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2006年6月の記事

2006年6月20日 (火)

上越線・石打駅

本日の駅紹介は上越線・石打駅。

2016年7月17日記、リニューアルを実施しました。

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新潟県南魚沼市に所在する有人駅です。
大正14年(1925年)11月に開業し、上越国境越えの運転上の拠点(機関車の増結・解放)として長らく機能してきました。
なお開業当時は南魚沼郡石打村の所在で同村の玄関駅でした。
同村はその後昭和32年に塩沢町に編入されて、平成17年10月に南魚沼市に編入されて同市南端地域として今日に至ります。
現在は電留線として機能しているという側線群、また六日町方面に少し進んだ車窓左手に見える機関車の待機線と思われる(多分?)エンドレールなど、かつての賑わいの面影を今に伝えております。

ここ石打駅には上越新幹線開業前、電車急行「佐渡」「よねやま」計5往復の内2往復が停車しておりました。
またその当時からみどりの窓口も設置されておりまして、塩沢町の本来の表玄関であるべき塩沢駅(町の中心街や官公庁へはこちらの駅が最寄)がみどりの窓口なし、急行列車の停車皆無なのと比べると、傍からは奇異に感じられる程のえこひいき(笑)ぶりでした。
→昭和55年当時の当駅時刻表はこちらへ。
一方で貨物取り扱いは昭和45年12月という、幹線の有人駅としては早い時期に廃止になっており、ここら辺は周辺人口の少なさに相応の扱いのようです。

JR東日本によると、2015年度の石打駅一日平均乗車人員は135人。
同社新潟支社県内有人67駅中64位で、上越線の新潟県内区間有人9駅中最下位です。
「石打郷土誌」(塩沢町教育委員会発行)によると、昭和31年(1956年)8月のそれは413名(スキーはオフシーズン、学生は夏休みと、年間で一番利用客が少ないと思われる月です)。
・・・単純計算ではここ50年で約六割の減少になりますけど、当時はスキー客の列車利用で、当駅の冬季の利用客は相当の数に上ったと思われますので(駅周辺には著名なスキー場がいくつかあります)、年間通じての一日平均となりますと、64%の減少どころの騒ぎではなく、70%台後半、悪くすると80%の減少というのも考えられなくもなしです。

前述の「石打郷土誌」によりますと、昭和31年当時の当駅構内所在機関及び人員数は、

石打駅・・・63名、長岡客貨区石打派出所・・・10名、
長岡車掌区石打派出所・・・3名、水上機関区石打駐泊所・・・9名、
湯沢電力区石打配電分区・・・11名、長岡通信区石打詰所・・・2名、
水上保線区石打線路分区・・・18名の計116名!

当時の鉄道がいかに労働集約システムであったかを偲ばせる数です。
峠越えの拠点駅としての役割を終え、優等列車の停車も無くなった今日の姿とはあまりに隔絶していたのですよ。 

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石打駅駅舎の様子、2011年5月撮影。
建築財産票を見つけられたので竣工日は不明ですが、ウィキペディアによると昭和43年築との事。
上越線全盛時代の山越えの運転上の要衝の栄光を今に伝える、二階建ての立派な建物です。
堅牢な造りは流石豪雪地帯のもの。

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団体用とおぼしき出入り口、2011年5月撮影。
冬のレジャーがスキー一色だった頃は、当駅も続々到着するスキー臨から降り立つスキーヤーでさぞ賑わったことでしょう。
上の画像右側の黄色い板には「特急谷川6号上野行 14:36」の表記が!
かつては冬季に特急谷川号が上越国境を越えて、当駅まで延長運転されていましたなぁ・・・。
特急「谷川」は1997年に「水上」へ改称されておりますから、この板が当駅に掲示されなくなってからこの時点で14年経っています。

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石打駅駅舎内の様子、2011年5月撮影。
2005年訪問時は待合室は仕切られておらず吹き抜けでしたが、その6年後はご覧の通り。
この駅舎も相当の経年だと思うのですが、こうして改装をするあたり、改築はまだ俎上に載っていないという事なのでしょう。
同様の事例は上越線・越後堀之内駅や信越線・安田駅などにも見られます。
畳敷きのスペースは健在で何より、こういう一角があるとなんかホッとしますな。

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改札から構内に入り振り返って一枚、2011年5月撮影。
上の通路は、現在使用されていない一番ホームに繋がっております。

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ホームへの地下道入り口の様子、2005年9月撮影。

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構内の地下道の様子、2011年5月撮影。

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島式ホーム(二、三番線)大沢駅方から見た石打駅構内、2011年5月撮影。
画像左の一番ホームには、使用されていないにも関わらず真新しいフェンスが設置。
2005年訪問時の画像にはこのフェンスは無いので、中越地震の被災復旧絡みでもないようですが?

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同じく大沢駅方を見る、2011年5月撮影。
大沢方に伸びる一番ホームは古びた味があって、個人的にはこういう寂れた幹線ホームが好きです。

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島式ホーム中央部の出入り口の様子、2011年5月撮影。
石打駅のホーム出入り口は二箇所あっていずれも幅広、この辺もかつてスキー客で賑わった駅ならではです。

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ホーム出入り口からホーム越後湯沢駅方を見る、2011年5月撮影。
ホーム上に待合室はありません。

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島式ホーム越後湯沢駅方から見た石打駅構内、2004年9月撮影。
かつて急行「佐渡」「よねやま」が目一杯使って停車していた長いホームも、今ではすっかり遊休化。
ホームの白点線がもののあわれを誘います・・・。

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同じく越後湯沢方を見る、2004年9月撮影。

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島式ホーム上から見た一番ホームの様子、2005年9月撮影。
2004年に現地で伺った時には臨時列車用として使用しているという話で、また特急「はくたか」用の電車留置にも活用されていました。
冬季に臨時運行される快速「シーハイル上越」は当駅止まりですけれど、その場合は一番線に入ってくるのかどうか。
もし入ってくるのならば、当駅一番ホーム上を撮影できるチャンスがあるのはその時だけでしょうね。

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電留線に停車中の115系電車二連、2005年9月撮影。

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大沢駅方踏切から見た石打駅構内、2005年9月撮影。
架線柱群の仰々しさが目を惹きます、そして現在の寂しい情景。
このギャップが当駅最大の魅力と言えましょう。
画像右側の車庫には国鉄色の特急型電車がチラリと見えます。

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踏切から大沢駅方を見る、2005年9月撮影。
画像左側の機関車の待機線?がノスタルジーを掻き立てます。

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石打駅から出発する115系電車長岡行、2014年5月撮影。

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石打駅に到着した115系電車越後湯沢行、2014年5月撮影。

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石打駅を通過するほくほく線直通のHK100形「ゆめぞら号」の越後湯沢行、2014年5月撮影。
ほくほく線直通列車は当駅を通過しますが、駅巡りの身としては過疎ダイヤの上越線ゆえに「この電車が停まってくれたらなぁ・・・」とぼやくのでした。

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石打駅を通過する特急「はくたか」金沢行、2014年5月撮影。
ホーム上での最小の待機時間でいかにして上下の「はくたか」とHK100形を撮れるか、光の加減も考慮して無い知恵を絞った末に実行した時の画がコレ。

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石打駅前通りの様子、2011年5月撮影。
駅前のおみやげ店は全て閉店、タクシーの待機もこの時は無し。
何もかもががらーんとしておりました・・・。
なお、路線バスは駅前まで入ってきませんのでご注意ください。

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石打駅前から見た秋の初めの南魚沼、2005年9月撮影。
間もなく稲刈りです。


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石打駅に下車して駅前に出るとすぐに視界に入るのが、上越線の生みの親と言える岡村貢氏の顕彰像、2004年9月撮影。
岡村氏は1836年にこの地で生まれ、明治12~15年まで南魚沼郡長を務め、その後27年には衆議院議員にも当選した郷土の名士ですが、明治10年頃からすでにこの地への鉄道敷設の必要性を熱心に論議していたという、当時まだまだ旧時代の守旧派が幅を利かせ、先取の気風に対する頑迷的世論が多数派だった中で、非常に開明的な人物でありました。
明治17~18年には東京から測量技師を招き、自らも同行して南魚沼の山野を歩き回り、明治29年7月には、自らの手で鉄道建設を実行すべく発起した「上越鉄道」に鉄道敷設の仮免状を獲得させるまでにいたります。
明治33年4月には本免許状が下付され、いよいよ宿願の鉄道建設へ・・・のはずだったのですが、必要な資金が用意できなかった為に翌年4月に本免許状は失効して会社も解散の止む無きに至り、会社株主への弁償で全財産を失うという結果に終わってしまいました・・・。
大企業のバックアップなしに、地方の人間が出来る事としてはここまでが限界だったのでしょうね・・・。
しかし岡村氏の勇気ある行動によって、鉄道建設への機運は高まり、大正6年にはそれまで建設資金の問題で建設を渋り続けていた国も、高崎-長岡間の鉄道敷設を決定、大正14年暮れには越後湯沢まで開通、岡村氏の郷土である石打の地にも駅が置かれ、雪に埋もれた山野に勇壮な蒸機の雄叫びがこだまするようになりました。
岡村氏は郷土に鉄路が到達するのを見る事なく、大正11年1月に亡くなりましたが(享年85)、大正9年11月に宮内-小千谷間が開通した時には、開通式に招かれて祝辞を述べているそうです・・・さぞかし、万感胸に迫るものがあった
事でしょうね。
(参考文献 石打郷土誌 越後の停車場(朝日新聞社刊))

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国道17号から石打駅方面への道のり、2011年5月撮影。

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石打駅前通りから国道17号に出て一枚、2011年5月撮影。
駅から国道へは私の足で五分ほどです。
駅前には何もありませんが、国道まで出ればコンビニやレストランがあります。
石打駅周辺からは国道17号及び453号線を経由する、南越後観光バス運行のバス路線がそれぞれ設定されております。
国道17号には越後湯沢-六日町間に運行されていて、上越線の補完として使い勝手も中々良しかと思われます。
国道453号には越後湯沢-森宮野原間に運行されていて、越後田沢津南、森宮野原駅に直行したい場合に使い出のある路線ですけれど、本数が少ないのは残念。
この路線には2011年5月に森宮野原駅-石打郵便局前間を乗車しましたけれど、乗客は少なかったですな・・・。
森宮野原駅出発時点で乗客は私一人、途中で乗降はポツポツとあるものの、乗客数が二桁になる事はついに無いまま私は下車。
下車時点での乗客は五人。
途中の山越えの車窓は素晴らしいだけに、もうちょっと目立っても良い路線です。

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バスの車中から一枚、2011年5月撮影。
紅葉の時期は沿線随一の観光スポット・清津峡へのアクセスで乗客はずっと多いのだろうとは思いますけれど。
また一応「急行」バスという事になっておりますが、私が乗車した時はかなりの経年の一般路線用バスでした。
「急行」=古い観光用車使用と思い込んでいたので、これにも少しばかり残念。

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2006年6月10日 (土)

五十島駅(磐越西線)

本日の駅紹介は磐越西線・五十島駅。

2017年4月15日記、新記事を旧記事に統合し加筆修正しました。

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新潟県東蒲原郡阿賀町に所在する無人駅で、開業は開業は大正2年6月1日。
隣の東下条駅とは異なり、磐越西線馬下-津川間延伸開通時と同時に開業した由緒あり歴史ある駅です。
開業当時の所在は東蒲原郡下条村で、同村唯一の駅でした。
本来の村中心地区である東下条界隈ではなく当地に駅設置の白羽の矢が立ったのは、前回で触れたように近隣に存在したという「持倉鉱山」の存在と、産出される銅輸送の為でした。
村の中心集落といっても山間の小村のそれだけに人口はけして多くはなかったでしょうし、貨物需要も多くを望めない東下条よりは五十島に駅を求めたのは当時の判断としては充分理にかなっている事だったでしょう。
しかしその為に永らく取り残された形の地域(熊渡、釣浜、石間の諸集落)にとっては不満もあったのでは?と推察する次第。
持倉鉱山が村に大いなる財をもたらし続けたのならまだしも、同鉱山は大正9年に閉山してしまったのですから尚更でしょう・・・。
なお下条村は昭和30年(1955年)1月にに周辺諸村と合併して新自治体の三川村になり、平成17年(2005年)4月に東蒲原郡下の諸町村が大合併して誕生した阿賀町になって今日に至ります。

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五十島駅前の様子、上は2013年6月、下は2010年5月撮影。
駅前広場はご覧のように広く、この辺りはかつての貨物で隆盛を極めた名残かもしれません。
上の画像の右側の白い建物がトイレです。
駅入口上屋は建築財産票によれば平成5年12月24日竣工。
この上屋は単に駅構内への入口で、列車を待つのはホーム上の待合室になります。

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五十島駅前通りの様子、2010年5月撮影。
周辺に商店は無く、目立つ建物は、「防災コミニュティセンター」(避難所&資材置き場のようです)と郵便局ぐらいの静かな小集落の佇まいです。

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駅入口の上屋とホームを連絡する五十島駅跨線橋内部の様子、2013年6月撮影。
通路は狭く、ローカルな小駅の標準形です。

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跨線橋上から見た五十島駅構内の三川駅方、2013年6月撮影。
画像左奥に見える道路は国道49号線へ向かう道です。

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同じく駅構内の東下条駅方を見る、2013年6月撮影。
深い山峡に分け入るような雰囲気満点の風景です。
画像左側の駅前通りはこの先で途切れていて、五泉方面には進めません。

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ホーム上の待合室内部の様子、2010年5月撮影。
建築財産票が無かった為に竣工時期は不明。
以前は無人駅定番朱色ベンチだったものが、この時点で新定番の茶色一人掛け型に変えられていました。
室内には券売機一台とゴミ箱一個が置かれています。

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東下条駅方から見た五十島駅構内の様子、2013年6月撮影。
五十島駅は磐越西線・馬下-津川間20.4kmで唯一の列車交換可能駅です。

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ホームの東下条駅方端から先を見通す。
手前の分岐は側線と本線のものです。
本線二本の合流はまだ先で、有効長がかなり長いのに注目。
貨物の通らない今となっては、せっかくの長さも完全に遊休化してしまっていますけれど。

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ホームの上屋と跨線橋、待合室の様子、2013年6月撮影。
ローカル線の小駅を象徴する上屋の短さです。

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上屋下から構内島式ホームの三川駅方を見通す、2013年6月撮影。
幅広で構造物の少ない島式ホームはのっぺりとして、構内の眺めは個人的にはイマイチ。

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三川駅方から見た五十島駅構内、2013年6月撮影。
構内の見所としては山峡を後背にした、ゆるやかに曲線を描くこのポイントでしょう。
画像左の側線は、本線の東下条駅方とのみ繋がっています。

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ホームの三川駅端から先を見通す、2013年6月撮影。
こちら側を見ると有効長の長さが歴然。
往時の長編成貨物列車も余裕で列車交換出来そうです。

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五十島駅に停車中のキハ40系気動車三両編成津川行、2013年6月撮影。
昼下がりの区間列車の三連は輸送力過剰に見えますが、津川で折り返しの新潟行は平日だと帰宅部の学生たちが北五泉駅から乗り込んできて、相応の輸送力になるのです。

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五十島駅を出発してエンジンの音も高らかに遠ざかる、キハ40系気動車津川行、2013年6月撮影。

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キハ40系気動車新潟行を退避させて轟然と五十島駅を通過するC57形蒸気機関車牽引の「SLばんえつ物語号」、2004年10月撮影。
前述したように五十島駅は列車交換駅で、2017年3月改正ダイヤでは定期列車は1日1回、「SLばんえつ物語号」運転日は1日2回の交換が設定されています。
しかしこれだけ交換が少ないと、いずれは馬下駅と津川駅に交換機能を集約して棒線化されてしまうのではないかと危惧するところです。

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駅前通りを三川駅方に進み、踏切から五十島駅方を見る、2010年5月撮影。
左側の道が駅から歩いてきた道、右側の道がこれから国道に向かう道です。

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踏切を越えてなおも進むと現れるバス停。
スクールバス用のようですが、バス停の形状は昔の新潟交通のそれ。

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五十島橋の手前から見た五十島駅、2010年5月撮影。
駅、そして集落が阿賀野川と山々に挟まれた狭隘な立地条件にある事を良く体感できます。

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五十島橋のたもとにあるJRの代行バス用の停留所(左側の小屋)、2010年5月撮影。
代行バスは駅まで入らないようです。
ここから駅までは私の足で七分程(大体時速6km強)。

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五十島集落と国道49号線を結ぶ五十島橋の様子、2010年5月撮影。
画像奥手が国道です。

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五十島橋上から見た蛇行して流れる阿賀野川、2010年5月撮影。

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橋を渡って国道49号線に出ると、至近には国道の五十島トンネル。
トンネルの左側には川際の旧道があります。

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国道49号線上の「石間」行バス停、2010年5月撮影。
東下条駅エントリーで触れたように、この時点では三川駅前-石間間には無料送迎バス(福祉バス)が一日一往復しているだけのようです。
なお三川駅-五泉駅間の公共交通機関は事実上磐越西線のみになっているので駅歩きの際はそれを念頭に計画してください。
(馬下駅-猿和田駅-五泉駅間に運行されていた路線バスは2010年9月30日をもって廃止されました)

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国道49号線の様子、2010年5月撮影。
画像右側が「道の駅みかわ」でトイレと自販機有り。
左側が食堂です。
五十島駅からここまでおよそ1.2kmというところ。

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2006年6月 9日 (金)

イラクとソマリア

イラクのマリキ首相は8日、イラク聖戦アルカイダ組織を率いるザルカウィ
容疑者が、米・イラク軍がバグダッド北方で合同で実施した攻撃により、
死亡したことを発表しました。

ザルカウィ氏のやり方に反発していた連中が、米国に居場所を密告、
その情報に基づき、彼が潜んでいる建物を爆撃して~という事の顛末
ですが、出来れば殺さずに逮捕し、彼とその組織のファナティックさを
世界中に知らしめてから罰を与えたかったでしょうが・・・。
米軍の攻撃で死亡したとなれば、間違いなく彼は「恥知らずな異教徒の
卑劣な罠にかけられた殉教者・英雄」になるでしょうしね・・・。
イラクの一般市民も彼の無差別テロで多くの犠牲者を出していますから、
逮捕して衆人環視の元で裁判ショーでもやれば、イラク国民の憎悪は一時的
にせよ彼に向けられ、米軍に対する敵対心のガス抜きにもなったでしょうが、
死んでしまったら、時を経るに従い「不信心者どもと戦った」という側面のみが
拡大・純化されて「殉教者・英雄」として正当化され、彼に続く者が次々に
現れる事になります。

・・・しかし、アメさんたちはイラク戦争の後始末、どう決着をつけるつもりなん
ですかね。
やらずもがなの戦争で、フセイン大統領の情け容赦のない鉄拳で封じ込めら
れていたパンドラの箱(シーア派・スンニ派・クルドの半端じゃない対立)を
開けちゃって・・・。
そもそも欧米的な「国民国家」じゃないのに民主主義を無理強いするもん
だから、皆が皆「オレオレ!!」って言い出して収拾が付かないよ・・・。
米国にとって一番ベストだったのは、フセインとその取り巻きのみを排除した
上でバース党による「緩やかな」イラク統治の継続を認めて国内の混乱を
最小限に抑え、米国の死活的利益としての油田の確保を確実なものとし
つつ、十~二十年を費やす覚悟で諸宗派・諸地域間対立をソフトランディングに
導き、それを持って米国流価値観の正しさを、頑迷な周辺諸国に知らしめると
いうシナリオだったのでは?と私は考えるところですが・・・。
石油を確保しなきゃならないから、ベトナム戦争の時のように「政治的に旗色が
悪くなったら傀儡政権を見捨てて逃亡~後は野となれ山となれ」は出来ない
ですから、このままずぶずふか・・・「民主主義を下賜する」が建前ですので、
例え米国の犬であっても、独裁政権はXですしねぇ、落としどころが見つから
ないんだよなぁ。

「イスラム原理主義」に関してはもう一つニュースが。
マコーマック米国務省報道官は7日、ソマリアの首都モガディシオ
を制圧したイスラム原理主義勢力「イスラム法廷」から米政府が書簡を受け
取ったことを 明らかにしました。

国が四分五裂して凄惨な殺し合いと無秩序の中、イスラム原理主義勢力が
首都を制圧・・・って、かのタリバンと同じ成り行きですな。
元々かの国の大半の国民はイスラム教徒との事で、戦乱と無秩序の中に
あっては、信仰に唯一の救いを求める人々に耳触りのよい宗教勢力に有利で
ありましょうし、とりあえずの秩序の回復には、オマル氏がビンラディン氏に
「キXタマ握られる」以前のタリバンが成功していたように、過剰とも思える厳格な
宗教律の強制は有効でしょう。
「原理主義」といっても、宗教の原典にのみ忠実に従うという考えはキリスト教徒
の中にも存在しますしね。
(昔読んだ「核戦争を待望する人たち」って本には、終末の日に自分たちが
「空中携挙」されたいが為に全面核戦争が勃発するのを心待ちにしている米国
のキリスト教原理主義の一派の存在が描かれていました。
日本人から見ればクレイジーとしか思えない連中ですが、米国政界にもそれなり
の影響力があり、かのレーガン大統領も片足突っ込んでたとか色々・・・。
彼らはレーガン政権の対ソ強硬政策が、ソ連をキレさせて全面核戦争にもって
いけるとして熱烈に支持したそうです。
全面核戦争で、我々のような不浄な外国人や不信心人者どもが滅んだあと、
「至福の千年王国」を彼らの手で作り上げるんだとか)

閑話休題
原理主義=過激派とストレートに捉えるのは適当ではないですから、「イスラム
原理主義勢力」を名乗るからといって、闇雲に敵視する必要はありません。
第ニのタリバン(外国に対するテロの温床)の轍を踏ませないように、まずは
民生の安定を最優先とし、現地の人々があらかたそれで納得しているので
あれば、宗政一致の体制について民主主義がどーたらこーたらなどと文句は
言わない(我々と彼らとでは国家国民に対する意識も価値判断の基準も大きく
異なるのですから)のが肝要かと存じます。

余談ですが、ソマリアという国、「英国植民地」と「イタリア信託統治領」が統合
して成立したのだそうで・・・「イタリアの信託統治領」!?
第二次大戦までのイタリア植民地であった「ソマリランド」を戦後も国連の信託
統治という形で保持していたそうで、同じ枢軸国でも、徹底的に吊るし上げられ
て身ぐるみ剥がされた我が国やドイツとは扱いがエラい違いだなぁ~と、この事
を知った時はぶっちゃけ驚きました。
イタリアは戦況が不利と見るや「この戦争はドゥーチェのオXニーだから」ととっと
と止めて、連合国の「共同交戦国」に華麗に転身、昨日の友は今日の敵とばかり
に我が国に宣戦布告して賠償もめざとくゲットした国ですからねぇ~。
非常に賢明ではあると思いますが、日本人の心性ではちょっと理解し難い面多々
なのも事実です。

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2006年6月 5日 (月)

大形駅(白新線)

本日の駅紹介は白新線・大形駅。

2016年3月6日記、大幅リニューアルを実施しました。

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新潟県新潟市東区に所在する有人駅で、開業は1957年(昭和32年)2月11日。
開業当時も既に新潟市の所在でしたが、この地域は昭和18年までは西隣の石山地区同様、村(大形村)でした。
白新線・沼垂-葛塚間が昭和31年に開業した時点では駅設置は見送られ、翌年に黒山、早通両駅と共に追加開設されています。
沼垂-新崎間の距離は10km近くあるので、その間に駅を設けるのは必然と言えるのですけれど、当駅よりも周辺人口が多い西隣の東新潟駅が昭和53年まで仮乗降場に甘んじていたのに比べて、新崎駅から阿賀野川を渡って2km強のこの地に駅が設けられたのは、今日の視点で見れば奇異に映るところです。
東新潟駅は貨物の大ターミナルである新潟操車場を擁しており、もしかしたらその貨物業務に旅客は邪魔という国鉄本社の判断があり、その近隣で駅設置がし易い(半農半住の農村地帯で駅用地取得が比較的容易)当地に駅設置の白羽の矢が立ち、東新潟駅は管理局権限で仮乗降場として開設ということだったのでないかなぁと考えているのですか、果たして真実は?

そんな当駅周辺は、東新潟駅南側の日本海東北自動車道沿いで近年急速に進んでいる宅地化の波もまだ及んでおらず、十年一日の長閑な農村の雰囲気。
駅南側は一面田圃の海であります。

2014年度の大形駅一日平均乗車人員は1,193人で、JR東日本新潟支社新潟県内有人67駅中34位。
羽越線・中条駅や越後線・青山駅と同レベルで、東新潟駅と比べて約六割の利用状況です。
かつては無人駅だった当駅は建前上現在は有人駅、しかしそれは自動改札機が2005年に導入されてからで、何だか本末転倒のように思えます。

大形駅に関して一時議論になったのが、当駅を「新潟空港前」駅に改称して、当駅から直線距離で4km北の海岸に面する新潟空港との間にシャトルバスを走らせるという構想です。

>新潟県が、新潟空港へのアクセス整備の一環で、空港に近いJR白新線の大形駅(新潟市)を「新潟空港前駅」と改称し、同駅と空港とをシャトルバスで結ぶ構想を進めていることが29日、分かりました。
JR東日本など関係各機関に要請、了解が得られれば来春にも実現したい考えだそうです
→http://www.niigata-nippo.co.jp/news/namazu_i.asp?no=/2006/05/30/2006053031962.html

この記事が書かれた当時、大形駅前はとてもバスが入れる状態ではなく、南北どちらの駅前からにせよ、相当の整備が必要でした。
そもそも、新潟駅から大形駅まで電車に乗ってバスに乗り換えるのと、渋滞で多少時間は読み辛いものの、新潟市中心部と空港を直接結ぶバスとでは心理的利便性の点で勝負は最初から明らか。
大形駅を空港連絡の結節点として機能させるには、駅舎改築や信越・越後線列車の白新線乗り入れ大幅増加が必要不可欠ですが、そこまで手を入れるつもりはなかったようですからねぇ。
所詮は画に描いた餅、新潟空港の利用アップに懸命のお役人さまがひねり出した机上の空論に過ぎず、2010年にはこの構想も沙汰止みになりました。

しかし最近、大形駅北口は駅前広場が大拡張されて立派なロータリーが整備され、バス乗り入れも可能な状況になりました。
かつては妄想以外の何者でもなかった空港連絡構想に、現実のインフラが追いつき始めたわけです。
これならJRと調整して他線から白新線への乗り入れを増やして、バスに乗り換える社会実験をやってみてもいいのではと思うのですよ。

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かつての大形駅北口の様子、2006年6月撮影。
バスの乗り入れなどとても無理です。
駅前の県道には路線バスが走っていますけれど、駅出入り口付近はカーブになっていて見通しが悪く、バス停を設置するのは危険でした。

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現在の大形駅北口の様子、2015年10月撮影。
この撮影の少し前に整備が完了しています。
越後石山駅西口の整備後も凄いモノでしたが、当駅のそれはあるいはそれ以上かも。
上屋付きの歩道と立派なロータリーと公衆トイレ付きという大盤振る舞いであります。
駅至近の新潟北高校と新潟市中心部を結ぶ路線バス2系統も、このロータリーに乗り入れています。

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大形駅北口から新潟空港のある北方向を望む、2015年12月撮影。
駅前は綺麗に整備されましたが、至近には昔と同じく何もありません。
1kmも歩けばそこかしこにコンビニやドラッグストアがあるのですけれど。

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大形駅前ロータリーに発着する新潟交通運行の路線バス、2015年12月撮影。
バスは日中大抵ガラガラです。
本数も以前より減っていますが、あの乗りでは仕方ないか。
加えて、されまで直通で古町や市役所に行けたのが昨秋のBRT導入によって、郊外線バスは新潟駅前や万代で乗り換え必須になって、高齢化の世の中に逆行した話になっています。
乗り換え無しで新潟市中心部に移動できるのがバスの強みで、それゆえにJRから新潟駅でのバス乗り換えが苦痛な層は、ここからだとJRの約二倍の運賃でも喜んで利用していたのですよ。
それが乗り換え必須となっては、バスの強みを自ら放棄しちゃったようなものです。
まぁBRT導入を公約に掲げた市長が反対を掲げる日共の候補に大勝再選されて、他ならぬ有権者がこの不便なシステムにゴーサイン出しちゃったんですから、後から騒いだところでどーにもならんのでしょう。

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大形駅北口駅舎の様子、2010年4月撮影。
建築財産票によると、完成は平成17年3月1日。
自動改札機導入を前提として設計された建物です。

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北口駅舎内を構内から見る、2010年4月撮影。
窓口が開いているのを見たことがありません。

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構内側から見た大形駅駅舎、2010年4月撮影。
トイレは男女別に設置されています。
しかし駅前ロータリーに立派な公衆トイレが設置された今では、真新しい向こうを使いたくなるのが人情。

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大形駅南口の様子、2012年3月撮影。
こちら側は昔のままです。

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大形駅南口駅舎はこんな感じ、2012年3月撮影。
こちらは近年の整備で小さいながらロータリー付き。
右隣には有料駐車場があります。
かつての北口よりは整備されているものの、取り付け道路は幅員が小さくて乗用車のすれ違いすら困難なもので、バスの乗り入れなどとても不可能なのです。

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大形駅南口ロータリーの様子、2010年4月撮影。

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構内から見た大型駅南口駅舎内の様子、2012年3月撮影。
自動券売機付きの駅出入り口のみの機能しか持っていません。

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下りホーム(新発田方面乗り場)の新崎駅方から見た大形駅構内、2015年12月撮影。
当駅は直線上の対面式ホームで、構内に見せ場は無し。

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下りホーム端から新崎駅方を見通す、2010年4月撮影。
先に見えるのが阿賀野川鉄橋です。

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大形駅構内中央部の様子、2010年4月撮影。
右側が上りホーム(新潟方面乗り場)になります。

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大形駅跨線橋内の様子、2014年4月撮影。
外観も内側もかなり年季が入ってますな。
窓は固定されていてしかも汚いので、大好きな俯瞰撮影は断念。

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上りホームから見た大形駅中央部の様子、2010年4月撮影。

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上りホームの東新潟駅方から見た大形駅構内、2010年4月撮影。
個人的に跨線橋の出入り口に背を向けたアングルは、どうも宜しくないのです。
当駅の場合は駅舎も向こう側なのでなおのこと。
やはり駅舎と跨線橋出入り口がセットで映る位置撮りが、駅撮りの真髄のよーな気がするのですよ。

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東新潟駅に向って伸びる白新線の複線、2010年4月撮影。
画像右側から分岐する線路は、東新潟駅に隣接するJR貨物の新潟貨物ターミナルとの連絡用です。

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東新潟駅方の踏切から見た大形駅構内と停車中のE129系電車豊栄行、2015年12月撮影。

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大形駅に停車中の115系電車村上行、2014年4月撮影。

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白新線にその姿を見せることは無くなった、E127系電車新潟行。
2013年3月撮影。

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これからの主力電車、E129系豊栄行が大形駅を出発。
2015年12月撮影。
新潟-豊栄間の区間列車でこの界隈ではすっかりお馴染みになりました。

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大形駅を通過する485系電車T編成の特急「いなほ」秋田行、2012年3月撮影。

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「いなほ」定期運用末期の485系電車R編成、2014年4月撮影。

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米坂線直通米沢行の快速「べにばな」、2004年7月撮影。
今では完全に思い出の彼方となったキハ52が懐かしい。

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去り行くE127系電車とこれから去り行こうとしているEF81形電気機関車牽引の貨物列車が大形駅で顔合わせ、2014年4月撮影。

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