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2009年12月の記事

2009年12月30日 (水)

F-35計画に日本も参加か!?

備忘録的に・・・

日米両政府が、米英を中心とする次世代戦闘機F35の国際共同開発への日本の
参加を検討していることが29日、分かった。航空自衛隊向けの製品に関与を限定し、
武器輸出三原則に抵触するのを回避する方針。空自の次期主力戦闘機(FX)早期
導入に道を開くのが狙いだ。→http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122901000411.html

F-35は計画コストが膨れ上がって関係各国皆いっぱいいっぱいの様子。
主催の米国としては日本を計画に引き込む事に躊躇は無いでしょう。
日本を引き込めれば計画資金も潤沢になるというもの。
問題はソース元でも触れられているように「武器輸出三原則」との絡みをどうするの
かという点。
私はこれまでこの問題を克服するには
「F-35ベースの空自仕様型を日米共同開発、別ナンバーを付ける事でコレはF-
35ではないので共同開発体制に抵触しないと国内世論も計画参加国も言いくるめる」
以前より小声ながら主張しておった次第ですが、どうやらそんなセコい手は使わずに
正面突破を図りそうな気配です。
天下の大幹事長オザー先生ニムの鶴の一声、

「武器の共同開発に参加しちゃいけないって憲法のどこに書いて
あんのかっちゅーの!」
「原則なんてモンは絶対のモンじゃなくて、情勢の変化でもいくらでも変わるもんだっ
ちゅーの!」

米国も日本のネトウヨ諸氏もこれに期待ですかね。
ボーイング社のお歴々が「お土産」を携えて、年明け早々にも大幹事長先生ニムの
謁見を賜るべく来日というつうかいなニュースが見られるやもしれませぬ。

まぁしかし・・・、
社民党が政権に加わっている間はこの件の議論すら無理なのではないでしょうか。
何しろあの党の金科玉条の一つに関わる大問題なのですから。
党首女史同志が「わたしたち社民党はぁ~」と、例の妙な抑揚の付いた発音と底
の割れたビー玉のような目から鈍い光を放ちながら、
「連立解消の決意」
をおっしゃる画づらが目に浮かびます。
そして現在のところ、大幹事長先生ニムは普天間の問題に象徴されるように、社民
党の意向を最大限尊重する姿勢に揺るぎを見せておりませんからね。
武器輸出三原則見直しの話は来夏の参院選で民主党が単独過半数を確保してのち
の事となるでしょう。
ただ民主党が衆参で単独過半数を取ったところで、この問題・・・というかファントム
後継機導入事案がそのまますんなり通るとはとても思えませんし。
全ては来年度に見直される防衛政策と新たな防衛大綱別表次第ですな。

蛇足ながら・・・
大幹事長オザー先生ニムは参院選に勝利しても、社民党を連立に留めておくん
じゃないかなぁ・・・。
あの党を引き込んでおいた方が、中国様の意向に背く問題を米国から突きつけ
られた場合、「国内事情」の一言で押し切れるもんね。
外交にしても安保にしても。
反米媚中愛朝路線を突き進むに当たって、あんな利用しがいのある美味しい政党
は無いですよ(笑)。

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2009年12月20日 (日)

西山駅(越後線)

本日の駅紹介は越後線・西山駅。

2017年3月20日記、画像貼り替えと加筆修正を実施しました。

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新潟県柏崎市に所在する無人駅で、大正元年(1912年)11月11日の開業です。
駅開業時の所在自治体については明記された資料を発見出来なかったのですが、かつて旧西山町と刈羽村に跨って二田村が存在した事(西山駅は刈羽村との境界近くにあります)と、駅至近に「二田小学校」が存在する事などを考え合わせると、刈羽郡二田村の所在ではなかったかと推測しているのですけれど、実際は如何に?
その後の合併で昭和34年に西山町が誕生、平成17年5月1日をもって柏崎市に編入されて今日に至ります。
なお田中角栄元首相の出身地が西山町(二田村)なのは皆様ご存知の通り。 さて西山と言えば触れずにはおけないのが油田の存在。
このエントリーを書くに当たり、県立図書館で西山町誌などを少し勉強してきました。
かいつまんで述べさせていただくと・・・
旧西山町域はかつて日本屈指の大油田地帯で、それは概ね五つの地域に分かれます。(中央、長嶺鎌田、宮川後谷、別山、石地)
この中で最大規模の油田だったのが長嶺鎌田で、越後線西山-礼拝石地間の北方(海岸側)に、線路に沿う形で存在していました。
西山駅に最も近い長嶺では明治29年に最初の油井から噴油、その後長嶺から東の地域でも相次いで噴油し、それらを総称して長嶺鎌田油田と呼ばれるようになります。
明治33年には柏崎の製油所とこの油田を結ぶパイプラインが完成。
明治38年には早くも油脈の枯渇が起こるのですが、深層堀りに着手して最初の油脈(地下200m前後)から80m前後下に二つ目の油脈を発見、さらに明治40年頃にはさらに下の三つ目の油脈(地下450m前後)に到達、再び勢いを取り戻します。
しかしこれも明治43年頃に油量減の兆しが見え始め、45年に日本石油がロータリー式掘削技術(今日最も一般的な油田掘削技術)導入で再度復活。
その華麗なる再復活の最中に開業したのが西山駅だったのです。
長嶺鎌田油田の産出量ピークは大正4年の年産55万石(およそ5500KL)で、西山駅は産出された原油の輸送で活況を呈し、各油田との専用線やパイプラインが引かれまた皇族や有名人、外国人技術者の往来も盛んな為に、駅舎にはそれらの人々用に一等待合室が設けられるほどだったといいます。
この時期はこの地域が日本を代表する大油田としてまさに輝いていたのです。
しかしその活況も長くは続かず、大正末期にはピーク時の半分弱まで産出量が低下してしまっています。
石油会社も新田開発の軸足を当地域より西方の高町油田(越後線刈羽荒浜間に並行)へ移してしまいました。
長嶺鎌田油田のその後については触れられていなかったので、どのような終焉を迎えたかは残念ながら定かではないのですけれど、新たな高町油田も地層がロータリー掘削に向いていた為乱掘状態に陥り、昭和5年の年間58万石をピークに以後急速に枯渇、昭和30年代末に事実上の終焉を迎えたとの事です・・・。
このような、かつては短いながらも燦然と輝く栄光の中にあった西山駅ですけれど、貨物輸送は昭和51年9月に廃止。
広々とした駅前広場と場違いなまでに広大な貨物線跡に当時の面影を残すのみです。
続西山町誌によると、当駅の昭和53年度乗車人員は一日平均約407人、
柏崎市統計年鑑によると平成20年度のそれは約40人。
油田が消え貨物も去り無人化され、29年間で8割以上の旅客が当駅から消えているのです。

