« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

2008年3月の記事

2008年3月20日 (木)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十三・味方中学前駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十三回は味方中学前駅跡。
当駅は電鉄線廃止時の起点である東関屋駅から14.4kmの地点に所在していました。

開業は昭和28年4月1日で、開業当時の所在は新潟県西蒲原郡味方村。
電車線が廃止された1999年4月時点でも同村の所在で、味方村は電車線廃止の約六年後の2005年3月に新潟市に編入されて、同市南区になって今日に至ります。

Ajikatachugakumae0010504
味方中学駅前の待合室、2004年5月撮影。
電車線廃止から約五年後の様子です。
随分と荒廃していましたが、建物の原型はしっかり保っていました。

Ajikatachugakumae0020504
吉江駅方から見た味方中学前駅ホームの様子、2004年5月撮影。
昭和28年の開業以来一貫して「停留所」だった棒ホームです。
ワンマン運転用のミラーが二本共残っていました。

Ajikatachugakumae0030504
ホーム中央部の様子、2004年5月撮影。
駅名標は枠だけが残っていました。
駅名標の右側の朽ちかけた柵もなかなか味わい深いのです。

Ajikatachugakumae0040504
味方駅方から見た廃ホームの様子、2004年5月撮影。
この時点ではホーム、待合室、レール、架線柱の四点セットがしっかり残存していました。

Ajikatachugakumae0050504
線路と並行する路上から見た味方中学前駅全景、2004年5月撮影。
ホームの有効長はギリギリ三両というところ。
廃駅の周辺は駅名が示すように中学校が立地する味方村の文教地区で、真新しい住宅が建ち並んでいる中にこのような廃墟。
周りとのギャップが強烈でありました。
懐古系廃墟系鉄ヲタとしては万感胸に迫るものがある一方、住民感覚で見れば鉄道廃止後五年も経つのにこんな廃墟が近所にあるのは、とても褒められた話ではありませんな。
その辺のせめぎあいでやるせない気持ちになった、皐月の土曜の夕刻なのでした。

この訪問から約三年半後の2007年11月に再訪したところ、すっかり様変わりしていて驚愕しました。

Ajikatachugakumae1011107
Ajikatachugakumae1021107
あの廃墟がこのような見栄えのする「味方中学前駅跡地公園」に生まれ変わっていました。

Ajikatachugakumae1031107
Ajikatachugakumae1041107
廃駅がいずれ姿を消し、その敷地がこのような用途に転用されるのは当然の話なのですが、鉄ヲタの感情論としてはやはり寂しい・・・。
しかしここでは駅のホームを模した空間が綺麗に整備されて、模擬の駅名票にはここがかつて鉄道の駅であった事を明記しています。

Ajikatachugakumae1051107
味方村として、この地に鉄道が走っていたという歴史を忘れない、後の世代にも語り継いでいくのだという心意気が感じ取る事が出来ます。
電鉄線の廃駅跡のいくつかでもこちらのような活用の仕方をしてもらえれば感謝の極みと当時思ったものです。

Adichuu05
味方中学前駅跡地公園から白根方面へ進んで300m弱までは舗装されていましたが、その先はこのようにレールを撤去された廃路盤がしばらく残っていました。

| | コメント (0)

2008年3月 9日 (日)

消え逝く高度経済成長時代の残照

先日、今季の駅取材旅程作成にと時刻表2008年3月号を購入。
来る3月15日に実施されるダイヤ改正号なのですが、報道やネットで既に知っ
ていた事とはいえ、新しい時刻表のページに目に通してみれば、お馴染みの
列車のスジがきれいさっぱり消え失せていて、伝統ある列車の過去帳入りを
思い知らされた次第。

