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2008年2月の記事

2008年2月26日 (火)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十一・七穂駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十一回は七穂駅跡。
七穂駅は旧・西蒲原郡味方村(現・新潟市南区)に所在していた駅で、列車交換設備を有していました。
東関屋駅から12.3km、板井駅からは2.1kmの地点にあります。
私の手持ちの電鉄線時刻表(廃止一年前)には当駅の電話番号が載っておりましたので、廃止まで有人駅だったとずっと思い込んでおりました。
しかしこのエントリーを書くに当たって調べてみたら、廃止一年前に無人化されていたとの
事です。
よく調べもせずに思い込みだけで書くのは危険ですね、自戒自戒!

さて七穂駅の開業は1937年(昭和12年)11月22日で、電鉄線東関屋-白根間の開業から四年半以上経ってからでした。
電鉄線開業当時、木場駅-白根駅間8.5km間に列車交換可能な駅は存在せず、列車増発に当たってダイヤ作成上のネックになっていたのは充分想像できます。
当該区間の既存の駅(板井、吉江、味方)のいずれか、特にほぼ中間地点の
吉江駅に列車交換設備を増設すれば良いのですが、いずれの駅も中之口川の堤防と集落の間の狭い用地しか確保できなかったようです。
それゆえに、駅用地の確保が過不足無く行えた(駅開設の見返りにと、地区の積極的な土地提供があったのかもしれません。明治~大正時代にはそのような事例が間々あります)当駅を、運転上の要請から新規開業させたのではないか・・・と私は想像を巡らせているのですけれど、本当のところは如何に!?
また当駅の開業当時の駅名は「越後山王」と言い、「七穂」に改名したのは1940年(昭和15年)10月1日の事です。
「越後山王」のほうが風格が感じられて良いと思うのは私だけでしょうか?
七穂駅は地図で見ると、旧味方村の山王地区と大倉地区に跨って設置されていて、その辺の事情から、駅開設前後に地区間でいろいろあった故の改名では?と想像を逞しくしてしまいます。
しかし実際のところは果たしてどうであったのか、非常に興味をそそられます。

ここ七穂駅は両隣の板井、吉江両駅と同じく、中之口川の堤防道路と電車線沿いの集落の間にあります。
木場、板井両駅は至近に上越新幹線の高架が通り、農協や高校、小学校が近くにありましたが、当駅は新幹線の高架も遠く離れ、小学校も中之口川を渡って板井方向に1km近く行ったところにあります。
従って駅訪問のランドマークになるべきものもなく、非常に地味な立地です。

電鉄線廃止後も長らく現役当時の面影を濃く留めていた平島駅味方駅間にあって七穂駅は唯一、早いうちに駅用地の転用が実施されています。
私が当駅を最初に訪問した2004年5月当時には既に駅舎は撤去され、相対式のホームも埋められて、駅用地の一部は道路拡幅と畑へ転用されていました。

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吉江駅方から見た七穂駅跡の様子。
こちら側はレールが残っていました。

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板井駅方から見た七穂駅跡。
前述のように駅用地の大半は転用されています。

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辛うじて残っていた対面式ホームの端部。

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吉江駅方には架線柱に付けられた場内信号機が残っていて、二又のレールと共に、ここ七穂駅が電鉄線の運転上の要衝であった残り香になっていました。

それから三年半後に再訪した七穂駅跡は、レールが撤去されて駅の面影も消え去る寸前でした。

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撤去された枕木が廃路盤沿いにまとめて並べられて搬出の時を待っています。

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架線柱と場内信号機は辛うじて残っていました。

現役当時の画像と比べて見ても、変わっていないのは大きな松の木だけ。
「樅ノ木は残った」ならぬ「松ノ木は残った」といったところです。
松の木は長寿だと聞きますし、百年後、この地区で七穂駅の現役当時を知る方が亡くなられた後も、せめてこの木だけは味方の南の地にかつて駅があった事を後世に伝えるしるべとして生き続けて欲しいと思うところでありました。

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2008年2月25日 (月)

人が人でなくなる事・マタンゴ

一定以上の年齢層に、「あなたのトラウマ映画はなんですか?」と問いかけると、
決まって名前の挙がるタイトルが一つ。
それが「マタンゴ」。
突然の嵐に遭遇し、名も知らぬ不気味な無人島に漂着した七人の男女を待ち受ける
恐ろしい運命を描いたジャパニーズホラーの古典です。
私はこの映画、未だ未見です。

「生きる為に人でなくなる事を選択せざるを得ない」

人が人でなくなる事。
自分が自分でなくなる事。

肉体的に自分の身体が自分でなくなっていく人を間近で見た、見ざるを得なかった
経験のある私には、この種のテーマは重過ぎるんですよね。

自分がもしそういう境遇に陥ったなら、その時己の身の処し方は如何にすべきだろう
か。日頃から考えているように、自分でいられるうちに「己の身を処す」事が出来る
のか。
それとも自分でなくなってしまう現実を受け入れ、諦観を持って、周りがどう思おうが
生き続ける事に執着してしまうのか。
ぬくぬくと暮らす日常の中では結論が出る事のない、その時になってみなければ
わからない話です。
そしてその時こそ、私の真の「ばけのかわ」が剥がれる時なのでしょう。

・・・とまぁ、当ブログの色にはあまり似合わない前振りをしつつ本日の本題。
書店で定期購読の雑誌をいつものように手に取り、ぶらぶらとレジへ。
その行きすがらで目に止まった、脊髄反射で思わず買ってしまった小説が一冊。
タイトルは

「マタンゴ 最後の逆襲」

前述の「マタンゴ」の後日談、それも製作会社の東宝から正式な許諾を得ての作品で
あります。

富士の樹海をめぐる都市伝説を解明せんと挑んだ七人の男女。その十年後、彼らの
身に起きる怪異。背後で蠢くのは裏の世界の魑魅魍魎・・・。

「マタンゴ」を映画の「人を襲うモンスター」ではなく、「発症してしまうと治療不可
能な奇病」に変えているのは今風の設定。食べずとも運が悪ければキノコのバケモノ
に変身してしまうのはかなり怖い・・・。

身体を覆う色とりどりの腫瘍とか、樹海でひっそり暮らすとか、日野日出志先生の噂
に聞く伝説的作品「蔵六の奇病」の主人公・蔵六のビジュアルや運命を連想してしま
ってうーむ、壮絶の他に言葉無し・・・。
恐らくは人としての自我をずっと保ったまま、その身体は人間の怒りも哀しみも全く意
に介さない(一切の感受性も、いや個としての意思すらも全く持ち合わせていない)
下等なイキモノに、彼らにとっての自然の営みである繁殖行為という形で犯し続けら
れて、永遠にキノコのバケモノとして生き続ける以外にない悲劇。
マタンゴを発症してしまったら、人間らしく「己の身を処す」事は出来なくなります
から。

この作品中でマタンゴを発症した男性陣は比較的諦観を持つのが早いのですが・・・
、人間、実際そこまで出来たイキモノじゃないと思いますけどね。
発症してから短期間でふためと見れぬ姿に変わってしまうので、アレコレ考えるヒマ
があまり無さそうなのがそうさせるのかもしれませんが・・・。
そうだとすればこの話の唯一の「救い」と言えるのかなぁ(自己犠牲も報われないし、
結末はああだし)。

さて私がこの小説で最も恐ろしいと感じた場面は、新進美人女優YUIの肉体に
起きる「変身」の一連。
ほんの一分前までは将来を嘱望され、周囲からその美しさを羨望されていたのに
ね・・・。
その美しさの源がアレの所為だったというのがまたなんとも。
人生で最も輝くときを迎えたその時、彼女は人間ではなくなっていたのですよ。

「女の子が醜い化け物になっちゃうフェチ」「美しいものを思う存分汚してみたい」
の方々には(;´Д`)なシチュエーションなのでしょうけど、人外(になりつつある
モノ)のバケモノに対して何のエロスを感じられない私には恐怖以外の何者でもない
ですな、マジで夢に出てきそうです・・・。

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2008年2月22日 (金)

新潟交通電車線廃線跡探訪その十・板井駅跡

新潟交通電車線廃線跡探訪・第十回は板井駅跡。
板井駅は東関屋駅から10.2km、木場駅から1.3km地点に位置していて、旧西蒲原郡黒埼町(現・新潟市西区)の南端に所在していました。

板井駅は1933年(昭和8年)4月1日の東関屋-白根間開通時に設置された棒駅で、当たった資料によると開業当時は「停留場」(場内信号等の運転設備無し)ではなく「駅」だったようです。
駅廃止時の所在地は西蒲原郡黒崎町の南端で、黒埼町はその後2001年元日をもって新潟市に編入されています。
電車線起点の東関屋駅から10km強しか離れていないここ板井駅ですが、周囲は画像を見ればわかるようにローカル色の濃い風景。
至近に小学校がある以外、ランドマークになるようなものはありません。
集落を抜けて西方に数百m進むと上越新幹線の高架に行き当たりますが、一面田園の緑の海を真っ直ぐに進む頑強な鉄筋コンクリートの隊列と、堤防道路によって周囲から遮蔽され、廃線趣味以外の人間には顧みられる事もなく、ゆっくりと朽ち果てていくこの廃駅とすっかり草むした二条の鉄路のあまりに対象的な姿に、もののあわれを感じずにはおれません・・・。

この板井駅跡を最初に訪問したのは、2004年の5月。
五月晴れのこの時期にしてはやや強い陽光の下、トレッキングと洒落込んで東関屋寄り3km先の新大野駅跡からてくてく進み、途中レールを見失って右往左往しつつ、ようやくの事で辿り着いたのです。
木製の黒光りする年季の入った架線柱は未だ健在、レールもこのあたりはまだ寸断や撤去される事もなく、かつての面影を濃厚に留めていました。

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木場駅方から見た板井駅構内、2004年5月撮影。
当駅は中之口川の堤防道路の直下にあって、反対側は農村の集落。
周囲の見通しはよくありません。

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七穂駅方から見た板井駅構内、2004年5月撮影。
駅敷地のこの狭さでは、列車交換設備を置くことは無理だったでしょう。

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駅舎(待合室)はこの時点で残念ながら撤去済み、2004年5月撮影。

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駅名標の枠は残存していました、2004年5月撮影。

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七穂駅方に進みつつ、振り返って板井駅の遠景を望む、2004年5月撮影
「でんしゃにちゅうい」、この種の立て札は当駅周辺の線路沿いに散見されるものですが(電車が低速なのをいい事に、踏切まで回り道をせずに線路を渡って堤防道路と生活道路を行き来する人が多かったのでしょう)、これらの印象もまた強烈・・・もう二度と電車は来ないのにね・・・。

それから三年半後の2007年11月に再訪した板井駅跡は、線路が完全に撤去されていました。

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ホームはまだ手付かずで、駅名標の枠もまだ残っていました。

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堤防道路の木場駅方から見た板井駅跡。

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七穂駅方から見た板井駅跡。
架線柱と「でんしゃにちゅうい」もまだ残っていました。

   

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2008年2月17日 (日)

ゴーオンイエロー嬢とイカワープな鞍馬天狗様

本日より戦隊シリーズ第32弾・「炎神戦隊ゴーオンジャー」が放映開始。
このゴーオンジャー、紅一点のゴーオンイエローがマスクオフ姿を頻繁に見せ
てくれそうだという話で、ヒロインマスクオフ萌えの方々にとって待望久しい作
品の様子。
私も戦隊シリーズはとりあえず第一話だけは視聴してみるのが毎年この時期
の習いにて、先ほど録画を見終わった次第。

・・・確かにマスクオフはもうお腹一杯な程ありましたな!
私がハマって全話録画した(・・・とは言え、未だ第四クールは最終回以外
見てません<(^ー^ι))ボウケンジャーでは変身シーン以外のマスク
オフは無し、第一話以外見ることのなかったゲキレンジャーもそのようですし、
その種の趣味の方々におかれましては誠にご同慶の至り。ここ数年の喉の
渇きが本日だけで解消されたことと存じます。

ゲキイエローに引き続いて登板の人見早苗さん演じるゴーオンイエローの名乗
りポーズも「腰をくねっ!ぶりっ!と動かす」、なんとも悩ましいポーズ。
女性が女性をごく普通に演じるただそれだけでは「ドラマ」はなかなか成り立ち
ませんから、異性愛者が思わずドキリとするようなああしたポージングは「女と
しての属性」を強くアピールする上で大変結構な事(これまでの女性が演じる
ヒロイン変身後が没個性気味だったのはその辺の認識不足もあったかと)だ
と思います。
この辺は蜂須賀さんや中川さんの女形演技手法(女性という属性を過剰な
までに表現)の逆輸入なのでしょうか・・・!?

ただアレだとうーむ・・・、小五月蝿いオバちゃんたちが「子供番組でヒロイン
のおねえさんがあんなポーズを取るなんてなんてはしたないっ!」とねじ込んで
きそうでちょっと心配・・・。
まして変身前のおねいさんが十六歳ですしね、十六歳の「乙女の純潔」がとって
いいポージングじゃありません! あたしゃ断じて許さないよっ!!なんて
変身前後のおねいさんたちをごっちゃにした困ったチャンな投書や苦情が行かな
きゃいいけど。

本編の方はと言うと・・・、とにかく「がちゃがちゃした」印象。
画面に落ち着きがないというか、非常に見辛かったですねぇ。
でも某巨大掲示板のスレを覗いて見た限りにおいては、概ね好意的なんですよ。
少なくとも私が感じた事についての言及は無し。
これはどういう事なんだろうかと少々考えて、導き出した結論はズバリ

「私の感覚や感受性は完全にオサーン化してしまっている!!」

・・・という断じて認めなくはないが受け入れざるを得ない悲しい現実(ノД`)。
そういえば、国営放送で木曜夜に放送している「鞍馬天狗」、先々週の「山獄
党奇談・前編」から見始めましたが、コレがもう面白くって!
無敵無敗にして某将軍サマの秘儀縮地法でも使っているのではと疑う神出鬼没
っぷりの天狗様(「イカワープ」と呼ばれている由w)。
画面も程よく落ち着いていて、クライマックスは悪党と天狗様のタイマン勝負!
天狗様活躍シーンには「いかにも」な心躍る音楽が流れますしね、「そうそう
、これこそ変身ヒーロー物の王道だよっ!」と膝をいちいち打ちながら見て
いて・・・、ふっと我に帰れば
「これって時代劇だよね」・・・。
落ち着いた画面に落ち着き払って相応の実力を持つ俳優陣、パターン化されて
様式美化された筋立て。昔は時代劇なんぞ古臭くじじむさいと鼻にもひっかけ
ない私でしたのに、こういうのを見て気分が落ち着く日がこようとは。
やはり確実に且つ残酷に、私の感覚や感性はオサーン化してしまっ
ていますです・・・orz。

身体は同年代の人間よりも数段若いのを自負している私ですが
(でなきゃ体型の維持など出来ませんし)、アタマの中身はそれなりに歳を
くっていくわけであります。
まぁ、自然の成り行きにてそれはそれで仕方ないと言えましょうかねぇ。
従いまして「炎神戦隊ゴーオンジャー」、人見さんの新境地・ぶりぶりっ♪な
演技には大いに期待しながらも、視聴し続けるのはちょっとキツいかな
(慙愧の極み)。
話が幼稚とか破綻しているとかそういう評価を下す以前に「画面について
いけない」。
老いの始まりを痛感した冬の午後なのでありました。

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2008年2月16日 (土)

新潟交通電車線跡探訪その九・木場駅跡

新潟交通電車線跡探訪・第九回は木場駅跡。
新大野駅跡で市街地に別れを告げ、右手に電鉄線の廃線を見ながら中之口川の堤防道路を歩く事三十分弱で到着です。
木場駅は東関屋駅から8.9km、新大野駅から1.9kmの地点にあって、西蒲原郡黒埼町(現・新潟市西区)に所在していました。
当駅は電鉄線・東関屋-白根間が開通した1933年(昭和8年)4月1日に開業した有人駅。
列車交換設備を有し、かつては貨物の取り扱いも行っていて、また当駅と東関屋駅(県庁前-東関屋間営業時は県庁前駅)間には区間列車が数往復設定されていて、貨物輸送と旅客・貨物・運転の三点いずれにおいても電鉄線内の要衝駅の一つなのです。
駅前には農協があって巨大な倉庫も軒を連ねており、かつては周辺の豊饒な土地から取れる米や野菜をこの駅から電鉄線で出荷していたのでしょう。
秋の収穫時期にはさぞ賑わった事だろうと、駅跡で感慨に耽る事しばしなのであります。

余談ですが木場駅は某K高校の最寄り駅。
このK高、私が中~高校生の頃にはキョーフの伝説に彩られた絶対に近づきたくない、命が幾つあっても足りない学校としてつとに有名でございまして・・・。
アカシャツに短ランボンタンは当たり前、ファッションと武器を兼ね備えたチェーンをガラガラヘビの威嚇のようにジャラジャラ音を立てながら周りを睥睨(ごく一部の生徒がそうなのではないとか)とか、他にも色々とまるでリアル「熱笑花沢高校」の如きトンデモ話がまことしやかに時には面白おかしく語られたものです。
従いましてこの木場駅、思春期の私にとっては地獄の一丁目同然の、
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルな駅だったのであります・・・。

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新大野駅方から見た木場駅遠景、2004年5月撮影。

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板井駅方から見た木場駅構内の様子、2004年5月撮影。

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副本線?の廃ホーム上から見た木場駅構内の板井駅方の様子、2004年5月撮影。

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副本線?の廃ホーム上から見た木場駅構内の新大野駅方の様子、2004年5月撮影。
画像左側の木造の大きな駅舎はすっかりあばら屋然となっていましたが、その姿をなお
も留めていました。

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廃線跡に立って板井駅方を見通す、2004年5月撮影。

ホーム、レール、架線柱全て健在な木場駅のその様子は、遠目から見れば営業中の田舎駅と錯覚を起こしても不思議ではない堂々たるものでした。
ホームに立ってみれば新緑の清々しく若い芳香と、駅舎や架線柱から立ち昇る古い木のやや日向臭げな渋い匂いが鼻腔にすうっと・・・。
天気も良くて暑からず寒からずのお日様を浴びながら、ホームに座り込んでペットボトルのお茶をすすりつつ、鳥の囀りを耳にしながらしばらくボ~ッと過ごした春のお昼時。
こういうのが駅周りの最大のエツラクなんであります。

それから三年半後の2007年11月ではこのような末期的様相に。

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新大野駅方から見た木場駅跡遠景。

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構内の線路も全て剥がされて、ホーム解体と架線柱撤去を待つばかりの木場駅跡。

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あの大きな駅舎も撤去されていました。
駅舎敷地には工事事務所とおぼしきプレハブの建物と背の高い雑草の群れ。
終末の時はいよいよ迫れり。
陰鬱な冬の到来をすぐそこに控えた一年でもっとも物悲しい時期、秋の名残の最後の陽を浴びながら、悄然と佇む私の長い影なのでありました。

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2007年11月時点では、新大野駅以南の廃線各所にこのように撤去されたレール、また枕木が積まれて搬出の時、死出の旅立ちを静かに待っていました・・・。

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木場駅跡から板井駅跡方向に少し進み、振りかえって木場駅跡方面を撮影。
上は2004年5月、下が2007年11月。
レールと枕木がないと、こうも印象が異なります。

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タイタンでメタン燃料ロケットの夢叶うか

欧州宇宙機関(ESA)はこのほど、土星最大の衛星タイタンには地球における
石油・ガスの確認埋蔵量の何百倍にも上る炭化水素が液体の状態で存在して
いることが分かったと発表したそうです→http://news.livedoor.com/article/detail/3510989/

タイタンは太陽系の数ある衛星の中でも、木星の衛星ガニメデに次ぐ第二位の
座を占める巨大衛星で、その直径は惑星である水星のそれを上回っており、
月のそれと比較して約五割大きいと言えば、そのスケールが多少は理解される
でしょうか。
タイタンは窒素と少量のメタンからなる厚い大気を持ち、その表面重力は地球
のそれの約1.6倍。
液体メタンの雨が降り、メタンの川や湖が存在すると考えられています。

私の認識でタイタンと言えば、波動エンジンのエネルギー伝導管の製造補修
に不可欠なレアメタル「コスモナイト」を太陽系内において唯一産出する天体
であり、第一次外惑星動乱では外惑星連合構成諸国の中で真っ先に
降参した意気地なしのヘタレ野郎な星なんですがw。
また私がやんごとなき紅顔の小学生の時分には、学校の図書館に「チタ
ン(タイタン)の亡霊人」というSF小説のジュブナイル版が置いてありましたっ
け。
生憎スペオペ命の私はサレ光線砲なるトンデモ兵器を載せた地球の宇宙船
が、太陽系に攻めてきた宇宙の悪者をかたっぱしからボコって回る本
などに夢中でついぞ目を通す事はございませんでしたがw。

・・・と雑談はさて置き、タイタンに液体メタンが、それも雨になり川や湖をも作
り出す量が存在する事から、相当な量のそれ(メタンも当然炭化水素の一つ
)が存在するのは当然の話でしたけれど、そのメタンを含む炭化水素の総量
が地球の確認埋蔵量の何百倍というスケールの大きさにはビックリ仰天! 
直径で地球の約4割の大きさにしてこの炭化水素の埋蔵量ですよ、ホントどん
だけ~な話なのでございます。

さて遠い将来、人類の太陽系開発が進んで土星系が本格的に開拓されるように
なると、タイタンに大量に存在する炭化水素は開拓の初期段階において重要な
資源になるかもしれませんね。
厚い大気が有害な宇宙線や隕石に対する天然の防護壁になっているタイタンを
、人間が恒久的に滞在する土星系開発のメインベースとした場合、タイタンで
生産された各種資材の周回軌道や土星系の他の衛星への安価な輸送手段とし
て、タイタンの炭化水素、とりわけメタンを燃料とする化学推進ロケットは魅力的
かなぁなんて門外漢の私は妄想をめぐらせますです。
土星系に開発の手が及ぶ頃には、少なくとも有人宇宙船の惑星間航行について
は原子力推進が常識になっているでしょうけれど、タイタンのように重力の比較
的大きな天体の地表から周回軌道へのペイロード投射には、比出力の大きな
化学推進はなお有効な手段であろうと思われます。
(大気圏内において原子力推進を行う事の安全性に対する懸念は置いておくと
しても、相当に先進的でエレガントな核融合推進でも、比出力は化学推進と大き
な差は無いと思われます。周回軌道への打ち上げコストについてはいわずもが
な。もちろん惑星間航行において重要な指標である比推力については、例え
最初期の原子力推進=核分裂推進であってもいかなる化学推進より数段勝っ
ておりますが)
また土星系内のような比較的近距離で、且つ速達性を求められないコスト重視の
貨物輸送においても、化学推進はやはり有効な手段の一つではないかと感じら
れます。

私が定期購読している雑誌「軍事研究」3月号ではちょうどタイミング良く、
航空機やロケットの燃料としてのメタンについての記事が載っておりました。
それによるとNASAが有人火星飛行での利用を見据えたメタン燃料エン
ジンの開発も、我が国が安価で手軽なミドルクラスの打ち上げ機用として開発
に取り組んだ、メタンを主成分とする液化天然ガス(LNG)燃料エンジン開発
もうまくいっていないようです。
前者はエンジンの予備試験段階で技術的難関に突き当たり、後者はLNG燃料
と酸化剤の混合がうまくいかずに不完全燃焼を起こすのだそうです。

現状では実用化はまだまだ先の話で、確実に作動する燃料の着火システムなど
これから一つ二つのブレークスルーが必要なメタン燃料エンジンですが、液体
メタンと現在打ち上げロケットのエンジンにおいて最もポピュラーな燃料である
液体水素と比較するとその密度は前者が後者の六倍(液体メタンのほうが
液体水素よりも燃料タンクの容量を小さく出来、当然ロケットの重量軽減に繋が
る)、沸点は前者が-162℃、後者が-252.6℃で、メタンの方が燃料タンク
の面倒臭い断熱処理の手間が少なくて済むなど、打ち上げコスト低減に繋がる
要素を多々持っておりまして、無尽蔵なメタンをタイタンに抱え、ロケットの生産
能力も当初は限られたものでしかないであろう土星系においては、燃料も酸化
剤も自家調達(酸化剤の液体酸素はタイタン以外の衛星で採集する氷から
作ればいいでしょう)、生産コストも液体水素燃料のそれに比べれば控え目な
メタン燃料推進ロケットは将来、かの地の開発に大いに資するものがあるで
しょう。

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2008年2月 9日 (土)

新潟交通電車線跡探訪その八・新大野駅跡

新潟交通電車線跡探訪・第八回は新大野駅跡。
新大野駅は東関屋駅から7.0km、黒埼中学前から0.5kmの地点にあり、手元にある平成9年(1997年)3月16日(電車線廃止の2年前)現在の時刻表には駅の電話番号が載っておりますので、この時点では業務委託の有人駅であったと思われます。
(ちなみにこの時刻表に電話番号が載っているのは東関屋、焼鮒越後大野木場七穂味方白根月潟の各駅) さて新大野駅は電車線東関屋-白根間開通の約一年二ヶ月後、昭和9年(1934年)6月15日に開業した停留所で、開業から廃止まで列車交換設備の無い棒駅でした。
駅は旧黒埼町の市街地の外れに位置しており、東関屋駅から続いていた市街地も当駅で一応の区切りとなり、ここから先は急激にローカル色が増して鄙びた情景へと変わってまいります。

新大野駅跡を最初に探索した2004年5月の時点では、駅舎・ホーム・レール・架線柱の四点セットが揃いぶみ。

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新大野駅駅舎の様子。
列車交換駅の焼鮒駅や越後大野駅のそれと比べて小さく簡素な造りの建物です。
内部立ち入り禁止なのは安全上防犯上当然の話ですが、やはり残念。

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木場駅方から見た新大野駅構内の様子。

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電鉄線と並走する路上から見た新大野駅構内。
駅前広場の駐輪場は形だけ残っていましたが既にボロボロ。


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黒埼中学前駅方から見た新大野駅構内。
駅名標の枠も残存していました。

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ホーム上から見た駅舎の様子。

2004年5月の訪問時、新大野駅のような棒駅で駅舎(待合室)が残存していたのは他に吉江駅跡のみ。
吉江駅は待合室のみの機能ですので、当駅のように有人のしかも棒駅が往時そのままに
残っているのは極めて貴重でした。

それから3年半後の新大野駅はこのような状態に成り果てていました。

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駅舎は解体されて跡形もなく、レールも剥がされていました。
また夜来の雨が廃路盤に溜まっているのが強烈に印象に残ります。
廃墟と澱んだ溜水という取り合わせは、廃墟の打ち捨てられたイメージを強調していて見ていて非常にやるせなくまた嫌な気分になります。
廃線なのですから当然の事とは言え、管理する人間も誰もおらず、周りからすっかり見捨てられている事の何よりの証なのですからね。

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廃線を眺めながら、新大野駅から木場駅に向かって歩きました、2004年5月撮影。

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2007年11月の同じ道行きでは線路は完全に撤去されて、架線柱が辛うじて残存という末期的状態。

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