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西山駅駅舎の様子、2013年6月撮影。
建築財産票によると、駅舎竣工は平成4年12月25日。
小造りながらなかなか味のある、木の多用で温かみも感じられる建物です。

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西山駅駅前通りの様子、2013年6月撮影。
駅前広場に派出所があるので、治安面では上々の通りです。
ここから踏切まで建ち並ぶ民家の中には旅館を思わせる造りもあります。
西山町誌を見ると、昭和40年代初めまでは当駅の貨物取り扱いは活発で、旅客人員も現在の20倍以上でした。
その時期には旅館を営んでいた方がいるのかもしれません。

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西山駅を出て踏切を渡り、車が忙しく行き交う国道116号線に出ます、2012年6月撮影。
この界隈にはコンビニと第四銀行の支店が出店していて、隣の礼拝駅周辺に比べると利便性ははるかに上と言えます。
現在の駅利用者はおそらく礼拝駅の方が多いと思われますが、クルマでとなると話はまた別なのです。
またこの国道には越後交通運行の路線バス長岡柏崎線が通っていて、長岡、柏崎両駅に直接行ける他に越後線内の礼拝、西中通各駅への移動に使えます。
ただし駅前に直接乗りつけるわけではないので注意が必要。
刈羽、荒浜、東柏崎両駅に関してはバス停から少々遠いのが難点です。

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西山駅前広場の旧貨物線側を見る、2013年6月撮影。
この時点では跡地の活用はほとんど行われておらず、廃線跡の寂寥感が漂っています。
駅前広場が大きいだけに、その感は他駅のそれよりも強いのです。

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西山駅駅舎内部の様子、2012年6月撮影。
ベンチが退色した朱色の長物ベンチからJR東日本定番型に更新された以外は、前回訪問の2006年10月時と変化無し。
この時点では自動券売機、乗車証明書発行機共に未設置です。

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1番ホームの礼拝駅方から見た西山駅構内、2012年6月撮影。
6月上旬の夕方5時過ぎの西日で画像はまっくろけなのが極めて遺憾。
駅舎や駅前広場を撮るのは午後、駅構内を撮るのは午前が順光なので、次の訪問は午前中じゃないとあきませんなぁ。

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1番ホーム端から礼拝駅方を見る、2012年6月撮影。
古い時代に作られた駅の常として、西山駅構内のホーム配置もやはり千鳥型。
画像左側がかつての貨物線跡です。

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かつての貨物線跡の様子、2005年5月撮影。
2012年6月訪問時には雑草に埋もれかかっていましたが、この当時はまだしっかりと残っていました。
線路保守の待機にでも活用されていたのかも。

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西山駅1番ホームの駅舎と跨線橋の位置関係、2012年6月撮影。
トイレは建物の左手にあり、この時点では男女兼用で妙法寺駅のような洋式化による簡易バリアフリー化は行われていませんでした。
上屋は駅舎の庇部分だけで、その趣はローカル線の駅そのもの。
石油の出荷で賑わい、また越後線唯一の急行列車「ひめかわ」の停車駅であった栄光の時代も遠い昔の話です。
なお当駅は列車交換駅ですが、交換の無い場合の列車発着は1番ホームになります。

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駅舎前から振り返って、構内の礼拝駅方を見通す、2012年6月撮影。
この時点では現在のホームの有効長を示す黄色の太線はまだ引かれていません。

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1番ホームの刈羽駅方から見た西山駅構内、2012年6月撮影。
1番ホームの跨線橋出入り口はホームの丁度中程に置かれています。

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1番ホーム端から刈羽駅方を見通す、2012年6月撮影。

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西山駅跨線橋内部の様子、2012年6月撮影。
国鉄時代の小駅の跨線橋として標準仕様です。

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跨線橋上から西山駅構内礼拝駅方を見る、2012年6月撮影。
画像左上の空き地がかつての貨物線跡です。
現在の2本の線路の間には中線が2本ぐらい引かれていたような空間が。

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同じく刈羽駅方を見る、2013年9月撮影。
画像左側の2番線は雑草がはびこり廃線のような様相ですが、しっかり生きていますので念の為。
2017年3月改正ダイヤでは1日五回の列車交換が行われていて、越後線南部区間の列車交換駅4駅(寺泊小島谷出雲崎、そして当駅)の中では最も交換回数が多いのです。

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西山駅2番ホームの跨線橋出入り口廻りの様子、2012年6月撮影。
ホームの中程にある1番とは異なり、刈羽駅方の端に置かれています。

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跨線橋手前から見た西山駅2番ホームの様子、2012年6月撮影。
こちらには上屋は無く、小さな待合室があるだけです。

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西山駅2番ホーム待合室内部の様子、2012年6月撮影。
建築財産票によると昭和47年9月の完成。
列車が入ってくるのは1日五回のホームですが、待合室内のベンチはしっかりJR東日本定番型に更新済みなのは律儀な事と言えましょうか。

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2番ホームの礼拝駅方から見た西山駅構内、2012年6月撮影。
画像左側のすぐ向こうには国道116号線が通っているので、この2番ホーム側に出入り口を設ければ、これまで踏切を渡って大きく迂回して駅にやって来る利用者には大いなる福音になると思うのですよ。

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刈羽駅方の踏切から見た西山駅構内、2012年6月撮影。
画像両側の出発信号、これこそが当駅が寂れた停留所ではなく今もなお停車場である何よりの証なのです。

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115系電車柏崎行が秋風爽やかな西山駅2番線に到着、2013年9月撮影。
この後1番線に入る吉田行との列車交換です。

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西山駅1番線に進入する115系電車吉田行、2013年9月撮影。
前述したように当駅構内を撮影するのは午前中がベストなのですけれど、この時は列車交換の様子だけ撮影して吉田行に乗車して移動というスケジュール。
今考えれば、しばらくここに居て構内撮影をすればよかったなぁと少々反省。
その時はベストな判断と思っても、後々後悔するのはよくあることです。
特に越後線南部区間のような過疎路線では。

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2009年12月13日 (日)

入広瀬駅(只見線)

本日の駅紹介は只見線・入広瀬駅。

2016年2月28日記、画像追加と一部加筆修正しました。

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新潟県魚沼市に所在する有人駅で、昭和17年(1942年)11月1日の開業です。
開業当時は北蒲原郡北魚沼郡入広瀬村の所在で、その後平成16年11月1日に周辺町村と合併して魚沼市の一部となり現在に至ります。

かつて只見線唯一の急行として異彩を放っていた「奥只見」も停車していた入広瀬駅ですが、その「奥只見」が昭和62年11月末に実質廃止になってしまうと、特段な華やぎもない一ローカル駅に変わってしまいました。

