駅舎部分と跨線橋出入り口の様子
上りホーム(米沢方面乗り場)に接する駅舎部分と跨線橋出入り口の様子、2013年6月撮影。
この辺は元有人駅の貫禄が見て取れます。

上りホーム越後片貝方から見た越後金丸駅構内
上りホーム越後片貝駅方から見た越後金丸駅構内、2013年6月撮影。
ホーム配置は千鳥形です。
ホームの有効長は四両といったところで、蒸気機関車全盛時代もこの長さで足りていたということなのでしょう。
当駅の旅客列車停車のトピックスとしては、新潟-山形間の気動車急行「べにばな」が一時期停車していたことが挙げられます。
私の手持ちの古い時刻表を見ると、昭和55年10月改正では通過だったのが、昭和60年3月改正では二往復中一往復が停車しています。
何故当駅のような、旅客需要は最初からあまり当てにしていなさそうなところに急行列車が停車したのか?
こういうケースだと真っ先に思いつくのが、「列車交換のついでに旅客扱い」ですけれど、「べにばな」の越後金丸駅停車は旅客列車との交換は一切関係していないので、それが当てはまらないのです。
当時は米坂線の貨物営業はまだ廃止になっていないので、ひょっとしたら貨物列車との交換ついでに旅客扱いだったのか?
うーむ、実に疑問だ、謎が深まる。

上りホーム米沢方から小国方面を望む
上りホーム米沢方から小国駅方を望む、2013年6月撮影。

上りホーム横の旧貨物線?
上りホーム横の旧貨物線? 2008年4月撮影。
越後金丸駅の貨物取り扱いは昭和53年に廃止されています。

越後金丸駅の跨線橋内部
越後金丸駅の跨線橋内部、2013年6月撮影。
完成は比較的新しく、昭和59年1月。
この当時の標準形と言えます。
撮影した時点で、既に虫は多かったです、特に蜂が・・・。
夏から初秋にかけては近づきたくない雰囲気がビンビンに伝わってきます。

跨線橋上から越後金丸駅構内坂町方を見る
跨線橋上から越後金丸駅構内坂町方を見る、2008年4月撮影。

跨線橋上から越後金丸駅構内米沢方を見る
同じく駅構内小国方を見る、2008年4月撮影。
GW初日だというのに、一ヶ月季節が逆戻りしたような寒さと暗さでした。

下りホーム小国方から見た越後金丸駅構内
下りホーム(坂町方面乗り場)小国駅方から見た越後金丸駅構内、2013年6月撮影。
元は島式だったのではないかと思わせる造りです。
ホーム上の待合室は大変こじんまりとしていて、特記する事項は無し。

下りホーム横の線路跡と思われる空間
下りホーム横の線路跡と思われる空間、2013年6月撮影。
山側に金丸鉱山があるのならば、そことのアクセスで産物を貨車に積み込むには、こちら側の方が都合が良いように感じられるのですけれど。

下りホーム坂町方から越後片貝方面を見る
下りホーム端から越後片貝駅方を見る、2013年6月撮影。
画像左側の線路跡らしきものが実に気になる。
またホームの先端部に構内通路の出入り口らしきものが見えます。

小国方の踏切から見た越後金丸駅構内の様子
小国駅方の踏切から見た越後金丸駅構内の様子、2013年6月撮影。
こうして見ると実に山深い土地なのかよくわかります。
越後片貝方には踏切が無いので、駅構内全景を地上から観察できるのはこの地点だけです。


駅舎向って左側にある荷物取り扱い用?の出入り口
駅舎向って左側にある荷物取り扱い用?の出入り口、2013年6月撮影。
越後金丸駅の荷物取り扱いは昭和58年に廃止されています。
米坂線の今泉 - 坂町間CTC化と時を同じくしていて、あるいは当駅の無人化もその時だったのかもしれません。

越後金丸駅を出発するキハ110系気動車快速「べにばな」
越後金丸駅を出発するキハ110系気動車快速「べにばな」米沢行、2013年6月撮影。
快速といっても米坂線内は各駅停車です。
坂町-今泉間の日中は有人駅以外の乗降が皆無に近いので、越後下関、小国、羽前椿以外は通過でも差し支え無さそうに思われます。
しかしそこまでして速達化する積極的な理由も無いのでしょうね。
ちなみに、当駅に停車する旅客列車の本数は昭和55年10月改正で上下13本、平成27年3月改正で12本と、ほぼ変わっておりません。