特に目を惹かれるのは寝台急行「銀河」と寝台特急「日本海(2号3号)」
の廃止。
実は私、鉄ヲタを自認しているにもかかわらず、「寝台列車」というものに物心
ついてからの通算で5回しか乗車した事がありません。
そのうちの2回が「銀河」乗車です。
(いずれも東京-京都間、二段式B寝台の利用)
ゼミの忘年会でなかなか解放してもらえず、真冬の東京駅の、発車ベルが鳴り
響くホームを全力疾走!酔っ払った息も絶え絶えで「銀河」に滑り込んだ事。
傷心旅行で奈良行きを思い立ち、「銀河」に飛び乗って深夜の東海道をぼんやり
眺めながらまんじりともせずに過ごした事。
たった2回の乗車機会ですが、両方とも実に思い出深い体験でした。

「銀河」の廃止については鉄ヲタのお歴々は「伝統の東海道夜行の灯を消すな!
」とか、「移動の選択肢を残せ!」などとおっしゃっておいでですが、きょうび、
シャワーも浴びれない、寝台は開放式の列車に好き好んで乗る一般客がどれほ
どいるのか疑問ですしねぇ・・・。
何日も髪を洗わずシャワーも浴びず、それでも平気な(隣席の一般人にとって
はいい迷惑!)、「列車に乗るのが目的」の鉄ヲタさんたちにとってはどーでも
いい話なんでしょうけれど、一般客はそうはいきません。翌日の仕事や活動に
備えて身だしなみを整えなければなりません。
乗車前に済ませておけばいいじゃないかとおっしゃる方もおられるでしょうが、
そんな都合がつく時ばかりでないのが実際のところです。
また「列車に乗るのが目的」で、「夜汽車の気分を・・・」と夜更かし更には
ほとんど徹夜で過ごす鉄ヲタさんたちは開放式寝台で一向に構わないのでしょ
うけれど、一般客はとにかく「寝たい」。安心安全に寝付ける環境が必須です
が、昨今の治安状況を見るに、開放式寝台ではその点で不安が付き纏いま
す。

一般客は「新幹線+ビジネスホテル」、エコノミー派は夜行バス。
あのような化石じみた設備、その割には明らかに割高な寝台料金。
全てにおいて中途半端、「伝統の夜行列車」という過去の栄光をを引き摺った
まま、JR各社それぞれの思惑もあって生かさず殺さず、社会情勢やライフス
タイルの変化から完全に取残されてただただ惰性で走り続けなければならな
かった可哀相な列車、それが寝台急行「銀河」なのでしょう。
廃止は必然であったと思う次第です・・・。純粋に感情的な話でいえば、名
残りは尽きませんが・・・。

一方「日本海」は、大気の状態が良いと阿賀野川鉄橋(新津-京ヶ瀬間)を通
過する独特の走行音が我が家からでもはっきりと聞き取れます。
今までは宵の口と深夜の2回、そして明け方にその音を聞く事が出来ました
けれど、これからはそれも半分になります。

「銀河」「日本海」、それに「なは・あかつき」。
かつての高度経済成長時代、その尖兵として身を粉にして働いたビジネスマン
が東へ西へと愛用していた列車が今回のダイヤ改正で永遠の旅に発ち、来春
には元祖ブルートレインである東海道スジ最後の生き残り「はやぶさ・富士」
の廃止も検討されているやに聞きます。
それ以外にも、かつての急行列車全盛期を支えたキハ58系気動車の引退が間近。

戦後日本が一番輝いていた時代、高度経済成長時代。
現代日本においてその光芒の残照を「生きた形」で見る事の出来た数少ない例
なのがこれら鉄路の古強者たち。
彼らの退場によって、日本がひたすら前だけを向いて、よりよき未来を信じて
一途に働けた時代も完全に歴史の一項になってしまいそうです。
戦後、最も「夢の無い」時代に最も「夢を見させてくれた」モノが消えていきます。