入広瀬駅を行き来する定期列車も当時の急行を含め一日7往復から現在は5往復の寂しさです。
資料によると、貨物取り扱い廃止は昭和51年9月(近隣の有人駅・越後広瀬越後須原両駅も同時期)、国鉄職員の配置が無くなり委託駅化されたのは昭和56年4月の事でした。
2008年度の一日平均乗車人員は31人!で、JR東日本新潟県内有人76駅中最下位。
前年度限りでそれまで最下位独走だった、同じく只見線の大白川駅が無人化された為に繰上げ?で当駅が最下位の座に着く事となってしまいました・・・。
ブービーは越後須原駅ですがその乗車人員は61人で当駅の約二倍。
周辺人口の差を考えると、当駅の最下位は残念ながら揺るがないものと思われます。
なお資料によると昭和50年代半ばの一日平均旅客は310人。
おそらく乗降の総数でしょうから、乗車人員は150~160人程でしょう。
単純計算で一列車当たり当時10人強(上下14本)、現在は3人強(上下10本)。

入広瀬村時代は村の玄関口として、確かに有人駅の意味もあったでしょう。
しかし広域合併された現在、有人駅であり続ける意義も正直・・・。
入広瀬駅最大のお得意様であろう小出以遠の高校に通学する学生の定期券は、越後須原駅で購入出来ればいいわけで。
駅と合築の「雪国観光会館」の管理の問題があるでしょうから、利用実態のみを取り上げて無人化云々は中々言えないのかもしれませんけれど。

追記
入広瀬駅はその後2010年4月1日付で、越後須原駅と共に委託解除されて無人化されました。
この2駅の無人化で、只見線・小出-只見間は両端の小出只見両駅以外全て無人駅となりました。

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入広瀬駅駅舎の様子、2006年9月撮影。
駅舎は大きく立派な構えですが、それは前述した「雪国観光会館」との合築ゆえの事。
無人化された現在、会館の管理はどうなっているのでしょうか。

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入広瀬駅駅舎内部の様子、2008年4月撮影。
向かって右側が窓口です。
左側は只見線の写真や旧駅名票、特産物の展示空間です。
ここの当駅及び只見線関連展示を見ると、旧駅舎の取り壊しは昭和63年11月14日。
現駅舎竣工はその直前と思われます。

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撮影した2008年4月時点で、雪国観光会館内で入広瀬駅としての設備は窓口と赤いベンチ2脚。
待合スペースは吹き抜けで、冬季はストーブが置かれていますが長時間の滞在は少々厳しいかもしれません。
雪国観光会館としての設備は一階奥にある「作業体験ルーム」とその手前のトイレ(男女別、水洗で綺麗です)の向かいにある「土人形展示ルーム」、二階に入広瀬村の歴史展示館。
「作業体験ルーム」は昔の当地区の家屋内が再現されていて、様々な民具や農器具も展示。
「土人形展示ルーム」は昔、当地域でひな祭りに飾ったという土人形の展示。
歴史展示館はその名の通りの展示、鉄ヲタ的には旧駅舎時代の駅名板が要チェックかと。
率直に言えば、ただ並べているだけで面白味はあまり・・・。
二階の展示館などは、村や北魚沼郡に関する資料や本を復刻コピーでもして閲覧できるようにすればいいのではと。
展示されている文書をガラスケース越しに見せられてもねぇ・・・。
村について観光客により良く知ってもらおうと思ったら、そのぐらいの手間はかけてしかるべきじゃないかなぁと。

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駅舎側から見た入広瀬駅構内の様子、2004年7月撮影。
入広瀬駅構内は一面一線で、かつては列車交換設備を持つ島式ホームでした。
昭和55年改正ダイヤ時点で、只見線・小出-只見間の定期旅客列車交換駅は越後須原駅と大白川駅に集約されており、その改正で貨物列車が全廃されていることから、当駅の交換設備は当時健在であったとしても除雪待機やダイヤ調整のみだったのでしょう。

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柿ノ木駅方の踏切から見た入広瀬駅構内、2008年4月撮影。

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上条駅方の踏切から見た入広瀬駅構内、2004年7月撮影。

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上条駅方から見た入広瀬駅構内、2004年7月撮影。
除雪用具置き場を兼ねたホーム上の待合室は、建築財産票によると昭和17年10月の竣工。
駅の誕生から今日まで見守り続けた古強者、豪雪に耐え抜く為の屋根の補強柱が重々しく存在感を見せています。

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ホーム端から上条駅方を見る、2004年7月撮影。
右側の線路がモーターカー車庫と繋がっています。

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線路と並行する道路から見た入広瀬駅、2004年7月撮影。
只見線のこの界隈定番の、旅客車三両分ほどの小さなホームに比べて駅舎がいかに巨大かがよくわかります。

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入広瀬駅を出発する夕刻のキハ40系気動車会津若松行、2004年7月撮影。
只見線が事実上分断された今日では最早見られない、「会津若松」の表記が。

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駅舎の反対側にある青い屋根の「小出保線区入広瀬休けい所」、2006年9月撮影。
冬ともなれば、車庫から出動するハイモの要員の一時の憩いの場となるのでしょうか。

さて入広瀬駅を出て左に少し進むと、バス路線が設定されている県道に出ます。

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入広瀬駅駅舎から駅前通りを見る、2008年4月撮影。

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駅前から望む入広瀬村の風景、2008年4月中旬の風景。
四月中旬の様子ですが、田んぼにはこのように残雪が。

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県道を左に進み破間川を渡った前後が当地区のメインストリート。
2008年4月中旬の風景。

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橋から見た破間川の流れ、2008年4月撮影。

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5kmほど上流の黒又ダム放流による増水注意喚起の看板。
2008年4月撮影。

県道沿いにはAコープと小さな旅館が目立つ程度です。
県道を右に300mも行くと国道252号線に出ますけれど、見通せる範囲では何もありません。

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国道只見方面の様子、2008年4月撮影。

県道を小出方向に少し進むと右手にあるのが「鏡ヶ池」、
入広瀬駅からの距離約1km。
私が行った2008年4月中旬はまだ残雪もあり冬から春の端境期といった趣で、その風景も地味そのものに静まりかえっておりましたが・・・。

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ただ湖上レストランがあるぐらいですから、新緑の頃には風景も生き生きと様変わりして憩う人も多いのかもしれません。

入広瀬駅へのアクセスは只見線と南越後観光バス運行の路線バス小出-穴沢・大白川線です。
穴沢というのは前述したメインストリートの旧入広瀬村役場の辺りで、駅への最寄バス停は一つ手前の「入広瀬駅前」になります。
バスは只見線より本数が多く、列車の走らない時間帯もフォローしていて使い勝手は中々良し。
入広瀬地区と大白川駅前経由大白川本村を結ぶ「入広瀬地域市営通学福祉バス」は、当駅を最後に訪問した2008年4月時点では2008年度ダイヤが貼られていましたけれど、大白川駅を訪問した今年(2009年)7月時点では、大白川駅前バス停の時刻表には南越後観光バスのダイヤのみでした。
バス停にダイヤが載っていない点、バス停の行き先表記が南越後観光バスのもののみという点を考え合わせると、少なくとも一般利用可能な形態での通学福祉バス運行は現在行われてはいないのではないかと。
ネットで調べても確たる情報は見当たりませんし・・・。
只見線入広瀬-柿ノ木-大白川間を公共交通機関を利用してウォッチする際は、通学福祉バスは当てにせずに計画を立てた方が吉でしょう。

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2009年12月10日 (木)

小千谷駅(上越線)

本日の駅紹介は上越線・小千谷駅。

2016年7月16日記、加筆修正及び画像追加しました。

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新潟県小千谷市に所在する有人駅で、1920年(大正9年)11月1日の開業です。
開業当時の所在は北魚沼郡薭生村で、開業当時の駅名は東小千谷。
当駅が小千谷中心地区から信濃川を渡った東側にあることを表しています。
現在の小千谷市の古くからの中心地区である旧小千谷町には、上越線開通に先行して明治44年(1911年)に開業した魚沼鉄道(後の国鉄魚沼線)の小千谷駅が置かれていました。
しかし信濃川を渡河出来ずに行き止まりの駅だった「小千谷」駅に対して、新潟、長岡、魚沼地方へ、やがては東京に至る上越線の「東小千谷」駅の方が利便性は高く、開業当初は一面の桑畑だったという東小千谷駅界隈には当地特産の小千谷ちぢみの問屋などが進出してきて賑わいを見せるようになったそうです。
当駅周辺の状況が大きく変わる中で、昭和4年(1929年)に薭生村の当駅周辺地区は小千谷町に合併編入されます。
これによって当駅が名実共に小千谷町の玄関駅で、昭和7年(1932年)7月に魚沼線の小千谷駅は「西小千谷」に改称、そして上越線全通の約一年後の同年8月に東小千谷駅は現在の駅名「小千谷」に晴れて改称したのです。
小千谷町はその後周辺諸村を編入して町勢を逐次拡大し、昭和29年(1954年)に市制を施行して小千谷市になって今日に至ります。
平成の大合併の嵐の中で、周辺諸市町村の大半が中越地方の中心にして新潟県第二の都市である長岡市の傘下に入った中で、小千谷市は孤高の道を選んでいます。
当初は長岡市との合併編入に加わらなかった当市南隣の川口町(中越地震で甚大な被害を受けた事で有名)が2010年に長岡市へ合併編入されたので、小千谷市は長岡市に周囲をぐるりと囲まれる形となりました。
今後も独立独歩の道を歩むのか、それとも近い将来長岡市への合併編入の道を選ぶのか、その去就が注目されるのです。

JR東日本によると、小千谷駅の2015年度一日平均乗車人員は1,274人。
同社新潟支社管内新潟県内有人67駅中32位です。
新潟支社新潟県内駅の自動改札導入の下限は一日平均1,000人なので、当駅もその資格はあるのです。
実際、新潟都市圏以外で当駅よりも数字の低い羽越本線・中条駅や磐越西線・五泉駅には自動改札がだいぶ前に導入済みです。
もし自動改札化計画が再推進されるとすれば、信越本線・矢代田駅、弥彦線・燕駅、越後線・越後曽根駅と共に当駅もその列に加わるのでしょう。
しかし今日までそのような話はとんと聞きません。
利用はそこそこあっても列車の発着本数が一日20往復に満たない過疎ダイヤの駅なので、入れてもコスパは悪いのでしょうなぁ。
また上越線の新潟県内区間に限ると、有人8駅中、越後湯沢六日町浦佐に次ぐ第四位。
新幹線を擁する浦佐駅に比べても約200人少ないだけで、定期客では逆に上回っているのは元々の人口が大きい事に加えて市内に高校を二校有し、学生の集中が相当の規模であること、さらに長岡都市圏の一員であることが要員と言えましょうか。
以前、某鉄道雑誌で「寂れた」旨の記事を書かれていて、実際駅前通りはシャッター通り化しているのですけれど、近年の当駅の利用状況それ自体は堅調と表現して宜しいのではないかと思うところです。
しかし上越線全盛期に比べれば相当に落ち込んでいるのも確かでしょう。
上越新幹線開業直前には、特急「とき」(上野-新潟間)が四往復、急行「佐渡」四往復(上野-新潟間)、「よねやま」(上野-直江津間)、飯山線直通の「野沢」(長野-長岡間)、うおの(新潟-十日町間)、寝台急行「天の川」(上野-秋田間)、夜行急行「能登」(上野-金沢間、下りのみ)が停車して、当駅は幹線上の重要駅の一つとして重きを成していました。
昭和47、8年頃には上野と上越線沿線を結ぶスキーシーズン運行の電車特急「新雪」の一部が当駅発着になっていた事もあります。
しかし昭和57年11月の上越新幹線大宮暫定開業で「とき」と夜行「佐渡」が廃止、「能登」が信越線経由に変更、「うおの」が快速化(後廃止)。
昭和60年3月上越新幹線上野開業で昼間「佐渡」と「よねやま」、寝台急行「天の川」が廃止されて上野直通列車の停車が消滅してしまいます。
その後も当駅に停車した唯一の定期急行「野沢」もJR移行を半年後に控えた国鉄最後の昭和61年11月ダイヤ改正で廃止され、小千谷駅から優等定期列車が停車する光景を見る事は出来なくなりました。
優等列車の姿がホームから消えて30年、現在の小千谷駅は上越線の普通電車が平日15往復(土休日は1往復増発)と飯山線直通の気動車列車が2往復行き来する、実用本位で華の無い姿です。

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小千谷駅駅舎の様子、2013年10月撮影。
建築財産票を見つけられなかったので竣工年月は不明。
昭和30年代に多く建てられた国鉄標準型の平屋の駅舎なので、当駅の駅舎もその時期の建物だと思われます。
後述するように駅舎内部には大きく手が入れられましたけれど、駅舎の外観には目立った変化はありません。

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かつての駅舎内部の様子、2008年4月撮影。
広々としていて待合室も仕切られています。
この辺はかつての特急停車駅としての面影を偲ばせるところでありますね。
当時のコンコースには自動券売機2台とタバコ自販機(構内禁煙が当たり前になったのによくもまぁ・・・)、コインロッカーといったところ。
待合室の開放時間は06:50~19:50で空調は冷房のみで、冬季はストーブで対処していました。
この当時は待合室内にキオスクも健在でしたが写真を撮った日曜日は生憎定休日。
営業時間は07:00~12:00、13:00~18:00でした。

