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2012年3月の記事

2012年3月25日 (日)

関山駅(信越本線)

本日の駅紹介は信越本線・関山駅。

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新潟県妙高市に所在する有人駅で、開業は明治19年(1886年)8月15日。
開業当時は中頸城郡関山村の所在で、同村は昭和30年3月に周辺諸村と合併して妙高村となり、関山村・妙高村時代を通じて唯一の鉄道駅が関山駅でした。
妙高村は平成17年4月に近隣の新井市・妙高高原町と合併して新自治体・妙高市の一部となり現在に至ります。

新潟県内初の鉄道の南側起点はこの駅で(北側は直江津駅)、新潟県鉄道発祥の地として本来注目されるべき存在なのですけれど、開業当時と現在とでは駅の立地が違う事もあり、また南隣の観光・レジャーの一大玄関駅であった妙高高原駅の陰に隠れてしまって、新潟県の鉄道史上に名を残す駅の一つでありながら、際立って地味な存在です。

当地は昔から山越えの関所が置かれていて、地名はそれに由来するそうです。
江戸時代は北国街道の宿場町として栄えました。
南隣の妙高高原駅(旧駅名は田口駅)は、駅設置に当たって宿場町が猛反対した為に、街の中心から外れた土地に駅を置かざるをえませんでしたけれど、当駅についてはそのような話に行き当たらなかったので、その設置は比較的スムーズに事が運んだのかもしれません。
戦前は田口駅よりは関山駅の方が観光レジャーの玄関駅としての機能が高かったようで、また妙高山麓の陸軍演習地の最寄駅としての機能も併せ持っていました。
戦後は田口駅周辺地域のレジャー開発が進み、昭和44年には現駅名の「妙高高原」に改名して特急も停車。
名実共に妙高一帯の玄関駅として全盛期を迎える一方で、当駅はローカル急行が僅かに停車するだけの寂しい状況に。
昭和60年10月には開業以来の旧駅から長野方に移設してスイッチバックを解消し、新潟県内最古の鉄道駅の一つという勲章も完全に過去の物になってしまいました。
当駅悲願の特急停車は、1997年10月の北陸新幹線長野開業時にそれまでの急行「赤倉」を格上げした特急「みのり」停車でようやく実現したものの、「みのり」の新潟-長野便は2001年12月改正で廃止されてしまったので、当駅に定期特急列車が停車したのは結局僅か4年と二ヶ月でした・・・。

JR東日本のHPによると、2010年度の関山駅一日平均乗車人員は190人で、同社新潟県内有人75駅中67位。
上越線・越後川口駅や磐越西線・津川駅と同レベルです。
当駅のライバルである妙高高原駅は、北陸新幹線長野開業によって上野からの直通列車が廃止され、定期優等列車自体が現在では全廃されてしまってすっかり寂しくなってしまいましたが、それでも一日平均乗車人員は390人で当駅の約2倍です。

関山駅駅舎全景
関山駅駅舎の様子、2009年7月撮影。
前述の駅移転(昭和60年10月)に伴い新築されました。
ヨーロッパ風のメルヘンチックな建物で、観光拠点としてのイメージアップを!という関係者の意気込みが感じられます。
妙高高原駅の駅舎のような平屋の国鉄定番型よりも、このデザインの方が妙高一帯のリゾートとしてのイメージにはよく合っていると思うのですけれど。

駅舎内改札口周りの様子
駅舎内待合室出入り口周りの様子
関山駅駅舎内部の様子、2009年7月撮影。
駅舎内は小奇麗で、駅舎デザインと相まって好感度高し。
待合室(下の画像中央のドアが出入り口)は観光案内所併設で、この時点での開放時間は07:00~18:00。
これを撮影したのは土曜日の午前11時頃でしたが、肝心の観光案内所は閉まっていました。
役所がやっているので土曜は休みなのでしょうが、「観光」と銘打っている以上、土日こそ開いて地域のアピールに励んでいただきたいところです

妙高高原方から見た駅構内
妙高高原駅方から見た関山駅構内、2004年9月撮影。
単線上の島式ホームです。
駅舎とは正反対に、あまり面白味はありませんな・・・。

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妙高高原駅方を見る、2009年7月撮影。
線路は右側にカーブしていて、ホームからの見通しはイマイチ。

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跨線橋出入り口付近の様子、2009年7月撮影。
ホーム上に上屋がかかっているのはこの辺りだけです。

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島式ホーム二本木方から見た関山駅構内、2009年7月撮影。
直江津方面側のみ突出しているという少々不思議な造りのホームです。

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ホーム端から見た二本木方の線路配置、2009年7月撮影。
右側が本線、左側がスイッチバック時代の旧線です。

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跨線橋出入り口から妙高高原駅方を見通す、2009年7月撮影。
上屋は電車一両分ほどしか無いので、豪雪地帯にある関山駅の冬季の乗降は特定の車両に嫌でも集中しそうです。

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信越線・直江津-長野間の華である189系電車「妙高」号、2009年7月撮影。

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跨線橋上から妙高高原駅方を見る、2009年7月撮影。

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関山駅前の様子、2009年7月撮影。
駅周辺には雑貨店、信金、酒屋、蕎麦屋という按配。
民家と商店の混在した通りです。
なお関山駅前発着のバス路線は旧妙高村内連絡用で、新井駅至近の新井バスターミナルと当地を結ぶ頸南バス関山線は駅前まで入ってきませんのでご注意ください(土休日全便運休)→ダイヤはこちら

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駅前通りの陸橋から見た関山駅構内、2004年9月撮影。
構内跨線橋と駅舎の位置関係がよくわかります。

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同じく二本木駅方を見る、2009年7月撮影。

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跨線橋から見た線路の方角を頼りに進み、何度か行きつ戻りつして辿り着いたのが関山旧駅跡、2004年9月撮影。
廃駅後19年目の様子です。
線路は保線用としてまだ生きているようなので、構内に入るのは断念して旧1番ホーム?跡から観察しました。
1番線の線路は撤去されていましたが、島式ホームの2、3番線は健在。
ただ1番ホームから観察した限り、2番線は途中で車止めが置いてありました。
旧駅舎跡は畑などになっていて、周辺はすっかり住宅街。
そんな中の小道を入るとこんな光景に出くわすのです。
朽ち果てて雑草に埋もれつつある駅名標が印象的です。

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関山駅から500mほど西方に進むと国道18号線に出ます、2009年7月撮影。
付近にはコンビ二とスーパーが各一軒有り。

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交通量の多い国道を横断してなお500m程進むと到着するのが、
関山駅周辺最大の見どころである関山神社、2009年7月撮影。
第四十三代天皇であられる元明天皇在位の頃と言いますから、西暦700年代初めの開基だそうです。
木曽義仲公や上杉謙信公の信仰厚かったという、神社でありながら平安時代からの石仏が史跡として現存しているように仏教の色濃いところであります。
現在の本殿は文政元年(1818年)建立との事。

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個人的に最も目を惹いたのがコレ、帝国海軍一等巡洋艦「妙高」の20サンチ主砲弾(中央の大きな砲弾)とその四方に置かれた12サンチ高角砲弾、2009年7月撮影。
「妙高」の艦内神社に関山神社の御神体の分身(一部)を奉祀した由縁です。
拝殿には「妙高」の軍艦旗なども奉納されているそうですが、そちらは残念ながら未見。
重巡洋艦「妙高」は関山神社の御加護か、僚艦が次々と戦没する中を生き延び、敵潜の雷撃で艦尾を吹き飛ばされて航行不能ではありましたが、シンガポールで無事終戦を迎えました。
「妙高」が雷撃を受けたのは、レイテ沖海戦後に日本本土に帰る途中の事で、もし雷撃を受けずに本土に帰還していたら、燃料不足で軍港に係留されたまま敵機動部隊の空襲に晒されて沈められていたでしょう。
なのでこの雷撃損傷も不幸中の幸いというべきか
やはり神の御加護があったからというべきでしょうか。

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2012年3月17日 (土)

二本木駅(えちごトキめき鉄道)

本日の駅紹介はえちごトキめき鉄道・二本木駅。

2017年3月12日記、画像貼り替え及び加筆修正を実施しました。

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新潟県上越市に所在する有人駅で、開業は明治44年(1911年)5月1日。
今や日本で僅少となったスイッチバック式の停車場であります。
永らく国鉄/JR東日本の信越本線の駅として歩んでまいりましたが、2015年3月14日に第三セクター鉄道の「えちごトキめき鉄道」に移管されて、同鉄道の「妙高はねうまライン」の駅に転じて今日に至ります。
駅開業当時は東頸城郡中郷村の所在で、同村唯一の停車場にして玄関駅でありました。
中郷村は明治22年に発足以来、116年間もの長期に渡って他自治体との合併も無く単独で存在し続けていましたが、平成の大合併の荒波には抗えずに2005年に上越市に編入されて、その南端地域となり今日に至ります。
なお、旧中郷村の北隣の旧新井市は旧中郷村の南隣の旧妙高村・旧妙高高原町と合併して新自治体・妙高市になった為に、中郷地域は上越市の飛び地のような状態になって、妙高はねうまラインでは直江津駅から上越妙高駅まで上越市内、次の北新井新井両駅は妙高市、そして二本木駅はまた上越市内と部外の訪問者が戸惑うような形になっています。

さて二本木駅周辺はスイッチバックが物語るように、千分の二十五という急勾配区間にあったのが災いして、明治19年(1886年)に官鉄・直江津-関山間が開業した当初は停車場設置が見送られて、その後の中郷村他周辺諸村連名の停車場開設請願も色良い
返答は得られなかったそうです。
その後、日露戦争中の明治38年(1905年)に、東頸城地域の中心地である高田町(現・上越市)が、新編された帝国陸軍第13師団所属の歩兵連隊の駐屯地に選ばれると、中郷村側は当地の農産物を鉄道で駐屯地に輸送納入する利便性を主張。
ついにそれが当局に受け入れられて、二本木停車場開業となった次第です。
二本木停車場開設のきっかけになった第13師団は、大正14年(1925年)に軍縮で一旦廃止されてしまったので、二本木停車場もその存在価値の大半を失って凡百のローカル駅同様の衰退の道を・・・という訳にはいかなかったのが当駅の実に幸運なところでありました。
電力が豊富な事(恐らく当地域東側に流れる関川流域の水力発電の事だと思われます)や賃金の安さ、勾配を利用した製品工法採用により、大正8年(1919年)にまず日本
電炉(後に日本曹達と合併)、翌年に日本曹達が現在も操業している日本の電解ソーダ製造の草分けである二本木工場を建てた事で、原材料や製品の輸送が当駅から分岐する専用線から盛んに行われるようになりました。
「勾配を利用した製品工法」というのを少し説明すると、貨物線の脇が崖で谷のようになっていて、材料の原石を貨車から流し落としてその途中で砕石・溶解して、下に滑り落ちてきた時には製品になっているという仕組みだそうです。
すべり台の上から材料を落としたら下に落ちてきた時には製品になっているというイメージでしょうか、その辺は全くの門外漢なので資料を読んで理屈ではわかっても実感としてはイメージが今一つ湧いてきませんです・・・。
貨物線の脇が崖というのは、後述の駅前通りを貨物線の行き止まりの方へ進んでいくと、やがて線路が道路より随分高台になって生い茂る草木も相まって、路上から貨物線の様子を見る事が出来ないのを実地で確認済みですのでよくわかるのですけれど。 現在は専用線からの貨物列車運行も廃止されて(2007年3月)、スイッチバックの駅として好事家の注目を集めている以外は、通学の足生活の足としての地味なローカル有人駅になっています。
JR東日本によると、二本木駅が同社サイトに載っていた最後の年の2013年度の一日平均乗車人員は150人で、同社新潟県内有人75駅中70位。
当駅よりも下位にいるのは上越線・石打駅、信越線・脇野田駅、飯山線・津南駅、羽越線・府屋駅、そして米坂線・越後下関駅。
「スイッチバックの駅」としての知名度が無かったら、貨物営業終了と同時に無人化されてしまいそうな危ない位置にあったのですよ。
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二本木駅駅舎の様子、上2枚はえちごトキめき鉄道に移管後の2016年9月、一番下の画はJR東日本時代の2009年7月撮影。
えちごトキめき鉄道に移管後も、駅名板が変わり上屋を支える柱が補強?されている以外はJR時代と変わっていませんでした。
建築財産票によると、明治43年(1912年)9月の竣工。
新潟県内の鉄道駅舎として最古なのがこの駅舎。
わかりやすく言うと、帝国海軍初の超ド級巡洋戦艦「金剛」が竣工する前年にこの建物は完成しているのです。
駅舎は駅開業の約八ヶ月前に完成していた事になりますが、冬場の工事が無理なのを勘案しての前倒しだったのでしょうな。

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二本木駅駅前広場の様子、2016年9月撮影。
広場というよりは幅の広い生活道路がそのまま駅前広場という風情です。
JR時代と同様にタクシーの待機は無いようでした。

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駅前広場から駅前通り方を見る、2009年7月撮影。
広場と通りの間合いは僅かです。

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二本木駅前広場横の駅前駐車場、2009年7月撮影。
立て札には「通勤者の利用お断り」。
駅前周辺の買い物客と来訪者用との事でした。
パーク&ライドの真逆を行くものですな。
しかし買い物客って言っても、買い物する店自体がほとんど無いのに・・・。
・・・とは言っても、立て札は草に覆われて私のような好事家が近くに行って見なけりゃ何が書いてあるかわからない有様なのです。
あれでは皆、何も知らずに停めるだろうなぁ。

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二本木駅前通りの様子、2016年9月撮影。
上の画は旧新井市中心部方面、下の画は踏切及びその先の旧北国街道方面です。
通りには、かつては日本曹達御用達だったと感じられる旅館一軒と信金、雑貨店、酒屋という具合で、元商店らしき造りの空き家が目立ちます。
この通りを初めて歩いた2004年4月と、その様子はほとんど変わっていません。
唯一と言って良いほどの変化があったのは、かつてこの通りを走っていた路線バスが、現在では廃止されてデマンドの乗合タクシーになってしまった事です。
中郷村界隈と旧新井市中心部を結んでいた路線バスの廃止により、来訪者が気軽に利用できる公共交通機関は妙高はねうまラインのみとなりました。

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JR所属時代の二本木駅駅舎内部の様子、2009年7月撮影。
この時点での窓口営業時間は7時20分~17時50分。
室内には自動券売機とタバコの自販機が設置されていました。
高い天井と上部の明かり窓が古い時代の建物である事を雄弁に表しているような。
汽車の停車場の雰囲気満点でありました。

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JR所属末期の二本木駅駅舎内部の様子、2014年6月撮影。
室内空間は壁で仕切られ半分になってしまっていました。
それまでが広々としていただけに、随分窮屈になってしまった感強し。
しかし利用状況を考えれば、これでもまだ恵まれている方でしょう。
この古い駅舎に今更手を入れるとは、ひょっとして壁の向こう側にこじんまりとした新駅舎を建てるつもりなのでは!?と思ったものです。

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えちごトキめき鉄道に移管後の二本木駅駅舎内部の様子、2016年9月撮影。
心配した壁の向こう側は喫茶店の「なかごうさとまる~む」になっていました。
ただし営業日は第二、第四日曜日のみ。
この日は土曜日で、中には入れましたが誰もおらず単なる休憩所扱いでした。

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「なかごうさとまる~む」内に展示されているNゲージのレイアウト、2016年9月撮影。
二本木駅を模したと思われます。

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二本木駅駅舎から島式ホームへ続く地下道への通路の様子、2009年7月撮影。
JR時代の画ですが、上屋も柱は明治の造り、案内板は国鉄様式で実に味があります。
子供の頃に見た母の実家の倉がこんな感じで、個人的には実にノスタルジックなのであります。
ちなみに下の画の右側のドアがトイレです。

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島式ホームとの連絡地下道出入り口の様子、上はJR時代の2009年7月、下はえちごトキめき鉄道移管後の2016年9月撮影。
下の画ではそれまでの少々安っぽい感じの内壁(というよりも風除け板)に手が入れられて、アンティーク感を出しています。
古い駅舎にイメージを合わせた演出のように見えますな。

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二本木駅駅舎と島式ホームとの連絡地下道の内部の様子、2009年7月撮影。
えちごトキめき鉄道に移管後はJR関連の広告が無くなって寂しくなった他駅の跨線橋内部と違って、当駅連絡地下道の場合は逆に宣伝チラシの張り出しが増えていました。
まぁこの画を見ればわかるように、JR時代は近隣諸駅と比べて殺風景過ぎたのですけれど。

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駅舎との連絡地下道出入り口から見た、二本木駅島式ホームの様子、2016年9月撮影。
優等列車の停車しない駅のそれとしては、際立って長大な上屋です。
ホームの先では子供たちの人だかりが出来ていて、ホーム上では物産品の出店が。
一体何事か?といぶかしんでいたら、えちごトキめき鉄道のリゾート列車「雪月花」向けのイベントでした。
しかしここで営業をかけても、「雪月花」の乗客にどれほどの注目を集めさせることができるかどうか。
「雪月花」は私が乗車する普通列車との列車交換で入線してきたので、残念ながら撮影は出来ず。
普通列車の乗客の視線は、一斉に「雪月花」に注がれていました。
列車と言えばET127系電車ばかりで地味色一色のこの界隈では、一般人にも相当のインパクトを与える列車のようです。

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島式ホーム上の記念撮影用立て看板、2016年9月撮影。

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JR時代の二本木駅島式ホーム側の地下連絡道出入り口の様子、2009年7月撮影。
「出口」の案内板の風情が実に良いのです。

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JR時代の二本木駅構内を本線側から見る、2009年7月撮影。
画像中央がホーム上の待合室です。

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ホーム端からスイッチバックの本線方を見る、上は2005年10月、下は2016年9月撮影。
上の画の時点では、二本木駅の貨物営業はまだ健在でした。
画像右側には日本通運所属入換用ディーゼル機関車とその車庫が見えます。
当駅の貨物取扱は2007年3月に廃止され、入換用機関車の車庫は2009年7月時点で既に撤去されていて、現在(下の画)は側線にかつての盛況ぶりを見出すのみに。

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スイッチバックの線路配置は見ても見飽きたらない魅力であります、2005年10月撮影。

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二本木駅の島式ホーム中程からスイッチバックの行き止まり方を見る、2016年9月撮影。
画像右側の建物が駅舎ですが、以前と異なり上屋を支える柱の間に風除けが付けられています。
これで風雪雨の厳しい日でも、安心して駅舎から地下道出入り口まで移動できるようになりました。

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二本木駅の島式ホーム中程から本線方を見る、2005年10月撮影。

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駅構内に残る明治期から?のレンガ小屋、2009年7月撮影。

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島式ホーム上の待合室内部の様子、2009年7月撮影。
駅舎内部の待合空間が小さくなった今日では、こちらの方が広々としています。

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二本木駅の島式ホームの行き止まり方の様子、上は2004年4月、下は2016年9月撮影。
画像左側の木々の向こうが、現在も盛業の日本曹達二本木工場です。
上の画では画像奥に黄色いタンク車が多数留置中。
下の画の段階では二本木駅の貨物営業終了から9年半で、かつては貨車で賑わった側線群もすっかり廃線の様相。
貨物営業時代にホーム端にあった小屋は、2009年7月訪問時点で既に撤去されていました。
えちごトキめき鉄道の規模ではここに車両基地を移すのも無駄な事でありましょうし、今後はこの旧貨物駅の空間をどう活用していくのかですな。

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二本木駅に停車中のET127系電車妙高高原行、2016年9月撮影。

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二本木駅を出発したET127系電車、2016年9月撮影。

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二本木駅に停車して、リゾート列車「雪月花」の到着待ちのET127系電車直江津行、2016年9月撮影。
2017年3月改正ダイヤでは、夜間に直江津-二本木間の区間列車が1往復設定されています。

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二本木駅に到着した115系電車直江津行、2014年6月撮影。

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二本木駅で189系電車長野行の「妙高」と列車交換する115系電車直江津行、2009年7月撮影。

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二本木駅に停車中の189系電車直江津行「妙高」、2009年7月撮影。

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二本木駅を出発した189系電車国鉄特急色の「妙高」長野行、2014年6月撮影。
私が当駅で189系電車を見たのはこれが最後でした。

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二本木駅構内に進入する189系電車直江津行「妙高」と、貨物線で待機中のEF64形電気機関車牽引の貨物列車、2005年10月撮影。

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二本木駅構外から見た、貨物線に留置中のEF64形電気機関車重連牽引の貨物列車、2005年10月撮影。
今日では貨物列車といえばほとんどがコンテナ列車なので、黒光りするタンク車は新鮮に映りますな。

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二本木駅構内で待機中の、日本通運所属入換用ディーゼル機関車、2005年10月撮影。
2004年4月に取材目的で初めて当駅に降り立った時には、同型の青色の機関車が待機していましたけれど、アレを塗り替えたのがこの機関車なのかはたまた同型の機関車が2両配置だったのかわかりません。
しかしNゲージの小レイアウトには、国鉄型レールバス共々ぜひ欲しい一品であります。

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旧中郷村、そして二本木駅のかつての隆盛の立役者であった日本曹達の二本木工場、2009年7月撮影。
旧中郷村が116年間も単独で存続出来たのは、この工場の存在によるところがきっと大きかったのでしょう。
この工場が健在な限り、合併して上越市の飛び地的な地域になって埋没してしまうよりは、村でい続ける選択肢もあったのでは?と外部の野次馬は思うところなのですけれど。
税収はどれほどだったのか。

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二本木駅から日本曹達の工場前を経て約1km強で国道18号線に出ます、2014年6月撮影。
建物が密集している二本木駅周辺とは全く印象の異なる、スッキリとし過ぎな通りであります。

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2012年3月10日 (土)

越後寒川駅(羽越本線)

本日の駅紹介は羽越本線・越後寒川駅。

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新潟県村上市に所在する無人駅で、開業は大正13年(1924年)7月31日。
開業当時の所在は岩船郡下海府村で、同村は昭和30年3月に周辺諸村と合併して新自治体・山北村になり、同村は昭和40年11月に町制を施行して山北町に、そして平成20年4月に村上市と岩船郡他町村(関川村と粟島浦村を除く)と広域合併して新たに市制を施行して現在に至ります。(自治体名は「村上」のまま)。
駅名の由来は、下海府村発足前の当地域「寒川」村より。
新潟県北のこの地域は内陸から日本海に多数の小さな川が流れていますけれど、現在「寒川」という名前の川はありません。
当地の地名の言われについて、少し調べてみる必要がありそうです。

海岸景勝地として全国にその名を知られた「笹川流れ」。
しかしその海岸の絶景奇景の裏返しで、当駅周辺を含む笹川流れの諸地域は厳しい地勢と波浪の為に道の整備も間々ならず、長い間極めて交通不便な陸の孤島状態にありました。
従って羽越線の開通と海岸諸集落に停車場が設置された事は、この地域の住民にとって大いなる福音だったのです。
道路事情の悪さは戦後になっても相変わらずで、当地域にとって頼れるのは羽越線のみという状態が長く続きました。
蒸機末期の写真を見ると、線路に並走する道路の未整備状況がよくわかります。
羽越線に並行する国道345線は、現在では2車線に整備されて信号も少なく、車にとってはトバしやすく日本海と笹川流れを眺めつつの快適なドライブを楽しめる道路になっていますけれど、こういう状態になったのはここ三十年ほどの事なのです

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越後寒川駅舎の様子、2006年11月撮影。
建築財産票によると、竣工は平成10年12月25日。
建物上部左側の天窓が印象的な小洒落たデザインなのですが、内部の天井の高さは普通なので、上からの採光を考えたのでは無い実用性の無いモノです。
駅前広場がとても広く感じられるのは、旧駅舎の規模がかなりのものだったからと考えるところですが、旧駅舎の画像はまだ未見に付き断定は出来ません。

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駅舎内の様子、上が2006年11月、下が2010年5月撮影。
2006年11月訪問時点では券売機は未設置で、代わりに乗車証明発行機が置かれていました。
トイレは駅舎内にあって待合室の隣です。

越後寒川駅は上の画像撮影の約半年前まで委託の有人駅だったのですが、元有人駅にも関わらず券売機が置かれないというのは、当駅の利用客が少なくて券売機を早急に置く必要が無いと当局が判断しての事でしょうか。
JR東日本によると、当駅の有人駅としての最後の年度である2005年度一日平均乗車人員は27人で、当時のJR東日本新潟県内有人82駅中81位(最下位は只見線・大白川駅の10人)。
運転業務上、どれほど利用者が少なくても有人を維持する必要があった大白川駅は例外的存在ですから、この年度に実質最下位だったのはこの越後寒川駅だったのです。
東隣の勝木駅の有人最終年度(2002年度)の一日平均乗車人数は92人。
同年度の越後寒川駅のそれは30人。
周辺人口から考えても、旧山北町域内で府屋駅以外の有人駅は一つに絞るというのであれば、勝木駅有人維持・越後寒川駅無人化が妥当な判断だと思うのですが、実際はその反対の結論に。
合併前の旧諸村の発言力や力関係やらが働いてこのような結果になったのか?
駅について色々と考察する向きには非常に興味深い結論だったわけであります。
有人時代の当駅には2003年11月、2004年8月、2005年8月の三回訪れておりますが、有人と言っても駅員氏は商売っ気ゼロで窓口に座っている事は無く、大抵奥の控え室でテレビを見ているという風で、これでは有人にしておく意味も無いのでは?と強く感じたものです。