越後金丸駅での列車交換中に撮影したキハ52
越後金丸駅での列車交換中に撮影した坂町行キハ52、2005年5月撮影。
平成27年3月改正ダイヤでは当駅での列車交換は無く、小国駅と越後下関駅に集約されました。
過疎ダイヤな上に何かといえば運休というご時勢ですから、予備の交換設備など必要とされないでしょう。
当駅の交換設備について、今後会社がどういう判断を下すのでしょうか。

越後金丸駅下りホームに到着したキハ110系気動車坂町行
越後金丸駅下りホームに到着したキハ110系気動車坂町行、2013年6月撮影。
駅構内がきちんと映り込む順光の午前から昼にかけて、この下りホームに入る列車はこの便のみ。
当駅での滞在時間は約二時間です。

国道113号線小国方から見た越後金丸駅前の様子
米坂線と並走する国道113号線の小国方から見た越後金丸駅前の様子、2013年6月撮影。
当駅周辺には文字通り何もありません。
飲料の自販機すら無いのです。
国道を小国方面に進むと、かつては小学校を有した金丸集落に行き着きます。
しかし関川村立金丸小学校は越後片貝駅近くの沼小学校と共に、平成13年度をもって閉校し、旧校舎は「金丸ふれあい自然の家」として活用されているそうです。
という事は、この地域の学童は10km以上離れた関川村中心地区にある関川小学校に通わなければならないのでしょう。
真冬は実に大変な話だと思うところです。

国道113号線を坂町方面に少し進み、振り返って一枚
国道113号線を坂町方面に少し進み、振り返って一枚、2013年6月撮影。
車の通行量は多く、このように車が全く映らない画を撮るのには時間がかかるのです。
なお、この金丸地域には路線バスは走っていません。
20年程前の道路地図を見ても、バス路線は設定されておりませんでした。
随分前から、米坂線以外の公共交通機関は存在していないようです。

荒川の対岸と結ぶ橋から撮影
さらに歩いて荒川の対岸と結ぶ橋から撮影、2013年6月撮影。
画面奥が越後金丸駅です。

山肌のすぐ下に越後金丸駅の跨線橋が見えます
採掘か何かで切り立った山肌のすぐ下に越後金丸駅の跨線橋が見えます、2013年6月撮影。

米坂線の鉄橋とその奥の八ツ口橋
青と赤のコントラストが良い感じの米坂線の鉄橋とその奥の八ツ口橋、2013年6月撮影。

八ツ口橋から見た荒川下流
八ツ口橋から見た荒川下流、奥に見えるのは国道113号線の八ツ口大橋、2013年6月撮影。
こうして見ると遠くにあるように見えますが、実際は直線距離で1km程の距離しかないのです。

八ツ口大橋上から見た米坂線の鉄橋
国道113号線の八ツ口大橋上から見た米坂線の鉄橋、2013年6月撮影。
越後金丸駅からここまで約2.5km。
越後片貝駅までの距離の中間地点です。

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2016年3月16日 (水)

8年と三ヶ月ぶりの恐怖劇場アンパランス「吸血鬼の絶叫」

先週末から日曜日にかけて、2008年暮れにこの「ばけのかわ」からエロや
18禁的記事を分離して立ち上げたブログを、fc2からライブドアに再移転したのです。
それで、そのエロブログの中でもエロくない記事は「ばけのかわ」の特撮
カテゴリに引っ越すことにしたのですけれど、それを機にずっとほったらかしだった特撮カテゴリの記事を久しぶりに読んでみました。
・・・続きを書くニュアンスで記事を締めておいてそれっきりなのがあって、うーむ、これは遺憾なぁと少々反省したところなのです。
それが"恐怖劇場アンバランス「吸血鬼の絶叫」への遥かな道"であります。
子供の頃に雑誌「宇宙船」の怪奇特集でこの作品のモノクロ写真を見て、色々と想像を掻き立ていた頃の話でありました。

その記事を書いたのは2007年の暮れで、もう8年以上前の事です。
そんな昔の記事の続きを書こうなどとは、何かのきっかけが無いと出来るもんじゃありません。
そのきっかけというのが、去る三月九日に発売された、
「恐怖劇場アンバランス Blu-Ray BOX」
なのであります。

2007年に全六巻のDVDとして発売されていた全13話の「恐怖劇場アンバランス」
を、Blu-Ray BOXとして再販されたのですけれど、マイナーな作品だからバラ売り
だと採算取れないんだろうなぁ・・・。
しかしブルーレイ化と言っても、「アンバランス」は1969年夏から翌年春にかけて製作された古い作品です。
画質の向上はほとんど望めないんじゃないかと私は感じておりまして、購入の
可否は特典次第と考えていたところです。
その特典はというと、うーむ、かなりショボいか・・・。
BOXであれば、全13話の脚本の決定稿ぐらいは封入されるんじゃないかと、期待大だったのですけれどね。
「吸血鬼の絶叫」が収録されているDVDのvol.6には製作第4回「蜘蛛の女」の準備
稿が特典でしたから、BOXなら全話の封入も可能じゃないのと。
DVDを買いそびれた人、最近になってこの作品を知った人は買うべきだと思いますけれど、レビューを見る限りではDVDと比べても画質の向上はあまり感じられないそうですし、私はどーしようかなぁと迷っているところです。
最も見たかった初期製作の怪談路線作品「墓場から呪いの手」「吸血鬼の絶叫」「死体置場の殺人者」「蜘蛛の女」「死骸を呼ぶ女」は持っていますしねぇ。

閑話休題
私の幼少のみぎりの恐怖と魅惑の象徴であり、想像を果てしなく膨らましていた
「吸血鬼の絶叫」本編なんですが・・・

恐怖劇場アンバランス「吸血鬼の絶叫」タイトル

・・・なんかもうね、想像と現実は全然違うのよねと、いい歳ぶっこいて改めて思い
知らされちゃったのですよ。
話全体を覆うムードは日本的な湿っぽさに満ちていて良いのですけれど、肝心の話が説明不足だらけで疑問だらけなんですよ。

あの吸血鬼(設定では「鬼崎進」という名前がありますが、作品中では名無しさん)は
元々人間なのか、それとも生まれながらの吸血鬼だったのか?
吸血鬼の隣に横たわっていた、胸に杭を打ち込まれている老人は今作のヒロイン・玲子の父君ですが、何故あんなところに横たわっているのか?
玲子が実家の墓を見に行っていたから、彼女の父は謎の失血死を遂げた後に荼毘に付されたのではないのか?
吸血鬼は荼毘に付された灰を、生前の肉体に戻す魔力でも持っているというのか?
玲子の父の件も含めて、過去の不審な失血死事件は鬼崎進の仕業だったのか、それとも他に吸血鬼がいるのか?
吸血鬼は面識もないはずの玲子に、なぜあんなに執着していたのか?
執着していたのは彼女の父と何か因縁があったからなのか?
吸血鬼は胸に杭を打ち込まれると絶叫して絶命し、その身体は白骨化してしまうのに、何故鬼崎進と玲子の父は胸に杭を突き立てたまま、人の姿を保っていたのか?

「吸血鬼の絶叫」の脚本を書いたのは、ウルトラシリーズその他の円谷プロ作品で健筆をふるっていた若槻文三さんですけれど、彼らしくない粗さが目立つんですよね。
製作第一話の「墓場から呪いの手」も若槻さんの脚本ですが、あちらは話がきっちりと纏まっていて、違和感は感じられません。
だから余計に、「吸血鬼の絶叫」はヘンな話だなぁと感じてしまうのです。
ひょっとすると鈴木英夫監督が撮影に当たって話を変えさせたとか、その辺の裏事情があるのではと色々勘ぐりたくなるのであります。

甦った吸血鬼が深夜のトンネルをひとり行く
トランシルバニアから来たという白人の吸血鬼に胸の杭を抜かれて、甦った吸血鬼が深夜のトンネルをひとり行く。
この辺のくだりは実にムードがあって宜しいのです。

真夏なのに真冬の格好をしたおぢさん
真夏なのに真冬の格好をしたおぢさんが、トンネルの中をフラフラ歩いている。
どこからどう見ても危なすぎる不審者なのです。
しかし手前の若い女性は度胸あり過ぎで、ガムをくちゃくちゃしながら近づきます。

吸血鬼に襲われて、首を絞められて失神する女性
お約束通り吸血鬼に襲われて、首を絞められて失神。
この娘の死因は失血死なので、絞殺ではないのですよ。

女の血を吸って会心の笑みの吸血鬼
子供の頃に見ていたら、一生のトラウマになっていたこと確実な画。
久しぶりに若い女性の血を吸いまくり、ご満悦で会心の笑みであります。

ここまでは良いのです。
実に良かった!
だからこの先の展開を非常に期待しておったのですけれど、結果は前述の説明不足や疑問だらけで・・・。
午前零時になると廃洋館の地下室でむっくり起き上がって、外へ出る事ワンパターンな繰り返しには失笑してしまいます。
「円谷プロ怪奇ドラマ大作戦」で、この吸血鬼を「出勤するサラリーマンのよう」と評していましたが、あぁそうだよなぁと目からうろこでした。
自殺者の霊は自殺するまでの一連の挙動を延々と繰り返すと言われています。
この人も、生前の最も強烈な習慣「遅刻は絶対に許されない」を延々と続けているのかも。
血を吸う音がソバでも啜るような妙な音なのも、営業成績のグラフのような色と形のローソクに激しく怯えるのも、やはりこの人の生前は普通のサラリーマンだったのかもね。
でもそんな人が何故、よりによって吸血鬼になったのか、また新たな疑問が渦を巻くわけであります。

疑問と言えばこの吸血鬼役、何故富田浩太郎さんにオファーが来たのか?
正直、この方にこういうイッちゃってる役は似合わないと思うのです。
劇中、鬼崎進のセリフが一切無く喚くだけというのも、富田さんの声が柔らかくて凶悪な吸血鬼には似合わないという理由があったのかも。

玲子のバーにずぶ濡れで現れる鬼崎進
嵐の夜、玲子の経営するバーにずぶ濡れで現れる場面。
この画だけ見たら、彼が吸血鬼だなんて信じられませんよ。
数日徹夜で捜査して、ようやくホシのヤサを見つけたベテラン刑事という感じ。

深夜のバーに現れる鬼崎進
今度こそ玲子を襲おうと、閉店後の深夜のバーに現れる鬼崎進。
これは深夜の張り込みをするベテラン刑事の画にしか見えない。
哀愁を感じさせる眼差しから見て、相手は不幸な境遇の女なのかもしれない。

胸に杭を打たれて絶命する吸血鬼
で、結局はトランシルバニアから来た吸血鬼共々、胸に杭を打たれて白骨化しちゃうわけなんですが。
この直後、地下室は謎の崩落を起こして、白骨化した吸血鬼たちも杭を打たれたままの玲子の父も瓦礫の下敷きになります。
彼らが一体何者だったのかは謎のままです。
あの地下室を再開発で掘り返したら、胸に杭を打たれた中年二人と初老一人が発掘されたりするのだろうか。
そして病院に搬送されて、杭を抜かれたらまた甦る。
そんな事を考えるのも楽しかったりしますな。
話のオチがアレなので、かえってその後を想像する余地があるのですよ。

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2016年3月 6日 (日)

羽越本線・府屋駅、白新線・大形駅、越後線・小島谷駅記事改装

以前に書いた駅エントリーを、現在のスタイルにアップグレードする
作業を適宜進めています。
文字を大きくするのと駅名票画像追加以上の改装については、
このカテゴリーでお知らせ致します。

3月6日、下記の記事の大幅リニューアルを実施しました。

羽越本線・府屋駅

白新線・大形駅

越後線・小島谷駅

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2016年3月 5日 (土)

越後線・青山駅及び越後赤塚駅、信越本線・越後石山駅記事改装

以前に書いた駅エントリーを、現在のスタイルにアップグレードする
作業を適宜進めています。
文字を大きくするのと駅名票画像追加以上の改装については、
このカテゴリーでお知らせ致します。

3月5日、下記の記事の大幅リニューアルを実施しました。

越後線・青山駅越後赤塚駅

信越本線・越後石山駅

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