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内部改装後の様子、2012年5月撮影。
内部のレイアウトは完全に変更されて、窓口の位置も以前の反対側になっています。
ここまで手を入れたということは、築半世紀に達しているであろうこの駅舎を相当先まで使うということなのでしょう。
地方の駅舎改築は費用の大半が自治体持ちになるので、そうおいそれと実施するわけにはいかない事情は理解できますが・・・。
車中から見たところ、この前年の5月頃には工事もたけなわといったところで、ウィキペディアによると2011年7月に終了したようで、キオスクは工事着手に伴い同年1月に閉店との事。
駅周辺にはセブンイレブンがありますが、少々歩くのでこのキオスクは便利な存在でした。
小さくてもいいからNewDaysが進出すればよかったのにと、外来の無責任者は感じるところです。

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待合室内部の様子、2012年5月撮影。
開放時間は明記されていませんでしたが、おそらく窓口の営業時間と同一と思われます。

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一番ホーム(長岡方面乗り場)に面した駅舎構内側とその先の幅広の跨線橋、2005年8月撮影。

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一番ホームの越後川口駅方から見た小千谷駅構内、2005年5月撮影。
かつてはこのホームを目一杯使って12連の特急「とき」が停車していたのです。
現在の列車停車は黄色い線の範囲内・・・。
現在、旧二番ホームに取り付けられている無粋な白い柵はこの時点ではまだ未設置ですが、線路は撤去済み。

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同じく越後滝谷駅方から見た構内、2005年5月撮影。
ホームはゆるやかに左カーブしていて、ここからの見通しは中々良し。

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跨線橋内部の様子、2012年5月撮影。
特急列車停車駅に相応しい幅広のゆとりある空間です。

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跨線橋上から駅構内長岡方を見る、2012年5月撮影。
旧二番線のこちら側は残存していました。
画像左側の一番ホームの隣がかつての貨物線跡でしょうか。

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同じく駅構内水上方を見る、2012年5月撮影。
旧二番線のこちら側は撤去済みです。

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島式ホーム中央部の上屋とその先の跨線橋出入り口、2012年5月撮影。

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今では変則片面式になってしまった旧島式ホーム三番線越後滝谷駅方から見た小千谷駅構内、2012年5月撮影。
こちら側もほど良く左カーブして見通しは中々良し。
やはり多少の曲線があった方が、アクセントがついて構内の見映えがいいですな。
画像左側の側線は上り本線と両方向共繋がっていました。

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旧島式ホーム端から越後滝谷駅方を見る、2012年5月撮影。

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島式ホームの越後川口駅方から見た小千谷駅構内、2012年5月撮影。
市の玄関駅でかつての特急停車駅としては、このホームの上屋はかなり短く感じられます。
画像右側の側線からはハイモの車庫らしきもの?に横取り線が分岐しているのですが、草に埋もれていて使われている形跡がありません。
2005年5月に当駅を訪問した時に、既にそうでしたなぁ。

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島式ホーム端から越後川口駅方を見る、2012年5月撮影。

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駅の裏手に建つ小千谷市の観光案内板、2006年9月撮影。
車窓からこういう看板を見て、その土地に対する好奇心を掻き立てられるのです。
そして知らない街中をフラフラさ迷うわけです。
しかし警官に職質された事は一度も無いのが自慢の一つです。
まぁその代わり、車の人に道はよく聞かれますな。
いやオバサン、そんなローカルな事を聞かれたってアタクシは地元の者じゃないので知りませんがなとココロの中で困惑するのもしばしば。

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越後川口駅方の踏切から見た小千谷駅構内、2013年10月撮影。
画像右側の側線もこちら側は草ぼうぼうで、もう使われていないようですな。

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踏切を渡って裏手から見た小千谷駅構内の様子、2005年8月撮影。

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小千谷駅に到着した115系電車越後湯沢行、2012年5月撮影。
上屋は短めですが出入りする電車も短編成なので、実態としてはこれでバランスが取れているのです。

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小千谷駅に停車中の115系電車長岡行、2013年10月撮影。
「沼津」の幕はご愛嬌と言っていいのかそれとも実にけしからんなのか。
しかし沼津のあたりは113系電車の縄張りではなかったっけか?

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小千谷駅を出発するキハ110系気動車十日町行、2005年5月撮影。
部外者の目からは、長岡-小千谷間の利用はかなりあるように上越線乗車毎に強く感じるところなのですけれど、現在のダイヤはデータイム一時間半に一本という低頻度。
低頻度だからこそ一列車当たりの乗降が多いとも言えますが、あの乗り具合を見るにつけ、小千谷-長岡間はもう少し増発してもバチは当たるまいと感じるのです。
当駅の二番線はもう使えないので区間列車の設定は不可能ですから、次善の策としては飯山線の越後川口駅止まりの列車を長岡駅まで延伸することでしょう。


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小千谷駅を出発する165系電車の臨時「快速こころ」長岡行。
かつては急行「佐渡」「よねやま」として、庶民の身近な足として上越国境を駆け抜けた165系急行型電車のJRにおける最末期の運用です。
お盆でしたが車内はガラ空き、今考えると乗っておけばよかったなぁと激しく後悔・・・、
この後只見線田子倉駅に行っちゃったのねん。
あんな恐ろしい目に遭うとは夢にも思わず(笑)

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小千谷駅前の様子、2008年4月撮影。
駅前広場はロータリーになっていてタクシーも数台常駐。
越後交通及び南越後観光バス運行の路線バスも乗り入れています。
鉄道補完としては前者は十日町-長岡間、後者は小千谷-小出間の路線バスが設定されています。

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信濃川東岸の小千谷駅前通りの様子、2013年10月撮影。
画像奥が駅になります。
地方都市の駅前に漏れず、当駅前のアーケード商店街も残念ながらシャッターを下ろしている店が多いのです。
通りのクルマの交通量自体は多いのです、しかし皆素通り。
疾走するクルマの風切りに震えて侘しく音を立てるシャッター街の辛さといったら・・・。
ただでさえ上越線斜陽化で廃れていたところに中越地震による大打撃。
地域の方々は様々な手を打っておられるようですけれど、何分中核となる店も施設も無し。
ご苦労お察し致しますけれど、将来展望はなかなか拓き難いかと・・・。
また地形的にも駅から橋向こうの中心街への上り勾配になっていて、こういった通りの主な顧客となるべきお年寄りが歩くのには少々辛いのも、過疎化に輪をかけているようにも見えます。

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信濃川に架かり、街の東西を結ぶ旭橋を渡って小千谷駅方面を振り返り一枚、2013年10月撮影。

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旭橋上から見た秋の夕暮れの信濃川上流側、2013年10月撮影。

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信濃川西岸の小千谷市中心街、2013年10月撮影。
画像では人影がありませんが、それでも東岸に比べればずっと人気はあります。
小千谷駅からこの中心市街地までは約1.2km。
あっちへフラフラこっちでフラフラの私の足で約15分でした。
昭和59年3月、第一次特定地方交通線に指定され廃止された国鉄魚沼線
の終点・西小千谷駅は前述したようにこの市街地に立地していました。

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信濃川西岸の小千谷市中心部に佇む国鉄魚沼線の西小千谷駅跡、2012年5月撮影。
駅跡は2000年11月に「ぽっぽの里公園」として整備されています。
人口三万六千人の市の中心地区に終着駅が立地していながら、実にあっさりと廃止された魚沼線。
それだけ交通流動と乖離していたということなのでしょう。

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2009年12月 5日 (土)

塩沢駅(上越線)

本日の駅紹介は上越線・塩沢駅。

2016年7月17日記、リニューアルを実施しました。

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新潟県南魚沼市に所在する有人駅で、大正12年(1923年)11月18日の開業です。
開業当時は南魚沼郡塩沢町の所在で、相応の人口規模(2万人弱)を持つ町として永らく存在感を示してきましたが、時代の流れには抗えずに平成17年10月1日をもって、その十一ヶ月前に誕生した南魚沼市に編入され今日に至ります。

塩沢駅は旧塩沢町の中心地区にあります。
しかし上越新幹線開通以前の上越線全盛期において、特急は勿論急行でさえ一本も停車する事はありませんでした(スキーシーズンの臨時列車は除く)。
以前紹介した塩沢町内の石打駅(当駅から越後湯沢方面へ7.3km)には急行「佐渡」「よねやま」各一往復が停車するのにです。
南魚沼の中核である、「佐渡」「よねやま」全便に加えて特急「とき」の停車駅でもある六日町駅と当駅間は3.9km。
この近さも急行停車選定に当たってマイナスポイントとは思いますけれど、それにしてもこの扱いはしかし・・・。
塩沢町より人口の少ない大和町の玄関・浦佐駅には最終的に「とき」「佐渡」各一往復が停車するようになったというのに。

2015年度の一日平均乗車人員は668人で、JR東日本新潟支社県内有人67駅中49位。
駅付近に高校が所在する為に学生の集中があり、ここ十年はこのレベルで堅調な利用実態です。

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塩沢駅の旧駅舎の様子、2005年8月撮影。
建築財産票を見つけられなかったので竣工年月は不明。
見たところ国鉄標準型駅舎が現れる以前の昭和20年代後半~30年代初めの建物という印象を受けます。
出入り口がシェルター状になっているのは豪雪地域ならでは。
しかし駅舎直前の樹も合わせて、見通しは悪く無人時間帯の防犯的には問題がありそう。
ちなみにトイレは画像右手に駅舎とは別棟にありました。
駅舎との間に上屋が架かっているのもまた、冬季の備えでしょう。
駅前広場は相応の広さで、この日はタクシーが一台待機中。

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塩沢駅旧駅舎内部の様子、2008年4月撮影。
駅舎内は吹き抜けで、寒冷地の有人駅にもかかわらず待合室は仕切られておりません。
自動券売機一台とプラベンチが12人分、キオスク跡とおぼしきスペースに自販機が設置されていました。

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旧駅舎のホーム側の様子、2005年8月撮影。
かつてのキオスクはシャッターで閉鎖されていました。
跨線橋出入り口は幅広で、優等列車停車駅級であります。

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塩沢駅新駅舎の様子、2013年6月撮影。
建築財産票によると平成24年(2012年)11月15日の竣工。
許容積雪量は圧巻の340cm。
上越線の新潟県内区間では他に小出駅が駅舎を改築していますが、モダンなデザインの小出駅のそれに比べてこちらは後述するメインストリートの街並みに合わせた古風なもの。
地方駅の駅舎の改築に際しては、バリアフリー関係以外は地元負担というのが近年の常ですけれど、地元負担の場合は街作り、街のイメージに合ったデザインに出来るのが強みですな。
向かって右側が待合室のスペースで、左側の業務事務関係の空間が比較的大きいのが、この駅の昨今の立ち位置を考えると少々違和感を覚えるところです。
もしかしたら除雪要員の待機場所も兼ねているのでしょうか?
なお、旧駅舎時代同様に駅前にはタクシー乗り場があって、タクシーが概ね一台待機中のようです。

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駅舎向かって右側の様子、2013年6月撮影。
この辺は改築前と変わらず手付かずのまま。
なお旧駅舎時代は画像左側にあった駅構外のトイレは撤去されています。
近年の改築駅舎はどこもそんな感じで、来訪者にとっては少々シモの心配があるのですよ。

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塩沢駅新駅舎内部の様子、2013年6月撮影。
それなりにボリュームのある建物ですが、営業用の空間はかなり手狭な印象。
当駅の二割強の利用実態の磐越西線・津川駅の改築駅舎とさほど変わりません。
画像右側が待合室です。

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待合室内部の様子、2013年6月撮影。
内部は空調付きで四人掛けのベンチが三脚。
ベンチの数は小出駅改築駅舎の待合室と比べて半分しかありません。
また待合室の空間自体も小出駅のそれよりずっと小さいのです。
塩沢駅の一日平均乗車人員は小出駅のそれの約74%なので、この空間がそれに見合ったものなのかどうかビミョーなところであります。

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塩沢駅新駅舎ホーム側の様子、2013年6月撮影。
画像右手がトイレで、当然の事ながらバリアフリーで綺麗です。
ただし内部は待合室同様に手狭感を拭えず、男子用は小用一個と個室ひとつ。

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旧駅舎時代の一番ホーム上越国際スキー場駅方から見た塩沢駅構内、2005年8月撮影。
既に廃止されている二番線とホームは手付かずで、荒れるにまかせたまま。

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旧駅舎時代の一番ホーム六日町駅方から見た塩沢駅構内、2005年8月撮影。
三番線には115系電車長岡行が停車中。
ご覧の通り、駅裏は未開発です。

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旧駅舎時代の跨線橋上から上越国際スキー場前駅方面を望む、2008年4月撮影。
2006年9月訪問時点では無かった旧二番ホームの白い柵が目立ちます。

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同じく六日町駅方面を望む、2008年4月撮影。
少雪だったとはとはいえ、4月も中旬に差しかかろうかという時期でも未だ残雪が。
線路間の融雪溝が雪国の鉄道の象徴です。

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旧駅舎時代の島式ホーム上越国際スキー場方から見た塩沢駅構内、2005年8月撮影。
国鉄が汽車型ダイヤだった頃は、70系電車も115系電車も6両+クモユニが常態だったので、私の立っている辺りまで編成がかかっていたのでしょう。

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島式ホーム上から見た旧駅舎の様子、2005年8月撮影。
上屋は駅舎及び跨線橋出入り口までをカバーしていて、客車二両分というところです。

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島式の旧二番ホーム六日町駅方から見た塩沢駅構内、2005年8月撮影。

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駅舎改築後の塩沢駅構内を上越国際スキー場方から見る、2013年6月撮影。
安全上は必要不可欠であるとはいえ、旧二番ホームの白い柵はマニアの美的感覚的にはすこぶる宜しくないところであります。
ちなみに上越線隆盛末期の昭和57年8月の時刻表を見ると、塩沢駅での普通列車の
優等列車待避は上下共ゼロで、その時点で既に2番線の存在はダイヤが乱れた際の予備程度でしかなかったのでしょう。
ウィキによると2番線の使用を停止したのは昭和59年11月。
その時点で当駅を通過する昼行優等列車は特急「鳥海」一往復と急行「佐渡」三往復(内一往復は季節列車)、「よねやま」が一往復のみ。
この過疎ダイヤでは2番線の使用停止も当然のなりゆきと言えましょうな。
旧二番線は2014年5月確認時点で、越後湯沢方で1番線と繋がっていました。

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塩沢駅跨線橋内部の様子、2013年6月撮影。
前述したように、優等列車の停車しない駅のそれとしては幅広です。
もしこの跨線橋が昭和38年以降の竣工であるならば、昭和38年に開校した駅付近の高校の通学生で混みあうことを考慮したのかも。

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跨線橋上から島式ホームを見る、2014年5月撮影。
ホームの上屋が延長されていました(ダーククレーの部分が延長部です)。
以前からこの上屋のボロさは気になっていましたが、改築では無く延長とは想定外。
つまり以前からの年季の入った部分は当分の間使い続けるということでしょうか。
構内旅客設備の改良や更新の場合は、全額JRの負担なのかどうか。

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島式ホームの上屋下の様子、2013年6月撮影。
島式ホーム上に待合室はありません。

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島式ホーム上から見た塩沢駅の改築駅舎、2013年6月撮影。
駅舎だけでなく上屋も改築されています。

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島式ホームの上越国際スキー場駅方から見た、駅舎改築後の塩沢駅構内、2013年6月撮影。

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塩沢駅を出発する115系電車越後湯沢行、2013年6月撮影。

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塩沢駅に停車中の115系電車長岡行、2013年6月撮影。
ご覧のように上屋の壁面は劣化が目立ち見栄えが悪いのです。
これを前述の上屋延長部で覆い隠したのですよ。

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塩沢駅を出発するほくほく線直通のHK100形電車「ゆめぞら」号越後湯沢行、2013年6月撮影。
当駅にはほくほく線直通列車が定期停車しており、2016年3月改正時点で一日6往復が停車しています。

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塩沢駅を出発し遠ざかる、ほくほく線直通HK100形電車一般型の犀潟行、2014年5月撮影。
旧二番線が六日町駅方では本線と切り離されているのがわかります。

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塩沢駅を通過する特急「はくたか」越後湯沢行、2014年6月撮影。
この時は石打駅とセットで「はくたか」の通過をいかに効率的に撮るか、無い知恵を絞り尽くして行きましたなぁ。
朝の列車が比較的多い時間帯を選び、六日町駅からほくほく線の列車でこの駅に降り立ち、次の越後湯沢駅が来るまでの30分弱の間ホームに留まって撮影。
この位置だと午前中は逆光気味であまり宜しく無いのですが、これ以外に「はくたか」通過時にホームにいる言い訳が立たないので已む無し。
傍若無人に撮影しているように見えるかもしれませんが、私はこれでもビビり屋なので色々考えているのですw

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塩沢駅を通過する特急「はくたか」金沢行、2014年5月撮影。

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旧駅舎時代の塩沢駅前の様子、上は2005年8月、下は2006年9月撮影。

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駅舎改築後の塩沢駅前の様子、2013年6月撮影。
来訪者歓迎の看板(というのか何と呼べばいいのか)は撤去されています。

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塩沢駅前通りの街並み、2013年6月撮影。

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塩沢駅から駅前通りを5分程進むと、県道沿いに広がる旧塩沢町のメインストリートに行き着きます。
上は2008年4月、下は2013年6月撮影。
道沿いには統一されたコンセプトの、真新しくもどこか郷愁を感じさせる大変好ましい作りの雁木作りの商店が軒を連ねております。
目を瞠られてつらつらと歩いてみたのですけれど、そこはやはり世の常なのか・・・。
土曜の午前中、閉めている店が目立ちました。
唯一活気があったのは通りの角の昔ながらのおもちゃ店。
子供達がゲーム漁りの最中でしたね、探せば何かしら掘り出し物を見つけられそうな懐かしい店構えです。
私が子供の頃はこういう店もまだ街のあちこちにあって、入り浸っては安くて小さいエルエスのプラモやらゴムボールやらを買ったものでしたなぁ・・・(遠い目)。
私の住まいの街では、もう昔ながらのおもちゃ屋なんて絶滅して久しいのですよ。

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県道を十字路で突っ切ってなおも進むと国道17号線に行き当たります、2008年4月撮影。
国道には南越後観光バス運行の路線バス越後湯沢-六日町線が運行されていて、上越線の補完機能を持っており、駅巡りにも活用できるダイヤです。
この国道を六日町方面に1km程進むと、スーパー原信とセブンイレブンがありますが、駅からの距離は通算で往復3kmといったところ。食料補給には使い難い距離です。

列車の待ち時間内では余裕が無く行く事が出来なかったのが残念なのですが、塩沢駅周辺で見逃せないのが「鈴木牧之記念館」です→詳細はこちら

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鈴木牧之は江戸時代後期の随筆家で、当時の雪国の生活をビビッドに描いた名著「北越雪譜」はつとに有名。
小中学校の社会や国語の先生をされている方は、児童生徒への話のタネとして見学しておくと吉かもしれませんよ!

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2009年12月 3日 (木)

越後岩塚駅(信越本線)

本日の駅紹介は信越本線・越後岩塚駅。

2016年7月24日記、画像張替えと加筆修正を実施しました。

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新潟県長岡市に所在する無人駅で、昭和20年(1945年)6月1日の開業です。
資料によると無人化されたのは昭和60年3月、それが完全な無人化を指しているのか、国鉄職員が配置されないという意味での無人化で、その後も委託駅として有人だったのか・・・後述の駅舎改築後の窓口の存在を考えると後者なのかも知れません。
なお開業当時の所在は三島郡岩塚村で、村はその後昭和30年3月に近隣2村と合併して越路町として再出発し、平成17年4月1日をもって長岡市に編入され今日に至ります。
駅の開業は太平洋戦争末期、旅客も貨物もさして需要も必要性も無さそうなこの地にあの時期新駅として開業というのはどうにも解せません・・・?
信号場としての必要性ならわかりますけれど、それなら京ヶ瀬駅などのような扱いにすれば良いわけで。
それとも長岡辺りの軍需工場への通勤の便も意図して「駅」を名乗らせたのでしょうか?
はたまた後述の「宝徳山稲荷神社」が関係しているのか・・・。
謎です。

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越後岩塚駅駅舎、2013年6月撮影。
建築財産票によると平成12年(2000年)12月28日の竣工。
後述の宝徳山稲荷神社を意識したようなデザインです。
駅舎は駅前の道路と水平面にはなく、わざわざ一段高くしてスロープを付けています。
旧駅舎時代からこういう仕様だったのか?
ともあれ、とりあえず当駅のバリアフリー工事は当面必要無しですな。

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越後岩塚駅駅舎内の様子。
室内は吹き抜けで、自動券売機一台とベンチが三脚。
この時はゴミ箱が設置されていません。
駅舎が改築された2000年度は当駅もまだ有人駅で、現在はカーテンで閉じられている窓口も機能していたのです。
JR東日本によると、当駅が有人であった最終年の2001年度一日平均乗車人員は209人で、同社新潟支社新潟県内有人89駅中75位。
信越本線内の駅では二本木駅と同水準でした。
ちなみにこの当時、当駅よりも下位であった駅で2016年7月現在も有人体制を維持しているJR東日本及びえちごトキめき鉄道・妙高はねうまライン(旧信越本線)の駅は、上越線・石打駅、羽越本線・府屋駅、米坂線・越後下関駅、トキ鉄・上越妙高駅(旧脇野田駅)、
飯山線・津南駅の5駅のみになりました。
残りの下位9駅は2008年度までに無人化されています。
また当駅よりも上位であった駅も8駅、またJR西日本の管轄である北陸本線・名立駅も無人化されているので、ここ15年ほどの間に当駅を含めて18駅が無人化されているのです。
なお長岡市の統計によると、無人化7年後の平成20年度における当駅一日平均乗車人員は約160人です。

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長岡方面乗り場に面した越後岩塚駅駅舎の様子、2004年8月撮影。
トイレは建物の向かって右側にあって、近年の改築駅舎とあって男女別です。
上屋は駅舎から跨線橋出入り口までカバーしています。

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長岡方面乗り場の来迎寺駅方から見た越後岩塚駅構内、2013年6月撮影。

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同じく来迎寺駅方を見る、2013年6月撮影。
当駅での撮影では、カーブしながら高速で進入する特急列車を長岡方面乗り場で待ち受けるのがベストであろうと感じるところです。

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長岡方面乗り場の塚山駅方から見た越後岩塚駅構内、2013年6月撮影。
跨線橋が幅狭のホームにどっしりと腰を落ち着けています。
ホームの幅との比較で、大きく堅牢に見えますな。

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同じく塚山駅方を見る、2013年6月撮影。
上下のホーム共に、白い柵の向こうには嵩上げされていないホームが延びています。
昔は十両編成の客車列車も収容可能なホーム長だったのです。
現在では四両分あれば充分。

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越後岩塚駅跨線橋内の様子、2013年6月撮影。
幹線系の優等列車が停車しない駅の標準型で、竣工は昭和46年1月。
窓は高所にありしかも固定されているので、私の大好きな駅構内俯瞰撮影は断念。
たとい脚立を持っていったとしても、虫の死骸だらけのあの窓の汚さではいい画は撮れないでしょうなぁ。

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直江津方面乗り場の塚山駅方から見た越後岩塚駅構内、2013年6月撮影。
駅裏は田圃です。

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同じく塚山駅方を見る、2013年6月撮影。

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直江津方面乗り場から見た越後岩塚駅構内中枢部の様子、2004年8月撮影。

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直江津方面乗り場の待合室内部、2013年6月撮影。
建築財産票によると昭和35年11月の完成。
ご覧のように昭和の時代そのままのベンチです。

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直江津方面乗り場の来迎寺駅方から見た越後岩塚駅構内、2013年6月撮影。

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越後岩塚駅に停車中の115系電車長野色長岡行、2014年5月撮影。
E127電車のえちごトキめき鉄道への転出とE129系電車充足までのショートリリーフ役として新潟支社に転属し、中越、下越地方にも足跡を記したこの電車とももうお別れですな。

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出発した115系電車長野色の長岡行、2014年5月撮影。

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越後岩塚駅を出発する115系電車直江津行、2014年5月撮影。

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越後岩塚駅を通過する485系電車R編成の特急「北越」新潟行、2014年5月撮影。

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越後岩塚駅を通過するEF510形電気機関車牽引の下り貨物列車、2014年5月撮影。

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越後岩塚駅を通過するEF64型電気機関車牽引の下り貨物列車、2004年8月撮影。
当駅に取材目的で降り立ち、最初に撮影したのがこれでしたなぁ。

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塚山駅方踏切から見た越後岩塚駅構内、2004年8月撮影。
駅としては面白味の無い平凡な電化幹線上の二面二線です。

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越後岩塚駅ホームから見た宝徳山稲荷大社の社殿、2004年8月撮影。
こう見ると社殿は目と鼻の先のように見えますが、実際は長岡方面に歩いて信越線を地下道で越えて、大きく迂回して行きます。

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越後岩塚駅の駅前通りの様子、2013年6月撮影。
画像右下の駐輪場の上屋は今にも倒れそうな危なさ。
駅前は生活道路で、駅設置が戦時下と後発のためか商店街の形成もありません。
駅前通りには自転車店と理容店がある程度ですが、通りが行き着く橋の手前を右に曲がって少し行くと、ヤマザキデイリーと小さなレストランがあります。
くだんの橋で渋海川を渡ってなおも少し進めば国道404号線に出ます。
駅から国道までの距離は約500m。
国道には長岡駅と塚山駅方面を結ぶ越後交通運行のバス路線が走っていて、平日上下19本、土休日12本。
当駅最寄は「飯塚」バス停になります。

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前述したように信越線を地下道でくぐり、駅裏方に出て宝徳山稲荷大社を目指します、2008年4月撮影。

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大きく迂回して行くので、ホームからはあんなに近く見えた社殿からは一時的に遠ざかるのです、2008年4月撮影。

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こうして宝徳山稲荷大社に到着、2008年4月撮影。
駅からここまで私の足で約6分でした。

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実際に見てみるとそのデカい事といったら!
お金はかかってますなコレは・・・。
訪れたのは日曜日でしたが、参拝者がひきもきらずという按配。
広大な駐車場にもひっきり無しに車が動いています。
信心深い人が多いんですねぇ~・・・、葬式仏教を越える宗教は全く興味が無い私は参拝神頼みの心理が今ひとつ理解出来ません・・・。
私は「神様がいるとすればそれは人間一人一人から始まって自然物のあらゆるモノの中に至るまで」というアニミズムめいた考え方なので、ヒトが作ったこのように豪奢な建物を有難がって神頼みするっていう意識がうーむ・・・。
ただ一方では建築物を建築物として愛でる意識も強く持ち合わせておりますので、宗教信仰を離れてそういう視点で見れば、この大社の建物群の迫力はなかなかぐっとくるものがあります。

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なかなか商魂逞しくみえますなw
しかし私はこういう風情は嫌いではありません。

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