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ホームから見た越後寒川駅駅舎、2006年11月撮影。

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1番ホーム(村上方面乗り場)今川駅方から見た越後寒川駅構内、2010年5月撮影。
画像右側には横取り線があります。

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おそらくかつての貨物用ホームと側線、2010年5月撮影。
内陸から当駅勝木方に流れる葡萄川の上流には鉱山があって、産出された鉛や亜鉛が当駅から各地に出荷されていたとの事です。
また駅裏の砂山からは良質の砂が採取されて鋳物用に出荷されてもいたとの事で、貨物とはまるで無縁のように見える当駅にも隆盛期はあったのです。
ウィキペディアによると、当駅の貨物取扱い廃止は昭和47年9月との事です。

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一番ホームの端から今川駅方を見通す、2010年5月撮影。

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1番線の勝木駅方から見た越後寒川駅構内、2010年5月撮影。

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1番ホーム端から勝木駅方を見る、2010年5月撮影。

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跨線橋内の様子、2010年5月撮影。
通路は狭く味も素っ気も無く。

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跨線橋上から今川駅方面を望む、2010年5月撮影。
ご覧の通り、日本海はごく至近に。

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同じく勝木駅方を望む、2010年5月撮影。

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島式ホーム(酒田方面乗り場2・3番線)勝木方から見た越後寒川駅構内、2010年5月撮影。
島式ホームは跨線橋からホーム端まで距離が無いので、ここからの撮影は画面が跨線橋に圧倒されてしまって駅撮り的には向いていません。

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島式ホーム端から勝木駅方を見る、2010年5月撮影。
こちら側は複線になっています。

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跨線橋階段から島式ホームを見通す、2010年5月撮影。

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越後寒川駅島式ホーム上の待合室内部、2010年5月撮影。
建築財産票によると、待合室の竣工は大正14年6月。

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島式ホームから見た越後寒川駅構内中央部の様子、2010年5月撮影。

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島式ホーム今川駅方から見た駅構内、2010年5月撮影。

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島式ホーム端から今川駅方を見る、2010年5月撮影。
こちら側は単線です。

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一番線を通過する485系電車R編成の特急「いなほ」、2010年5月撮影。
この日当駅を再訪した理由は「いなほ」の通過画像撮影の為。この当時、次のダイヤ改正(2011年3月)で常磐線に新型特急電車が投入されて、玉突きでE653系が「いなほ」投入されて485系は少なくとも未リニューアル車は運用から撤退!という噂が流れていて、それに踊らされた私は、葬式鉄で騒ぎになる前に撮影しておこうと思い立った次第。
蓋を開けてみれば、実際にそうなるのは最短でも来年のダイヤ改正(2013年3月)なので、今考えると異常に焦り過ぎだったなぁと反省しきりなのであります。

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越後寒川駅1番線を通過する485系国鉄特急色の特急「いなほ」新潟行、2013年5月撮影。

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越後寒川駅1番線を通過した485系電車T編成の特急「いなほ」新潟行、2013年9月撮影。

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1番線を通過する485系電車国鉄特急色の団体列車、2010年5月撮影。

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3番線を通過中の貨物列車、2004年8月撮影。
当駅は一番線(上り)と三番線(下り)が本線で、二番線が待避線です。

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3番線に停車中のキハ40系気動車酒田行普通列車、2003年11月撮影。
当時も今も、羽越線村上-酒田間普通列車の主力はキハ40系。
エンジンの音も高らかに日本海沿岸を進む姿は、いぶし銀の味があって個人的に大好きなのですが、一部で言われるように確かにノロいのは事実ですな。

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越後寒川駅1番線を出発するキハ40系気動車の普通列車村上行、2010年6月撮影。

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線路と並行する駅前通りの様子、2010年5月撮影。
通りは車一台分の路地という風で、通年民宿一軒と郵便局が目立つ程度の鄙びた漁村の印象です。

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今川方の踏切から見た越後寒川駅構内、2010年5月撮影。

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踏切を渡るとすぐに国道345号に出ます、2006年11月撮影。
羽越線勝木-桑川間には路線バスの設定がありません。
越後寒川駅と今川駅への公共交通機関でのアクセスは羽越線のみ
になります。
2015年現在、村上-寒川間に土休日運休の路線バスが運行されております。
→詳しくは「新潟交通観光バス(株)」を検索ください。

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越後寒川駅から今川方面に約1.5km進むと脇川漁港に到着。
2004年8月撮影。
村上市内に所在する漁港6港のうちの一つです。
安土桃山時代末期には漁港として成立していたようで、漁業以外に生活の糧の乏しかったこの地域にとっては至極当然の存在でしょう。
現在の漁獲高は175.7トン(平成19年度)で、勝木駅エントリーで紹介した寝屋漁港は同年度1664.7トン。寝屋漁港の一割強の漁獲高です。

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今川駅へと至る国道345号線を歩いての笹川流れ点描、2004年8月撮影。
8月下旬の暑い日で、大汗掻きながらてくてくと歩いてみました。
一番下の画の水平線に見える島は粟島です。
新潟には離島が二島(佐渡と粟島)がありますが、私は佐渡には仕事で一度行ったきり、粟島は未踏の地であります。
今年辺り、行く機会があったらいいなぁ。

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2012年3月 4日 (日)

アキバブルーとアキバイエローに血も魂も捧げたい

海賊戦隊ゴーカイジャーが終わり特命戦隊ゴーバスターズが始まり・・・。
以前に書いたように、本日のゴーバスターズは視聴しませんでした。
ヒロイン変身後があのユニセックスなデザインでは、戦隊ヒロイン女形の至宝
であられる蜂須賀祐一さんが演じていても、たとい野川瑞穂さんが演じていても、
録画する気も起きないもんね、もう・・・。

しかし捨てる神あれば拾う神ありとでも言えましょうか、戦隊ヒロイン変身後専フェチ
の喉の渇きを一気に癒しそうな作品がっ!
これも以前にちょろっと書きましたが、

「非公認戦隊アキバレンジャー」

なのであります!

幼児向けという枷が外れているせいか、スーツデザインもなかなかにフェテ
ッシュであります。
女性のアキバブルーとアキバイエローは、ブラジャーを模したデザインで胸を
強調。
マスクは私がミスアメリカとピンクファイブで刷り込まされた、もう辛抱たまらん
エロスなくちびる付きで、アキバブルーはポニーテール、アキバイエローはツインテール!
一部で言われているように「花のくのいち組」に似たデザインで、これでブルー
の下半身がハイレグデザインだったらもう言う事ないのに・・・とそこだけが惜しいですなぁ。

ゴーカイジャーの紹介をしていて強く感じたのですが、やはり幼児向けヒーロー
番組に露骨にエロスやフェチな視線を送るというのは、何だか良心が咎める部分
があります。
一方、某AVメーカーの変身ヒロインモノだと、演技は学芸会レベルだし殺陣もアレ
だし、肝心のエロもキモい男たちがヒロイン一人に群がる構図だったり、
なんだかな~なんであります。
私がつらつら思うに、変身ヒロイン萌えの本分は、演技やアクションの中でチラリ
と見えるエロスを拡大昇華させて萌えるという一点に尽きますからね。
決してヒロインのコスプレをして男にヤラれて、ひーひーとよがっているものでは
ありません。
そんな私にとってこの手の作品は、「オトナ戦隊」ですからエロい視線を何の
はばかりも無く巡らせられて、なおかつ演技もそこそこでアクションは本格的と
いう、一口で三個も四個も美味しい甘~いキャラメルのようなものなのなのです。

PVを見て、アキバブルーの動きがちょっと男っぽく見えたので、これはもしか
して体型が女性並みに細くてアクションが出来る女形の新星登場かっ!
とドキドキワクワクだったのですけれど、番組サイトの本日更新分を見ると
ブルー、イエロー共にどうやら女性のようであります。
キャストの並びがブルー、イエローの順だとすると、アキバブルーの方は二十歳そこ
そこのおねいさん(ブログ有り)で、Zen作品でスーツアクトレスの経験があるようです。
アキバイエローの方は二十代後半で映遊作品でスーツアクトレスをされていますな。
(こちらもブログあり)。
お二人とも「撮影」に言及されているので、それは多分この「アキバレンジャー」
なんでしょう。
アキバブルーの方は脚を怪我されたとの事で、どうかご自愛くださいませ。

さてこの作品、この春からBS朝日で放送するそうで、田舎住まいの私も視聴出来て
まずは一安心。
テレビ東京あたりでやられると、ウチの県で放送する可能性は絶無ですから。
ウルトラQダークファンタジーもウルトラセブンXもライオン丸も一切放送しておりませ
んのでorz。
そしてこの展開具合では画像集も出そうな予感もして、それも期待大なのであります。
変身後専画像集ならゲットはまず確実でしょうな。

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2012年3月 3日 (土)

石地駅(越後線)

本日の駅紹介は越後線・石地駅。

2017年3月12日記、「石地駅」の旧記事を新記事に統合しました。

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新潟県柏崎市の東端に所在する無人駅で、大正元年(1912年)11月11日の開業。
開業当時の所在は刈羽郡内郷村で、同村は昭和31年に石地町と合併して朝日町となり、その三年後には西隣の二田村と合併して西山町が発足。
しかし町の中心は旧二田村地域で、自治体としては格上だった旧石地町地域ではないところが外部から見ると非常に興味深いところ。
交通の利便性は、海岸沿いに広がる旧石地町域よりも、越後線と国道の二本柱を擁する旧二田村域の方が遥かに上なのではありますけれど・・・。
その西山町も平成17年5月に柏崎市に編入されて今日に至ります。 前述のように、そもそもの当駅周辺地域は「石地」ではなく内郷村の「別山」地区で、当地域から海岸沿いの石地地域までは5km近い距離があります。
それだけ距離があるにも関わらず、当駅が「石地」を名乗っているのは、同じく越後線の西中通駅の例同様に、石地地域にある「石地漁港」の存在が大きく影響しているのではと推察しているのですが・・・。
漁港に揚がった海産物を当駅まで運んで出荷、駅にとっては貨物の大得意様ゆえに、その自治体名を駅名に採用して顔を立てる・・・というカラクリだと思うのですが、町誌にそんな事は一行たりとも書かれていないので、全て私個人の妄想ですw。
続西山町誌によると、昭和40年度の石地駅旅客乗車人員は246,462人で、一日平均675人。
昭和53年のそれは120,564人・330人。
同年度の西山駅のそれが148,868人・408人で、平成18年度のそれが18,800人・52人(柏崎市統計年鑑より)で、28年で約87%ダウンですから、石地駅にその数字を当てはめれば平成18年度のそれは43人というところでしょうか。 また貨物についても、昭和35年の当駅出荷は5,445トンと、西山駅の4,426トン、礼拝駅の1,460トンを凌いでいるのが意外です。
続西山町誌によると、昭和48年8月に帝石KK専用線撤去という記述があるので、石地駅のかつての貨物出荷量の多さは、この専用線と関連しての事だと思われます。
当地域は西山駅エントリーで紹介した「長嶺鎌田油帯」に隣接した「別山油帯」を有しており、この油帯の本格的開発は昭和8年からで西山油田の諸油帯中後発であり、昭和30年代には鉄道貨物での石油輸送がまだ成立するだけの産油量があったのでは?と思えるのです。
しかしその貨物輸送も、昭和48年末に廃止されてしまったとの事です。

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石地駅駅舎の様子、2011年4月撮影。
建築財産票によれば、平成4年1月21日竣工。
駅前広場は広大で駐車スペースも充分です。
この広さはかつての石油輸送と関係しているのでしょうか?

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石地駅駅舎内部の様子、2011年4月撮影。
ウィキペディアによると、当駅が委託解除されて無人化されたのは平成4年との事。
現在の駅舎竣工が同年1月ですから、無人化は現駅舎竣工と同時だったのか、それとも僅かな期間ながらこの駅舎に人が詰めていた事があったのか?
駅舎の造りを見るに、一応は有人前提で設計されているのでは?とも思えるのですが・・・。

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ホームの礼拝駅方から見た石地駅構内、2011年4月撮影。
1991年に棒線化されて20年経ちますが、旧ホームは未だ原型を留めています。
なお昭和60年3月改正ダイヤを見ると、当駅での列車交換は一日二回あったようで、早期に遊休化していた訳ではないようです。
この当時は石地駅に上下合わせて24本の列車が停車していました。
現在(2017年3月改正ダイヤ)は18本で、本数が減った分列車交換設備の撤去(当駅)と遊休化(分水駅)が実施されたのでしょう。

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石地駅の廃ホームに残っていた駅名標、2004年5月撮影。
棒線化されて13年も経つのに、この駅名標は真新しいままなのが不思議。
2011年4月に再訪した時には撤去済みでした。

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ホーム端から礼拝駅方を見る、2011年4月撮影。
この先に踏切があるのですが、線路のカーブの為に踏切から駅への見通しが出来ないのは残念なところ。

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石地駅駅舎ホーム側の様子、2011年4月撮影。
建物右側のドアがトイレで、男女兼用水洗です。

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小木ノ城駅方から見た石地駅構内、2011年4月撮影。
画像右下に見えるのは貨物用ホーム跡でしょうか?

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ホーム端から小木ノ城駅方を見る、2011年4月撮影。
2本のホームは千鳥配置です。

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石地駅を出発する夕刻の115系電車柏崎行、2011年4月撮影。

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石地駅を通過するキハ58系気動車「なつかしの急行ひめかわ号」、2004年10月撮影。
当時は只見線や米坂線でも「なつかしの急行」が運転されていました。
この日は台風が接近する荒れ模様の天気で、撮影後、出雲崎駅まで約7km歩く間に雨に降られて散々なことに。
こんなこともあろうかと替えのズボンを持っていって大正解でしたな。

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石地駅前広場の様子、2011年4月撮影。
駅前広場には石地郵便局があります。

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石地駅駅舎から駅前通りを見る、2011年4月撮影。
当駅周辺にはスーパー・コンビニともありません。
また路線バスの設定は無く公共交通は不便、山がちな周辺のロケーションも相まって、越後線の駅の中で最も鄙びた雰囲気です。

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石地駅から歩いてすぐの、越後線に並行する県道の様子、2011年4月撮影。
路線バスの廃止整理が現在ほど深化していなかった十数年前の道路地図を見ても、この県道に路線バス設定は無く、相当以前よりバス空白地帯であった事が窺えます。

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