Kiha5801
消え逝くキハ58系気動車。大糸線・頚城大野駅にて。

Kiha5802
米坂線・越後下関駅にて。

Kiha5803
米坂線・越後大島駅にて。

Kiha5804
磐越西線・馬下駅にて。

| | コメント (4)

2008年3月 4日 (火)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十二・吉江駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十二回は吉江駅跡。
吉江駅は旧・西蒲原郡味方村(現・新潟市南区)に所在していた棒線の無人駅でした。
電鉄線・東関屋-白根間が開業したのと同時の、1933年(昭和8年)4月1日に開業しました。
東関屋駅から13.5km、七穂駅からは1.2km地点にあります。
ここ吉江駅跡は前回紹介した七穂駅跡同様、周囲にランドマークと呼べるものが無いところなのですが、電鉄線沿いの集落の宅地密度は上がっているようにも見えて、板井、七穂ではついぞ見かけることのなかった人気も感じられ、ホッとした気分にさせてくれました。
廃駅巡りで「滅び」のイメージばかりを見せつけられていると、好きでやっている事とはいえ精神衛生上あまりよろしくないかなぁと思う時があります。
2004年5月に思い立って新潟交通電車線の廃線跡歩きを始めて、この駅に至るまでに眺めて来た板井、七穂両駅跡は周囲に人気も無く、特に七穂駅跡は駅の原型をほとんど留めず、かといって敷地が完全に転用されているわけでもなく中途半端に放置されている様が「見捨てられた場所」「滅び」のイメージをこちらに強く抱かせて、五月にしては強い日差しの下を昼食も摂らずに延々と歩いてきた疲れも手伝ってか、流石にスキモノの私もめげてしまいました・・・。
そんなこんなですっかり弱気の虫に取り憑かれ、「今日はここまでにするか・・・」と足を引き摺り引き摺り辿り着いたのがここ吉江駅跡でした。

yoshieold06
吉江駅跡はホーム上の木造で小作りな待合室も未だ健在、2004年5月撮影。
室内には電鉄線廃止を告知する看板が置いてありました。
「新潟交通電車線(東関屋-月潟間)は平成十一年四月四日迄で営業を停止し鉄道事業を廃止致します。永年に渡御利用戴き感謝申し上げると共に今後は代替バス(四月五日より運行)の御利用をお願い申し上げます 平成十一年三月」
2004年5月の電鉄線廃線歩きで、こんな看板を廃駅で見たのは後にも先にもここだけです。
廃線から5年以上経ってもまだこんな看板が残っていたとは・・・、貴重なモノを見させてもらいました。

yoshieold01
七穂駅方から見た吉江駅。
中之口川の堤防道路の直下に張り付くように駅が置かれていました。

yoshieold03
前述のように、待合室は荒廃が進んでいますが残存しています。

yoshieold02
味方中学前駅方から見た吉江駅構内の様子。
駅名標は枠の柱だけが残っています。

yoshieold04
電鉄線と並行する路上から見た吉江駅の様子。

yoshieold05
堤防道路上には駅への出入り口があります。
板井駅のように集落側にホームを置けば良いと思うのですけれど、駅用地の取得上こうならざるを得なかったのでしょうか。

それから三年半後の2007年11月に再訪した吉江駅跡は、この時期の他の諸駅同様にレールが撤去されていました。

yoshie01
画像右側の廃枕木の束が、全てを象徴していますね。

yoshie02
廃ホーム上には廃枕木が置かれていて、ホームを歩くのも一苦労。
しびとの棺桶の葬列に迷い込んだような違和感が実に嫌でした。

yoshie03
生活道路からホームへのアクセスが容易なので、重機によるホーム撤去もきっと円滑に進んだことでしょう。

yoshieold07
yoshie04
吉江駅から味方中学前駅に向かって堤防道路を進み、振り返って一枚。
上は2004年5月、下が2007年11月撮影。
鉄路は生気を失いましたが、町並みも人々の平和な営みも何ら変わる事は無く。

| | コメント (2)

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »